最後の断捨離

今年4月24日にお寺を訪ねて来られた方がありました。事前に音楽を演奏して仏前に捧げたい旨許可を求めてからの来訪でした。

頂いた名刺に「雅楽士」とありましたので、雅楽の音楽を好んだ母の顔が思い浮かびました。母がよく唄っていたのは「越天楽」でした。

さて、仏前で手を合わせ、今日は「献笛」をして良いかと許可を求め、笛を吹く前に「散華」をして一礼。床に座って笛を吹きだしました。ちなみに「竜笛」という楽器です。

最初の壱越調(イチコツチョウ)という曲を聴いている時に耳の中で小骨と鼓膜が振動しているのが感じ取られました。一緒に振動しているうちに、高音部の聞き取り範囲が広がって行く感覚があり、次に低音部の聞き取り範囲が広がって行く感覚がありました。

「可聴範囲がひろがっていますか?」と内なる叡智に訊きますと、「はい」でした。単に聞き取りが良くなっているだけでなく、鼓膜の汚れがふるい落とされて行く感じがしました。以前左の鼓膜にポリープが出来ていて、右も汚れが酷いと医師に言われて、セルフヒーリングをしたことがあり、状態は改善していたのですが、まだ完全にきれいになっていないことは感じていました。

高齢になって軽い難聴になっていたのがかなり改善されてはいたのですが、それでも半年前の聴力検査では50代の女性の平均程度でしたので、音響機器の音量は若い人用より多分大分大きくなっていると思います。

次の曲になって、こんどは胃腸が整って行く感覚がありました。消化器系全体が元気になって行く感覚がありました。「胃重」気味だったのが、すっきりして行く感覚です。体が喜んでいるのも感じ取られました。

次はどこの機能が亢進されるのだろうと、欲張りな私は期待でいっぱい。

少し休憩した後、
3曲目で心臓が楽になりました。

次の4曲目には脳細胞の活性化が進んでいるのが分かりましたが、この時です。

脳の上部、頭頂葉の真ん中あたりに「小豆粒大の膠のような塊」があるのがイメージでくっきりと浮かび、それが融けて行くイメージが見えました。自分が固執しているものを溶かして行くために何年も「心の断捨離」を続けて来たのにまだ残っているのは分かっていました。

どうしても許せない人がいる。許せたと思っても何かのきっかけがあるとその人の顔が浮かび、むらむらと怒りが湧いてくるのです。その怒りを見つめては消えてゆくのを見ている作業を続けてきました。他の人が同じような目にあっているのを見ると、それが現実でなく芝居の中であっても腹が立つのです。

ところが、その人の名前が思い出せないのです。顔もぼんやりしています。そして、
何の感情も湧きおこらないのです。
ふと、これが最後の断捨離だと思いました。万歳です。

次の曲はその名も五常楽級(ゴショウラク)でした。その名のように五感もすべて楽しく、楽であるのが平常心となっているのが理想でした。見る物は皆美しいい、食べるものは美味。聞くものも楽しい。母、太母の「天地人清浄のうた」の意味が体感出来ました。全身の細胞が喜びに振るえて、活性化して行くのが分かりました。音楽と共に振動してうっ滞が融けて流れて消えて行く感覚でした。

そして「越天楽」となりました。感謝と喜びで涙がいっぱい。嬉しそうな母の顔が見えています。この喜びが「十方無限世界」に響き渡るのだと言う母の言葉も思い浮かびました。次の曲の間もずっと、母の声で聞こえていたのが、

捨てなさい、捨てなさい、捨てて、捨てて、捨てたことも忘れてしまいなさい

そして、聞こえました。

“Don’t worry!” 初め英語で来た。
心配ない
何も心配することはない
幸せでいるだけでいい
よかったのう、静流
人類が開眼するのは急転直下。もうじきじゃ。

でした。今は痛いほどその心が分かります。これが地球蘇生の鍵です。人が理解し、納得し、あらゆる固執を離れ、喜びに満ちて、淡々と生きていることが一番の浄化なのだと今私は確信しています。誰かが悪い、許せないという思いが重い心となって、怒りが錨のように心を沈めて喜びを感じられなくしているのです。

『仏眼』の言葉です。

 

2021.05.28

 

 

 

 

日本人は死なない、死ねない

この一年半ほどでコロナウイルスによる脅威とその感染予防対策で世界中で大きな変化と混乱が起きています。ですが、これをどうこう言う為にこの文を書いている訳ではありません。本題に入る前に一年余りで出た統計についてお話ししたいと思います。

先ず、国別の感染者数と死亡者数がまとめてありますので、これを見てみましょう。統計はデータをどうとったかで結果が違ってくるものですから、大体の数値です。アメリカの友人たちに聞いたところでは、全米で半強制的に検査をさせられたそうです。症状が出ていようといまいと検査をしないと移動ができません。他の町や、州に行けない、レストランに入れてもらえないので、仕方ないのです。欧米諸国も大体同様です。それで、感染者数がかなり多くあると分かったわけです。あまり検査を徹底していない国では当然数値は低くなります。それも踏まえてのお話しになります。

多少の不整合性や検査法のバラツキがあっても全体的に見て、日本人は感染者数も少なく、死亡者数も非常に少ない。下のチャートを見ると、100万人あたりの死亡者率では世界で16位となっている。いわゆる欧米諸国がダントツに多く、アジア、オセアニアは少ない。

 

日本人感染者と死亡者が少ないのが何故かは分からないので、「ファクターX」と呼んでいる学者もいますが、そこにリストしていないファクターがあると私は思っています。

それが、毎日私達が使っている言語にも関係していると思うのです。

日本人は小数民族ではないのですが世界でもユニークな民族で、他のあらゆる国のどの地域の人々とも全く異なる言語を使用しています。根本的な違いは、全ての単語の音節が母音で終わるという言語です。世界中のどこの国でも日本語は使われていません。そして印欧語族とか何らかの語族にも属していないユニークな言語なのです。日本人の脳がユニークだという点はすでにご紹介しましたが、脳の左右の半球の機能に優劣がないということなのです。これが原因かどうかは分かりませんが、日本人はあまりけんかをしません。不協和音を嫌う、悪く言えば「ことなかれ主義」だそうです。自己主張もあまりしません。白か黒かという議論をしないのです。だいたいグレーです。どっちでもいいんじゃないかしら、です。

最近外国人の女性が日本語の力について語っている動画を友人が教えてくれました。最後にとても大切なことを教えて下さっているので全部見てくださいね。

https://www.youtube.com/watch?v=oyno-NNbwqU&t=701s

アリシヤさんは日本人は優しい、それは日本語の力で、自分も日本語を使うようになって優しくなったと言っています。

世界は今分断され、闘争が止みません。覇権を競う心を持つ人たちが勝敗で価値を決め、人類社会を支配しています。経済効果優先なので、地球は汚れ切っています。海洋汚染の画像は見たくないかもしれませんが、掲載します。人体の60%以上は水なのに、水が汚染されているのですから、当然大地も汚染され、結果的に病人だらけになっています。ウイルスの脅威を心配するより地球の汚染を心配するほうが先なのに。原因があって結果をつきつけられているだけです。私達みなの責任で、誰を責めてもどうにもなりません。最初の画像の美しい海を見ると、幸せな気持ちになります。以下の画像は人間がしたことです。

あなたが裁くと宇宙が汚れる

今年の初めに頂いたメッセージです。身につまされました。

裁くのを止めるというのは難しいですが、これは自分で出来ることです。戦いを止めるのには先ず、「許す」という行動が先です。過去の恨みを捨て去って、それぞれの違いを認め、尊敬し、優しくなること以外にもう出来ることはあまりありません。経済効果優先主義も元々は覇権主義から出ているので、汚染に歯止めをかけるには勝敗レースから外れれば良いのです。より多くの人が裁くのを止めるという方法は、「急がば回れ」みたいなようですが、一番の近道ではないかと思います。この記事の始めに日本人の死亡率が低いというチャートを出しました。私の考えでは、ファクターXとは日本人の存在理由なのです。

日本人は死なないのではなく、死ねないのです

役目があるからです。日本は「大和」とも言います。大きな調和が世界を平和にする影響力を発揮するのだと思います。ヤマトと読みますので、世界平和というに向けてを放つ(行動する)のは大調和の波動を毎日言葉で発している日本人の役割なのです。

最近嬉しいことがありました。イギリスの友人が教えてくれた地球に優しい発明です。プラスチックの代用品がキノコを使って費用もあまりかけないで出来るのだそうです。嬉しくて涙がでました。地球に優しい人たちが増えてきて、こういう発明をしているのだと分かると有難いです。

https://www.treasureislandsweets.co.uk/eggs-strawberrys-fruity/foam-mushrooms.html

https://tabi-labo.com/297610/wt-haecklesnewpackaging

https://ecovativedesign.com/about-our-materials/how-its-made/

2021.03.11

 

