ある納得

 以下は霊鷲太母のことばで私が何度も耳にしたものです。他にも同じことを聞いた方たちが多数いらっしゃると思います。

身心に浸透して寝た間も休むことなき思いを「念」と言う。この念に付きっぱなしに付いているものが「仏」である。私らは仏の懐(ふところ)に住んで居るのに、皆知らない。その大いなる智慧の光である仏に赤子のように自らを委ねる以外に安心立命などない。
不可思議なる体験中に宇宙の成り立ちはもとより人間というものの本質、生けるもの全てと人とのつながりを覚(さと)った。そして全生命が一連にして不可分の大生命体であることを私は全身で納得した。これを、「身心(しんしん)毛穴(もうく)皆(かい)得(とく)悟(ご)」という。開眼とはこのような納得をした状態を言う。

『仏眼』より

この体験を22歳の時にしたのだと聞いていますが、その時のことを更にご紹介します。

本願寺の控えの間で何かを待っていた時のこと、目の前に掛けてあった軸に「見真」とあった。親鸞聖人の別名の一つでもある。何も思わずにただその文字を見ていたら、突然その文字が金色に光り始め、文字が崩れて金色の粒子になった。その粒子が渦巻きながら私の胸に入ってきた。あれれと思っていると私もまた金色の粒子になって四方八方に広がっていった。自分がどんどん拡大して行くにつれ、部屋の外へ、地球の外へ、はるか彼方へと拡がる星へと広がり、気がつくと自分の中に宇宙があった。それらが渦巻きながらすごい速さで動いている。渦の中から様々なものが生まれてくるのが見えた。花のような美しい形の中にある芯から生まれて来た物々もまた渦巻きながら回転している。そうしているうちにその渦巻の中に入ってしまい、今度は自分が小さく小さくなって行くのが感じられた。どんどんどんどん周りが拡大して行き、自分がどんどん小さくなって行く。その小さな自分と周囲のつながりが同時に見えた。どこまでも小さくなりながらあらゆるものと一緒に動いていて、それがぜんぶ一繋がりなの。それはめまぐるしいほどの速さの渦なのに少しもうるさくはなく、ただ美しく妙なる音楽のようにも聞こえた。他にも多くの物を見たのだが、一時には何を見たかが掴めなくて、その後一週間以上も見たことを少しずつ反芻していった。その時に覚ったことは全部が一繋がりであることさえ納得できたら世界はあっという間に平和になるということ。生きるものの全てが幸せに生きることを享受できるということだった。それからはその納得をどうしたら言葉で人間に伝えて行けるかということに没頭して、最初に本を書いた。でも学校に行ってなかったのでなかなか文章がうまく書けなくて困った。何年もかかってやっと一冊が書けたが、皆感動はしてもそれで大きな納得が出来たかというとそうでもなかった。これをどうするかと考えてもう一つ書いた。それでもなかなか分かってはもらえん。「心ここに在らざれば、見れども見えず。聞けども聞こえず」とはこのことじゃな。

注。最初の書は『慧日』、次は『舟を岸につなぎなさい』

この拡大と縮小の体験をした方々のことは文献にも見受けられますが、現代になってこういう体験を明晰に一般の人に分かるような平易な言語(内容は難しいので、すぐに分かるという意味ではありません)で語っておられる覚者があり、ありがたいことに一部の講義をYouTubeで見ることができます。またその方のことを日本語で紹介しておられる方の講座も動画で見られますので、こちらを先に、それからもし、もっと詳しくその体験を知りたいと思う方は二番目のサイトを訪れてみてください。とくに最初のサイトはとても素晴らしいお教室で、外国の方が日本語で話しをされています。

https://youtu.be/91oY6Rw3M7M?t=2316

二番目のサイト https://www.youtube.com/watch?v=XqxvoheJQtY

これに関連した記事で以前にご紹介したことは「量子」の世界と「物理」の世界とはそれを司っている法則が全く反対だということなのです。主流現代物理学ではまだ「統一場」と「ゼロポイント・フィールド」のことは認めてはいません。時空は軸が中心にあって回転が可能ならしめられているということが光透波理論では実にシンプルかつ明確に説明されていることも心にとどめ置いていてください。

