言を分解すると天地創造の仕組みが分かる

水はコトバです。などといきなりそう言われてもねえ。そこで何から先に説明を展開して行こうかといろいろ考えました。

まず「コトバ」を定義して行きましょう。文字では、言、言葉、詞、というものがあります。どれも「コトバ」と読みますが、意味合いは違います。

「言」一文字でコトバと読みますが、「言行一致」、「言を左右にする」など、葉っぱ無しで通用しています。まず一番シンプルなこれを分解して展開して見ます。光透波学の字分けでは文字の書体の飾りを無くし、幾何図形として見ます。そして、点(・)と直線(縦線と横線と斜線)のみに分解します。円と曲線は扱いません。従って、平仮名やアルファベットは一部の例外を除き分解しません。

ですから言はこのようになります。

・(点)、一、二、口となります。点という音に通じる文字の中から「転、展、天」に着目し、特に重要として互いの関連付けをしたのが小田野早秧です。

宇宙の全ての物は極小の点が基本で出来ている。その点が回転して展開している場が天である。

では、次の一を見ましょう。数字級数で一番目の数字で、「ハジメ(始)」とも読みます。一番目なのですからそうでしょうね。一つしかないと取りますと、比べる対象がないことから「絶対」も意味します。始めが一つで次に出てくる数は「二」です。相対が出来たわけです。例えば縦線があっても一つだけでは回転ができません。回転する線、鉛筆や棒を使ってみるとよく分かりますが。一か所に動かない支点を作らないと回転しません。二本の線が交差すれば回転が出来ます。交差点という回転軸ができたからです。二は相対である他に、回転という動きを可能にする数であると言えます。これを更に展開して解釈してゆきますと。宇宙という電磁場の電気と磁気という二つの基本要素も意味すると言えます。更に展開してゆくと、陰陽、男女、求心性と遠心性という二種類の動き、その動きを更に展開して行くと、呼吸、拡大と縮小という動きにつながってゆきます。宇宙の基本構造と基本の動きをほぼ網羅したことになります。

次に言葉です。言と葉っぱって何の関係があるのでしょうか。

それには詞の説明が要ります。言と司、言を司っている、コントロールしているものが詞であると書かれているのです。シです。シは数字の四でもあります。では五(ゴ)のつく言はある?ありますね、語です。言語の語です。順番からいうと先に四(詞)があって五(語)が出てきました(冗談でもこじつけでもなくマジで順番なのです)。司っている方の詞から様々な言語が派生してきた、元は一つの言だったのが、様々な地域と人種とが長い間に多くの語を作ってきたとしたらその道理と筋道を明らかにして行かなければ納得できませんよね。

まず、始めの点から一と二が出てきて、軸が出来たことで回転し、展開してできた天という場(ろ/□)が露(あらわ)れた。どうしてそうかと言いますと、・、一、二の次の□はカタカナのロの形で、文字としては「露―表れるという意味」が当てられますが、また「口」というものは言を発声するときに使う身体器官でもあります。

たった一文字の「言」を解いて云(運んでいる)光透波に内在している叡智のエネルギーは図のように分解することで天地創造の仕組みを指示しているのです。またアルファベットで表現して見ると、GENを頭に次のように重要な単語が出来ていることが示されています。このように読み解けるということに気づくとコトバというものが人知を超えた叡智の働きが加わって出来ているのではないかと推測できます。

「言葉の葉」に続く

言葉の葉っぱの意味

2017.8.31

光透波という実体

究極のコトバは光透波、それは実体であって作用ではありません

小田野早秧先生に師事し始めた頃に、光透波理論(当時は命波理論と呼ばれていた)という学問は、古今東西誰も研究したことがないものを研究対象にしていると説明されました。

今まで誰も?インドでもギリシャでも?お釈迦さまも孟子も、プラトンもアリストテレスも、ソクラテスも研究しなかったの?本当に?

人間が毎日の生活でごく当たり前のものとして使っているコトバというものを研究対象にしている学術分野はいろいろあるのではないかと思っていましたので、変なことを言う人だと思ったのを覚えています。

人が使っているコトバ(言語/言葉/ことば)を研究対象にした分野はずばり言語学です。またそこから派生した、言語の使い方、活用や影響力などを研究対象とする分野として心理学、教育学、脳科学などがありますが、あくまでも言語学が基本分野です。

つまり、言語というものの種類やその作用についての研究はされてきたのですが、「言語そのものが何であるか」の研究ではないのです。きっと誰かが既に研究していたのに違いないと思っていたのでこれは全く予想外であり、新発見であり、大きな驚きでした。

では何故これまでコトバそのものが何であるかを体系的に研究した人がいなかったのでしょうか。

学問においては、「〇〇は存在する」ということを証明する際には、どういう形式と構造で、何を材料に、何時できたのか、誰が作ったのか、何処にあるのか等々を調べて行きます。言い換えると存在している「もの」そのもの(それが抽象であれ、具象であれ)を実体[i]とし、その作用[ii]や属性や性質を調べるということになります。

例えば、「愛は存在する」と仮定した場合は愛の作用を調べ、効能や、弊害などの影響力を調べ、影響があったのだから存在すると結論付けるわけです。何故なら愛そのものは触ることも匂いを嗅ぐことも重さを計ることもできないからです。同様に神も悪魔も計測はできません。

先ほどインドでもギリシャでもと言いましたが、今回はギリシャを取り上げて見ましょう。紀元前数百年にギリシャで、プラトンとアリストテレスという二人の賢い人が万物の始原(アルケー[iii])は何であるかを研究しました。

プラトンは、存在する「万物」は先に「イデア[iv]」があって存在する万物はその影であると説きました。

プラトンが『国家』第七巻で記述した洞窟の比喩

地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。つまり、洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考えました。

