縁は異なもの味なもの

云音表の一行目、アイウエオのイには三つの字が入っています。意と爲(旧字の為)と異です。意思あるいは意図があって、行為がそれに続くということは分かりますから同じ音のくくりの中にあることは納得できます。口を開いて出るアの発音は楽ですが、イになると口を横に開くという筋肉活動が加わり、エネルギー消費も増えます。つまり努力が要るわけです。そこに意思、意図、行為という能動的活動が必要な文字が入っているのかなと、当初は推察しました(今ではもっともっと広大な意味があることを発見していますが)。ですが何故ここに異が入っているのだろうと不思議に思ったことを憶えています。

世の中のご夫婦や仲の良い友達同士を見て、あの人とこの人が何故?と不思議に思ったことはありませんか。これをことわざでは、「縁は異なもの味なもの」と言います。男女の巡り合い、結びつきというものは不可思議なものだという意味だそうです。

不可思議に挑戦してみることにしました。それで異を分けて見ました。

なんだか電磁場が共鳴している感じがビンビンします。天空は言(コトバ)が共鳴している命のエネルギーが充満しているところで、目には見えないネットワーク、天網が張り巡らされている。それぞれの網の交差点がある周波数をもった個々の命と他の命との結び目なのでは、と受け止められます。それぞれはまた個々の意識を持っていて、結びついている他の命と交流して生命活動(爲)を行っています。縁でつながった相手との交流が共鳴なのでしょう。響きが美しいハーモニーを奏でているのか、はたまた不協和音を放っているのか、いずれにしても体験して味わっていることが生きているという意味なのだと思います。喧嘩ばかりしている夫婦が別れないのも、一見仲が良さそうな夫婦が離婚するのも何を味わって、それが口に快いのか、苦くて吐き出したいのかは当事者のみの知るところなのでしょう。

人間以外の生き物はもっと寛容なようです。

昔アフリカのサバンナに行ったことがあります。当時は今よりはるかに多くの動物が生息していました。絶滅危惧種という言葉も一般的ではなかった時代でした(いつのこっちゃ)。イギリス領だったため、密猟者も厳重に監視されていて、捕食者と捕食される者も見たところのんびりしている感じでした。野生のままの動物生息地ですから、捕食動物にも餌は与えませんが、動物の移動を妨げるような障害物(自動車道路やフェンスなど)が無い広大な地域が確保されていましたから餌を得るのは比較的楽だったようです。

宿泊していた樹上のホテルの窓からは水を湛えた大きな池を見ることができました。そこには多くの動物が水を飲みに来ていたのですが、捕食動物も他の動物もみな一緒に水を飲んでいました。ライオンや豹も空腹でない時はのんびりしているので、草食動物も平気ですぐそばで水を飲んでいました。敵同士というくくりはないので、その時々で命の危険がある時だけ、即時対応しながら生きているのが人間以外の生き物のようです。天敵と言う言葉は人間だけが使っているのです。不協和音は人間同士の関係においてのみ発生するものなのだと思います。

2018.10.5

嫌い!の効用

友達が恋人になる時

 

久司典夫さんの気づき

前回の記事でも他の記事でもたびたび触れたことですが、大多数の人間が持っている誤った認識、について以前「静流の部屋」の記事として翻訳した文がとても役に立つのではないかと思い、掲載します。

作者はアメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。

以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う? 
ノリオ:世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ
ノリオ:だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う~ん。分かったような分からないような...
ノリオ:変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。
答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ:本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった
ノリオ:ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。
もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)
僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かにぶつかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:そうじゃない。~のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ:「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。
人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。(中略)最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の
“SpiritualEnlightenment, The Damndest Thing”という本。

アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大規模な目覚めの時期を迎えているように思うよ。(後略)
2005/12/30 翻訳:静流

後記。この翻訳をした当時にジェドさんの本も読んでみましたが、抱腹絶倒の面白さでした。当然まるで傲慢なところはなく、自分は悟っているなんて幻想を持っている人たちがいかに勘違いしているかもよく分かりました。この本を読んだ後私はずいぶん物の見方が変わったと思います。久司典夫さんの本は本人ではなく、光透波を学ぶ仲間のスティーブ・アールさんが最近書かれました。

2018.9.18 記

shizuru’s friends アーカイブ – シーちゃん的心と頭のステップアップ

愛が不在の場

今の世界情勢を見ながら感じた印象を表すのに出てきた言葉です。「愛が不在の場」とはどういう世界でしょうか。

虚無という言葉がありますが、完全にはその意味を推し量ることはできません。「愛が不在の場」に付けられた名称はまだありません。何故なら愛は普遍的でかつ遍在すると考えられているからです。そうだとすると不在にはなれないのです。
愛の別名は「神」、「至高の叡智」、「創造の源」、などです。まだまだたくさんあります。何故なら「それ」は誰にとっても心の中心にあって自分を見守ってくれている「何か偉大なもの(Something Great)」だからです。そして誰もが「それ」を何らかの名称で思い起こしたい欲求をもっているからそれぞれの人にとって特別な名称があるのだと思います。小田野先生は「真空様」または「空母様」と呼んでいらっしゃいました。それを口にするときのお顔と目はうっとりと幸せそうに輝いていました。名称が感情の引き金になっていることがよく分かります。子供のころ私は「のの様」と呼んでいましたが、それを口にすると何故か安心してそれまでざわついていた気持ちが収まったものです。
説明しがたい種類のある「状態」あるいは「それにつけられた名称」を理解するために効果的な手法があります。それは「そうではないもの」を列挙することです。