労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

2017.5.3

霊鷲太母の講演DVD二本が販売されました。
「書籍等の販売」メニューをご覧ください。

生きるために生きる人たち

最近全身がアトピー性皮膚炎の若い女性が家にヒーリングを受けに来るようになった。初めて来たときにはアラブ人の女性のように目の周り以外の全身を布や衣服で覆っていた。顔はマスクで、首は衣服で、手は指先だけ出して手袋で覆ってある。一番状態が酷い脚は三重に覆われていた、脱いでゆくごとに皮膚が表れてくると痛ましさに胸をつかれる。
こちらは慣れていないのでショックを受けたが、本人はケロッとしている。冗談を言うとケラケラ笑う。自分も冗談を言って返す。
とにかく明るい。ここまで辛い状態なのに、とこちらは思う。薬で抑えていた症状が、薬疹で使えなくなってから十年経つそうだ。痒さと痛さに十年耐えながら生きてきたのだ。そして良くなろうとする意欲がすごい。毎日でも来たいと言われたがこちらはそうは出来ないので週二回ということにした。仕事を終えてから夜飛んでくる。笑顔でドアを入ってくる。息が弾んでいる。「今日はこんな状態」と報告しながらベッドに入る。

今日ニュースで、拳銃で自殺しようとした若い男性が倒れていたのが見つかったと言っていたのを聞いて、この前の高見順の話の続きを書いている。
何があって死のうとするのか分からないが、それぞれ辛い事情があるからに違いないが、死のうとする人と決して諦めない人とがいる。

高見順という人が時々現れるバーで働いていたTの話では、実に人に好かれる人だったそうだ。肺結核と他のもろもろの病で入退院を繰り返しながら、死を見つめて詩と絵を書いていた人だ。死を見つめていても死のうとしているわけではない。むしろ生きようという意欲は大きかったと思う。


「今日高見が来るそうだ」。誰かが言うと店の客がワッと沸いたそうだ。ニヒルな作家も、厭世的な作家も皆同じように期待の色を顔に浮かべる。そして皆がソワソワと胸を躍らせながら待っているところへ、背の高い痩せた姿が入ってくると店の空気が変わったとTが言う。「あんなに人に好かれる人はあんまりいない。まあ面倒見はとてもよかった人だけれど、他にも面倒見が良かった人はいたから、それだけが原因ではないしね」とTが言う。そのT がまた実に人に好かれる人なのだ。医者から見れば不治の病に罹っていても実に明るい。毎日冗談(かなり辛口)を言っては私を笑わせる。
「毎日ただ凡々と生きているだけよ。いつ死ぬかなんて別に大事なことじゃない。生きている間は生きているだけ」と一日一日を楽しんでいる。できる限り家事も手伝う。嫌な仕事や辛い仕事という仕分けをしない人なのだ。やれることを黙ってやってきた。高見順もそうだが第二次大戦を生き抜いた人だ。当然めったなことでめげる人たちではない。最後にもう一つ、「見えてくる」という詩を。

お前の眼を
手でもって覆うがいい
するとすべてが見えてくる
時間も見えてくる
暗いおもかげのなかで
いきいきと育って行くもの
それも見える
さんさんとそそぐ春の光の中で
おまへの野心が
腐って行くのも見える

2017.4.8

何気なく…

ふと何気なく手に取った詩集の中の一つが目に飛び込んできた。いつもそうなのだが、「ふと何気なくという何か」が、心の深いところにある琴線に触れて美しい音を出す。

 