これに対しアリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。イデアこそが本質的存在であり、地上に存在する物理的実体はその影にすぎないというのがイデア論の考え方ですが、このイデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであるという点にアリストテレスは納得がいきません。むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎないというのが自然な考え方である」というのがアリストテレスの考え方です。
出典:ウイキペディアからの抜粋

さて、両者それぞれのどちらが正しいかはそれぞれの人の根本的なもののとらえ方で決まるだけで正誤の決定要因にはなりません。この前後にも他の学者たちがそれぞれの理論を打ち立ててきました。デモクリトスは、「アルケーはアトム(これ以上小さくできないもの)」である」と言い、ピタゴラスは、「アルケーは数(調和的音階を構成する数)である」と言ったそうです。タレスは「水である」と言い、エンペドクレスは四元素(火、水、土、空気)、ヘラクレイトスは「火」であると言いました。

あなたは「誰派」ですか?

光透波理論的見地から見ると、どの人も「万物の始原」の一側面ないしいくつかの側面を見ていたのです。全部が一部は正解であり、どれもが完全なる説明とはなっていなかったのです。

光透波理論では、「万物の始原」は「光透波」というエネルギーの中でも至高の速度を持つ、唯一の実体、実在であるとしています。そしてそのエネルギーを基本材料として、完全にして狂い無き数の法則に則った構造を持つ形が現象する。それぞれの形が水であり、その水が燃えて現れる火(薪や石油を燃やしてできる火のことではない)であり、冷えた固体である土であり、形を成さないが何もないところを満たして生物を生かしている栄養素・生命エネルギー/プラナを持った空気でもあるのです。空気が含んでいる酸素によって生物は生かされていると多くの科学者が思っていますが、酸素は生命エネルギーそのものではありません。

重要な点として着目して頂きたいことは、ここに列記した「水、火、アトム、数、土、空気」はコトバだということなのです。イデアとはズバリ言ってコトバです。コトバはイメージを持っています。そしてイメージを保有する主体は人間なのです。コトバはまた音を持っています。音は音階を構成します。調和的であれ、なかれ、振動しながら不可視の形を構築しています。想像を絶するスピードで生成されては崩壊し、流転してさまざまな波を起こして周囲に影響をあたえ、干渉し、ある時は同調し、ある時は反発し合って動き続けています。

今までコトバは言語だと思われてきました。言語でもありますが、エネルギーそのもので、究極的には存在(有無)を超越した真空というエネルギーで、万物は真空が核となって回転という動きを可能ならしめられているのです。真空は何もない空白のことではありません。真空が理解できないと万物の始原は分からないのです。小田野早秧が若いころに「真空とは何か」という疑問を持って追及していった結果生まれたのが光透波理論なのです。その真空が核となって回転することで、生み出される波のつくるスパイラルが宇宙本来の美しい形と動きです。その形を調和的な振動で作っているのも歪めているのも人間という存在なのです。コトバを使っている存在を人間と定義した場合という意味においてですが。私は明らかに地球人以外の人と分かる人たちと交流がないので(地球外知的生命体ではないかと思える人には何人か出会いましたが、姿が人間と同じなので確かとは言えません)口幅ったいことは言えませんが、地球外にも人間は存在していると思っています。

万物の始原は光透波であるという仮説を一応立ててから、宇宙の構造を示している幾何図形としてのコトバ、即ち文字というものを様々な角度から検証して行きたいと思います。
以前質問を受けた「水はコトバです」という意味も含めて検証して行こうと思っています。
2017.8.21

[i] 実体=実際にそのものとして存在するもの、本質=永遠に変化せず在り続けるもの。そのものの本当の姿。実質。正体。

[ii] 他のものに力を及ぼして影響を与えること。また、その働き。「太陽熱は植物の生育に作用する」「薬の副作用」「相乗作用」。 二つの物体の間で、一方が他方に加えた力。

[iii] 万物の始原、元となるもの、根源的原理。

[iv] 古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する。感覚を超えた真実在としての意で用いた概念。英語の「idea」の語源ともなった。

水はコトバです

水はコトバです

宇宙空間にはあまり水がないといわれてきましたが、実はいっぱあるのだという新しい説が出てきました。本流の科学ではありませんが、そもそも水とは何であるかという解釈によっても意見が違ってくるのだと思います。今回は水に関する研究の中でも非常に面白いものを紹介しつつ、水というものを光透波理論的にも見て行きましょう。
まず、水を意味する文字で最もシンプルな形は「シ」です。小田野早秧の作成した「云音(ハコブネ)表」を参照すると、シという音には重要な4つの文字が入っています。自、思、詞、茲です。ここでは思と詞をとりあげます。シはまた漢字の部首ではサンズイと言い、水を意味します。詞はコトバのことです。コトバがなければ思考はできないので、思いは詞とも言えます。

科学的には水分子はH2O、水素原子(H)2個、酸素原子(O)1個で出来ています。構造を表す一つの形としては、下図があります。

Hはアルファベット8番目の文字です。そしてエイチと読みます。エイチという発音には叡智という字も当てはまります。二つの叡智を男性原理と女性原理、あるいは陰陽、あるいはエネルギー的には求心性と遠心性、電気的にはプラスとマイナスとも見ることができます。その二つのHにOが結びつくことで水という分子ができています。8という字の形も覚えておいてください。酸素を表す記号のOはアルファベットの文字であると同時に数字のゼロも意味します。二つの叡智が合わさった交点(プラスとマイナスの交点)がゼロという意味にもなるのです。交点とは点です。時空の軸でもあります。そして空間的広がりがないことから時間も発生しないゼロという一点です。ゼロポイントということを形でも表しているのが H2Oであり、それが水なのです。
本題に入る前にこの話題を取り上げたきっかけについてお話します。
フランスの話です。2007年に脚が痛いと言って病院に来た男性がいました。44歳の公務員で妻と二人の子供がいます。それまで何の問題もなく普通に暮らしていました。MRI検査で分かったことは、その男性の脳の状態でした。