そうではないもの

  • 悪あるいは邪:ちょっと意外かもしれませんが、愛が不在の場とは思いません。大局的に見ると悪や邪が愛のある側面を意味する場合もある。これは少し複雑ですがいわゆる「善」なるものが必ずしも全体の和合と調和を保証するわけではないということに気がついたら分かるかもしれない。何故なら「愛は差別しない、裁かない」から、正邪、善悪は一体となってまる飲み込みされているはずなのです。
    良い例は、もう誰の目にも明らかな地球環境の劣悪化と絶え間ない戦争の原因を作っている人間も、汚染反対、戦争反対派の人間も同じように母なる地球に生かされていることに変わりはありません。地球あっての私たちです、なければどんな人でも平等に死んでしまいます。ただ、今は地球様もだいぶ荒れ狂っていますから、あちこちで大勢の人が死んでいます。日本などは今現在災害列島の態を呈しています。
  • 闇:闇の反対は光ではないのです。宇宙空間は真っ暗闇だが愛は遍在しています。ただしこれは物理的に見た闇の話。物理的に見た闇とは人間の視覚が認識している「光」の不在という意味での闇のことです。この闇というものに対する感情的反応は多くの場合、不安、恐怖、忌み嫌うものとして避けたいもの等々あまり快い感情とは結びついていないと思います。これに対し「光」は肯定的感情を呼び起こします。愛は闇ではなく光としてのイメージと結びついています。しかしどちらも不安そのものでもなければ愛そのものでもありません。あくまでも感情とセットになってしまっているイメージだと思います。違う言い方をすると、闇とか光という名称に対してそれぞれの人が持っている意味合い、含蓄です。ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、一つの例があります。
    「そう言われてもあなたの頭の中にある絵は私には見えませんので、もっと具体的に説明してください」とある人に言われたことがあります。賢い人で、そのおかげで私もコミュニケーションの難しさと言うものを再認識させてもらえました。
    元に戻ります。含蓄とは概念なのです。真理でもなければ事実でもありません。人間はこれに踊らされて互いに誤解し合って、自分の方が正しい、相手が悪いのだと思い込んで戦っています。
  • 憎悪、妬み、羨望、怒り等の否定的感情:感情が発動する原因には「愛されたい」という欲求があり、その欲求の源泉には「愛を認めている」という前提条件があるのだと言えます。全くの虚無であるなら感情は発動しません。感情の動きがあるということが、そこにエネルギーが発生して周囲に影響の波動を発信しているということなのです。
    これを端的に示している言葉があります。
    EMOTIONです。字分けをしますと、EとMOTION、エネルギーの動き、とも読み解けます。イモオションと発音しますので、意網王思陽云が当てられます。思いという動きが展開している4次元の形の無い場に飛び交っている感情のエネルギーが互いに影響し合って織りなしている網(ネットワーク)が地上のインターネットという網も含めて今と言う時(陽/日/時)の人類社会の状態を現出、維持、発展させ続けているのです。活動の原動力が感情だと字が教えてくださっているのです。良い意味でも悪い意味でも交流という活動がネットワークを形成していると受け止めています。ここまで見てくると出てくるものは、最も「愛が不在の場」に近いものは、
  • 無関心だと思います。何故なら感情がほぼ不在だから。感情的死と言えます。体は動いていて話もしているのでまるで生き物のように見えるのが厄介です。市民権を持っていて、生活しているので汚染もしているのに何ら積極的に場を形成するプロセスに関与していないわけです。こういう人たちばかりの世界になるとロボットの社会のようになります。作業はしていますが、感情が無いのですから。そこには笑いがなく、涙もなく、感激も感動も、怒りや憎しみさえありません。まさしく虚無ですね。生きている意味がないのではないでしょうか。味わい、感動し、発見し、学ぶという人生の味がないのです。

母が亡くなった後、予想よりはるかに強い空白感に見舞われ、まだ心が痛む状態にさえなっていない時、一緒に看護してくれていた家族のTが夜私の寝室に来て、「しばらく一緒に寝ましょう」と言って脇に自分の布団を敷き、黙って連れ添ってくれました。別に何か言わなくとも、傍に誰かの気配があると空白感が消えるのを実感しました。一緒の部屋で寝ていた一か月ほどの間に号泣も肉体的胸の痛みも含めて様々な喪のプロセスが続きました。
「もう一人で寝られるわね、親を亡くした悲しみは13か月って言われているからあと一年よ」と言われましたが、確かに強烈な痛みはしだいに和らぎ、一年後にはほぼ常態にもどっていたと記憶しています。

黙って寄り添うという行動が愛から出てきている場合のエネルギーは大きな影響力を持っていて、痛み、苦しみを和らげます。この時に発散しているエネルギーはとても快い波動の網を形成していると私は感じます。ただ、逆に触れると傷つくような網も出来ていますので、賢く見極めて気をつけて生きていただきたいと思います。直感的に危ないと感じる感性を磨くことがとても重要だと思います。
私事ですが、今その家族がまた私を離れて行ってしまう時が目前に迫ってきていますが、今度の喪失感をどのように乗り越えるかが私の次の課題となっています。何年か前に「独りに強い人になって行ってね」と言われてからずっとその方針で対策を講じながらいろいろと準備かつ練習をしておりますが、その時になったらどうなりますか。ともかく私の一番楽しい時間は、課題を決め、思考を巡らせ、ある種の理解と納得に行き着く作業をしている時で、これの良い点は費用がかからないことです。娯楽があれば独りでも楽しいという字があります。「独楽」です。小田野先生はこの言葉がお好きでした。