母は歩くのが好きな人で日本中テクテク歩いた。木のポックリを履いて。
海岸では貝を拾い、道や川では小石を拾って帰ってきた。「石はみな光っている。宝石だけじゃないの」。その母の思い出がどっとよみがえってきたきっかけを作ってくれた詩の一篇は、

 歩いていると
小石がピカリと光ったので
ふところに抱いて帰った
小さな石の方から私を
友だちに選んでくれたのは
うれしいことだ

高見順という人の「小さな石」という詩で、家族のTが好きな詩人だったので家に詩集があり、今朝ふと私に見せてくれたのだ。
パッと開いたページにこの詩があり、パラパラと見ているといくつかが目にとまり、心が音楽を奏でる。

暗い雑木林のなかを
小さな花を手にして
憎しみを胸に秘めて歩いてゐたら
頭上の木の間から一条の光がさして
私にそっとささやいた
わかりましたと私は答へた

愛や憎しみは
感じても見られない
愛のうちに憎しみを感じても
それを目で見ることはできない
私が手にしていた花の
言葉を聞くことができないやうに

光もこの目には見えても
光の言葉は聞かれないのに
聞けた私は仕合せだった
憎しみを花にゆだねて
落葉の下に静かに埋めて
私は暗い道から歩み出た

素晴らしい朝だ。
2017.4.8

生きるために生きる人たち

 

時は今、命は絶対時間エネルギー

今読んでいる本にあった一節に、老境に差し掛かった現在の自分の状態にぴったりの表現があり、さらに年上のもう一人の家族と、「ホントにそうだ」と大笑いしてしまいました。

年をとるほど、何かを行う時間がどんどんなくなって行く。生体プロセスは減速するため、時間は加速する。

実際に一日がすぐ終わってしまい、やりかけの仕事がつまれて溜って行く。夕食のおかずも五品目作るつもりが四品で時間切れ。洗濯物もまだ畳んでいないし、明日出かける支度もまだだ。窓ガラスも大風の後そのままの汚さ。やることリストは一度見ただけでは抜け落ちてしまうので何回も見るからそれにまた時間がかかる。と、まあこういう次第。

個々人にとって時間経過は絶対的なものではなく相対的なものだとよく分かる。そこで時間というものについて考えた。

私たちは時間というものを絶対的かつ普遍的なものと考えがちだ。つまり、一時間は誰にとってもそして地球上のどこで暮らしていても同じ長さという意味で。ところが先ほどの生活体験を通じて感じていることはそうではないと示している。
時計という機械がチクタクと時を刻む、家の中でもテレビ画面の表示でも、炊飯器やパソコンの液晶画面でも。世界中でチクタクチクタク。心臓もそれに合わせてチクタクと命の終わる時に向かって時を刻んでいる。

では、50歳で死ぬ人と100歳で死ぬ人とでは相対的時間差はどうなっているのだろうか。心臓のチクタクのスピードは倍違うのか?いや、別にそうとは限らないだろう。違うのは内的な時間体験だけだと思う。それは生活の質の問題で、各々が過ごす時間の充実度と関係していると思う。何歳で死のうと、充実した時間をより多く持って生きてきたら幸せな人生だったと言えよう。充実した時というものは「せねばならないこと、苦役」に縛られていない時、楽しい作業に従事している時だ。どんなに作業量が多くても楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。その時はチクタクに追い回されてはいないのだ。その「ゆとりの時間」の中で心臓もゆったりと動いているし、体もこわばっていない。こういう時間が多ければ多分、与えられた寿命は全うできると思う。年をとって閑が多くなっても充実した時間を過ごせるとは限らないのは楽しみがないということなのだ。

時間は相対的であり、宇宙に共通の時間は存在しない。時計が刻んでいるものは実は本当の時間ではない。惑星の回転に要する長さを分割して、便宜上「時間、分、秒、月、年」と名前を付けただけで実在ではない。人が認識している概念であり、動植物にとっては存在していない。朝、陽が昇り、周囲が見やすいことから活動期として過ごし、日没後には休息するだけで(夜行性動物は別の活動周期を持っているが)、時計には関係なく生活している。