写真でも見えるように脳の中に神経細胞がほとんど無いのです。90%は水だったのです。水頭症という病名で知られていますが、その男性は自分が病気だとは知らなかったのです。では何故彼が普通に暮らして来られたのか医学的には説明がつかず、かれこれ10年が過ぎ、昨年アメリカの医学誌に掲載されました。それで世界的に有名な例となったわけです。
ある種の水は情報を伝達する能力があることは近年だんだんに分かって来ました。おそらくこの男性は水からの情報をキャッチできる能力を自然に持っているのでしょう。脳細胞の90%どころか20%が死んでも認知症になっている人もいるのです。
光透波理論的には水が思いであり、詞でもあるというわけです。詞と語の違いは、言葉は詞が基本になって出来ている地域的言語、つまり語で、宇宙共通の情報を記録しているコトバではないというのが光透波理論です。
水の図を先に一つ見ました。もう一つの模型を見ましょう。

ちょっと専門的になりますが、酸素原子には外殻と内殻と二つの軌道があり、外側に6個の電子(青い球)があります。水素原子は軌道が一つで電子は1個(水色の球)しかありません。水素は電子が1個しかないので不安定な状態ですからもう一つの電子と結合して安定したいという性質を持っています。酸素原子があったら大喜びでくっつきます。水素原子同士もくっつきたがります。
次の図を見てください。

安定的な水素2個は8の字形になります。互いに離れることなくそれぞれが回転するのです。お互いが一緒にあることが自然な状態とも言えます。結合軸の周りで軌道回転すると、半回転したときに符号が逆になるという動きをします。8の字運動とも言えます。
模型で見た共有結合とは独り者が相手を探している状態で相手がいたらすぐさま対になる状態です。結合を作る時は対になるので、電子対は4個あります。これら電子対は互いに反発しています(電子の電荷が皆同じ負なで)。そこでこれら4つの電子対間の反発が最も小さくなるような配置を考えると、それは正四面体の各頂点に電子対を置いた配置で正四面体の各頂点間の角度は109.47°であり、OとHの結合は4つの電子対中の2つを使っているので、H-O-Hは基本的に109.47°となるのですが、実際には孤立電子同士が反発するため、結合角は5°くらいずれています。これが氷を作る時に重要な役を果たします。

氷だけではなく、この四面体構造が水のクラスター(分子集団)を作るにあたって重要な意味を持ってきます。自然界で普通水分子は単体では存在しません。クラスターを形成して様々な役割を果たしています。この中で特にあるクラスターが重要な役を果たしているということを発見した人たちがいます。ここでは触れませんがジェラルド・ポラック博士の研究をまたご紹介します。

情報を伝達する能力のある水の形の一つに非常に美しく均整のとれた形があります。六角形をしています。正四面体の構造を組み合わせた形です。

酸素が黄色の球、水素が水色の球

下図はハチの巣の写真ですが、六角形をしています。蜂の巣を日本語ではハチ(8)の巣(数)というから面白いですね。


水の写真を撮るとこうなります。

江本勝さんの撮影した水

水が情報(詞)を運んで思いが成り立つのであって、脳細胞が考えているのはないということなのです。脳細胞は処理装置(ハードウエア)なのです。

2017.6.10.

参照。
2007年のフランスの“The Lancet”(世界で5本の指に入る医学雑誌)の記事。
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(07)61127-1/fulltext
2016年7月の“Science Alert”の記事。
https://www.sciencealert.com/a-man-who-lives-without-90-of-his-brain-is-challenging-our-understanding-of-consciousness

 

時は今、命は絶対時間エネルギー

今読んでいる本にあった一節に、老境に差し掛かった現在の自分の状態にぴったりの表現があり、さらに年上のもう一人の家族と、「ホントにそうだ」と大笑いしてしまいました。

年をとるほど、何かを行う時間がどんどんなくなって行く。生体プロセスは減速するため、時間は加速する。

実際に一日がすぐ終わってしまい、やりかけの仕事がつまれて溜って行く。夕食のおかずも五品目作るつもりが四品で時間切れ。洗濯物もまだ畳んでいないし、明日出かける支度もまだだ。窓ガラスも大風の後そのままの汚さ。やることリストは一度見ただけでは抜け落ちてしまうので何回も見るからそれにまた時間がかかる。と、まあこういう次第。

個々人にとって時間経過は絶対的なものではなく相対的なものだとよく分かる。そこで時間というものについて考えた。

私たちは時間というものを絶対的かつ普遍的なものと考えがちだ。つまり、一時間は誰にとってもそして地球上のどこで暮らしていても同じ長さという意味で。ところが先ほどの生活体験を通じて感じていることはそうではないと示している。
時計という機械がチクタクと時を刻む、家の中でもテレビ画面の表示でも、炊飯器やパソコンの液晶画面でも。世界中でチクタクチクタク。心臓もそれに合わせてチクタクと命の終わる時に向かって時を刻んでいる。