独楽ってねえ、英語でTOPって言うんですって。最高ってことよね。英語もよく出来ているわね。コマって言うんだから、光間じゃない。間は全部光ってことなのよ。独りだからって淋しいわけないのよ。空母さまに抱かれているんだから。私も独りでくるくる回って楽しんでいるのよ。気持ちは三昧ってことよ。字分け三昧。

2018.9.17

濁りはOKだった

少し前に「人間は嘘つきである」というお話をしました。今回はまた人間性と言うものについて更に考えて行くことにしました。

自然界の生き物たちは大きな循環の中でそれぞれの持ち分の役割を、それとは自覚せずに果たしながら生きています。自覚がないのは勿論人間のように考える機能を持たされていないからです。これに対して考えることのできる人間はやっかいな重荷を背負わされて生きることを余儀なくされています。中でも大きな重荷は後悔と罪悪感だと思います。やってしまったことは過去に戻って取り返しができないのに、「あの時ああしなければ良かったのに」、と後悔してもどうにもなりません。自分のしたことで他の生命が被害にあったり、辛い思いをしたりしても謝って済まない場合が多々あります。済まないという気持ちと自分を責める気持ちはなかなか吹っ切り難いものです。人間と言うものは罪悪感を超越できないと言い切る哲学者たち(サルトルと実存主義哲学者等)もいました。顕在意識で吹っ切ったと思っていても、潜在意識は制御し難いものだからだそうです。

では人間性と言うものの話に戻って考えて見ましょう。まず「性分」というものの意味を考えて見ましょう。
有名な亀とサソリの喩えでは、泳げないサソリが川を渡るのに亀に助けを求めます。亀はサソリに毒針で刺されることを恐れて断ります。サソリは、「俺がお前を刺したら一緒に溺れてしまうのだから刺すわけがない」と言う。それで承知した亀でしたが、川を渡っている途中でやはり刺されてしまいます。水に沈みながら「どうしてそんなことをするのか」と亀に聞かれ、サソリは答えます。「それが俺の性分だから」と。
いけないことだと理屈では分かっていてもどうにもならない、抑制できないものが性分というものだという教えです。ここには善悪正邪の別はありません。何しろ性分なのですから責めても変わるわけではないのだということなのです。
人間は嘘をつく、自分にも他者にも。その結果様々な不幸な事態を招きます。その自分の中にあるどうしようもない愚かさや理不尽さを抱えながら生きて行く人生を、「濁り」と表現しているのが云音表の六行目です。

最近この行の濁音に当てられた文字を一つずつ分けて見たところ今まで気づかずに来たある発見をしました。どの音に当てられたどの文字を見ても濁りという否定的な含蓄を持った文字が無いのです。ちなみに二行目のガギグゲゴにはあります。この濁音は五行目の「奴/人」がでて来る前の行の音です。このことには後に触れます。
ともかく人の務めの行の濁音には罪科につながるような意味を持った字が無いということだけ覚えておいてください。
自己保存の為に嘘をつかざるを得ないような人間社会の構造にあえて挑戦して真実を追求し、それを貫き、さらに無知な人々を啓蒙しようと試みた過去の偉人たちの大多数は処刑あるいは暗殺されました。殺したのは人間たちであってその人間たちも嘘つきなのです。

これに対し、「罪を犯しても誰も咎めていませんよ」と天の声は言っているのではないでしょうか。批判するのは仲間の人間たちなのです。いやもっと怖いのは自己批判の声です。罪悪感を超越した後にどのような自由な思考が展開されるかを実体験したいと思いませんか。

初めに父なる閉音があってそれが開いて展開すると出来たのが母なるアイウエオでしたね。このままでは開きっぱなし。そこに二行目のカキクケコという子音が展開されました。その時すぐに濁音のガギグゲゴが出てきたのです。清濁が相まって天地創造の作業が始まったという訳です。ちょっと飛躍していますが、ここでは筋道を説明はしません。
ともかく言いたかったことは濁がなければ今の天地創造は完結しなかったと云音表が教え示しているのだと私は受け止めています。
濁音は高い次元においては必要不可欠であっても低い次元においては毒であり、危険な武器でもあります。六行目の人間の務めの中に反濁音があってこそ人類の次元上昇の可能性が既に初めから備えられていたと言えると思います。

天地と言う「場」に元々「備」えられていた人としての天分、思考力(至高の力→刀=SWORD→S+WORD)という能力を発揮して、清濁や正邪の正しい意味とその役割を理解把握して人間同士の戦いを上から見ることのできる位置に上昇することが進化ではないでしょうか。それが人類の究極望むことで、権力や莫大な財産という、肉体を持って生きている間だけしか持てないものとは違うのだと思います。永遠の生命というものの中で個人は成立しないので、個人財産は意味がないものだと気づいた人たちが我欲の呪縛から解放されることが出来たのです。

バビブベボ 場備分辺望

2018.7.18

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

 