ここで言う「本当の時間」とは時間の経過のない時間、つまり一瞬という間で、それを私たちは「今」と呼んでいる。本当の時間とは絶対普遍であり、したがって「空間を超越した時間」である。言い換えればあらゆる所に同時に存在しているので、或る箇所から何処へと移動(経緯という時間が発生する)はできない。ところが何処にも移動できないので空間的広がりは発生しない。時間も発生しないという意味での絶対なので「今」と言う。そしてこれが絶対エネルギーであり、命のエネルギーの本質なのだ。宇宙にある「あらゆる物」はエネルギーの化身であることは現代科学では既成の事実として認識されている。そのエネルギーそのものに質的な差異があり、その差異が異なる物を形成しているわけだ。

じゃあ、その形成された異なるもの、惑星とか銀河は何処にあるのか。「今」とどういう関係があるのか。もっともな疑問が湧くと思う。エネルギーの質的差異によって存在しているものは、「間」という、「無いという場所」に可視の現象を成立している。現象を認識している者にとっては有るのである(認識していない者にとってはエネルギーの波しか見えないかあるいは何も見えない)。「今」にはエネルギーの質的差異はない。絶対と相対の二つの世界があると言えば簡単だが、並立している二つではないので、但し書きなしでは言い難いと付け加えます。

「今」という絶対時間に対する理解と認識が空間を新たな目で見ることを可能にし、その結果としてチクタクの呪縛から自らを解放してくれ、充実の時に満ちた人生を約束してくれる。

時はトキ、透基という字を当てると概念の時は消え去る。絶対性という透明の基盤であってチクタク刻まれているものではないと理解し始める。TIMEタイムとは「田意務」という意味で、田(電磁場)の意(音によって展開されている此処という場)、一瞬の休みもなく場を形成、維持、運行せしめている働き(務)、であり、対するものが無い、タイ(対)ム(無)なので絶対性を意味する。

余談だが、時間、空間、人間というものは「間」という共通項を持つ。間とは何もないという所(無)を意味するが、先の二つはアイダと読み、人の後にある字はゲンと読むことが示唆的である。ゲン(言)を操る能力を持った人のみが時間空間を認識することが出来るのである。アイダは愛田であり、愛兌(愛がどこまでも貫き通っているという意味)だと受け止めるとまた新たな目で見ることが可能になる。この能力を進化させ続けると時間を直線的なものと考えてしまう狭い思考範囲から抜け出すことが出来るようになると思い、それを願いつつ充実した思考時間を過ごし、洗濯物を畳まずにいます。

2017.3.15
概念についての話はここにも掲載されています。
超光速という可能性と概念

星間の星

ここ数日さっぱり「実光透波(みことば)」の閃きがなくて何も書かずにいましたところ、3月3日桃の節句、雛祭り、朝の10時27分に閃きました。何か節目のような日に入ってくる情報は殊に大切と受け止めておりますので、一応メモっておいて外出。一日中忙しい日だったので、翌日の今日これを書き始めました。
星間の星」という実光透波でした。
星の間にある星?じゃあ見えないわけ?すぐに閃いたのは小田野早秧先生のお言葉でした。