では、50歳で死ぬ人と100歳で死ぬ人とでは相対的時間差はどうなっているのだろうか。心臓のチクタクのスピードは倍違うのか?いや、別にそうとは限らないだろう。違うのは内的な時間体験だけだと思う。それは生活の質の問題で、各々が過ごす時間の充実度と関係していると思う。何歳で死のうと、充実した時間をより多く持って生きてきたら幸せな人生だったと言えよう。充実した時というものは「せねばならないこと、苦役」に縛られていない時、楽しい作業に従事している時だ。どんなに作業量が多くても楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。その時はチクタクに追い回されてはいないのだ。その「ゆとりの時間」の中で心臓もゆったりと動いているし、体もこわばっていない。こういう時間が多ければ多分、与えられた寿命は全うできると思う。年をとって閑が多くなっても充実した時間を過ごせるとは限らないのは楽しみがないということなのだ。

時間は相対的であり、宇宙に共通の時間は存在しない。時計が刻んでいるものは実は本当の時間ではない。惑星の回転に要する長さを分割して、便宜上「時間、分、秒、月、年」と名前を付けただけで実在ではない。人が認識している概念であり、動植物にとっては存在していない。朝、陽が昇り、周囲が見やすいことから活動期として過ごし、日没後には休息するだけで(夜行性動物は別の活動周期を持っているが)、時計には関係なく生活している。

ここで言う「本当の時間」とは時間の経過のない時間、つまり一瞬という間で、それを私たちは「今」と呼んでいる。本当の時間とは絶対普遍であり、したがって「空間を超越した時間」である。言い換えればあらゆる所に同時に存在しているので、或る箇所から何処へと移動(経緯という時間が発生する)はできない。ところが何処にも移動できないので空間的広がりは発生しない。時間も発生しないという意味での絶対なので「今」と言う。そしてこれが絶対エネルギーであり、命のエネルギーの本質なのだ。宇宙にある「あらゆる物」はエネルギーの化身であることは現代科学では既成の事実として認識されている。そのエネルギーそのものに質的な差異があり、その差異が異なる物を形成しているわけだ。

じゃあ、その形成された異なるもの、惑星とか銀河は何処にあるのか。「今」とどういう関係があるのか。もっともな疑問が湧くと思う。エネルギーの質的差異によって存在しているものは、「間」という、「無いという場所」に可視の現象を成立している。現象を認識している者にとっては有るのである(認識していない者にとってはエネルギーの波しか見えないかあるいは何も見えない)。「今」にはエネルギーの質的差異はない。絶対と相対の二つの世界があると言えば簡単だが、並立している二つではないので、但し書きなしでは言い難いと付け加えます。

「今」という絶対時間に対する理解と認識が空間を新たな目で見ることを可能にし、その結果としてチクタクの呪縛から自らを解放してくれ、充実の時に満ちた人生を約束してくれる。

時はトキ、透基という字を当てると概念の時は消え去る。絶対性という透明の基盤であってチクタク刻まれているものではないと理解し始める。TIMEタイムとは「田意務」という意味で、田(電磁場)の意(音によって展開されている此処という場)、一瞬の休みもなく場を形成、維持、運行せしめている働き(務)、であり、対するものが無い、タイ(対)ム(無)なので絶対性を意味する。

余談だが、時間、空間、人間というものは「間」という共通項を持つ。間とは何もないという所(無)を意味するが、先の二つはアイダと読み、人の後にある字はゲンと読むことが示唆的である。ゲン(言)を操る能力を持った人のみが時間空間を認識することが出来るのである。アイダは愛田であり、愛兌(愛がどこまでも貫き通っているという意味)だと受け止めるとまた新たな目で見ることが可能になる。この能力を進化させ続けると時間を直線的なものと考えてしまう狭い思考範囲から抜け出すことが出来るようになると思い、それを願いつつ充実した思考時間を過ごし、洗濯物を畳まずにいます。

2017.3.15
概念についての話はここにも掲載されています。
超光速という可能性と概念

星間の星

ここ数日さっぱり「実光透波(みことば)」の閃きがなくて何も書かずにいましたところ、3月3日桃の節句、雛祭り、朝の10時27分に閃きました。何か節目のような日に入ってくる情報は殊に大切と受け止めておりますので、一応メモっておいて外出。一日中忙しい日だったので、翌日の今日これを書き始めました。
星間の星」という実光透波でした。
星の間にある星?じゃあ見えないわけ?すぐに閃いたのは小田野早秧先生のお言葉でした。

私はね、何も欲しいものなんてないのよ。贅沢なもの、きれいな着物、美味しい食べ物、名誉やお金なんてものはね。でも私はものすごく欲が深いのよ。あつかましい望みを持っているから。
私が欲しいものはただ一つ。いただいたお仕事を全うした後に、晴れて死なせていただいたら、天のお父様お母様のお近くに行くことなの。その為にこうして来る日も来る日も字を割って割って割りぬいて、自分を細かく細かく砕いているの。どんな些細な出来事でも毎日こうして日誌につけて、何も見落とさないように目を開けているのよ。眠ってしまうと見れなくなるからなるべく眠らないように算段しているの。食べると眠くなるから少しだけ食べて、横になると眠ってしまうからこうして座っているの。時々横になる時は右手がすぐ使えるように左下にして、鉛筆と紙を傍に置いて枕もとの灯りはつけたままにしておくの。そんなに一生懸命やっているのにまだお迎えが来ないのよ。しょうがないけれどね。命の終わりって自分が決めることじゃないから。
あなた、どんなに辛いことがあっても自殺しようなんて決して思っちゃだめよ。苦労ってね、ダテにしてるんじゃないのよ、苦労って稼ぐものなの。苦労するたびに削られ、砕かれ、磨かれるんだから。「ありがとうございます」って手を合わせるくらいにならなくっちゃ生まれて来た甲斐が無いわけよ。そうやって身を削られながら生きて、そしてね、最後にもういいよって言っていただいたら、私は天の網の結び目の一つになりたいと願っているの。ならせていただけるかどうかは分からないけれどね。天網の結び目というものが、あなた、本当の星なのよ。あの夜空でピカピカ光っている星じゃあなくてね。あれは物なのよ。きれいだからってそれで満足していちゃあだめなのよ。本物を見ようとしなくちゃね

