前回の話のタイトルと同じじゃないの、と思った方へ。違います。前後が入れ替わっています。
この数年よく見る悪夢は道に迷って約束の場所に行けないというものと、ある集まりに出かけると全く場違いの場所で知っている人もいないし孤立して居心地の悪い思いをする上に、そこで何か話をすることになっているのに全く用意していないので立ち往生というもの。細かいことはさておき生理的には胸はドキドキ、頭はカッカとして考えがまとめられない、手のひらに汗で喉はカラカラ。
夢なのだから当然現実ではない、つまりフィクションの世界のようなものだけれど生理的反応は現実と全く変わらない。そういう意味ではフィクションもノンフィクションの世界と同じに心理的反応をしていることになる。脳は現実と非現実とを区別していないそうで、起きた事件がふとんの中で体は動いていなくとも脳としてはあたかも実際に起きているかのように反応するそうです。そして私の体験でも実際にそうです。
生理的に同じように反応できるなら悪夢の反対に楽しい夢を見れば幸せに感じる上に幸せな時にでるホルモンも分泌されるはずです。そういうときに出るホルモンは体を元気にし、若返らせてくれる効果もあります。脳の働きも活発になり、老化防止になることにつながって行くという理屈になります。どこにも行かなくて、従って費用もかからず、混雑もなく一石二鳥いや三鳥にもなるかもしれません。
良い夢を見るには体がリラックスしていると良いそうです。そのためには今日起きた好ましくない出来事を繰り返し追体験する癖を止めると良い睡眠がとりやすくなると思います。繰り返しとは「あの時こうすればよかった。何故しなかったのだろう。私は優柔不断な人間だ。まったく嫌になってしまう」、「あの時ああ言えばよかったのにすっかり誤解されてしまった。何故いつもこうなるのだろう」というように、すでに起きてしまって戻れない過去に縛られている癖は誰にでもよくあることだと思います。頭を一振りするときれいさっぱり忘れてしまって、さて寝ようと枕に頭がついたらすぐ眠れる人になりたいですね。それにいくつか良い方法があるようで、リラクゼーションの方法についてはは色々なハウツー本が出ていますし、幸せそうな人をお手本に秘訣を聞いてみても良いと思います。
幸せな人の例を一つ挙げます。私ごとですが母です。太母(たも)さんと呼ばれていました。自分のことを極楽とんぼと評していました。
- その時その時で一番したいことを真っ先にする。場所をかまわず大きな声で歌を唄う(止められたらやめるだけ)。来客があるのに横になって昼寝をする。この場合は相手も誘う(若い女性の場合は相手が誰かを見て気をつけてください)。夜中に起きて片付け物をする(隣の部屋で寝ている私には大いに迷惑ですが気にもしていない)。食事の時間になっても草むしりをしている。夕方に昼食を食べている。好きな時にしたいことをしているので海外旅行に行っても全く時差ぼけしない人でした。これは一考の価値がある現象です。
- 人の思惑を意に介さない(上記のことが出来る人なら当然ですが。相手が怒ると、「あなたは私、私はあなた。人間はみなひとつなの。人がどう思うかなどとくよくよするようなつまらないことはもうやめなさい」などと言って煙に巻く。それでもカンカンに怒っていると大きな声で歌を唄ってから何処かに消えてしまいます。怒っている人に理屈は通らないと分かっているみたいでした。
- 「思い出して不愉快なことは忘れれば良い。忘れること神のごとしと言うじゃろう?何、忘れられない?困ったね。練習せんといかんね。不愉快になりたいという欲求を持っとるのかな?そうでないなら忘れなさい」と理路整然(?)と説く。相手は自分の盲点をつかれ驚いて反省する場合もあって、これは役に立つ。説いている人が幸せそうで健康で屈託がないので説得力があります。「復讐心は自分を痛める猛毒で相手には効かないという道理がある」とも説いていました。
- 風邪をひくと大喜びで「お焚き上げじゃ。風邪は万病を払う玉ホウキ。ありがたい、ありがたい」と言って、よけい涼しい恰好をし、水を飲んで何も食べずに寝てしまう。熱も痛みも大体ありがたがって体さんにお礼を言っていました。「私が馬鹿者でも体は違う。細胞の一つ一つが智慧光の化身で自治の完成体。その賢い働きを妨げないことが肝要じゃ」と言っていました。つまり食欲が無ければ食べない。動きたくなければ寝ているということです。自然の法則に逆らわない生き方を知っていて実行していたわけです。
- 人は生まれながらに幸せに輝いて生きたいという欲求を持たされて来ている。それなのに好んで不幸せになっている。その原因を突き止めることじゃ。それは心の奥底のそのまた底の潜在意識と呼ばれているものが自分は幸せになる資格がない、と思っていることが原因。何故そう思うようになったかというと自分は悪い子だと思っているからじゃ。良い子悪い子と区別するのは自分が他と離れて孤立しているように錯覚しておるからで、本当は人間は一人しかいないのだということが分かればそれで解決。
他にもいろいろあるのですが、今日はこの辺でやめておきます。
では何故人は好んで不幸せでいるのでしょうか。一つには現実と夢の世界という二つの世界にまたがって生きているという体験を二つの分離した現象と思っていることあるのではないかと思います。冒頭にフィクションもノンフィクションと書いたように、脳は体験によって生理的反応を起こします。感情的反応は夢であっても起こります。夢の世界とは「物理的には無い世界」です。この無い世界にもし本当の自分が住んでいて、物理的な世界には体の中に閉じ込められた「自分という存在、つまり自我意識」がいて、それだけが現実で、従って個別の存在で、多くの場合は理解もされていないし、愛されてもいないし、正当に評価されてもいない、感謝もされていない。とこのような孤独感を感じているのではないでしょうか。
意識は物理的境界の外にいつでも飛翔できます。限界を決定しているのはそれぞれの人のそれまでに受けてきた教育(まず親の考え方です)やそれまでの生活体験に対する反応行為の集積から引き出された偏った結論です。一人の人がその人生で体験することは限定されています。親の考え、教育制度を制定した国の方針、肉体的特徴(性別、容貌、運動機能、頭脳の働き等)にも制限がかかっています。これをいったん外側から見る、俯瞰するような視点を持つことが自由になるための第一歩だと思います。以前誰かの言いなりにならない、私たちは偽の情報の上に成り立っている人間社会に生きていると書きました。そのことをしっかりと踏まえてその上での視点の持ち方を考えて見ると今まで見えなかったものが見えてくると思います。
2016.6.1 記