私はね、何も欲しいものなんてないのよ。贅沢なもの、きれいな着物、美味しい食べ物、名誉やお金なんてものはね。でも私はものすごく欲が深いのよ。あつかましい望みを持っているから。
私が欲しいものはただ一つ。いただいたお仕事を全うした後に、晴れて死なせていただいたら、天のお父様お母様のお近くに行くことなの。その為にこうして来る日も来る日も字を割って割って割りぬいて、自分を細かく細かく砕いているの。どんな些細な出来事でも毎日こうして日誌につけて、何も見落とさないように目を開けているのよ。眠ってしまうと見れなくなるからなるべく眠らないように算段しているの。食べると眠くなるから少しだけ食べて、横になると眠ってしまうからこうして座っているの。時々横になる時は右手がすぐ使えるように左下にして、鉛筆と紙を傍に置いて枕もとの灯りはつけたままにしておくの。そんなに一生懸命やっているのにまだお迎えが来ないのよ。しょうがないけれどね。命の終わりって自分が決めることじゃないから。
あなた、どんなに辛いことがあっても自殺しようなんて決して思っちゃだめよ。苦労ってね、ダテにしてるんじゃないのよ、苦労って稼ぐものなの。苦労するたびに削られ、砕かれ、磨かれるんだから。「ありがとうございます」って手を合わせるくらいにならなくっちゃ生まれて来た甲斐が無いわけよ。そうやって身を削られながら生きて、そしてね、最後にもういいよって言っていただいたら、私は天の網の結び目の一つになりたいと願っているの。ならせていただけるかどうかは分からないけれどね。天網の結び目というものが、あなた、本当の星なのよ。あの夜空でピカピカ光っている星じゃあなくてね。あれは物なのよ。きれいだからってそれで満足していちゃあだめなのよ。本物を見ようとしなくちゃね

これを書きながら小田野先生のお声と表情を思い出し、それこそ出会わせていただけた幸運に感謝の手を合わせてしまいました。

さて、天網の結び目。それは何でしょうか。一つの説明は「軸」です。光のエネルギーである縦の糸と横の糸が交差してできる交点ですが、人が死んでその交点になれるかどうかがそれほど難しいことなのでしょうか。小田野先生によれば至難のことなのだそうです。先生のような艱難辛苦に耐えた人生で自らの意識を磨き続けて、嘘もつかず、誰も傷つけず、地球も収奪せずに生きてもそうなのです。でも一人目が出来たら、後になるほど楽にはなるそうです。道なきところに道をつける仕事を天命として受けた先駆者と呼ばれる人たちは最も厳しい道を歩むのですが、その後は道を辿ることができるわけです。ありがたいことですね。

閃きの来た時間は3月3日10月27日  雛ヒナ祭り

ミミにそれぞれ「見」と「実」を当て、嘘でも虚でもない「実を見る」と取りました。その音には「耳」という字もついています。聴く役目を果たしている器官でもあり、音は「ジ」とも読むので「字」を当てました。
見て、聞いて、字を検分して何をするかというと、至高の叡智のエネルギーである透明の普遍の名(命)を探る。何を使ってかというと、云音表(ハコブネという舟)です。わざわざ10時27分に降ろしていただいたのですからその数値を大切なメッセージの一部として扱います。
桃の節句はモとモに母と網を当てます。ここに天網が出ました。天の実体であるエネルギーのネットワークですから。そしてヒ(和数字の一番目の数)一、これは絶対という意味に取り、奈という形を(大=小)と分解します。大が小と同じである条件は形あるものを超越したエネルギーを意味しますので、それはすなわち絶対性、至高の叡智、あるいは神と同質ものと取ります。雛という人形(概念)ではなく本質の方の意味は「一奈」なのだと教えていただきながらの字分け作業をしました。

天網やエネルギーの交差についてもまた書きますし。星というものについてもまた書いて行きます。
2017.3.4

覚者と凡人はどこが違う

4番目の問題

前回の記事で提示した16の問題の一つを考えて見ましょう。4番目の問題です。

医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?

まず医学が「進歩しているにも関わらず」と言わずに「歩調を合わせて」と言っていることに注目してください。これはどういう意味でしょうか?
文字通りに解釈すれば、進歩と歩調を合わせるとは一方が他方の原因を作っているという意味です。ここまで言い切らないとしたら、進歩が必ずしも病を治癒させることがない上に進歩の途上で予測していなかった他の要因が加わり、かえって患者が増える結果をもたらしている、いうふうにも取れませんか?