 

 

 

 

猫の神様

一昨年くらい前からどこかの猫が家にしょっちゅう来るようになりました。大きな茶トラで、体の大きさに比例してかなりの量の糞をわが家の庭の土の上にする習慣がついてしまいました。どこの猫かも分からないし、仕方なく糞の始末をしていました。玄関わきのベンチがお気に入りの場所で、悠然とそこで日向ぼっこしているのをよく見かけました。それも仕方ないと思って我慢。脅かしてもその時だけ逃げて、また戻ってくるからです。

しかしある時にベンチの上に嘔吐したものが飛び散っているのを見かけ、近寄ると周囲の壁や、タイルの床にも飛び散っていて、乾いてしまっていたので、洗い流しに手間がかかり、さすがにもう嫌だと思いました。

それから数日後に散歩で近くの江ノ島に行ったおり、神社の掲示板に、「私達を連れ帰らないでください。野良ですが、島の人たちが世話をしてくれているのです」と猫の絵入りのポスターが目に入りました。それで、江ノ島には「猫神社」があるのを思い出し、フト(フト、というのはインスピレーションが入って来たしるしです)、猫の神様にお願いしたら良いかもしれないと気づきました。

犬猫撃退剤など使いたくないので、「家に猫が来ないようにお願いできますでしょうか?」とわが家の情景と猫の姿をイメージしながら訊いてみました。「はい」という返事が来たように感じたので、お礼を言って、帰宅。

それから数か月になりますが、一度もその猫を見かけなくなり、糞もまったくされていません。「猫の神様」の霊験あらたかでした。

あらゆる生き物にはその種族の元締めのような、いうなれば知恵ある意識があるというふうに、私は受け止めています。動物園で寝ている夜行動物を見たいので、「コアラの神様」、「ワラビーの神様」、その他もろもろの種族の神様にお願いしたところ、どの動物も寝床から這い出て来て、写真を撮らせてくれました。終わるとまたサッサとねぐらに戻って寝てしまうので、案内係の女性がびっくりしていました。

 

では人間はどうでしょうか。人間の場合は「人類の集合意識」という表現が分かりやすいかもしれません。知恵というものは形がなく、見えも触りもできません。どこかに在るとか場所もありません。ですが、その集合が有るというふうに思ってください。そう思えばその人の意識の中で「人類の意識の集合」という位置が座を占めます。一旦座を占めることでアクセスする焦点が出来ます。そして「つながる」わけです。いきなりつながるかどうかは私にも保証はできませんが、少なくとも基盤はできたので、あとは信念と練習が功を奏するでしょう。

存在とはそれに付けられた名称で、名称(コトバです)が存在を確立するのです。名前が無いものを想像することはできません。想像できれば、ある時ある状態に達したら創造ができ、現象を起こし、願った成果も出てくるという仕組みがあるのに気づいてくださると、きっと楽しい体験ができることでしょう。 

以前投稿したものですが、内容を捕捉していると思います。

「バカの壁」を越えて見つけたこと

2021.03.09

 

 

 

近道はたいてい遠回り

数日前に急に微熱、悪寒、軽い頭痛、食欲不振になった。この場合はもしかしたらウイルス?とパニックになる人もいるかも。でも私は平気。「あら、風邪だわ」となり、太母さんの言葉を思い出しました。

風邪は万病を掃う玉箒(たまぼうき)

何か不自然なこと、体が嫌がることをし続けると、赤信号として前述の症状がでて無視ができない。仕方がないから対処することになります。医者に診てもらうと二つに一つの選択。「栄養つけてゆっくり休んで治るまで無理しないように」、あるいは「注射しましょう。その後この薬を飲んで」となります。前者は時間がかかる方法。後者はすぐに仕事にもどらなければならない人用だと思います。私はどちらもしないことにしています。専門家は知っていますが、注射で風邪は治りません。症状が軽くなるだけです。でも治っていないのでまた薬が必要になり、副作用と言うおまけもついてきます。

風邪の原因のトップは「過食、偏食」で次が様々な生活習慣、精神的、肉体的疲労等だというのが太母さんの見解で、すぐに、「断食しなさい」となります。でもそこまでしなくとも少なくとも小食にして、胃腸をふくむ五臓六腑に休暇をあげるということにしています。この中でとても重要なのは、時間をかけるということだと思います。風邪をひくと引き始めから終わるまで大体一週間とちょっとかかると言われています。医者も人生経験豊かな年寄り達も皆そう言っていました。

さて、今日で4日目。くしゃみ、鼻水、鼻づまりは大分収まって、胃も調子よく、昼に食べたものがすぐに消化されました。ダウジングであと何日?と訊くとあと3日と言われました。「やっぱり7日間かかるのか、速くならないかな」と生来せっかちな私は訊きました。

答は「いいえ」でした。原因は食事会が続いて飲酒が過ぎたことのようで、ダウジングでしっかり出ました。一週間禁酒の決意。普通は当たり前なのでしょうが、私には決意。

ここには大切な教えが含まれていると思います。人生とはプロセスするということです。生まれてから死ぬまでの長くても100年くらい。生きるというプロセスです。経験を重ねて行きながら、悲喜こもごもの感情を味わいます。良いことばかりは続かないのは皆さまご経験済みと思います。嫌なこと、悲しいことは早く終わって欲しいというのが人情ですが、これもそうはなりません。

愛する人が亡くなったり、好きな人と別れたりすると、友達が大丈夫かと心配して訊いてくれます。それに対し英語では、「I’m prosessing今プロセス中なの」という答えが一般的です。一挙に哀悼や惜別の苦しみは解消しないので、それを味わいながらプロセスするという意味です。日本では「親の喪は13ケ月」と言います。一年ではちょっと足りないほどの喪失感だという経験的な言葉なのでしょう。私も三回家族を失い、やはり一年などでは悲嘆は消えませんでした。今でも思い出せは悲しいし、淋しいですが、痛みはもうあまりありません。三人目の家族の喪中では心肺機能が低下する程の打撃で、苦し紛れに色々とバカなことをしました。飲酒の増加です。これで心臓の不具合に加えて内臓の疲れが加わり年に3回くらい風邪をひきました。やれやれ。

このプロセスするということが出来ないと重大な精神的障害が出ます。PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)です。まず苦悩と悲嘆には向き合わないとプロセスは進みません。早く治って立ち直るうまい方法もあまりないようです。

人間という生き物には前頭葉があって、大きな海馬もあって、たくさんの記憶の蓄積が出来るので、その意義を追求したくなるやっかいな性癖を持っています。想像力がたくましいので、疑心暗鬼、不公平な扱いを受けている自分は神に見捨てられているのだなど、どうしても納得が行かない、気持ちの整理がつかない、ケジメがつかない気持ちが後を引きます。PTSDというのはケジメがつかないので先に進めない状態を言うそうです。「人生は絶対に辛い」という厳正なる事実と向き合うしかないのですから受け入れて対処するしかないということになります。

風邪をひいたことで色々考えて、「万病掃う玉箒」論の母を思い出しました。とても彼女らしい写真があったので、アップしました。

「バカの壁」を越えて見つけたこと

ミクロの決死圏―体の中を旅して見ました

人生は絶対に辛い

 

 

時間性能が全ての原因!驚きの見解

光透波理論を長年教えていらっしゃる八田光典さんが分かりやすく説明をして下さいました。PDFを添付します。
時間性能が何故原因なのか?

