自分の意識が明晰でなくて、何を問い、何を答えてもらえるだろうか。
質問が詳細で、明確であればあるほど頂ける答も端的で、すぐに応用が出来ます。
ダウジングを例にとりますと、「はい」なら振れる、「いいえ」なら動かないと設定。
鼻炎の他に皮膚トラブルがある私を例にとります。
「私が敏感肌で発疹が出るのには根本原因がありますか」
「はい」
「原因は一つ以上ありますか」
「はい」
「二つですか」
「はい」
「三つ以上ですか」
「はい」
「二つだけ答えてください。食べ物が原因ですか」
「はい」
「砂糖を使った甘いものですか」
「はい」
「甘い果物少しは良いですか」
「はい」
「他にもありますか」
「はい」
「乳製品ですか」
「はい」
「小麦製品ですか」
「はい」
「三点に注意すれば、症状は緩和しますか」
「はい」
「もう一つは人間関係のトラブルですか」
「いいえ」
「自分自身が原因ですか」
「はい」
以上の要領で自分の中にある原因についても聞いて行きます。答が端的なだけにすぐに処置できます。人生の途上で降りかかるあらゆるトラブルを解決して行く方法で最上のものは「自力」で「問と答」を引き出して行くことだと思います。答が分かったら後は必要に応じて友達なり、専門家の助けも求めて行けます。後回しになった三つ目以降の原因の電磁波に関しては専門家に助けてもらいました。アルコール飲料に関しては摂取制限をしています。自分自身の問題は継続して心の断捨離をしています。あまりに一時に全部の原因を処理したくないので、選択は自分でしました。
『小田野早秧の光透波理論』よりの抜粋
もし吾々に「ことば」がなくて「耳にきく」音感のすべてが、一様に何の意味にも感覚されず、「目に見る」すべてが「無名詞」の実在の世界であったとすれば、吾々は何事をも何物をも「知る」という実感を得ることは不可能であろう。こうして「知」の性能が空白になれば「考える」という事実も成立し得ない。体験体得といえども「感能力」から「ことば」をはずして何が成り立つだろう。
実に吾々が「感知」する事実の成立は、吾々が感覚する限りの実在現象が総て名詞(動詞も働きに対する名詞を成している)になって、吾々の生命に感置されて「思考力」や「理解力」という知性能に活用されているからである。
「ことば」こそが、人類に理解する理性を成立進展せしめて、無形に有形に人を動かしているのである。
少し難しい表現かもしれませんが、人間に「ことば」を使う能力がなかったら、いかなる問も作れないし、答もいただけないということです。答えは問が明晰なほど明確であるということも当然の理ですから、明晰であろうとする意志が大切だと認識することがスタートラインです。
2019.4.23
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