では、まず医学とは何をするものかから明確にしましょう。

医学とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。
ウィキペディアより

診断と治療は分かります。疫病に罹ったら医師を訪ね、検査を受けて診断してもらい、治療を受けます。現代の医学の主流である西洋医学の場合ですと、各種の手術、処置、投薬を受けます。病院や診療所ではこれが主な活動内容です。また、予防する方法としては、健康増進や維持に役立つような食事、運動の勧め、休息や睡眠を必要なだけとることを勧められるでしょう。普通はこれで終わりです。そしてこれが功を奏しているとは言えない現実を皆様もよくご存じと思います。多くの疾病は完全に治癒することはありません。症状が和らぐが、病は治らないままに寿命が尽きて亡くなることが大半のケースです。また、一つの疾病から解放されても他の疾病が出てくる。薬は、しばらくは効いていてもそのうち効かなくなる、長く使用すると副作用やそれ以前の処置の影響による余病併発、副作用による種々の不具合が表面化するというケースもあります。つまり医学療法とは根本的解決法とは言えないということです。

体は生きている細胞の集合体です。各細胞はそれぞれ異なる役割を分担して決して他の細胞の仕事を妨げたり、横から口を出して指図して全体の調和を乱したりはしません。他の集団が機能障害を起こした場合のみ助っ人となって仕事の分担を軽減してあげるということはありますが、通常は己の分をわきまえてコツコツと仕事をしています。

この生命の営みを妨げる、横から口を出す、一つの集団ばかりに都合の良い処遇をして、他にとっては迷惑なことをする、というような全体のバランスが崩れるようなことをするのが人間の行う治療です。何故なら人間は人体を作れるほどの知恵をまだ持っていないからです。どの細胞が何の役割を果たしているかを100%は知らない(一体何%くらい分かっているのでしょうね)のに様々な薬を投与したり、生体の部分を切り取ったり、他の生体から取ってきたものを移植したり、注入したりしているのです。効を奏する場合もありますが、奏さない場合は「できる限りの手はつくしましたが残念ながらご臨終です」となります。

日常生活に支障をきたさない病に罹った場合は治す効果のある措置として様々な方法がありますが、軽度の疾患で生活のスタイルを変える人がどれくらいいるでしょうか。あまりいないと思います。歳をとってゆくのですからだんだんに悪くなる方に向かって行きます。その結果重篤な病に罹ったらどうするか。びっくりしてやっと本腰を入れて良くなる処理をし始めます。でも多くの場合はもう手遅れです。

早い内に手当できたのにそれをしないで手遅れになってしまった原因は根本にあるその人の心の持ち方に関わっているのです。一個の細胞といえどもおろそかにはしない、何故なら自分のものではないのだから。お作りになったのは大自然の叡智という、別名を創造の源という存在です。したがって大切に思う、尊敬して接する気持ちが必要なのです。

もう一つ忘れてならないのは、人間は孤立した存在ではないということです。地球という環境に依存して、地球と一蓮托生の存在なのです。地球の大気を吸って、大地が育てた食物を食べ、水を飲み、太陽の光を浴びて生きています。この環境がどんどん汚染されているのに100%の健康体など期待できるはずがないのです。医薬品を作る過程でどのくらいの水が汚れ、空気が汚れ、実験台の動物が虐待されるかを知っていますか。

自分独りが完璧に健康にはなれません。何故なら全ての人の行動の原動力なっている潜在意識が許さないからです。潜在意識を100%コントロールできる人はいません。何故なら潜在意識を見ることもそれと対話することできないからです。
薬や各種の延命処置や、文明の利器である機械の導入による過重な労働からの解放や、住環境の快適化などで寿命は延びても、潜在意識の影響から逃れることは出来ません。人間本位で他の生物も含めて地球環境を汚染し、傷つけているのに自分だけが幸せになることなどできないと思ってしまっているからです。そしてそう思っていることにさえ気づいていないので、改善しようもないのです。