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

自然界に存在している全てのものが、人間が何もしなければ本来あるべき形であるのは自然にそうなっているからです。つまり何かがそういう状態であることが必然的であるのだということに改めて気がつきました。誰がそうしたのかは分かりません。創造主と言う人もあれば、神様と言う人もありますが、それは表現法の違いで、実体が何かは明確に証明されてはいません。私は文字通り、「自(おの)ずからに然(しか)らしめられている」という表現が、一番偏りがないと思っています。天然、自然は必然で偶然ではないという考えの下に今回のお話を進めて行きます。
さて、自ずからに然らしめられている通りに完全に機能している場合の自然の循環では、ゴミと言うものは出ません。あらゆる物が生物分解性です。まあ石や岩は風化するのに長い時間がかかりますが、やはりゴミにはなりません。人間や動物も含め、有機体は微生物のおかげで皆循環しています。
季節による気候の変化、その変化に応じて誕生、成長から死までのライフサイクルを自然的にそして必然的に営んでいる生き物たち。その生き物たちが互いに影響し合い、関係しあって大きなサイクルを成立させています。天体の運行、潮流の動き、食物連鎖等々、無駄なく滞りなく機能して、誕生、生命活動、死、再生と循環の環を成立させているわけです。

何が言いたいのかと言いますと、完全循環型の自然のサイクルという本来あるべき姿を阻害すると必ずその副作用として不都合が生じるという道理があるということなのです。これは今までにも多くの知恵ある人たちが指摘し、憂慮し、警鐘を発してこられたことです。それだけなら別にここで改めてくりかえすことはありません。

また、自然というものが何かを様々な視点から説明している学術分野がすでにあるので、それは各自がお調べになるとよろしいかと思います。ここではもう一つの視点に焦点を当てて行きたいと思います。

自然界の全生命の相関関係からはみ出している生命体についてです。その生命体が無ければ完全循環型の地球と言う大生命体の生の営みは「自ずからに然らしめられるままに」滞りなく安泰です。その生命体とはお察しのように人間です。
『人類滅亡後の地球』というテーマでコンピューターグラフィックスを使ったシミュレーションの動画を見たことがありますか。人類滅亡後何年でどうなるか、何十年でどうなるか。そして一万年後には?

人工の建造物や製造物が無くなるとすぐに自然は本来のあるべき様相に回復する活動を猛然と開始して行きます。人間は何かのプロジェクトに取り組む際、経済効率や所要時間、技術的に可能かどうかなどを勘案して実行するかどうかを決定しますが、人間以外の生物にとってお金や時間は意味がないものです。それらの概念が無いのでプロジェクトは出来るところから始まってどんどん推進されて行きます。微生物たちは何十年かかろうと何百年かかろうと全く気にせずにせっせと鉄を腐食させ、セメントを砂のように砕き、あらゆる建造物を倒壊させます。植物はどんなわずかな隙間にも入り込み繁殖し、領土を拡大して行きます。動物たちも冷蔵庫もオーブンもスーパーマーケットも無しで、食べられるものを食べ、それぞれ生き伸びて行きます。チームワークや住み分けなどという概念もないので適者生存が自然的に起き、あらゆる生物の生息圏が収まるところに収まって行きます。自然的に必然的に。

では人類は何の為に存在しているのでしょうか。おそらく自然の循環を阻害する為などではないでしょう。阻害による環境破壊は無知による行為の結果であって意図的にされたわけではないでしょう。誰が好んで自分の住処を居心地の悪いものにするでしょうか。でももし失敗から学ぶことも人類にあって他の生物にはあまり無い能力ならば、進化という過程がたとえ遅々たる歩みであっても進行して行き、いつの未来の日か、地球上の全生命と共存して行けるようになるでしょう。もし滅亡しなければの話ですが。

「人は問う」というお話(ナニヌネノのナ)を前回しましたが、「問」という行為の仕組みは「答」と一対に、あるいは表裏になっていて、問が答を得る必要不可欠の条件なのだということなのです。疑問を持ち、答を探求する行為は他の生物がしないことです。ではこの行為にどういう意義があるのでしょうか。考えて見ましょう。

疑問は具体的には「コトバ」を使って組み立てられています。例えば「リンゴは何故木から離れると地面に落ちるのだろう」という問いは全部コトバの組み合わせです。何の為にそれを知らなければならないのか、すきっ腹がくちくなるわけでもなければ、雨露をふせぐ場所が確保できるわけでもないのに。でもそれをしないではいられない衝動というか促しがあるからしているのです。本能といってもいいでしょう。本能なら自然なものです。生存に必要な能力を本能として自然は生物に備え付けて生み出してきています。人類の生存には「問」が必要なので、その能力を備え付けて生み出してきたのではないかと考えて見てください。「タチツテト」で天という場が完成してヌ(奴/人間)が生まれてきてから何が起きたかはその次の行を見ると多くのことが分かります。

ナニヌネノの行の次にあるハヒフヘホの行は三つの展開をしています。このお話は次回に

ナニヌネノのナ

夢が誘う心の断捨離

この数年間あまり愉快でない夢を見るようになり、特に最近の二年間に頻度が増してきた。夢の中で悔しかった、悲しかったり、腹が立ったりという感情的体験をしてから目覚めると後まで尾を引く。楽しい夢はすぐに忘れてしまうのに対し、不愉快な夢は忘れないという特徴がある。