これを書きながら小田野先生のお声と表情を思い出し、それこそ出会わせていただけた幸運に感謝の手を合わせてしまいました。

さて、天網の結び目。それは何でしょうか。一つの説明は「軸」です。光のエネルギーである縦の糸と横の糸が交差してできる交点ですが、人が死んでその交点になれるかどうかがそれほど難しいことなのでしょうか。小田野先生によれば至難のことなのだそうです。先生のような艱難辛苦に耐えた人生で自らの意識を磨き続けて、嘘もつかず、誰も傷つけず、地球も収奪せずに生きてもそうなのです。でも一人目が出来たら、後になるほど楽にはなるそうです。道なきところに道をつける仕事を天命として受けた先駆者と呼ばれる人たちは最も厳しい道を歩むのですが、その後は道を辿ることができるわけです。ありがたいことですね。

閃きの来た時間は3月3日10月27日  雛ヒナ祭り

ミミにそれぞれ「見」と「実」を当て、嘘でも虚でもない「実を見る」と取りました。その音には「耳」という字もついています。聴く役目を果たしている器官でもあり、音は「ジ」とも読むので「字」を当てました。
見て、聞いて、字を検分して何をするかというと、至高の叡智のエネルギーである透明の普遍の名(命)を探る。何を使ってかというと、云音表(ハコブネという舟)です。わざわざ10時27分に降ろしていただいたのですからその数値を大切なメッセージの一部として扱います。
桃の節句はモとモに母と網を当てます。ここに天網が出ました。天の実体であるエネルギーのネットワークですから。そしてヒ(和数字の一番目の数)一、これは絶対という意味に取り、奈という形を(大=小)と分解します。大が小と同じである条件は形あるものを超越したエネルギーを意味しますので、それはすなわち絶対性、至高の叡智、あるいは神と同質ものと取ります。雛という人形(概念)ではなく本質の方の意味は「一奈」なのだと教えていただきながらの字分け作業をしました。

天網やエネルギーの交差についてもまた書きますし。星というものについてもまた書いて行きます。
2017.3.4

覚者と凡人はどこが違う

酉年にちなんで

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

私は酉年生まれです。今年で干支を六巡しました。六回廻った人生にちなんで六という数の性質の一部を考えて見ました。

まず五十音の六列目はハ行になります。ハ行に入っている音は十五もあります。他の列はカキク、ガギグのように清音と濁音合わせても十音しかありません。六番目のハ行だけが清音ハヒフヘホ、濁音バビブベボに加え半濁音のパピプペポがあるのです。この特異性に着目した小田野早秧は半濁音について、濁音を清音に戻す能力を有している特別な音として、意味から取って「反濁音」と名付けました。

何故半濁音ではなく反濁音なのか
神社に行くと柏手ということをします。「パンパン」と音を立てて邪気払いをします。そう昔から言われてきたので皆さま習慣的にそうしていらっしゃるようです。手が湿っていると良い音はでません。乾いた手で打つと出る乾いた音なのです。 反濁音の発音は唇をいったん合わせてから素早くはじくようにします。日本語の他の音は濁音でもそれほど強く短く唇をはじきません。邪気を払うと言われている柏手のような良い反濁音を口から出すためにはお腹の筋肉を使って勢いよく音を出さなければなりません。ちょっと努力が要ります。呼吸が浅いと難しい作業になります。 つまり、邪気を払うのにはおへその下からの力がより効果があると考えられます。邪気とは何かを差別的批判的表現を使わずに説明しますと、「停滞しているよどんだエネルギー」です。血液やリンパ液の流れに停滞があればいわゆる血液ドロドロ、筋肉コリコリ、内蔵ヘトヘトという状態になります。体でなく、停滞したエネルギーが充満している場所は「穢れ地」と呼ばれ、お祓いということがされてきました。このお祓いには祝詞(のりと)を大きな声で唱えながら、パッパッと何かで空気を払うことをします。祝詞は清音で成り立っています。濁音は文字通り濁りなので、その濁りを払うために清音を使うわけです。清音は清い音ですが、その清音より更に短く強く出す五つの音が反濁音というわけです。音が邪気を払う力を持っていなかったらお祓いも柏手も何千年もの間使われてはこなかったでしょう。

今世界の多くの場所は不毛の穢れ地になっています。空気を清浄にしてくれていた森がどんどん減り、水は汚染され、海の大きな部分は上に停滞しているゴミの下で死んで行っています。都会は不毛の地です。ここへ人々がどんどん集まってきています。人口密集地ではエゴとエゴの摩擦が起き。競争がし烈化し互いに傷つけあっています。親子の間でさえそうなってきています。この事実を無視することはもうできないほどの状況になっていると言えましょう。これを清い状態に還元する力は実は私たちそれぞれが潜在的に持っている能力なのです。それぞれが何をすべきか、その道しるべともいえる利器があります。それは天の父母が小田野早秧を通して人類に降ろしてくださった、音の意味と力を教示している云音表なのです。今日はその表のほんの一部である半濁音の力について少しお話をしました。
2017.11
ナニヌネノのヌ