霊鷲太母は端的にこう言っています

喜びとは、孤立の一滴にはなく、
通い合うところに始めて生ずるなり
されば、万物と通う心を
極楽と知るべし

著書『仏眼』より

気持ちの処理法の一つとして私は、病は避けられないと受け入れる(ある意味で自業自得だから)。そして病からの解放とは病を気に病む感情からの解放というものであると思っています。病によって不幸になるわけではないのです。不幸だと病みがちということは言えると思いますが。
2017.2.13

https://37kotoha.net/10/覚者と凡人はどこが違う/

太母についてはこちらもどうぞ。

http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-backno.htm

病が治る人、治らない人

 

 

 

酉年にちなんで

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

下記に提示されている項目は『舟を岸につなぎなさい』と題されたメッセージ文の抜粋です。

この本で提示されている15項目の問題は今から60年も前に書かれたものです。日本は高度成長期の始まりにありました。環境汚染という言葉など誰も知らなかった頃です。今この問題を見て、あなたは何問答えられるでしょうか?そして16番目に、すべてを統括する答があることを示唆している項目が提示されています。

  1. 文明が大車輪で発展すれば、災害も大車輪で大発展することに目を留めなさい。 なぜか?
  2. 災害の七割までは人間が引き起すものであります。ということは、災害の七割までは人間 が防止できます。どのようにして?
  3. 今、他の天体への究明と試みが大掛かりになされていますが、距離における「より遠く」 とか、面積における「より広く」とか、速度における「より速く」とかいうものと、我々の幸 福の要素、安全とか愛情とか信頼とかいうものとは、あまり関係のあるものではありません。 天体究明も大切に違いないが、足元にもっと大切な問題があることを忘れてはいませんか?
  4. 医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、 寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?
  5. 和合調和を招くのが宗教であるのに、宗教と名乗りつつ、世界に排他反目の巨大な壁を造 らせた矛盾と罪に留意し、反省して、教義の欠陥を正し、信仰の誤りを直しなさい。直すには?
  6. 文明生活と人口問題についてと、衣食住についての心構え
  7. 精神的美風(美しいならわし)が急速にうすれつつある今日において、それらの美風が再び 人類の上によみがえってくる処方箋について
  8. 常に善い悪いと言い続けてきながら、未だに善悪邪正の判定をする明確なより所を持たな いのはなぜか? ということとそのより所
  9. 人類の苦しみの第一因は、要不要の算定を無視した物品乱造であり、悩みの最大因は、乱造せざるを得ない経済機構にある。ということについてと、その重苦から脱する方法について
  10. 物品乱造の結果、乱費となり、これが人類と他の万物との関係をどのようにしているかに ついて
  11. 空気の生態と、その果たしている三大役割について
  12. 科学界に対する要望と、その研究目的についての示唆
  13. 原子力はその使用目的が何であれ、取り扱うこと自体が災害のもとであるという理由に ついて
  14. 既に蓄蔵されている原子力開放にあたっての諸条件について
  15. 教育は学校に始まってはもう手遅れで、出生と同時に始まらねばならないということと、その始まりにおける諸注意について
  16. 以上15項目の解答がすべて帰着する終点において発生してくる諸問題について

以上16項目中、最も重要なのは、最終の第16項です。 前記15項目は、あなた方がよく検討なされば、容易に解明するものであり、もうとっくに解明してもいます。 しかし、その解明を基調にしたさまざまな具体策を「どのようにして最もスムーズに、かつ急速に、現在の社会機構上に適合させていくか」が問題の重点であり、この重点を取り扱うの が第16項だからであります。
前記15項目にはすべて帰着する一点があります。今日まであなた方が何を求め、何を得ても満足できないで、幸福とは永続性のないものだとあきらめかかっていたのは、この一点を見 落としていたからであります。15項目の帰着する一点こそ、ついにそれが何であったかを明示するものです。