引き金となっているかもしれない日常生活上の変化としては、そろそろこの世を去る時期に入って来た高齢の家族が毎日一緒の食事の際に思い出話をすることだった。楽しかった思い出も多いが、悲しかったこと、悔しかったことも話す。特に悲しかったことと悔しかった思い出に関しては何回も同じ話が出てくる。それだけ強い思いが残っているのだろう。残念という訳である。
これが自分の人生の思い出につながって来るとやはり不愉快な思い出が忘れられない強い影響力を持っていることが実感される。夢で何回も追体験する辛さや悲しさや悔しさがその日の何十分かを波立たせる。早く気持ちを切り替えるように何かをせっせとする。主にするのが掃除である。ついでに家の中が清潔になり、整頓されるので良い面もあるが、ここでひとつ心の中も掃除をして見ようと思い立った。

まず血圧を測っておく。それから整理するためには書き出すことが必要なので、思いついた順に書き出して行く。
出来事、それを引き起こした人物の名前、感情の種類を書く。順番で自分に与えている影響力の強さが分かる。真っ先に出た人物の名前にともなう感情的反応が一番強い。
何人か、あるいは人物の名前は分からなくとも出来事が三番目以降になるとどんどん感情的反応が弱まってくる。ここでまた血圧を測っておく。
リストを見て以外に少ないのに驚いた。自分の一生を左右してきた感情的反応の傾向を形成した事件が五本の指よりは多いが十本より少ないとは思わなかった。眺めながらじっくりと追体験する。

人物の影響力が強かったのは二人。二人に関係した事件がいくつもあった。これが他者に対し批判的になる原因となっていると思うので、しっかりと追体験しながら記録をする。
その二人が迷惑をかけた人たちがするべき対応をしなかったために処理済みにならない宙ぶらりんの憤りが残っていた。自分が受けた損害は二の次だと分かった。こちらのほうは処理できるからだ。
次に、人物の名前は忘れたが損害を受けた事件の掘り起こしはとても有意義だった。じぶんが不注意あるいは浅慮だったのが原因の大半で、これは今後気をつける他はない。まったく呆れるばかりのバカぶりだった。今もその傾向はあるが、はるかに賢くなってきていることにも気がついて嬉しい。
追体験中に思い出されて加わった事件は系統が似通っているところに書き加えた。忘れていたくらいなので、大した感情的反応は起きないのが分かった。

終わって血圧を測った。書き出す前と書いている最中との差は約15%の上昇率。終わった時との差は18%の下降率だった。始める前よりさらに下がったということになる。
翌日同じくらいの時刻に計ったところ三回目の計測値とほぼ同じ(2%高い)。この文を書き終えた後の計測値は6%高かった。多少興奮しているかも。

既に終わった事件に関してはたいして悔しくも、辛くもなかったのに、感情的しこりは独立してしっかりと私の人間関係に影響を与え続けていたのである。掘り起こして見れば、たいしたことではなかったという訳である。一番あほらしいことは、被害を受けた人たちが気にもしていなかった(と本人たちは言っていた)ことを私が気にしていて、憤りが独り歩きしていたことだった。
一日置いて少し整理をして書き出した事柄。これでファイルを完成し、処理済みの印をつけられれば断捨離完了。

作業の手順

● 事件の書き出し

1 事件の種類と概要。例:中傷、誹謗、裏切り、盗難、詐欺等
2 首謀者
3 受けた被害の内容と直接被害を受けた人物(自分でない場合も多々あった)

● 実際的処理

1 感情的反応の種類。怒り、憤怒、失望、羞恥等
2 それから何か学んだか、または否定的感情を持ち続けているか
3 似た人物や似た事件に嫌悪感や怒りを喚起され続けているか
4 何回も繰り返し後悔(あの時ああしておけば良かった等)、あるいは追体験しているかどうか
5 自分でも同じようなことをしたことは無かったか。あったらそれをした理由(あったし、理由も分かった。反省の材料を頂けた)。分かったことは何らかの理由で嫌いと感じた人には冷たい仕打ちをしたことだった。

