ノンフィクションもフィクション

本屋さんで書籍の販売コーナーを見るとノンフィクションとフィクションと二つにセクションが分かれて展示されています。フィクションとは虚構、作り事のことで小説はフィクションです。ウィキペディアを見ると「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味しているとも書いてあります。これに対してノンフィクションは史実や記録に基づいた文章や映像などの創作作品。また、その形態。ドキュメンタリーやインタビューなど多肢にわたる。製作上の綿密な調査や取捨選択など作成者の独自色が出る、と書かれています。

ノンフィクション

ここで間違ってしまいがちなことは、ノンフィクションは事実あるいは真実だと思ってしまうことです。史実や記録が間違っていてもねつ造されていてもそれに基づいて書かれた文章はノンフィクションというジャンルになっているのです。

最近健康に関連したセミナーをいくつか受講していて思ったことがあります。講師はそれぞれ体のことを専門に学んで学位をもっていらっしゃる医師や科学者で本も書いています。

セミナーではプロジェクターを使って様々なチャートやグラフを提示してそれぞれの主張するところを発表されます。統計学的な数値を次々に提示されると「なるほどそうだったのか、知らなかったなあ」と感心しますし、それが事実あるいは真実だとつい思ってしまいます。例をあげましょう。体に関する専門家で医師である人が、「牛乳は北欧の白色人種は消化できる人が多いが日本人も含むアジア人やイヌイットやアボリジニなど先住民と呼ばれる人たちには消化吸収できない」という説明でチャートには主な人種と消化力の有無とその程度が提示されていました。私も牛乳の消化力は低いし、知人で全く受け付けない人たちもいることからなるほどと納得しました。この専門家はまたワクチンなどの予防接種は効果がないばかりでなく、人体には有害なものが多いということ、薬も副作用を考慮するとあまり飲まないほうが良いという考えの持ち主でした。それからほどなくしてワクチンや薬に関しては同じような見解を表明している医師の本を読んでいたら、多くの点で先の専門家の意見と同じようなことが書いてあったのですが、牛乳と乳製品に関しては、どんどん食べなさい。安価である上に栄養価が高く、非常に優れた食品であると勧めてありました。どちらが正しいかどうかではなくそれぞれの意見なのです。それを踏まえて自分が選択をし、結果は自分が摘み取るということになるわけです。言われた通りにやったのにかえって元気がなくなった、責任をとれと言っても通用しません。

今はインターネットいう情報源があるために体の健康維持のことや食品の栄養価、病気のことを即座に調べることができます。人類にとって未曽有の情報源が無料あるいはほぼ無料で提供されています。調べる気さえあればいくらでも情報収集ができます。便利ではありますが、フィクションとノンフィクションが入り混じっていて混乱させられます。同じことに関し全く反対の意見があるために常に選択をしながら生きなければならないわけです。何かを調べる際には多くの情報源から複数の意見や調査結果を見て比較検討し、誰の意見も決して鵜呑みにせずに最後は自分で判断することが肝要かと思います。その時に大切なのは、

大自然の法則とそれに則して成り立っている完全循環型の生物圏の中で自分のとろうとする行為がはみ出していないかどうか。もしかして人間だけに都合の良い考えなのではないだろうかという問いを持つことだと思います。よく言われていることですが、「胸に手を当てて考えて見なさい」という言葉です。この場合の胸とはハートセンターと呼ばれる感情の状態が肉体に直に表れている場所だと私は思っています。「何かおかしい、変な胸さわぎがする、しっくりこない、気分が良くない」という感覚です。この感覚がいかに鋭いかどうかで人生が決まります。すぐに騙される人とほとんど騙されることがない人との違いが出てきます。覚者と凡人との差とも言えます。

誰それの意見はそれをすることでその人とその人の属している社会(企業、国家、職業分野等々)にとってのみ有利なのではないか。それによって困る人たち(他の生物も全部含め)がありはしないだろうか。そう考えながら物事を見て行くと感覚は鋭くなって行くと思います。

フィクションである小説は「事実らしい」ということが重要なポイントになります。事実らしくないとあまり売れません。多分ワクワクドキドキしないからでしょう。これはノンフィクションにもそっくりあてはまることなのです。「事実らしいだけで事実ではないかもしれない」と思って賢く情報処理をして行きましょう。

2016.5.8
フィクションもノンフィクション

 

 

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