今年は丑です。 丑 → 二 + 刀 

二フ普を負っておられる刀(無上の力)こそウシ宇宙詞のことです。2021年からはTU(注。アルファベット20番目の文字はT、21はU)ツ通、通うと取れます。この丑という文字の意味に始めという意味があるそうです。またチュウと読むそうですから「中」と取ると内側であり、「宙」と取ると八行目の「ユ由」に「ウ」が加わると「宙」の字になります。(注。宙を分けると由とウになる)

「宙」から「ウ場」に至ると即「ユ由(誘、結、湧)」の大誘導が起こるのではないかと思います。

八田光典

 

2021年のご挨拶

2021年の干支は辛丑(カノト ウシ)

辛い(ツライ)と書いてカノトと読むのは不思議ですね。少し前に「人生は絶対に辛い」という記事を投稿しましたが、今年は辛い年になるのかなあ。いえいえ希望を持って「一」をプラスして幸せな丑になりたいですね。

一は絶対性をも意味しますが、具体的に私達に何が出来るかというと、国と国、宗教と宗教、人種や民族や理念の違いを乗り越えて、協調して、調和して、共存できるようにして行くという行動をとることではないかと思います。争いを止めるには心の中に巣くっているネガティブな思いをしっかり見つめて、消えてゆくのを見届けることだと思います。今年は「心の断捨離」に更に励んで行こうと思っております。

本年もよろしくお願いいたします。

続・気づきへの導き

この前の記事で体が教えてくれる気づきへの導きについて書きましたが、「視交叉」についてはお話ししませんでした。

これは続きでもあるし、違う観点からの考え方でもあるので、別の記事にしました。

悪循環という表現があります。ひとつ何かが悪くなると、次から次へと悪い事態が生じてくるということを経験していない人はないと思います。今回はこれを自分を例にとってお話しします。

私はコンピューターをほぼ毎日使います。一日2時間から数時間使います。その際にマウスとキーボード打ちをします。指と手首が疲れてこわ張ります。その疲れが肘に来ます。悪循環の始まりです。次に肘から肩に来ます。そして肩甲骨に来ます。肩甲骨の内側に膏肓というツボがありますが。これが深部の重要な部位につながっているのです。

「病膏肓に入る」という言葉がありますが、病がこの場所に入ると医者でも治療士でももう治すために打つ手がないという意味だそうです。どこか特定の内臓ではなく体の奥深い部分という意味だそうです。

さて、成人で肩こりという症状をお持ちでない人はあまりいないと思います。ひどくなければ柔軟体操や温灸、マッサージでほぐせますが、毎日の生活で肩が凝ることをしている人にはあまり効きません。焼け石に水です。

この膏肓の内「肓」は右側の肩甲骨の内側にありますが、ここを押すとひどく痛いです。ここから一体どこに影響があるのかを調べて行くと、三叉神経から眼へと繋がりました。そして「視交叉」と分かりました。これは文字通り「視る」対象が「交差」する場所です。私の場合ここが正常に働いていないことで眼精疲労もより悪化するそうです。そして「視野狭窄」の原因にもなっていると出ました。眼科検診で視野検査を受けると、視野が狭くなっていることから緑内障のリスクがあると言われ、それを理由に点眼薬を勧められます。まだ緑内障ではないし、眼圧もそれほど高くないし、視野も変化もしていないので、断っています。点眼薬を一年ほど使っていたのですが、変化がないのに嫌な気がして止めたのを、医師がなかなか納得してくれず、検査で悪い方へ変化があったら使うと約束させられました。何故嫌かというと、点眼後数分は眼を吸水性の高いもので押さえているようにと指示があったからです。これは点眼液が眼から鼻腔を経て喉に流れ込まないようにという意味です。つまり体内に流れ込んだら有害ということです。私が診ている限りの治療を受けている方々の多くが喉と消化器系の内臓のどこかの粘膜が糜爛しているという診断が出ているのですが、全員何らかの薬を服用しています。ダウジングで症状の原因を尋ねると、必ずと言って良いほど「薬害」が含まれます。

長々と回り道をしてすみません。本題に入ります。

視交叉の不具合は胃にも来ていました。三叉神経の不具合の原因ともなっていると出たからです。消化器系に影響を与える神経なので、膵臓の外分泌機能にも影響が出たということだそうです。ついでに骨も診てみました。頚椎に一か所、胸椎に一か所(これは胃の経絡でした)、腰椎に一か所ズレがあり、そこを治療しました。なんと腰痛の原因にもなっていたのです。

まさしく悪循環です。痛みに促されて、専門家に調べてもらって体の不具合のひとつだけを視て、そこを治すべく処置をしても体全体を視なければ根本的解消にはならないということが言いたいのです。ひとつ処置をしてもらっても痛みは他に出てきますので、また違う専門部門に行き、「たらい回し」が始まったら大変です。病院に通うことが主の生活になってしまいます。そしてどんどん薬の種類が増えて行きます。病や不具合の根本原因はいくつかあるでしょうが、非常に健康で、薬も全く飲んでいない健全な人がどういう生活スタイルをしているかを視て、自分が「大自然の法則にのっとった正しい道」からどれだけズレてしまっているかを理解して、できるかぎりの軌道修正をすることが賢い対処法だと思います。これを新しい薬の服用を始める前にやって欲しいです。処方薬は一度始めたら勝手には止めれません。そしてだんだんに増えて行く傾向にあります。薬害が他の症状を出してくるからです。体は「神の社―Temple」で身細胞は「大自然という智慧が創造した完全なる自治の完成体」だということを自然体で生きていた非常に健康な人から教えてもらったことがありました。

身細胞とお話しをして、細胞が嫌がることをしなかった人です。たとえば口に入れて舌が嫌がるものを食べないのはもちろんのこと、顔にも塗りませんし、髪を洗うのにも使いません。まず味わってみて使うかどうか決めるのですが、ほとんどの場合見ただけで分かるようでした。酸素が足りないと細胞が嫌がるので、風通しの良い服を着(当然化学繊維は着ません)、疲れたらゴロンと横になります。布団も要らないようで(毛穴からでる毒素を吸い込んだ布団は体が嫌がるそう)、毛布か布一枚を夏冬通してかけていました。味の濃いものは「元の食材の味が消えるから」と言って、大体は生か薄い塩味で食べていました。何かで味をつけて沢山食べると食べすぎが原因の病気になる、食べ物という大地の恵みを収奪することにもなるとのことでした。この人が「仏眼」を書きました。

その人が亡くなった命日の11月21日にこの記事の元になったメッセージが来ました。

2020.11.23記

 

 

 

 

 

気づきへの導き

11月20日の朝9:07分、右のコメカミに鋭い痛みが走った。電気的な感じの走り方で、「あ、電気→雷にL」と思い、メモしました。遠隔ヒーリングの時刻になっていたので、後で字分けすることにして、痛みの来た時刻もメモ。

他の人にはせっせとヒーリングしているのに、セルフヒーリングをさぼるので、今日はきちんとしようと思い、感覚を研ぎ澄ませて痛みの原因を探索。電気的刺激と感じたことから、

電を字分けすることから始めました。電を二つに分けると雷とL(開くという意味の形)になるので、神がなんと言っているのかを考えました。コメカミは米、そして神と当て、神経かと問うと、そうだと出ました。神経は、大自然の法則に即した正しい経/道と取れますので、何か道に外れたことをしていると言われたのだと解釈。それが体のどの部位に不具合が出ているのかを探ることで分かることが多いので、診断を始めました。

一番気になった箇所は胃の重さでしたので、その原因を調べたところ、真っ先に「迷走神経[i]」と出ました。「わあ~来た来た」と合点。米(コメ→光命)が走っている(シンニュウの意味)という意味の上に更に、走っているのは迷い走っていると重ねて教えてくださっているというご丁寧さで、無視できるはずもない。自律神経のバランスがとれていなくて、副交感神経の一部である迷走神経の機能不全で胃の消化不良が起きていると診断。

二番目に「食べ方」と出ました。これはすぐに思い当たりました。一緒に暮らしていた家族が亡くなってから家で独りで食事する時にゆっくり時間をかけて食べないことが多いからです。まるで仕事のように、さっさと片づけて次の仕事にかかろうとして、食べ物を味わい、美味しいなあと自然の恵みに感謝することもない食べ方になりがちでした。

次なる原因は膵臓の外分泌機能の不全。これも必要な消化酵素が出ていない為に消化不良のみならず、脂質異常や胃酸過多も起きていると出ました。

胃の診断が終わって、次に出たのは視神経でした。眼精疲労のみでなく、他も探したところ、またまた「来ました」。視交差の異状と三叉神経の不具合。

交差と三叉で二重に交差と示されたので、何が交差しているのかと考えると、「父と母と子である自分との三者の関わり」と答が来ました。三叉神経の不調には感情的要因が大きく関わっています。翌日は母の命日ですので母との関りで解消していない感情的なしこりを取る必要性を感じました。心の断捨離もこのところさぼっていましたので、「迷って走って」いたわけです。眼精疲労は常時ありますので、その治療もしました。多くの静脈の流れが悪く、未分解の老廃物が滞っているので、これを分解排出する治療をしました。肝臓さんに協力して頂く為に十分にねぎらい、黙って働き続けてくださっていることに感謝します。前回のセルフヒーリングで肝臓の門脈の不具合と総胆管の狭窄と言う、肝臓に必要な胆汁を補給する機能の不全を改善してあったので、肝臓さんは文句なく作業に協力してくれます。普段のお付き合いがいざという時の大きな頼みになるのは人間関係と同じ原理です。

米神から迷走神経、三叉神経と続けての「お告げ」でしたので、様々な気づきを頂けました。

こめかみを英語でTemple(寺、神の社)というのも面白いですね。米を噛むと動く筋肉のある場所というのが語源のようです。米はしっかり噛みましょう。

2020.11.21
母の命日の朝

[i] 12対ある脳神経の一つであり、第X脳神経とも呼ばれる。副交感神経の代表的な神経。複雑な走行を示し、頸部胸部内臓、さらには腹部内臓にまで分布する。脳神経中最大の分布領域を持ち、主として副交感神経繊維からなるが、交感神経とも拮抗し、声帯心臓胃腸消化腺の運動、分泌を支配する。多数に枝分れしてきわめて複雑な経路を示すのでこの名がある。