以上のことをできるだけ冷静に主観を交えず映画を見るように観察して、感情的反応が静まるまで見届けた。所要時間一時間弱。

これでお終い

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

続・心の断捨離

2018.2.14

2018年のご挨拶

2018 年明けましておめでとうございます
戊戌 元旦

このブログも三年目に入りました。相変わらずの筆不精ですが、本年も諦めず時々はお訪ねくださいませ。よろしくお願いいたします。
2018年は干支では戌(いぬ)の年だそうで、音にちなんで動物の犬が関係してきますので、日本のように犬好きの多い社会ではかわいい動画や画像が氾濫しそうですね。見るだけで癒されるような姿をしていますよね。
ほとんどの人にとって人生で一番大事なものは家族と友達だと思いますが、犬はその両方ではないでしょうか。心さびしい時に寄り添ってくれる温もりの存在がどれだけ大勢の人たちを救ってくれているか、有難い存在だと思います。でも人間同士はもう少し寄り添い合って欲しいとも思います。ペットとの仲とは異なり、人間同士はいがみ合っている場合が多いようです。親子や夫婦や職場での人間関係がうまく行かない悩みを抱えて、病み、苦しんでいる人々をどこでも見かけていらっしゃることでしょう。人間とペットとの関係の大きな違いは信頼感の有無ではないかと思います。犬にかぎらず動物は嘘をつきません、裏切ったり、意図的に傷つけたりもしません。
私が心理学を学んでいた時に、ある教授が初めての授業の冒頭に驚くようなことを言いました。ずいぶん昔のことなので細かいことは覚えていませんが、概ね次のようなことを言われました。
あなた方の多くはこれから心理学というものを学んで、その知識を使って他の人々の悩みや苦しみを軽くする職業に就こうとしていると思います。どれだけ優秀な心理学者になるかで結果的に助かる人たちの数が違ってきます。そこで優秀なカウンセラーになる為に最初に心得ておいてもらいたいことがあります。
人間は嘘つきです。他のあらゆる生物とは違って嘘をつく動物なのです。私は嘘をつかない人を見たことがありません。親も友達も、もちろん自分も嘘つきです。嘘にもいろいろありますが、良い悪いは別として嘘は嘘です。しかし良し悪しで裁くことは他の職業の人たちがします。裁判官や検事です。あなた方はカウンセラーになる道を歩んで行くので裁く仕事はしません。何をするかと言うと、嘘をつく理由を探ることなのです。叱られたくないから、嫌われたくないから、儲かるから、得だから、騙されて悔しがるのを見るのが面白いから等々です。そしてこれを理解することが対処する方法を見つける糸口になるのです。人間性というものに対する洞察力を身に着けるのが心理学を学ぶ目的なのです。理解して、寄り添い、味方としての信頼を勝ち得てからがセラピーの始まりです。時には信頼関係を築けない相手に会うことがあります。気質的に合わない人というものがあります。その場合は他のカウンセラーないし、助けになる機関を紹介してください。無駄な努力をしても双方の為になりません。3つのR、rapport(信頼と絆の構築)、 referral(適切な助けの紹介)、 result(結果を出す)が良いカウンセラーになる必要条件です。結果が出ないのにクライアントを抱えこんで離さない人がいますが、それはしないでください。この業界全体の評判を落とすことになります。今ライセンス規制が緩んで、あまり質の良くないカウンセラーが増えています。お金もうけをしたいのなら他の道があります。ずっと効率よくもうけられます。でも人を助けたいなら結果を出してください。
以上の話は一人ではなく他の教師の話も加えてまとめたものですがこの後の一生を通じて人間性を理解するにあたって非常に役に立ちました。
良い人間関係を築くことを諦めてペットに頼る気持ちは分かります。でも人間はどうせ嘘つきなのですから、裁くかわりに理解して、絆を築くことを先決にして、いろいろと工夫を凝らして(腕の見せどころですね)。ゲームなら夢中になれるのに肝心の人間関係を良くする挑戦にはなかなか取り組めないのはどうしてでしょうかね。でももし取り組めたら、そしてその結果を見てみたらどうでしょう。収穫は大きいと思います。

次のお話
春の小川のように

絶体絶命の崖っぷち

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

絶対絶命の崖っぷち

嘘の話の続きです。

学生時代に心理学の教授が、嘘をつかない人を見たことがないと言っていましたが、その時から十数年後に嘘をつかない人に会いました。小田野早秧先生です。あまりにも正直で息苦しいほどの厳しい姿勢を保って生きた方でした。正直な故に、しなくとも良い苦労をたくさんしたお話を聞かせていただきました。その一部は『天鏡』という題名の本に書きました。何故そこまで真っ正直でなければならないのか。罪のない嘘なら別についても良いのではないか。その方が人間関係は円滑になるのに。例えばこういう時には、ああいう状況では嘘をついても良いのではないかと質問をしたことがありました。

じっと私が挙げた例を聞き終えた後に、しばらく考えをまとめていらしたのか、間をおいて、先生は答えられました。

その方が楽に生きられるかどうかが重要ならそう生きれば良いでしょう。どんなに厳しい人生でも真っ正直で生きたいのならそうすれば良いのです。私は楽な人生など望んではいません。人間社会でどのような地位にあるかなど何の意味もないことだと思っています。たかだか80年ほどのケチな人生でどんな位置にあるかなどあまりにも些細なことです。そのおかげでその一生を棒に振って、次の一生でまた一からやり直しなんて、無駄なことをわざわざするのは愚かなことです。永遠の生命の完璧な美と嘘の入り込む余地のない整然たる秩序と真の愛の片鱗でも味わいたいのなら真実の世界に生きるほかはないのです。私はこの一生で人間生活はもう終わりにしたいのです。また人間をやり直さなければならないようなことは決してしないように、それこそ片時も道を踏み外さないようにしています。あくまでも天の實親と私との間において正しいか嘘偽りかを吟味しているので、人間社会の規範は関係ありません。
そうやって一生懸命に生きて、そして最後にもしお許しいただけるならば、天網の結び目の一つという輝く星になって、もう自分などというものは消滅して、二度とこの世に戻らなくて済むようになりたいのです。私はあなたと違って大欲張りなのです。

このお話の後ずいぶん長い間悩みました。嘘をつかずに生きる知恵を発揮しきれなかったからです。それで、もう今生で天網回帰などどうせ無理なのだからと楽に生きることに決めました。でも嘘で誰かを騙したり、傷つけたり、お金儲けをしたりは控えております。そして、そのままの自分を受け入れることにしました。自己嫌悪は毒のように肉体をも傷つけますから願い下げです。それでも時々は落ち込むこともあります。また、比較的健康ではあっても老いの衰えも日々実感しています。肉体は使用期限のある製品で、昨年は部品を一部交換(眼内レンズに)しました。