濁りはOKだった

超光速という可能性と概念

前回はタキオンという仮説について少しお話ししました。誤解のないように付け加えますと。「タキオンはこれである」と写真に撮って見られるようなものではありません。形のないものなので、当然です。概念(コンセプト)というものは人間が抽象的思考を使って「それは存在する」という仮説を立てたのちに様々な手法で、「だから存在しているに違いない」と他者に証明しようとする行為の結果生まれたものです。「それは」が仮説として提示される条件はそれという対象に名詞がつけられた時です。この場合は「タキオン」という名称です。名称は生まれたと同時に歩き始めます。あたかもそれが存在しているかのように人々は認識し始めます。存在の有無は別として。 最も端的な例は「神」です。誰が神の写真を撮って私たち人類に見せたでしょうか?神のイメージは画家や彫刻家が創作したものですが、実物の神はまだ誰も写真に撮ってはいません。しかし古今東西いつどこにおいても神を祀る寺院や教会が形として存在しています。それだけ多くの人々が「見たこともない存在」を崇め、お祈りをささげ、お金やお供物をささげています。 何が言いたいのかと言いますと、「神」というコンセプトが力を持っているからこそ、その影響力が信仰という結果を生み、寺院や教会という形体を生み、それぞれの解釈の違いが派閥を生み、派閥が競争と互いの間違いを指摘しつつ、自分の解釈こそが正しいとする自己正当化という意識を生み、争いを生んで行きました。名称が一人歩きするというのはそういう意味です。 名称、つまり「名」がエネルギーなのです。実体がなくとも「名」があればその影響力は生まれてくるのです。この「名」は言葉です。人間以外の生物は名称を認識する能力を授かっていません。人間だけが言葉を操ることが出来、その能力を使って自由かつ勝手に、名というコンセプトを創造し、それを使って様々な文化、芸術、争点、誤解等々を生み出してきました。いわば「両刃の剣」です。

タキオンのお話に戻ります。前回引用した文を考えて見ましょう。

 電子などの質量をもった粒子を光速以上に加速する事はできそうにない。しかし実は、相対性理論に直接矛盾しない形で、超高速粒子を考えることはできるという。そのような理論上の粒子は「タキオン」と呼ばれている。タキオンの質量は、何と虚数だという。虚数(純虚数)とは2乗して負になる数のことだ。
通常の粒子(質量が実数)の速度は、光速が上限だが、タキオンの速度は、光速が下限になるつまり、タキオンは、生成した瞬間から超高速で進み、決して光速を下回ることが無いのである。つまり通常の粒子と光速に関して正反対の性質を持つことになる。
また、タキオンはエネルギーを失うと加速するという。通常の粒子であれば、エネルギーを失えば減速するはずなので、とても奇妙な性質だ。
たとえば、もし電荷をおびたタキオンが実在した場合、真空中を進むタキオンは、チェレンコフ光(注参照)を放ってエネルギーを失っていくと考えられていく。するとタキオンはどんどん加速していき、最終的にエネルギーを完全に失うと、なんと速度は無限大に達するという。つまりどんなに遠い宇宙のかなたにも(100億光年先でも!)、瞬時に到達できることになるのだ。

注。チェレンコフ放射(チェレンコフほうしゃ、Čerenkov radiation、Cherenkov radiation)とは、荷電粒子が物質中を運動する時、荷電粒子の速度がその物質中の光速度よりも速い場合に光が出る現象。チェレンコフ効果ともいう。このとき出る光をチェレンコフ光、または、チェレンコフ放射光と言う。
%e3%83%81%e3%82%a7%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%b3%e3%83%95%e5%85%89この現象は、1934年パーヴェル・チェレンコフにより発見され、チェレンコフ放射と名付けられた。その後、イリヤ・フランクイゴール・タムにより、その発生原理が解明された。これらの功績により、この3名は1958年ノーベル物理学賞を受けた。
Wikipediaからの引用

黄色のマーカ部分を見ていただいたと思いますが、この文の論点である「コンセプトが持つ影響力」を実感できたでしょうか。原子炉では実際にチェレンコフ光を見ることができるのですが、この光が「タキオンの存在」を実証しているわけではありません。実証してはいませんが、これは否定しているということでもありません。神の存在も同様に実証もできないし、否定もできないのです。これを冷静に客観的に受け止めて、どちらの考えを持つ人たちも批判したり、自分の考えを押し付けたりもしないでいる人々が増えれば社会は穏やかになりますね。

コンセプトは日本語の「概念」に相当する語です。概とは「おおむね」という意味で、「正確ではない」という意味です。これをしっかりと認識して生きていることが大切だと思います。
光透波理論では「名は命」と解しています。どちらも「メイ」という音を運んでいます。「名」は実際に影響力というエネルギーを持っていてその存在は人間の認識の対象としての位置を確保しています。写真に撮れても撮れなくても脳の記憶庫には「名称とそのイメージ」は収納されているのです。そしてその影響力は実際に行動の動機にもなり、その結果として悲喜劇が生まれ、他に影響を及ぼして行きます。「嘘から出た眞」という言葉がありますが、まさにこのことだと思います。また、命という現象は「形を持たない存在」のこととも言えます。通常は肉体という形を生かしているエネルギーで、無くなれば「ご臨終」となります。これを非常に明確に方程式で表したのが小田野早秧です。

生体-死体=命(命の内訳は、動きと音と温度)

生きている体がしていることで死んでしまうともうしないということを纏めると「動、音、温」であるということになるのです。そう明示されると、「なあるほど」と思いますが、これを見ないうちに、自分なりに考えると実に曖昧な解釈しかしていなかったことが分かります。

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/

超光速粒子タキオンと光透波

前回の「光の速度の話」の続きです。

アインシュタインの相対性理論ではE=MC2という式が有名ですね。Eは エネルギー、 mは質量(物体は質量です)、cは光速度…定数(constant)を指します。この式は何を意味しているのかをいろいろ調べて最も分かりやすい説明のいくつかを合わせて抜粋しました。
●エネルギーと質量は交換可能であるという事(質量が消滅すると、エネルギーになる)
●エネルギー量と質量は比例するという事(減った質量が2倍、3倍・・・となるに連れて、得られるエネルギー量も2倍、3倍・・・と変化する)。
専門家の言うところの「エネルギーと質量は等価である」ということになります。 ある物体がこの世から消失すると、ものすごい量のエネルギーに変化するという原子爆弾の理論的根拠にもなりました。

