ダウジングについて、誤解のないようにお伝えしておくべきなので、他のことと共にこの記事を書いております。一般のダウジングは振り子やロッドを使います。どちらの場合も動きは時計回りと反時計回りというのが一般的です。私は違う規定をして始めていたのです。今は一般的な方法を使っています。他にも道具を使わないダウジングもしています。これは全く別の動きをするものです。
さて、体の不具合に関してだいぶいろいろと書いてきました。自分を実験台にすると誰からもクレームが来ませんので、例にとっておりますが、何をもって体に良いか悪いかを決める前に、日本人全体に共通の項目があることを申し上げておきたいと思います。
日本人は被爆しているのです。これが先にあって、その後に起きた様々な不具合にどのように対応するかという問題がでてきているのが現状です。自分の周囲を見て、どれほど多くの人たちが癌をはじめ、アレルギー、体の痛みに耐えて生きているでしょうか。私のような高齢者になりますと、回復力も遅いですし、何か作業をすると疲れも早く出ます。ただ、これは別に苦にしてはおりません。
何故かと言いますと、「死」と言うものが比較的近いので、当然のことと思っているからです。しかし、私よりもはるかに若い方たちが苦しんでいらっしゃるのを見ると、「何故だ、何でこんなに辛い思いをして生きなければならないのか」と疑問が解けずにいる間は辛いだろうと思います。疑問が解けない間は痛みよりも「訳がからない」という辛さに苛まれます。訳さえ分かれば立ち向かえるし、持っている不具合が治らなくてもそれを受け入れるという選択肢があることに気づいて気持ちはずいぶんと楽になると思います。私の友人の治療家の最近の著書に「病むことも生きること」と書いてありました。病は敵ではないという見方があるのを教えておられるのです。そうすると「悪あがき」はしなくなるでしょう。病んでいる内臓の大半を切り取って、最後にはやはり死を迎えた人の言葉が、「やり直せるものなら決して手術などしない」だったそうです。
環境の汚染を踏まえながらの診断ですから、まともな内臓などないかもしれないと、内臓の一つ一つがどのくらい機能不全になっているかも問いながらのダウジングもしてみました。左の腎は100%機能していますか、90%?80%?、60でYESだったので、逆進行して65と聞いたらNOでした。全く無傷の内臓などほとんどなかったのですが、それでも気持ちは元気に生活を続けております。有難いことに少しも怖くないのです。最近の大きな収穫は3歳の時のある記憶を思い出したことです。それが断捨離のおかげでついに見つかったのです。恐怖の最後の尻尾につながっていたのです。
病んでいる箇所の対応には優先順位があります。それを体は知っているので、信号を発して下さっています。母は非常に健康な人でしたが、よくこのように教えていました。
体の中には「医王様」がおられて、治るには何をしてはいけないか、何をすれば良いかちゃんと教えて下さっているのに、その声を聞きもせずに邪魔ばかりするのが人間と言うものじゃ。ちゃんと治ろうとしておるのに薬を入れて治るのを止めておる。獣を見ていると、ちゃんとするべきことをしておるよ。自然に逆らわんことじゃ。心配せんこと。ちゃあんとなるようになってゆくものだから。
心臓がどこにあるのかもよく知らない人でした。でも体の声を聞いて、対処していました。多くの場合治るまで何も食べず、水を飲んで、草むしりなどしていました。時々草を食べてもいました。自然治癒力にまかせて安心して生きていただけです。妊婦が苦いものや酸っぱいものなど食べたい時には食べているのを見ると、お腹の中にいる赤ちゃんが体に必要なものを教えてくれているのだと言っていました。同様に不要なものは吐き出すのが「つわり」だとも、「医王様は遠慮深い方なので邪魔するとすぐに引っ込んでしまわれる」とも言っていました。
小田野先生は「生の目的は死である」と言い切っておられました。生きているものは生まれた時から刻々と死に向かって進んでいるというのが当たり前の理で、逃げ隠れできないし、反対方向へ行く手立ても全くないのです。そこで、「死とは何ぞや」と、答を得る探求を始められたのです。答を探求する旅は喜びと興奮に満ちていて、不具合などほとんど気にもならないご様子をよく知っております。ある時先生の首が曲がったまま元に戻らず、首につながっている背中の骨と腰も曲がっておられるのを見た人が、すぐ隣に仙骨を治療する専門家が住んでいるのに、何故診てもらわないのかと尋ねたところ、「私の首が曲がってしまった訳を理解しない内に治すようなことをしてどうする」と答えられたそうです。その後何か月してから首はまっすぐになっていました。自然に治ったのであって、仙骨治療を受けたわけではありません。解答を得るために様々な疑問を持ち、解いて行くことが生きがいの方でした。痛みなど全くと言って良いほど苦にしておられなかったこの方の最後は、襲い来る激痛に耐えて息をすることさえままならない状態でした。それをじっと見ていた私にやっと途切れ途切れに、「良く見ていなさいよ。私は天鏡図の最後のところまで今見届けているのですからね」と。それが私の聞いた最後のお言葉でした。でもその時にはその意味は分かりませんでした。
今は不具合も痛みも苦しみも全部真っ直ぐ見据えて、びくともせずに残りの人生を送りたいと思っております。体の声を聞きながら。