出典:ウィキペディア

 

雑草から学んだこと

一緒に暮らしていた家族が亡くなって約二年になります。亡くなる半年前くらいから庭仕事を少し手伝いうようになって、通算二年半、主に草取りをしました。

草を取りながら、その生命力に直に触れ、学んだことがあります。草は一応人間が「雑草」と分類したもので、きれいな花が咲く植物ではないものです。きれいな花が咲けば「園芸種」として販売され、珍重されます。それはさておき、雑草取りをしたことがある人ならすぐに分かることですが、「取っても取ってもすぐに又生えてくる」のです。とても良い環境とは思えないところにも生えるのです。もっと良い場所があるのに、踏み石の隙間の、狭くて、土の少ないところ、セメントの隙間などです。それを放っておくと石が持ち上がるほど大きく成長し、根がはって非常に取り除き難くなります。何という力強さでしょうか。

感心しながら根を残さないように気をつけてゆっくりと揺らしながら細かい根がつながっているものを抜くことに自己満足しながら、その反面、「何故こんなことをする必要があるのだろうか」とも思います。草は人間と共存できないのだろうか。考え出すと疑問は山のようにあることに気が付きます。

生態系全体の循環に関わる視点からなら、不要な草は無い筈ですが、「これが私の庭」という個人の所有地で、しかもあるガーデンデザインに沿って、要るもの、要らないものと分類すると、不要なものが雑草ということになります。人間社会はそうは行きませんよね。不要な人間は刑務所や精神病院、老人ホームなどに隔離しても、抜き取って捨ててしまうことはしません。ある意味では残酷なことかもしれません。自由を奪われて生きることを強制されているわけですから。草は自由に好きなところに生えます。それを私の勝手で、たい肥にして他の形で有効利用するなら草も役目を果たしているのだから抜き取っても良いと自分に言いながら抜きとります。

何故生え難いところにも生えるのか。「どこが良い場所、どこが悪い場所ということで決めていないのかもしれない」。要するに居心地だけで決めないらしい。では、何故か。一つには、居心地の悪いところを良い場所に変える結果を生むことです。自然界にとってセメントで固めた地面は異質な場所です。生命の育ち難い場所です。これを良い場所に変えるには、先ず生えることです。小さな草が根をはり、水を吸収し、土を集め、徐々に場所を広げ、石垣や舗装道路に亀裂を入れ、最後にそれらを崩し、ひっくり返し、粉みじんにして行きます。そうすると、あたり一面が草地になり、「居心地の良い」場に変わるのです。私の場合は「私の家」の敷地が崩れてしまうと困る事情があるので、対応策として雑草取りをしますが。

では誰がそれを指導指示しているのか。これは「自然」という文字を見ると分かります。

「自ずからに然らしめられている」という意味です。「そのような道理になっている」のに従って、大自然は運行しているのだと分かります。人間以外の生物の大多数、とりわけ植物と小さな生物である昆虫類や微生物には共通点があります。個体としてでなく、集団として共同作業をする点です。共同作業には全体を生かす為に常に個体が無料奉仕しています。個体は比較的には短命です。「生きているうちに成し遂げたいこと」などという時間的制限を持ちませんので、結果的には「倦まず弛まず」の作業ができます。何年かかろうと何十年かかろうとお構いなしに、次の世代が引き続き作業しますので、「人類滅亡後」何十年、何百年か経ると、地球上から人口の建造物は全部崩壊して無くなってしまいます。何千年も崩壊していないピラミッドやスフィンクスは人間が劣化を防ぐために補修をしているから保たれていますが、人間がいなくなればやはり、消えてしまいます。画像を見るとかなり劣化しているのが分かります。

草から学んだことは、当たり前のことが人間にとってはもはや当たり前でないことです。それは、

生物(人間もそうです)には自らの力で生きる能力が自然に備わっているという厳然たる事実です。これが多くの人間にはもうすでに当たり前ではなくなっているのです。自然から大きく離れた生活を始めてしまったからです。

何が自然で、何が不自然かという感覚の麻痺が起きてしまっていて、「あれ、何か変だ、怪しいぞ」と思わないで誰かに「これは良いものですよ」、「こうしないと死にますよ」などと押し付けられたり、脅かされたりすると言うなりになって、生殺与奪権を他者にゆずって、所謂「丸投げ」をして生きています。生きているとは言い難い状態ですが、ともかく脳死していないし、心臓が動いている限りは生きているとみなされます。でも自分で生きてはいないのです。

人としての役割は他の生物にはない能力を駆使して、大自然の営みを損なうことなくこの地上に生きる物全てと共存共栄し、更に他の生物には出来ないことを加えることで、天国のような美しい場所を作り、和気あいあいと交流して、互いの智慧を分かち合い、分かち合う喜びの音楽を奏でることだと思います。それを代弁している詩があり、初めてその歌を聴いた時に、私はそれに大きな感動と感銘を受けました。

 天のお舟に乗り込んで つま弾く指を携えて
 銀河に響くメロディーを 奏でるために旅立った
 時代は来世 人々は 琴に玉水はじかせて
 七色橋より滴り落ちる 光し羽衣、胸宿す
 忘れ去られて那由他 不可思議 幾年過ぎた
 物語を始めよう 再び始まる物語
 お伽話とみまごうほどの美しき
 天地をつなぐ物語 それはあなたの物語

余計かもしれない付け足し。

天界にいて光だったら体が無いので指は無い。つま弾けないとメロディーは銀河に響かせられない。琴(コト→言→光透)に玉水(玉のような音→母音・マントラ、美しい思いの響き)、虹のような美しい光の架け橋から舞い降りてくる光の羽衣を胸に宿す。羽衣は天に還る乗り物。この為に地上に降りて来たのに、人間として体を持ったが故に、すっかり奏でることを忘れて長い長い年月(那由多、不可思議は巨大数の単位)が経ってしまった。でも今からその物語を再び始めよう。

巨大数は面白いので抜粋して書いておきます。

一、十10、百102―――億108、兆1012、京1016―――那由他1060、不可思議1064

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

 

 

ハッチ 小さな守護天使 

以前他のホームページに掲載されたお話ですが、五話全部をここで一気読みできます。お閑な折にどうぞ。

第一話

わたしの名前はハッチです。
わたしは天使です。

 天使の世界には人間の世界のような時計がないので、いつ生れたのかよくわかりません。
 ともかく最初の記憶としては、ふと気がついたら前に大きな羽をつけた存在が立っていてその周りにいろいろな色の光がありました。光の中心はまた他の存在のようなのですが、形といえる形はありません。
 
 その大きな羽をつけた存在は大天使というらしくて、大天使は新しく生れた小さなわたしにいろいろなことを教える係りのようです。

 大天使は体長とほぼ同じ位の大きな長い羽を持っています。それにくらべて生れたての小さい天使の羽は手の平くらいの大きさしかありません。まあ飛ぶのに別に羽は必要ないのでいいのですが。

 すぐに何人かの大天使が各カリキュラムを但当して、わたしと他にも生れたてらしい小さな天使たちの教育が行われます。それぞれに名前もついていてだれがだれか判るようになっているようです。私はハチスケルというのが正式な名前なのですが、クラスメイトからはハッチと呼ばれるようになりました。なんかそんな名前の虫が地上というもうひとつの世界にいてわたしのようにやはり小さな体で小さな羽をつけているのだそうです。大天使はみな正式名で呼ばれていますが、小さい天使はたいてい愛称で呼ばれます。わたしと対照的に体長が長いチョウスケルというクラスメイトはチョウスケという愛称で呼ばれ、長短コンビでよく一緒に遊びました。

 天使の教育過程を終え、天使三原則を守る誓いを立て、今後の行動の指針となる天使マニュアルをもらってみなそれぞれの持ち場へと出発です。

 私は人間の守護をする係りとなって、見習い天使として先輩の天使の監督のもとに地上世界に新しく生れた人間付きになりました。

 地上世界というのは形のあるものがだいたいいつも同じ形を続けているところで、有るものがすぐに違う形になったり透明になったりするもうひとつの世界にくらべると随分混み合っている感じがします。

 初めて守護天使の仕事をする場合はマニュアルだけではこころもとないので監督をする天使がついてきます。まあそれで助かりました。なにせ失敗の連続で、監督がいなかったらどうなっていたかわかりません。人間の平均からいっても寿命が比較的短い人だったので終始監督がついていてくれました。