この式・・・あえて、わかりやすい言葉になおせば、
「この世のありとあらゆる物質は、形のないエネルギーが、質量という姿形(物質)になったもの」となります。
またこの式が導き出す他の結論としては以下のものがあります。
●質量を持つ物質は光速度に達することはできません。(無限の質量は存在しないから) 質量がゼロでない物質を加速するということは外からエネルギーを与えることなので結果的に加えられたエネルギー÷比例定数(cの2乗)分の質量が増加するということです。物質を加速するほど質量が増加して加速しにくくなっていきます。結論をいうと無限のエネルギーが無いと光速度にすることはできません。
※物理学での無限という量は、有り得ないとか実現不可能と同じ意味です。
光は生まれた時から宇宙で最高速の光速度で運動しているので加速することはできません。つまり、光は速度一定であり質量ゼロという純粋にエネルギーそのものとも言えます。ちなみに、光は波(電磁波)でもあり、そのエネルギーは振動数に比例します。以上は「物理学」における理論の展開です。

ところが、「量子理論」という全く別の理論体系から見てみると、そうとは言えないのです。
「超光速粒子タキオン」という名称があります。新しい分野の新しい観念を表現する言葉です。以下は本からの抜粋です。

電子などの質量をもった粒子を光速以上に加速する事はできそうにない。しかし実は、相対性理論に直接矛盾しない形で、超高速粒子を考えることはできるという。そのような理論上の粒子は「タキオン」と呼ばれている。タキオンの質量は、何と虚数だという。虚数(純虚数)とは2乗して負になる数のことだ。

通常の粒子(質量が実数)の速度は、光速が上限だが、タキオンの速度は、光速が下限になる。つまり、タキオンは、生成した瞬間から超高速で進み、決して光速を下回ることが無いのである。つまり通常の粒子と光速に関して正反対の性質を持つことになる。

また、タキオンはエネルギーを失うと加速するという。通常の粒子であれば、エネルギーを失えば減速するはずなので、とても奇妙な性質だ。

たとえば、もし電荷をおびたタキオンが実在した場合、真空中を進むタキオンは、チェレンコフ光を放ってエネルギーを失っていくと考えられていく。するとタキオンはどんどん加速していき、最終的にエネルギーを完全に失うと、なんと速度は無限大に達するという。つまりどんなに遠い宇宙のかなたにも(100億光年先でも!)、瞬時に到達できることになるのだ。

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命波では「光透波」という形のないエネルギーの性質を研究対象にしています。そしてこの特定の種類のエネルギーが超光速のエネルギーであると仮定しています。

そこで次回は「超光速」という可能性と「光透波」について少し考えて見ましょう。
超光速という可能性と概念

アイキャッチ画像。「光速を超える謎の粒子タキオン」のイメージ。実物ではありません。

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/

労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

最近苦手な物理学と物理学にどうしてもついて回る数学の方程式とを使って考えなければならない事態が生じてしまいました。光透波理論の講義の際に光速(C)の2乗、あるいは7乗という計算式で、速度という単位は結果としては出てこない、掛けると単位が変わるからだと言われました。その意味が分からなかったので、調べて後程連絡しますと言って保留にしました。

さて、数学が苦手な方々ならお分かりと思うのですが。数字そのものは別に怖くないのですが、方程式に使われる数学記号を見ると、考えようとする意欲が削がれて、思考する機能がシャットダウンし始めるのです。

シャットダウンする前に気を入れてともかく取り組みを始めました。自分に分かる範囲内でともかく最低限これだけは理解しておこうという目標を決めて取り組みをスタート。

英語で方程式のことをequation(equalという語の頭部分が入っています)と言います。文字通り「イコールにする」、つまり「=」記号の右の項と左の項が同じになるように計算することです。数学が得意な人は当たり前だとお笑いになるかもしれませんが、それさえしっかり認識されていないままに日常生活を送っている人々もいるのです。

何が言いたのかといいますと、計算が終わって左右の項目の値が同じであるという状態が出来上がったもの(方程式)を見てそれが何を意味しているかを把握できると、そこから派生する様々な状況が次々に理解できるようになります。つまり方程式が示している事柄を応用できるということです。応用できるようになりたいと思います。

ある人に非常に分かりやすく説明されて分かったことの例を挙げます。

5m×5=25m
5m×5m=25

5m×5は25mです。つまり距離と言う同じ単位の価です。5m×5mは25です。距離が面積と言う単位に変化するのです。

家族にとても賢い人がいて他の分かりやすい例を挙げてくれました。

リンゴが3個と梨が2個、ミカンが4個あります。全部で9個です、とは決して言えません。違うもの同士を合計何個として取りまとめることは出来ないからだと教えてもらいました。三種類の果物の合計数は9です、と言わなければそれは間違いです。言われて見ればその通りなのですが、そのようには考えずに生きていても痛痒は感じない、合理的でなくとも生きて行ける、だから一生間違いには気づかない。それが多くの人間に当てはまる状況だと思います。

上記のような、左右の項目が同じであると示されている単純な例式を見て、それを応用して行ければ勘違いは無いのですが、これほど単純化された方程式は物理学にはありません。そこで苦手に取り組むという労多くして功少なしの作業をする次第になりました。一緒に取り組んで行きましょう。

以下は素人向けに書かれた「30分で分かる量子力学」
https://www.ryoushi-rikigaku.com/quantum.html
からの抜粋で、私の文も混じっています。引用文は青字で表示されています。

