自然界に存在している全てのものが、人間が何もしなければ本来あるべき形であるのは自然にそうなっているからです。つまり何かがそういう状態であることが必然的であるのだということに改めて気がつきました。誰がそうしたのかは分かりません。創造主と言う人もあれば、神様と言う人もありますが、それは表現法の違いで、実体が何かは明確に証明されてはいません。私は文字通り、「自(おの)ずからに然(しか)らしめられている」という表現が、一番偏りがないと思っています。天然、自然は必然で偶然ではないという考えの下に今回のお話を進めて行きます。
さて、自ずからに然らしめられている通りに完全に機能している場合の自然の循環では、ゴミと言うものは出ません。あらゆる物が生物分解性です。まあ石や岩は風化するのに長い時間がかかりますが、やはりゴミにはなりません。人間や動物も含め、有機体は微生物のおかげで皆循環しています。
季節による気候の変化、その変化に応じて誕生、成長から死までのライフサイクルを自然的にそして必然的に営んでいる生き物たち。その生き物たちが互いに影響し合い、関係しあって大きなサイクルを成立させています。天体の運行、潮流の動き、食物連鎖等々、無駄なく滞りなく機能して、誕生、生命活動、死、再生と循環の環を成立させているわけです。
何が言いたいのかと言いますと、完全循環型の自然のサイクルという本来あるべき姿を阻害すると必ずその副作用として不都合が生じるという道理があるということなのです。これは今までにも多くの知恵ある人たちが指摘し、憂慮し、警鐘を発してこられたことです。それだけなら別にここで改めてくりかえすことはありません。
また、自然というものが何かを様々な視点から説明している学術分野がすでにあるので、それは各自がお調べになるとよろしいかと思います。ここではもう一つの視点に焦点を当てて行きたいと思います。
自然界の全生命の相関関係からはみ出している生命体についてです。その生命体が無ければ完全循環型の地球と言う大生命体の生の営みは「自ずからに然らしめられるままに」滞りなく安泰です。その生命体とはお察しのように人間です。
『人類滅亡後の地球』というテーマでコンピューターグラフィックスを使ったシミュレーションの動画を見たことがありますか。人類滅亡後何年でどうなるか、何十年でどうなるか。そして一万年後には?
人工の建造物や製造物が無くなるとすぐに自然は本来のあるべき様相に回復する活動を猛然と開始して行きます。人間は何かのプロジェクトに取り組む際、経済効率や所要時間、技術的に可能かどうかなどを勘案して実行するかどうかを決定しますが、人間以外の生物にとってお金や時間は意味がないものです。それらの概念が無いのでプロジェクトは出来るところから始まってどんどん推進されて行きます。微生物たちは何十年かかろうと何百年かかろうと全く気にせずにせっせと鉄を腐食させ、セメントを砂のように砕き、あらゆる建造物を倒壊させます。植物はどんなわずかな隙間にも入り込み繁殖し、領土を拡大して行きます。動物たちも冷蔵庫もオーブンもスーパーマーケットも無しで、食べられるものを食べ、それぞれ生き伸びて行きます。チームワークや住み分けなどという概念もないので適者生存が自然的に起き、あらゆる生物の生息圏が収まるところに収まって行きます。自然的に必然的に。
では人類は何の為に存在しているのでしょうか。おそらく自然の循環を阻害する為などではないでしょう。阻害による環境破壊は無知による行為の結果であって意図的にされたわけではないでしょう。誰が好んで自分の住処を居心地の悪いものにするでしょうか。でももし失敗から学ぶことも人類にあって他の生物にはあまり無い能力ならば、進化という過程がたとえ遅々たる歩みであっても進行して行き、いつの未来の日か、地球上の全生命と共存して行けるようになるでしょう。もし滅亡しなければの話ですが。
「人は問う」というお話(ナニヌネノのナ)を前回しましたが、「問」という行為の仕組みは「答」と一対に、あるいは表裏になっていて、問が答を得る必要不可欠の条件なのだということなのです。疑問を持ち、答を探求する行為は他の生物がしないことです。ではこの行為にどういう意義があるのでしょうか。考えて見ましょう。
疑問は具体的には「コトバ」を使って組み立てられています。例えば「リンゴは何故木から離れると地面に落ちるのだろう」という問いは全部コトバの組み合わせです。何の為にそれを知らなければならないのか、すきっ腹がくちくなるわけでもなければ、雨露をふせぐ場所が確保できるわけでもないのに。でもそれをしないではいられない衝動というか促しがあるからしているのです。本能といってもいいでしょう。本能なら自然なものです。生存に必要な能力を本能として自然は生物に備え付けて生み出してきています。人類の生存には「問」が必要なので、その能力を備え付けて生み出してきたのではないかと考えて見てください。「タチツテト」で天という場が完成してヌ(奴/人間)が生まれてきてから何が起きたかはその次の行を見ると多くのことが分かります。
ナニヌネノの行の次にあるハヒフヘホの行は三つの展開をしています。このお話は次回に