 初めての守護天使業を終えると上級教育過程を受けることになります。実地研修から学んだことをしっかり把握するためのいろいろな補習研修があり、その後シミュレーションを受けて、合格すると見習いから正守護天使となって、監督なしで派遣されることになります。

 短い休暇をとった後、わたしは今度は単身で、前回と同じ日本という国の、生れる直前の女という性別の方の人間が出てくることになっている病院という所につきます。人間は女性の方の胎内で単細胞から数十兆の細胞をもった成熟体を小さくしたような形態になるまで育てられてから胎外に出ます。

 胎内のその子は私を見てニッコリとした感じに輝きました。胎児の間と生れてからしばらくは人間は天使が見えるのです。天使はこういう時に同じように輝きます。人間でいうなら歓びという情緒です。

 無事に生れてきたその子には真理奈(マ・リ・ナ)という名前がつけられます。両親は相川(アイカワ)という苗字をもっているので相川真理奈です。

 戦争というのがあった前回と違って人間界は平和時らしく、真理奈さんの周囲の大人たちは比較的情緒的に穏やかに感じます。小さな真理奈さんはあまり病気もせず育っていきます。元気があって大きな声で泣くので周りの大人は右往左往させられています。二度目なのであまりマニュアルと首っ引きせずに見守りができます。

 守っている相手が幼い間はその兒の母親同様天使もけっこう忙しいものです。尖ったものを口に入れようとしたり、高い位置から落ちそうになったり、熱いものに触れようとしたり、狭い場所に無理矢理入り込んで出れなくなったり・・・

 天使は人間の親の方が気をつけていることについては手出しせず、どうしても危ない時で、しかもその兒が運命的に怪我をすることになっている条件が無い場合で学びのための体験の範疇でもない時に細小の関与で守護します。

 初めての研修の時はこれでよく失敗します。このままだとみすみす怪我をするとわかっているのでつい先走りして助けてしまうのです。それで視ている相手が自分で学ぶ機会を先送りにされ、結局また同じようなことをして今度はもっと深刻な怪我をするということになるとひどくつらい思いをすることになります。

 根が親切な性質を持っているうえに守護をする役割なのに手を出してはいけないことが沢山あるのでけっこうストレスがたまります。
 こういう時はストレスを解消するためにレクリエーションをします。レクリエーション施設に行くのには友だちのチョウスケをよく誘います。

 クラスメイトだったチョウスケは今のところ守護の仕事が無いので工場で働いています。工場のまん中には大きな炉があって、透き通った明るいグリーンの光が中にあって、そこから虹色の光が出ています。チョウスケたちは次々と手にもった金平糖のようなデコボコのかたまりをその光の炉に入れていきます。かたまりは溶けて下の溝から外に流れ出ていくようになっています。わたしたちはそれを涙の川と呼んでいます。

 金平糖のようなかたまりは「悲しみ」で出来ていて、人間の眼には見えないけれど天使にはよく見えます。あんまりあちこちにゴロゴロあると邪魔な上に、固まり同士がくっつくとどんどん大きくなっていっておまけに増えるのです。それで、あまり増え過ぎないうちに片付けるのも天使の仕事なのです。

 工場からチョウスケと一緒に遊びに出かけます。

 施設に着いてまず目に入るのは沢山の天使が大形テレビのようなビュースクリーンをのぞきこんでいる所です。スクリーンは9分割とか16分割画面になっていてリアルタイムで救助が必要な状況が映し出されています。だれかが救助に出ると決めたら画面番号に対応するボタンを押します。すると画面に処理中のサインが点滅し、処理が済むと新画面に変わるしかけになっています。

 葉っぱの先っぽまで行ってしまって戻れないかたつむりやひっくり返ってばたばたしているカメや日なたのアスファルトの上に出てしまってもと来た道がわからないミミズのような人間以外の生き物のケースが一番多いのはしかたのないなりゆきでしょう。人間の場合は自由選択で生まれるという前提条件があるので自由をさまたげないかたちで見守らなければならないから『救助オーケー』のケース数が比較的少なくなるわけです。

 一度に4件づつのパック救助セットを2つもこなしてようやくスッとしたので仕事に戻ります

真里奈

わたしの名前は相川真理奈です。小学校の五年生です。

 いつもの時刻に家を出て門のかげで少し待っていると雅彦さんが通るのが見えた。
少し間をおいて外に出ていって「おはよう」って言いながら追いついた。雅彦さんも「おはよう」って言っているのにどんどん追いこして走ってしまう。
学校の門のところでふり向いたけど彼はまだ見えない。

 『今日もまた走ってしまった。並んで話をしながら歩こうって昨日決めたのにダメな真理奈』

 門のところでぐずぐずしてると彼が角を曲がって現れた。典子ちゃんが並んでいて何か楽しそうに話しながら歩いてくる。胸がズキッと痛んだ。二人に見つからないうちに急いで校舎に入ってしまう。

 一時間目は苦手の算数だ。さっぱり解らないのにじっと座っているのは嫌だけど、でも彼を見ていればすぐ終わるみたいな気がする。

 雅彦さんは算数ができてかっこいい。先生も他の生徒が解らないといつも彼をあてる。そしていつも黒板のところへ行ってスラスラ答を書く。書いている時も落ち着いていて歩き方も姿勢がよくてかっこいい。算数だけでなくて他の科目もみんなできる。学級委員だし、背も高いし、おとなっぽくて、とにかくズバぬけている。

 わたしの成績は中の中くらい。雅彦さんはたいてい48人中の1、2番みたい。私もとても5番以内は無理としてもせめて10番以内にはなりたいと思うけどいつも20番がせいぜい。

 頭も悪いし典子ちゃんみたいに美人じゃないし、淳子ちゃんみたいにスポーツ万能でハキハキしててめちゃくちゃ明るくないしとても雅彦さんみたいに完璧な人にふさわしくはないと思っているのに夢は彼にボーイフレンドになってもらいたいということ。彼は典子ちゃんか淳子ちゃんのどっちかが好きなんじゃないかと思う。どっちかとよく話をしている。そのたんびに胸がズキッとなっていたたまれなくなる。そういう時はいつもなるべく見えないところへ行ってしまうことにしている。

「相川さん」

 アッと思って見上げると彼が私の机の前に立っていた。

「このポスターなんだけど、この辺とこの辺に絵を描いてもらえないかと思って」

 私は絵は得意だ。習字はいまひとつだけど絵はいつも貼り出しになる。雅彦さんに頼まれた。いつもと違う胸のドキドキ。嬉しくって顔がくずれないように奥歯をかみしめて引き受ける。

 午後は頼まれた絵のことで授業がどうなっていたのか覚えていない。放課後残って彼と二人でポスターをつくるのだ。ホームルームの後みんながぞろぞろ教室を出ていくのを待っている間も気分はウキウキ。でも典子ちゃんがいる。

 『もしかして・・・』

 そのもしかしてだった。ガッカリしたと同時に少し雅彦さんがうらめしかった。

 『何で典子ちゃんが?』

 典子ちゃんは何でか知っているらしく、生徒がみんないなくなるとテキパキ机を並べ変えて、作業場を作っていく。雅彦さんが手にいっぱい絵の道具を持って教室に入ってきた。

「あれ、池内さん一人で用意しちゃったの?ごめん」

 一人でって、私は何するか聞いてなかったから、それで手伝おうと思ったらもう出来てしまっていたんだもの。何だかやる気が急にしぼんでしまった。二人は作業中もとっても楽しそうに話しをしている。真理奈も何か言わなければと思うのに何を言っていいのかちっともアイデアが浮かばない。

 『典子ちゃんって大っ嫌い。』

 真理奈さんは少し悲しいことがあって泣きながら眠ってしまいました。胸が痛んでいるのです。そっと胸に光を当てていたのですが、まだまだ痛みは退きません。
天使はこういう時のためにちょっとした小道具も用意しています。

春の朝の森の匂いと若葉の柔らかい黄緑の光と野生の黄水仙の香りの混ぜ合わせ。

冬の朝の白梅の上の雪と花びらの匂い。

夏の海の潮の香りとバニラアイスクリームの香りをほんのちょっぴり。

秋の午後の草原のコスモスと枯れ草の黄金色の匂い。

 こういう香りと光を混ぜ合わせてそれを小さなビンに詰めてとっておくのです。そして眠っている真理奈さんののどのあたりでビンの栓をぬきます。

 その夜真理奈は夏の海岸で麦ワラ帽子をかぶってバニラアイスクリームを食べ食べお父さんと手をつないで歩いている夢を見ました。お父さんの大きな手の中で真理奈の手はこちょこちょ動いて手の平をくすぐりました。そうするとお父さんは『こらっ』と言って抱き上げてくれるのです。