 物理学とは計測できるものを対象にしている研究分野です。ですから原子以上の物質を対象にしています。物理学に限らず、医学や経済学や心理学でも、「原因に法則が作用して結果を生じる」と考えるのが普通です。 いわゆる「因果関係」という考え方です。
この「原因→法則→結果」の形式は、「入力→作用素→出力」と一致しています。

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 ほとんどの近代科学が、「結果には必ず原因がある」という前提の上に成立しています。 そして、原因が結果へと変換される「法則」がどのようなものであるかの研究に邁進します。 法則さえ解明できれば、望ましい結果が得られるように、物事をコントロールできるようになるからです。

ところがこの因果関係が成立しない世界があるのです。量子の世界です。

波は物質ではなくて「状態」です。海水という「物質」の、ある「状態」が波です。
原子より大きい世界では、このように「物質」と「状態」をはっきりと区別できます。しかし、原子より小さい世界では、そんな区分ができません。 電子は「物質」ではなくて「状態」です。 ただし、海の「波」の場合の「海水」にあたる物質がありません。

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 粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を併せ持つ、このような特殊な存在を、 普通の物質と区別するため、「量子」(quantum) と呼びます。その「量子」を研究するのが「量子力学」です。電子は「量子」の代表格です。 原子の内側にあるものは、「部品」ではなくて、「量子」です。

光透波理論は命波理論とも呼ばれます。命の波、「波という状態の性質」を研究対象としています。20世紀初頭に生まれた小田野早秧が当時の物理学の観点では説明がつかない(つまり合理的でない)生命現象を説明する為に生涯かけて研究した成果がこの理論です。「生命エネルギーの本質とその性質と機能」をエネルギーの波という観点から説明しようとした試みは量子という「無いもの」を扱う分野が無かった時代であったことは特筆すべきものと思います。

量子とは、単に「小さい」だけではなくて、原子より大きい世界に存在する「物質」とは振る舞いが異なります。 電子は波のような「波動性」を持っています。ただし「何かの波」ではなくて「波だけ」です。 そこで、その波の形を調べよう、ということになります。

電子が、どのような形の波動になっているのか、それを数学の関数の形で記述したものを 「波動関数」と呼びます。

電子は「波だけ」ですから、その波の状態を表す「波動関数」がわかれば、「電子」を理解できるはずです。波動関数を知るためには、波動方程式という名前の方程式を解く必要があります。これを解くと、その答えとして波動関数が得られます。

その方程式を解くために、「作用素」と「固有状態」を使います。(注。ここでは説明を省きますが、固有状態という言葉を覚えておいてください)

波動方程式とは、いったいどんな形なのでしょうか。 発案した学者の名前を冠して「シュレディンガー方程式」と呼ばれるものですが、 それを最も簡単な形で示すと下図のようになります。 この方程式の解として、「波動関数」を得ることができます。

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 「波動関数は、固有状態になっている」 というのが、この方程式の意味です。固有状態は本質を表します。固有状態である波動関数は電子の本質を表します。 固有状態になれないような関数は、電子の波動関数ではありません。

一言でいえば、「固有状態である波動関数を探すのが量子力学」なのです。

どんな関数であれ、何らかの作用素の作用を受ければ、変化する方が「普通」で、作用した結果が入力と一致 するというのは「特殊」な場合と考えられます。
それなのに、電子の波動関数は、必ず固有状態になることがわかっています。「特殊な状態」のはずの固有状態が、量子の世界では「普通」になります。
「普通」と「特殊」がひっくり返る、この感覚は重要です。従来の物理学が発展して量子力学に辿り着くのではなく、それまでの常識を逆転したような形になっています。

この「固有状態」という概念には、さらに深い意味が隠されています

固有状態というのは、原因(入力)と結果(出力)が一致する状態です。これは、「因果関係」という枠組からみると、想定外の事態です。

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しかし、これが「量子の世界」の原則です。原子の外側では「原因→法則→結果」があたりまえですが、原子より内側には、それと異なる世界が存在します。

モノとは違って、抽象概念については、それが「原因」なのか「結果」なのかさえ、判然としないことも多いものです。そもそも「抽象概念」というものは、多数の概念との関係性の強弱が生み出す「波」のようなものです。 さらに、それが物質の波動ではない点でも、「量子」と似たところがあります。

 ここまで読んでいらして何が論点になのかと疑問に思われる方も多いと思います。でもこれから申し上げることをお分かりいただくための踏み台なのです。

光透波理論における光速(C)の無限乗という速度という仮説は超光速と言う、原子以上の物質の世界における、光速とは全く異なる性質の光があるということを言っているのだということを分かっていただきたいのです。

 光透波とは光が完全に透明化した、光速とは全く異なる性質を持った光の波が生み出している意味を持った動きであり、それは計測不可能でありながら全生命を生かしているエネルギーという力そのものなのです。ちなみに上記の「抽象概念」というものは、多数の概念との関係性の強弱が生み出す「波」のようなものです。という説明は言葉を使って説明されているのです。言葉がなかったらいかなる概念も観念も表現することは出来ないのです。その言葉である人語の土台に、「光透波/詞」という宇宙の生地とも構成要因とも言えるエネルギーがあるのです。そして人間は語という手段を使って今、21世紀という時に量子という抽象概念を研究対象にあらたなる英知の世界を理解しようと言う試みを始め出しているのです。冒頭に量子学のゴールを簡潔にまとめた図を挿入しておきました。念のために申し上げておきますが、光透波理論=量子理論ではありません。しかし口幅ったいことを言いますと、量子学は非常に便利な説明ツールではあります。
2016.10.1
超光速粒子タキオンと光透波

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/