以上の問題点に関し、それぞれの方が、「ああ、60年前の予測がまったくその通りになってきている」と思われたのなら、それがこの本の信ぴょう性を証明するものではないでしょうか。この回答を聞くために40年ほど前にローマ法王庁からお使いの方が二度見えたのですが、「どこか一か国、あるいは一団体や一宗教に対して回答はできない」と言って、著者は回答を控えていたのです。
そこで私からの質問です。どうすればすべての問題が解決すると思われますか?まず、初めの質問である、「どれとどれの解決法が分かるでしょうか」がある意味でヒントとなります。どれかを解決しても他が影響を受けて余計問題が大きくなるようならそれは解決法ではありません。どうぞ頭をしぼってみてください。いえ、心を澄ませて、母なる地球に、そして生きとし生けるものに心を同調させ、自然の声を聞いてみてください。

https://37kotoha.net/10/4番目の問題/

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

私は酉年生まれです。今年で干支を六巡しました。六回廻った人生にちなんで六という数の性質の一部を考えて見ました。

まず五十音の六列目はハ行になります。ハ行に入っている音は十五もあります。他の列はカキク、ガギグのように清音と濁音合わせても十音しかありません。六番目のハ行だけが清音ハヒフヘホ、濁音バビブベボに加え半濁音のパピプペポがあるのです。この特異性に着目した小田野早秧は半濁音について、濁音を清音に戻す能力を有している特別な音として、意味から取って「反濁音」と名付けました。

何故半濁音ではなく反濁音なのか
神社に行くと柏手ということをします。「パンパン」と音を立てて邪気払いをします。そう昔から言われてきたので皆さま習慣的にそうしていらっしゃるようです。手が湿っていると良い音はでません。乾いた手で打つと出る乾いた音なのです。 反濁音の発音は唇をいったん合わせてから素早くはじくようにします。日本語の他の音は濁音でもそれほど強く短く唇をはじきません。邪気を払うと言われている柏手のような良い反濁音を口から出すためにはお腹の筋肉を使って勢いよく音を出さなければなりません。ちょっと努力が要ります。呼吸が浅いと難しい作業になります。 つまり、邪気を払うのにはおへその下からの力がより効果があると考えられます。邪気とは何かを差別的批判的表現を使わずに説明しますと、「停滞しているよどんだエネルギー」です。血液やリンパ液の流れに停滞があればいわゆる血液ドロドロ、筋肉コリコリ、内蔵ヘトヘトという状態になります。体でなく、停滞したエネルギーが充満している場所は「穢れ地」と呼ばれ、お祓いということがされてきました。このお祓いには祝詞(のりと)を大きな声で唱えながら、パッパッと何かで空気を払うことをします。祝詞は清音で成り立っています。濁音は文字通り濁りなので、その濁りを払うために清音を使うわけです。清音は清い音ですが、その清音より更に短く強く出す五つの音が反濁音というわけです。音が邪気を払う力を持っていなかったらお祓いも柏手も何千年もの間使われてはこなかったでしょう。

今世界の多くの場所は不毛の穢れ地になっています。空気を清浄にしてくれていた森がどんどん減り、水は汚染され、海の大きな部分は上に停滞しているゴミの下で死んで行っています。都会は不毛の地です。ここへ人々がどんどん集まってきています。人口密集地ではエゴとエゴの摩擦が起き。競争がし烈化し互いに傷つけあっています。親子の間でさえそうなってきています。この事実を無視することはもうできないほどの状況になっていると言えましょう。これを清い状態に還元する力は実は私たちそれぞれが潜在的に持っている能力なのです。それぞれが何をすべきか、その道しるべともいえる利器があります。それは天の父母が小田野早秧を通して人類に降ろしてくださった、音の意味と力を教示している云音表なのです。今日はその表のほんの一部である半濁音の力について少しお話をしました。
2017.11
ナニヌネノのヌ

濁りはOKだった

ご挨拶2017年版

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