 『お母さんが泣いている。』

 夜中にお手洗いに起きた真理奈は母がまた泣いているのを聞いてしまった。
去年両親が離婚してからお母さんは夜よく泣く。真理奈にはよくわからないがお父さんが会社の女の人とウワキをしてその女の人がお母さんに会いに来たらしい。お母さんはものすごいショックを受けて、おばあちゃんが止めるのもきかずに断固離婚してしまったのだ。

 「おまえは許すということができないのかい?」おばあちゃんがお母さんに言っているのを真理奈は茶の間の外で立ち聞きしてしまったことがある。お母さんはケッペキ性で困るともおばあちゃんは言っていた。真理奈はお父さんもお母さんも好きなのでどっちの味方も出来ないでどうすることもできずただ悲しくてたまらなかった。

 朝いつものように雅彦さんが家の前を通るのを待っていないで学校に出かける。

 『もう知らない。雅彦のバカ』

 プンプンして石ころけとばしながら歩いていると後ろからワッと背中を叩かれた。

 「何怒ってんの?」

典子ちゃんだった。ぎくっとして、
「ちょっと家で・・・」としどろもどろ。彼女に弱味は見せられない。典子ちゃんは妙に人の気持ちに敏感で気をつけないと心を読まれてしまう。

 「あれ、雅彦さんは?」

 「さあね」言いながら典子ちゃんは真理奈と並んで歩いている。「別に彼の番人じゃないもん」

 いいなあ典子ちゃんは。真理奈もそういうふうに余裕があるといいのに。典子ちゃんておとなだな。くやしいけどうらやましかった。

 今日は写生に行く日。担任の大泉先生は体育の先生で二組の担任の井上先生が図画の先生なので写生は二組一緒に行うことになっている。

 元気一杯の大泉先生はいつもの白いブラウスに紺のキュロットスカートで先頭を行く。のんびりやの井上先生はしんがり。土手に白いのや青いのや小さな花をつけた草の生えている小川沿いに小高い丘に向かってゾロゾロ歩いていく。

 めだたないように横目で彼を見ながら、典子ちゃんも淳子ちゃんも一緒じゃないのでホッとして歩く。
 並ぼうかな。どうしようか迷っているうちに目的地に着いてしまう。われながら優柔不断なのに嫌気がさす。優柔不断なんてことばを知っているのは本を読むのが好きなせいらしい。おばあちゃんはことば使いに厳格な人で真理奈が間違うといつもきちんと訂正する。お父さんもことばはきちんとしている。すごく教養のあるところをおばあちゃんが気に入ってお母さんとお見合いさせたそうだ。

 でもお父さんは学校の成績は優秀だったけど家のまわりの仕事はからきしだっておばあちゃんは言っていた。お父さんに大工仕事を頼むとああでもないこうでもないって半日考えてその割りに大した仕上がりでもないなんて言っているのを聞いたことがある。家ではおばあちゃんが一番強い。

 写生はとても楽しい。畑のすみに古い小屋があるところを入れて描いていく。小屋の木の色あいがとても良いねって井上先生がほめてくれた。あっという間に時間がたってしまう。描いている間は雅彦さんのことも忘れてしまっていた。

第二話

青空に白い雲が浮いている下で真理奈さんがシャセイというのをしています。白い紙の上に様々な色のつけられる道具を使って形を描いたりそれに色をつけたりして絵というのを造るのです。真理奈さんは絵を描いているときはうんと輝いていてそれに専念するので守護天使としてはのんびりできる時です。それで雲を材料にいろいろ好きな形をつくって 空に浮かべて遊ぶことにしました。

 海に住んでいるイルカを2 頭つくりそれより少し小さいのを1頭尻尾の方に浮かべます。イルカは泳ぐように流れながら形を今度は鷲の形に変えていきます。他の子供の守護天使たちもだいたいのんびりとそれぞれの遊びをしています。仕事中なので天使同士は必要ないかぎり接触はしません。みなそれぞれの相手を守護する責任を最優先にするからです。シャセイが終わって子供たちが道具を片付けてまた列をつくり歩き始めました。転んだり薮の鋭い草木で怪我をしないように子供が慎重に行動できるように見守りながら天使たちもついていきます。

今日は早く下校して夕食をつくる日だ。お母さんが働くようになってから平日の料理はおばあちゃんの係りになった。真理奈もよく手伝う。得意のタマゴカレーをつくることにした。おばあちゃんは真理奈の好きな蒸しパンを作っている。

 「お嫁に行ってから恥をかかないようにちゃんと家事ができなければいけない」っていうのが口癖のおばあちゃんの家事教育はけっこう厳しい。でも裏庭の菜園の手入れや掃除は真理奈がさぼっても大抵大目にみてくれる。

 カレーができて食卓に食器をならべるとお母さんが帰ってくるまでは自由時間だ。部屋にいって絵を描くことにした。イラスト集を入れる紙挟みから白いのを1 枚取り出す。紙挟みに入っている最近のイラストは雅彦さん入りが多い。真理奈はたいていウェデイングドレスを着ている。外国の雑誌や写真のきれいな庭や教会の切り抜きもとっておいてそれを参考に背景もきちんと描く。雅彦さんは白いモーニングも似合いそうだけど紋付と袴も似合いそう。でも真理奈が打ち掛けはいやなので今日の絵もやっぱりドレスにする。教会は小さいのにする。馬車は馬が難しいので省いた。花束のデザインを考えているとお母さんの呼ぶ声が聞こえてきたので階下に行く。食事時は家族がちゃんとそろってその日のできごとを話し合う大切な時間なのですぐに行かないといけないことになっている。

 『お母さん何だか元気がない』

 今日のカレーは我ながらうまくできたと思うのにお母さんはあんまり食べないし、おばあちゃんの話もよく聞いてないみたいだ。こういう時は早めに食事をすませておばあちゃんとお母さんを二人にすることにしている。お母さんが沈んでいると真理奈の胸も少し痛くなる。お父さんがいなくなってからよくこういうことがある。ごちそうさまを言ってからそっと自分の部屋に行く。

『お母さんが元気になりますように、それからおばあちゃんが元気で長生きしますように』ってお祈りしてから本を読むことにする。お願いが二つもあるので今日は雅彦さんのことを頼むのは遠慮した。雅彦さん関係のことを頼む時はおばあちゃんを省く。おばあちゃんは元気なのでよく省く。まだ読んでない本が一冊もなかったので前に読んだのでよく覚えてなさそうなのを探してふとんに入ってスタンドを点ける。

 真理奈さんの胸の辺の光がもやもやと少し不透明だったのが本を読んでいるうちに澄んできたので見張り番を小さい妖精に頼んでチョウスケのところに行きます。チョウスケがこの頃よく参加しているワークショップにつき合うことにします。チョウスケはどうやら守護天使ではない方面に行くことにしたらしいのですが、勉強は楽しいので進路は違ってもよく同じ会にでます。
 会場にはもう沢山の天使たちが来ています。羽の小さい見習い天使の列に連なります。天使には階級があって何層にもなっていますが、こういう勉強会に参加するのは見習い天使と平の天使です。たいてい大天使が教官を務めます。大天使たちはそのまた上層部の天使から指示を受けるのですが、わたしたちはめったに大天使より上層の天使と直接会うことはありません。

 テーマは暗くてよく見えない人間たちがよく聞こえない話を被守護者にしている場合に見聞きできるようになる方法と介入の限度についてです。暗くてよく見えない人間は天使には聞こえない話をよくするのですが、そういう話が被守護者に深い打撃を与える場合が多いのでその対策を学ぶのです。大天使級になるとどんな人間のことばも聞こえるようになっているそうですが小さい天使は嘘と呼ばれている人間のことばが全部聞こえるようになるためには訓練が必要なのです。なにしろ天使界にはそういうことばがないのですから。被守護者の成長を妨げるおそれのある介入は非常に慎重に行わなければならないので小さい天使の判断でできない場合はうんと上級の天使のそのまた上の方にお願いすることが勧められています。その方法というのも習います。何でもうんと上の方は人間の頭に電気を落としたりすることもあるらしいです。それは天使の役ではありません。

第三話

 図画の授業の後井上先生に残るように言われる。何かと思ったら、県の児童絵画コンクールに出品する気があるかどうかという話だった。これから描いたものでもいいし、既に描いてあったものでもいいという。後で決めることにした。

