2019年明けましておめでとうございます
本年もよろしくおつき合いのほどをお願いいたします。
今年は干支では己亥(ツチノト イノシシ)の年となります。亥は猪ではないので、それは脇において、己という字と亥について考えて見ましょう。
己という字はオノレとも読み、自分自身を指します。これをツチノトとも読ませているので両方を参考に解釈を展開してまいりましょう。
ツ通チ智ノ能ト透と当てますと、文字通りには絶対透明の、従って誤謬のない智慧の能力に通じる、となります。オノレはまずそういう知恵に通じている段階には至っていませんので、その大分手前の半端な知恵でなんとか懸命に生きております。しょっちゅうヘマをしては、それを叱ってくれる人も今はいないので、自分に向かって、「しっかりしなさいよ。もっと慎重にね。あわてないのよ。よく考えてからやりなさいよ」などとたしなめております。そう言ってくれていた人がいた時も大方は聞き流しでヘマをしておりましたが。
次に亥の方はイノシシあるいはガイと読みます。意能詞思と当てますと、意識を構成している詞(人が使っている語ではなく、司っている方のコトバ)とコトバの能らきによって成り立つ思考、どの文字をとってもコトバを指しています。高い次元においては詞が土台となっている思いですが、我意が入るとそれこそ害となります。なるべく我を通そうとやっきにならずに、意能詞思の方で清々しく生きたいものです。
さて、今年も相変わらずの物心共々の断捨離を続けながら「孤独」の醍醐味とおっしゃっておられた小田野先生の真意を探ってまいろうと思っております。
天はね、お一人なのよ。父母は一体なのですからね。絶対大(一と大)の天は二人(二と人)が合わさって一文字なのですから。絶対の孤独なのよ。半端な孤独じゃあないのよ。その絶対というものの正体をつかんで行くのが私の趣味で仕事なの。寂しいなんて言っている悠長な人生じゃないのよ。小田野早秧でいられるのは限られている時間なのだから。間に合うかどうかは分からないけど、一生懸命に絶対を掴もうとしているわけ。そうしたらもう人間商売やりに帰ってこなくてもすむのよ。
母が亡くなった時も、父が亡くなった時もそりゃあ身を切られるように辛くて悲しかったし、他にもいろいろ辛いことがあって、舌を噛んで死んでしまいたいと思ったことも何度もあったけれど、決して死んではいけない、そんなことをしたら天には迎えていただけない。だって暗いところに行ってしまうんですから。だから必死で空母様に手を伸ばして、いつか抱き取っていただけるまでこうして生きているのよ。あなたもどんなに辛いことがあっても決して死んでしまおうなんてしたらいけませんよ。それこそ新規まき直しの大損なのよ。
大損の意味を長いこと取り違えていた私ですが、損得はちょうどシーソーのような関係にあるのだと気づきました。人間界においての得は天界においては損、逆もまた然りです。物質的なものの全てを捨て去ることはないと思っていますが、昨年は手放して行く過程でずいぶんと清涼感を味わいました。人生もホームストレッチに入って来た今ですが、可処分エネルギーのほぼ全部を傾注して人類の進化を推進しようと努めておられた先生とは違ってかなり享楽的な私ですので、そこまでのエネルギー消費はしないで、多少は字分けもしながら、他のことも楽しんで生きて行こうと思っております。昨年は無理をして文字通り骨を折りましたのでそれも教訓だったと思います。知らない内に肩に力が入って体がこわ張っていることがあるものです。時々肩の力の入り具合を確かめるのも必要と思います。
今年こそは、本来は至高の叡智に通じるコトバという能力を授けられている人間である私たちがその力に気づいて、荒れ狂う人間界と地球を和ませ、美化して行く役割をそれぞれの持ち場で発揮して行かれるような大転換の節目の年となりますよう、祈念しつつ。
菊池 静流
写真提供:梶山淳子