現世と書いて「ウツシヨ」と読みます。何故そう読むのか不思議ではありませんか。何を映していると教えられているのでしょうか。
何かを反映しているのなら反映する元があるということになります。現世に対する言葉は「あの世」です。あの世は姿形のないエネルギーの世界で、そこに行くためには死んで体をこの世に置いて行かなければならないことになっています。
姿形がないあの世を映しているのなら何も見えないはずですが、見えるように、感じるように設定されているようで、そのおかげでいろいろと惑いも起きてきます。まず体があるせいで、空腹や渇きがあり、寒暖にも対応できるように衣服や住居も必要になります。脳下垂体や消化器官、生殖器官からホルモンが分泌されるので感情や欲望が刺激されます。いわゆる煩悩と呼ばれる欲望が108もあると言われるのはそれだけ多くの欲が生まれてきてしまうということです。あの世にはそんなに多くはないでしょうね。
エネルギーだけが渦巻いて、スパイラルを描きながら動いているだけの現世なら煩悩も関係ないでしょうが、肉体に備えられた五感がしっかり味、音、匂い、触感、形や色を認識して、快不快を毎日経験して生きることになります。煩わしいといえば煩わしいです。でも面倒だから死んでエネルギーだけになって自由になりたいと思っても、どっこい、生命維持本能が働いてしまいます。苦しいのや痛いのは嫌だと感じるようにセットされているのが感情なので、なかなか死ねないのです。でなかったら地球に人類はもういないでしょう。
ある時非常に体が病んで、息をする度に肺が焼けるように痛く、その度に全身を波状に痛みが襲いました。息をしなければ痛くはないので、止めれば良いのですが、酸素が無くなってくるとどうしても息を吸いたくなるのです。苦しみながら少し息を吸い、小さく肺を使い、次の呼吸のタイミングを遅らせるようにしながら一晩中縮かんでいました。それでも少しずつは楽になってきたのですが、その時に動物としての人間の生命維持本能の強さに驚嘆したことを覚えています。
五感を持って、快不快の感情を体験しながら生きることが現世に在ることの意義なのだと思います。不便ですが、仕方ないのです。せっかく不便を凌いで生きている間に映すのは何かと言うと、それは自分です。鏡に映った姿形を虚像と言います。嘘のすがたという意味です。本物は実像ですが、現世にある姿形は虚像なのです。仮のすがたとも言えます。仮ですから死ねば無くなります。そういう意味です。神社の奥の院には本尊の代わりに鏡が祀られています。象徴的ですね。
誕生という言葉があります。誕という字の意味は「仮の」という意味です。仮に生まれたのだと教えられているのです。現世に仮に生まれて、鏡に映る自分を見るチャンスを頂き、感情の体験を通して何を学ぶというのでしょうか。いや私が別に何も学ばなくとも良いのかもしれないと思うようになりました。体験そのものが、体験の認識そのものが宇宙意識というか、純粋意識という実在実像が体験しているので、個人が何を学んだかに拘ることはないのではないかと思えるようになりました。体験というエネルギーの動きが「在る」ので「体験者」とは虚像なのではないでしょうか。それだから現世を「マコトヨ」と読まないで虚像を指し示す読み方をさせているのだと受け止めました。
体験者ではなく、体験だけが在るのだと思うのです。私の体、私の感情、私の学び、私の財産、私の名前から私の、を取り去ったら、後に何が残りますか?
ゼロです。ゼロが唯一の実在。それが納得できたら悟りなのだと推察します。自我意識は自分があるという感覚から生まれてきます。その間ずっと悩むわけです。また納得の結果がある気づきであっても、定着性は保証の限りではありません。私は経験済みです。まるで肉体の重力に引き戻されるような感じです。
「私は悟っています」と自分でいう人に何人か会いましたが、その人たちには共通性がありました。嘘つきでした。あるいはそう思い込みむ病気だったのかもしれません。ともかく溢れるような愛は感じませんでした。弟子をほとんど無給で酷使したり、より優れた(と思っているだけだったかもしれない)人をそれとなくけなしたり、浄財を喜捨しなさいと言って財産を取り上げたりでした。家財産を全部寄付させられた人も二人知っていますが、途中で少し返してもらおうとしても絶対に返してもらえなかった上、一人は命の危険さえ感じたそうです。その相手は今は刑務所に入っています。
ある時いわゆる神秘体験というものをして、通常では得られないような洞察が得られ、普通人から見たら霊能力が発揮できるようになると、偉い人、悟った人というふうに思われ、弟子や取り巻きがついてきて尊敬されます。そうなっても常に謙虚で、人に優しく、威張らないでいたら大丈夫ですが、多くの場合は周囲に持ち上げられるとちょっと高慢になります。そうなるとかつての深い洞察力や霊能力が鈍るということにもなります。すると嘘をつかなければならなくなるのです。怖い落とし穴です。私が逢った中で非常に深い洞察と真理の理解をしていらっしゃる方たちは決して自分が悟っているようなことはおっしゃりませんでした。悟りや至福はお金では買えません。
少し言いにくいことでしたが、この頃考えていることを書きたくなりました。2017年は周囲の人の何人かが様々な病気にかかり、悲しい思いをしました。私もアレルギー性の疾患で体が重苦しくうっとうしくて、体に対する拘りを離れて物事を見直したかったからかもしれません。体は大切な容器ですが、宿っている意識が明哲性を欠くと濁りが病を引き起こします。今年はお掃除を心がけるようにします。
絶体絶命の崖っぷち
幽霊と直談判
幽霊は在るのか無いのか
光透波という実体