 放課後図書館で本を借りて帰る。帰ってから動物画の描き方を手本に馬を描いてみる。白馬に乗った雅彦さんが、木馬に乗った雅彦さんじゃ困る。動物を描くのは難しい。何頭も描いているうちに少しまともなのが描けた。百科事典の馬具の項から鞍や、足を乗せる器具の形を調べて、やっと彼がまともに馬に乗っている格好になった。かなり満足して、コンクールに出す絵の主題を何にしようか考えることにした。海の絵を描きたいと思った。お父さんと一緒に貝を拾ったり、アイスクリームを食べたりした海の絵だ。貝や浜辺に干してある魚とりの網も描こう。写生した海辺の風景を集めてあるのを出して見る。あまり上手でない。やっぱり写生に行かなければ。台所からお母さんが晩御飯を知らせる声が聞こえた。今日は元気のいい声だ。お母さんは機嫌がすぐ声に出る。元気な声だと私も気分が明るくなる。

 食卓にいつもより三品くらいおかずの皿が多い。杯も出ている。お客さんなのか。女所帯になってからお客さんが食事に来ることはめったになくなった。お父さんが居たころはよくお客さんが来て、おばあちゃんとお母さんはてんてこ舞いでご馳走を作ったものだ。私はお父さん用に別に作ってあったお酒の肴がどれも大抵大好きで、うらやましそうに見ていると、お父さんは「真理奈も食べるか?」と言って小さなお皿に少し分けてくれものだ。「この子は酒飲みになりそうだ」と言うのがお父さんの口癖だった。

 今日のお客さんはお母さんの弟だった。叔父さんはまだ独身で出版社に勤めている。本が大好きで、それが嵩じて出版社に勤めることになったらしい。真理奈の誕生日にはよく本を贈ってくれる。家ではとても買えないような立派な本で、百科全書も叔父さんのプレゼントだ。叔父さんは「注ぎ上手」なのだそうで、お母さんも何倍もおかわりしてお酒を飲んで、楽しそうに叔父さんの話を聞いている。叔父さんは物知りで話もとても面白い。お父さんとも仲が良かった。わいわい話をしながら食事をしていると楽しかった頃のことを思い出す。何故お父さんは出て行ってしまったのだろう?

 真理奈さんの家族がそろって、食物が乗った台を囲んでいる部屋全体は明るい黄色い光に満ちています。どの人もやはり輝いています。こういう時人間は楽しい幸せな気持ちを経験しているのだそうです。私たち天使もこういう光に包まれた人間を見るとやはり嬉しくて光が強く輝くのです。人間が沢山集まっている地域を全体的に見ると、このような光の強く輝いている部分と暗く翳った部分とがまだらになっています。球体のこの星全体を見ても、やはりまだらに光と影が交錯しています。影の部分からは金平糖のようにでこぼこした塊が沢山出てきます。例の、チョウスケが臨時に働いていた工場の緑色の光の炉で溶かすと涙になるものです。真理奈さんが輝いているので横目で見ているだけにして、チョウスケと声だけで話をします。チョウスケは今大天使ミカエルの助手になるべく見習中です。なんでも今世紀の後半はミカエルの仕事の分担が非常に多くなるために、その助手を多数養成する必要があるらしいのです。

 真理奈さんは今日は楽しそうな顔で眠っています。胸の辺りが一際強く虹色に輝いています。私もすっかりリラックスしてしまい、なんだか音楽を奏でたくなりました。好みの小さなハープをひとつ注文し、ついでに楽譜も頼みました。即興も楽しいですが、時にはクラシックを弾きたくなることもあります。腕の中にハープが現れ、目の前の空中に五本の線が出てきました。お玉じゃくしがダンスしながら行列で出てきてその五本線を通り抜けていきます。お玉じゃくしに沿って奏でていきますと、音は金色の珠の形になってはまたすぐに砕けて、細かな光の粒になって消えていきます。珠は様々な色の光を放って踊るように渦巻き流れていきます。音楽と共に様々な光の渦巻く模様が現出し、一時も停止することなくその形を変えていきます。音の描く光の絵を観ながら演奏していると他の天使が加わってきます。今日は始めに二種類の笛の音が、それからシンバルが加わりました。ジャムセッションは夜明け近くまで続き、終わり頃には楽器が十数種類にもなっていました。リラックスしている天使が多い日なのでしょう。

第四話

 体操の時間はドッジボール。こういう時は淳子ちゃんが断然かっこいい。真理奈はのろまなのでよくボールの直撃をくらう。今日は調子よくてうまくとれたので友子ちゃんにぶつける。友子ちゃんはお雛さまってあだ名がついている。何もかもが小さいからだ。小さい卵形の顔に小さい手、ぽっちゃりした手の甲にエクボがあるのがうらやましい。真理奈の手は大きくてゴツゴツしていて男みたいで好きじゃない。

 友子ちゃんがお腹を抱えてうずくまってしまった。ボールが命中してしまったのだ。真理奈のバカ力のボールをかわしそこねたのだ。みんなが友子ちゃんに駆けよる。大泉先生がまん中にいた。ひざをついて友子ちゃんの脇に手を入れて抱えるようにして校舎に向かって歩いていく。友子ちゃんは顔色がまっ蒼だった。小さくて華奢な体なのでよけい痛々しい感じがする。真理奈もおろおろしてついていく。保健室の前で先生はみんなに「もういいから校庭に戻りなさい。堀内さん監督になってドッジボール続けて」と言ってから真理奈の顔を見て、「よかったら一緒に入って」と言ってくれた。

 早くあやまりたかったけれど、友子ちゃんがあんまり苦しそうでそれどころではないみたいなので、なるべく他の人の邪魔にならないように部屋のすみっこで小さくなっていた。胸がドキドキして頭の中で『どうしよう、どうしよう』って言っている自分の声がコダマしている。

 真理奈さんが緊急に援護を要する事態になっています。人間は自分がしたことが原因で他者に被害が及ぶと、後悔とか罪悪感と呼ばれている強い感情的反応をする場合がよくあります。こういう時によく起きる現象として、通常は身体全体を包んでいる光の繭(まゆ)が一部破れて、そこに黒い影のような光と反対の物が侵入し始めるのです。守護天使の役目はその繭の破れ目を光の絆創膏でふさぐことです。一箇所ふさいでもすぐに他の場所に穴が開くようなことが多く、真理奈さんを包んでいる繭も何度もふさぎました。次々に穴が開かないようにするためには胸の中心辺にグリーンないし金色の光を照射しながら作業します。

 やっと友子ちゃんの顔色が少し良くなって縮こまっていた体が伸びて仰向けに寝たので近くに寄って、「ごめんね」とあやまると、友子ちゃんが「ボールのせいじゃないの」って養護の先生の顔を見た。「そういう時は体操休んでもいいのよ」って言っているので解った。「じゃあここで気分がよくなるまで寝んでいらっしゃい」と大泉先生は立ち上がり、真理奈と校庭にもどる。やっとホッとしたけれどドッジボールする気にはなれない。体育の時間が終わって着替えをして教室に入っていくと先に教室に帰っていた生徒たちが友子ちゃんのことを話していた。男子生徒も友子ちゃんのことを聞いたらしくて中の一人が、「真理奈、気にすんなよ」って言ってくれた。

 友成(ともなり)健一君という子で家が近所なのでお母さん同士もつき合いがある。三年生の時に転校してきた健一君にまだ友達がいないので真理奈に友達になって欲しいと言ってお母さんに家に招待されたのが始まりで、健一君は時々家に遊びに来る。男子生徒は一人であまり女子の家に来たりしないものなのに健一君は平気で来る。それからこっちはそう思っていないのに向こうは勝手にこっちを友達第一号と思っているらしく、他の男子みたいに相川さんって呼ばないで気安そうに真理奈って呼ぶので困る。雅彦さんに健一君と一番仲良しだと誤解されたくない。でも健一君は一緒にいても緊張しないから時々遊んでいて楽しいと思うこともある。凧揚げや木登りや栗拾いに誘ってくれるとつい行ってしまう。

 ホームルームの時間に友子ちゃんが戻ってきた。先生が帰りにだれか送っていってあげて下さいと言うと真理奈より速く淳子ちゃんが手をあげてしまった。友子ちゃんの席に淳子ちゃんが行くと雅彦さんもサッとそこに行って、「荷物は僕が持つよ」とさっさとカバンや体操着や運動靴の入った袋を持ってしまう。真理奈の出る幕がない感じになっている。三人が行ってしまうのをぼーっとして立って見ていると、「真理奈ちゃん帰ろ」と典子ちゃんが背中にポンと手を当てて言った。どうしてか解らないけれど涙が出そうになった。