話が横道にそれました。今生が最後のお努めと心得ている小田野先生のお話の後何年かしてもう一人正直な方に会いました。その方もやはり今生が最後の生で、もう二度と人間として戻って来ないと思うと言っておられました。飯島秀行さんという方です。

子供の頃、小学校の一年生だったかな、通学路を歩いて行く子供を上から見ていたんだ。僕なんだけれど、見ているのも僕なんだね。もの心ついた始めからそれが出来たんだ。
こういうことが出来る為には何百回も何千回も生まれて、少しずつ経験を積んでいったんだと思うね。だっていきなりそれはないでしょ。僕には死んだ人も見えるし、お釈迦様やイエス様やその他の賢い人たちといつでも話ができるんだよ。だってその人たち死んではいないんだから。ここに皆いるんだよ。実は他人なんていないんだ。一緒なんだよ。だから話できるに決まっているじゃない。それさえ分かればもう人間商売終り。
何年か前に死にそうになった時、やれやれこれでおしまいって大喜びしたんだけれど、何故かまだ寿命が残っていて、途中で戻って来させられちゃった。でも後もうちょっとの辛抱だと思う。何年かだな。それで僕はもういなくなる。完全にね。待ち遠しいね。

淡々と語る姿勢には何の気負いもこけおどしもなく、奇想天外なお話しだったにも関わらず、私はそのままそれが彼にとっての真実だと素直に受け止められました。それから数年後に亡くなられました。小田野先生と飯島さんは最後の生で嘘偽りのない人生を送ることができる用意があったのだと思います。
どう生きるのかはあくまでもそれぞれの人がまだ個人として存在している時に決めることで、それをもって自由意志というのだと思います。自由意志は怖いです。誰もこうしろとは決めてくれないので、自己責任において選択して行かなければならないのです。高山を目指して登る者にとって、もっとも厳しい時は最後の峠越えだと言いますが、心の登山にも当てはまると思います。

今の私は絶体絶命なのよ、とは小田野先生の言葉です。

2018年のご挨拶

 

現世を何故ウツシヨと読むのか

現世と書いて「ウツシヨ」と読みます。何故そう読むのか不思議ではありませんか。何を映していると教えられているのでしょうか。
何かを反映しているのなら反映する元があるということになります。現世に対する言葉は「あの世」です。あの世は姿形のないエネルギーの世界で、そこに行くためには死んで体をこの世に置いて行かなければならないことになっています。
姿形がないあの世を映しているのなら何も見えないはずですが、見えるように、感じるように設定されているようで、そのおかげでいろいろと惑いも起きてきます。まず体があるせいで、空腹や渇きがあり、寒暖にも対応できるように衣服や住居も必要になります。脳下垂体や消化器官、生殖器官からホルモンが分泌されるので感情や欲望が刺激されます。いわゆる煩悩と呼ばれる欲望が108もあると言われるのはそれだけ多くの欲が生まれてきてしまうということです。あの世にはそんなに多くはないでしょうね。
エネルギーだけが渦巻いて、スパイラルを描きながら動いているだけの現世なら煩悩も関係ないでしょうが、肉体に備えられた五感がしっかり味、音、匂い、触感、形や色を認識して、快不快を毎日経験して生きることになります。煩わしいといえば煩わしいです。でも面倒だから死んでエネルギーだけになって自由になりたいと思っても、どっこい、生命維持本能が働いてしまいます。苦しいのや痛いのは嫌だと感じるようにセットされているのが感情なので、なかなか死ねないのです。でなかったら地球に人類はもういないでしょう。

ある時非常に体が病んで、息をする度に肺が焼けるように痛く、その度に全身を波状に痛みが襲いました。息をしなければ痛くはないので、止めれば良いのですが、酸素が無くなってくるとどうしても息を吸いたくなるのです。苦しみながら少し息を吸い、小さく肺を使い、次の呼吸のタイミングを遅らせるようにしながら一晩中縮かんでいました。それでも少しずつは楽になってきたのですが、その時に動物としての人間の生命維持本能の強さに驚嘆したことを覚えています。

五感を持って、快不快の感情を体験しながら生きることが現世に在ることの意義なのだと思います。不便ですが、仕方ないのです。せっかく不便を凌いで生きている間に映すのは何かと言うと、それは自分です。鏡に映った姿形を虚像と言います。嘘のすがたという意味です。本物は実像ですが、現世にある姿形は虚像なのです。仮のすがたとも言えます。仮ですから死ねば無くなります。そういう意味です。神社の奥の院には本尊の代わりに鏡が祀られています。象徴的ですね。

誕生という言葉があります。誕という字の意味は「仮の」という意味です。仮に生まれたのだと教えられているのです。現世に仮に生まれて、鏡に映る自分を見るチャンスを頂き、感情の体験を通して何を学ぶというのでしょうか。いや私が別に何も学ばなくとも良いのかもしれないと思うようになりました。体験そのものが、体験の認識そのものが宇宙意識というか、純粋意識という実在実像が体験しているので、個人が何を学んだかに拘ることはないのではないかと思えるようになりました。体験というエネルギーの動きが「在る」ので「体験者」とは虚像なのではないでしょうか。それだから現世を「マコトヨ」と読まないで虚像を指し示す読み方をさせているのだと受け止めました。