 帰る道で、真理奈が黙りこくって歩いていると、「友子ちゃんのことまだ気にしてるの?」って典子ちゃんが聞く。

 「えっ。ううん。あ~っと、うん。私が送って行きたかったのに。だって...」と、何て言っていいか解らないのでもごもご言っていると、典子ちゃんは下を向いたままで、

 「あのね。秘密教えてあげようか」って言う。

 「何?どんな秘密?」

 典子ちゃんは立ち止まって真理奈の顔を見て、「絶対に秘密よ。指切りよ」って言うので、指切りゲンマンする。典子ちゃんは顔を近寄せてきて耳元で小さな声で言った。

 「あのネ。田村(雅彦)君はネ。友子ちゃんが好きなのよ」

 「嘘!そんな。淳子ちゃんじゃないの。どうして知ってるの。違うでしょ。淳子ちゃんでも典子ちゃんでもないの?」

 ビックリ仰天してそう言いながら、真理奈もだんだん気がついてきた。そうかもしれない。いろいろと思い当たることがある。友子ちゃんがあんまり目立たない子なので、そういう様子を見ていてもつながらなかったのだ。そうか、そうだったのか。でもどうして? 今まではライバル意識を持っていた淳子ちゃんや、典子ちゃんが急に遠ざかって、代わりに背景にいたボッチみたいに小さい友子ちゃんがクローズアップされてきた。でも納得がいかない。クローズアップされてもやっぱりどこといって取り得のない友子ちゃんのイメージは変わらないからだ。何でなのだ。淳子ちゃんなら諦めがつくのに。友子ちゃんなんて、とすごく口惜しかった。

 真理奈さんの周囲の光が縞模様に渦巻いています。こういう時人間は重要な試練や苦悩に直面しているのですが、天使はすぐには介入できないのです。縞模様の渦が非常に激しく、しかも長期に渡っている場合で光の繭が大きく破れて修繕が間に合わないほどになる危険性がある際には最小限度での介入が許されています。この場合はそれほどではないので、ただ注意して見守るだけにしています。前回はこういう際に早期に介入し過ぎて監督に注意されました。

 学校から帰ってすぐに部屋に行って戸を閉めてしまう。何かに当たり散らしたい気分の時はおばあちゃんに会いたくない。 「やだ、やだ、やだあ。やだやだやだやだ」とおばあちゃんに聞こえないように小さい声で言いながら、ゲンコでクッションを叩いて足をバタバタ座布団に打ちつけた。しばらくして疲れてしまったので泣くことにした。階下へ夕食の手伝いに行くまであと一時間以上あるので四十分位泣いて、それから冷たい水で顔を冷やせばバレないと思う。天井を見ながら友子ちゃんの荷物を持った雅彦さんの姿を思い浮かべていたら涙がじわ~っと出てきた。目覚ましは四十分後にセットしてあるので大丈夫だ。

 真理奈さんの周囲の縞模様が消えたので、光の繭についた幾つかの小さな傷を野生の水仙の香りのする琥珀色をした光の薄布でふんわりと撫でます。小さな傷はすぐに消えましたが、繭全体光が弱々しいので薄布を掛けたままにしておきます。真理奈さんは眠ってしまいました。

第五話

 目覚ましの音でビックリして目が覚めた。朝かと思ったらまだ夕方だ。さっき泣いている間に眠ってしまったのだった。洗面所の鏡で顔を見たらそんなに赤くなっていない。ともかく顔を洗って台所へ行く。おばあちゃんが鍋の中のソースをかき回しているので、交替する。弱火で焦げつかないように煮詰めるような仕事は真理奈の役目だ。退屈なので片手に本を持って読みながらかき回してもいいと思うのに、おばあちゃんは不味くなるから駄目だと言う。食べるものはのの様のお恵みだから大事に感謝して扱わなければバチが当たる。本を読みながら片手間に扱っては失礼だと言うのだ。おばあちゃんは神さまのことをのの様と言う。ご飯粒一つでも捨てたら恐い目をして怒る。でも真理奈が嫌いな食べ物を残しても怒らないで自分で食べてくれ、代わりに好物をくれる。

 夕食後図書館で借りてきた本を読むことにした。アンデルセンの童話集で前に読んだのと違い、絵がほとんどない高学年向きの本だ。字が小さくてぎっしりいっぱいの本は読みでがあって好きだ。目次を見ると十二話収録されている。一話目の「みにくいあひるの子」を読む。次は「マッチ売りの少女」だが、前に絵本で読んだ時この話があんまりかわいそうで辛かったので読みとばすことにする。次の人魚姫の話もかわいそうだった記憶があるがよく憶えていないので読み始める。

 子供だったころから大分年月が過ぎて、もうお忘れになった人もあるでしょうから人魚姫のお話をかいつまんで申しますと、こういう内容です。

海の底にある王国の王様には六人のお姫様があって、そのうち六番目の姫はとりわけ聡明で、またこの上なく美しい声で歌をうたうことができました。姫たちはそれぞれ年が一歳ずつ離れていて、十五歳になると海の上に出ることが許されていました。姉たちが次々に海の上に出て帰ってきては異国の美しい風物の話をしてくれるのを聞いてはその日を待ち焦がれていた末の姫もとうとう十五歳になり、海の上に出てみると、船がいてその上にとても美しい若者がいました。ところが急に嵐になり、船が難破してしまいます。美しい若者は波に飲まれて溺れてしまいます。人魚姫は気を失っている若者を抱いて浜辺まで泳いでいき、そこに横たわらせると岩陰に隠れて見ています。浜辺に数人の娘が出て来て、そのうちでもとりわけ美しい若い娘が若者を見つけます。目を覚ました若者が最初に見たのは人魚姫ではなく、その娘だったのです。

 その若者が忘れられない姫はついに魔女の洞窟に行って、美しい声と引き換えに二本の脚をもらいます。一足歩く毎にナイフを突き刺されるほど痛い上、声もない人魚姫は若者、実は王子様だったのですが、その宮殿の浜辺で発見されて王子の傍近くで仕えることになります。王子は姫を妹のように可愛がってくれたのですが、恋をしていたのは浜辺で倒れていた時に命を助けてくれたと思っている美しい人間の娘だったのです。王子と結婚できれば人魚姫は本当の人間になることができるのです。でも行方も判らないその娘と結婚できない限りは独身でいると王子が言いますので、その間は人魚姫も傍いられます。王子が他の娘と結婚しない限り人魚姫は生きていられるのです。人魚姫は声がないので、海で王子を助けたのはその娘ではなく自分だと言うことができないのです。そのうちに王子は隣国の姫がその娘だったことを知ります。

 二人の婚礼の前夜、まだ陽が昇らないうちに王子の胸をナイフで刺して、その血を脚につけないと、人魚の姫は海の泡となって消え去ってしまうのです。人魚は人間と違って魂がないので、死んだら何も残らず、神様の御許に行くことすらできないのです。どうしても王子を殺すことができなかった人魚姫はせっかく五人の姉姫たちが美しい髪と引き換えに魔女からもらったナイフを海に捨ててしまい、夜明けの光とともに溶けた体が空気の泡となって、空に上っていきます。


 真理奈は読んでいる中においおいと泣いてしまいました。人魚姫がかわいそうだったからではありません。友子ちゃんに腹を立てて怒っていた自分の醜さが悲しくて、恥ずかしくて泣いてしまったのです。真理奈はもう決して今日の午後のように誰かを嫉んだり憎んだりするのはやめようと思いました。そして人魚姫のように、自分が泡のように消えてしまってもいいから愛する人の幸福を先に思うことができるような人になれるように努力しようと思いました。今すぐには無理だとしても。

 今日は真理奈さんにとってとても有意義な日でした。ひとりひとりの人間の一生という流れの作る円環には節目のような場所があって、そこでは事件が多発するのです。節目においての守護天使の役目は重大です。保護し過ぎては学習と成長の妨げになりますし、後々まで残る非常に深い傷になるような裂け目の修繕が上手くいかないとその人間の一生という円環の形全体がいびつになってしまうのです。円環の形がいびつになってしまうと、節目節目での学習がバランス良く行われず、ある方向にばかり偏ってしまいます。こういうゆがみがあまりにひどいとその人間は円環自体を壊してしまおうとしたりします。自分で自分を殺してしまうのです。いきなり崖から飛び降りて短期間に壊してしまう場合や、肉体の健全さを損なうようなことばかりして病気になって早死にしたりと、方法はいろいろあります。時には守護天使はそれを見ていなければなりません。円環が壊れるのを何もしないで見ていなければならない天使の多くはとても深い衝撃を受けます。天使には涙腺がないので涙を流して泣くことができませんが、それはそれは悲しい経験で、人間のように涙腺があったらさぞさめざめと泣くだろうと思います。

あとがき

 ずいぶん昔に「静流の部屋」というホームページに書いたものなのですが、あまり気負っていない文も気楽で良いかと思い、ブログに掲載することにしました。イラストは当時ホームページを作成してくださっていた鈴木敦子さんという方が自分で描いて挿入してくださっていて、素敵なので入れたままにしておきました。  
 今のこの混乱と天災続きの時世で読み返すと、のんびりした時代だったのだなあと思います。

2020.9.22
あれからかれこれ二十年も歳とった静流