体験者ではなく、体験だけが在るのだと思うのです。私の体、私の感情、私の学び、私の財産、私の名前から私の、を取り去ったら、後に何が残りますか?
ゼロです。ゼロが唯一の実在。それが納得できたら悟りなのだと推察します。自我意識は自分があるという感覚から生まれてきます。その間ずっと悩むわけです。また納得の結果がある気づきであっても、定着性は保証の限りではありません。私は経験済みです。まるで肉体の重力に引き戻されるような感じです。

「私は悟っています」と自分でいう人に何人か会いましたが、その人たちには共通性がありました。嘘つきでした。あるいはそう思い込みむ病気だったのかもしれません。ともかく溢れるような愛は感じませんでした。弟子をほとんど無給で酷使したり、より優れた(と思っているだけだったかもしれない)人をそれとなくけなしたり、浄財を喜捨しなさいと言って財産を取り上げたりでした。家財産を全部寄付させられた人も二人知っていますが、途中で少し返してもらおうとしても絶対に返してもらえなかった上、一人は命の危険さえ感じたそうです。その相手は今は刑務所に入っています。
ある時いわゆる神秘体験というものをして、通常では得られないような洞察が得られ、普通人から見たら霊能力が発揮できるようになると、偉い人、悟った人というふうに思われ、弟子や取り巻きがついてきて尊敬されます。そうなっても常に謙虚で、人に優しく、威張らないでいたら大丈夫ですが、多くの場合は周囲に持ち上げられるとちょっと高慢になります。そうなるとかつての深い洞察力や霊能力が鈍るということにもなります。すると嘘をつかなければならなくなるのです。怖い落とし穴です。私が逢った中で非常に深い洞察と真理の理解をしていらっしゃる方たちは決して自分が悟っているようなことはおっしゃりませんでした。悟りや至福はお金では買えません。

少し言いにくいことでしたが、この頃考えていることを書きたくなりました。2017年は周囲の人の何人かが様々な病気にかかり、悲しい思いをしました。私もアレルギー性の疾患で体が重苦しくうっとうしくて、体に対する拘りを離れて物事を見直したかったからかもしれません。体は大切な容器ですが、宿っている意識が明哲性を欠くと濁りが病を引き起こします。今年はお掃除を心がけるようにします。

絶体絶命の崖っぷち
幽霊と直談判
幽霊は在るのか無いのか
光透波という実体

 

春の小川のように

母が好きだった歌で、少し音痴気味に歌っていました。

春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色美しく
咲けよ咲けよと、ささやきながら

静流という名前は母が書いた小説の主人公の名前ですが、その本の冒頭にあります。

静かな流れとは、
善にも悪にも、清にも濁にも、美にも醜にも、かかずらうことなしに、心身ともにひたすらに流れゆく一生の姿になぞらえたのです。

なかなか善悪や美醜に拘ることなくは生きられませんでしたが、それでも母の願いはいつも心の中に大きな位置を占めてはいました。今年のあいさつ文の中で、カウンセラーの仕事は裁くことではないと書きましたが、この戒めは大切にしています。
人生の荒波に否応もなくもまれる中、悲しみや怖れに捕らわれて心が乱れた時に、拘りを捨て、さらさらと流れて行くのは難しいのですが、役に立つことはいくつかあります。
その一つとして、瞑想と言うほどおおげさなものではないのですが、しずかに座って、目を閉じてイメージする風景の中でもよく出てくるものは、穏やかに流れる川なのです。何を投げ込まれても放り返しはできない受け身の人生は川に似ています。でもさらさらとただ流れて行くのなら、ただそれだけのことです。良いも悪いもありません。嫌でも何でも受け身なのですから。それを苦にするかしないかだけが自分にできることです。

最近、末期癌の患者の「緩和ケア」という仕事を主にしている医師の講演を聞きました。ホスピスとは違って投薬や医療の他に代替治療も含め様々な処置をするクリニックです。彼によれば癌の70%は酷い痛みを伴うそうです。その痛みの緩和ケアをするにあたって、有効ないくつかのポイントがあるそうです。痛みの対処の方法はいろいろありますが、どれでもその人に合えばそれが有効ということで、手段は選びません。しかしどの場合も常に共通なのはその人の心の状態で、それが否定的か肯定的かで痛み苦しみが違ってくるそうです。

後半年か一年くらいの命と言われている。怖い、苦しい、理不尽だ、まだ死にたくない。半年しかない、が半年もあるというふうに、気持ちが肯定的に変わるきっかけとして有効なことばは、「人間は100%死にます」だそうです。自分だけが理不尽にも死ぬのではなく、誰でも死ぬのです。これで視点が変わるそうです。後は死ぬまでどう生きるかを選択すれば良いのだそうで、これは一つの目標になります。嘆いていても意味がないのは分かります。

へえ~、そうなのか。誰でも死ぬとは知っていても、自分が死ぬということをしっかりわきまえてはいない人が大勢いるということです。

この医師が、どのような処置をする場合もお勧めは、瞑想や座禅などの心のケアだと言います。痛み止めの薬の量が違ってくるというのです。ほとんどの場合大幅な違いが出てくるそうです。心が静まっていて穏やかなら痛み苦しみは少ないという実例を見てきた人の証言です。

現世を何故ウツシヨと読むのか