人新世の「資本論」を読んで

長年に渡り、地球の代弁者を自称している母親(霊鷲太母)の哀しみを見ながらどうしてよいか、私に何が出来るのかと悩みました。悩みから逃れる為の様々な逃避行為もしてきました。

光透波理論を読んでもそれだけで、私にとっては具体的に何をしたら良いのか明らかな答えは出ませんでした。理論に不備があるのではなく、自分の理解力の浅さと実践の足りなさが原因です。どのくらい浅いかということについは後程説明します。ここで言う実践とは「理解への鍵となる字分け」のことを指します。

人間という思考力を頂いて生み出されてきた私達が「理解していれば」それが宇宙という「場」全体に影響を与えるということ、つまり「人という、言葉を操り考える能力を与えられた存在としての責務を理解して行くという行動」で人類社会が招いた数々の災害と残虐行為等は糺されて行くのか?現在の地球の状況を見ていると「果たして間に合うのか?」という疑問と焦燥です。

実は糺されて行くのですが、それにはもっともっと多くの人が理解し、真の宇宙とはどういうものなのかを理解して行くことが必要なのです。「変化を現象させるうねり」を起こすに足る人数です。

小田野早秧先生を始め、アナスタシアによる貴重な教え、霊鷲太母が遺していってくれた「舟を岸につなぎなさい」と「仏眼」、これらは自分にとっては貴重であり、個人的には「心の断捨離」もほぼ終了することが出来ました。でもまだ足りないものがたくさんあるのです。

宇宙の、いや真空の、無というゼロの「場」の構造と働きを理解するには追及が足りなかったのです。今小田野先生の理論を学んだ人々でさえ地球環境の酷さの影響を受け、肉体的に弱っています。縁あって治療をさせて頂きながら、そこで又学ばせられました。理解を深めて行くのには「命の本質」を突き止めて行かなければならないと、病に指摘されているのです。今全世界の人々の大多数が「病気」です。厳しい指摘を受けているわけです。人は「気息奄々」にならないと行動を改めることをしない癖があります。

突き付けられた課題はとてつもなく大きなものです。人類全体の「気づきとそれによって可能となるあらゆる生物に対する愛他心の確立」です。あえて「開眼」あるいは「悟り」、はたまた「アセンション」とは言いません。そんな謂わば、「絵にかいた餅」を追い求めて苦闘することは必要かどうかさえ分かりません。また効果的なのかどうかも分かりません。何故ならそれを実現した人の数の少なさです。私としては「開眼云々」という状態は行動の結果であって、それが起きるか起きないかは自分で決められることではないのだと解しています。今まで見えなかったもの、明らかでなかったものを理解するには踏まなければならない道程というものがあります。カンニングは利かないのです。道理を理解することなく、何か奇跡的な「開眼」という結果を得ようとしてもそれは起きないということは既に見て来ています。

要は、「自我の消滅」を目的(本末転倒です)としないで、「自我意識」を持ったままで、それでもなおかつ具体的に何をすれば良いか、何が必要か、何が必要かということを明確にした指針があればそれを伝えて行くという仕事の一端は担えます。自分に授けられた範囲での才能を無駄にすることなく活用することで。

その答の一つ、いやもっと幾つかありますが、それを明確に、分かりやすい表現で示してくださっている本に最近出会いました。

斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』です。現在の、いやもっと昔から続けられてきたのですが、資本主義という経済機構が必然的にもたらす地球全体にわたる「気候変動」の危機に大きな焦点が当てられています。今、気候変動を否定する人はいないでしょう。実際に誰もが被害を受けているからです。夏に冷房が無くていられますか?自分でなくとも知っている人達が洪水や台風の被害にあっていませんか?干ばつと洪水と農地の汚染よる農作物の減少で、新鮮で美味しい食品の入手に苦労していませんか?他にも貧富の差による圧倒的大多数の人達の極度の貧困と飢えや、過労死するほど働いても楽にならない生活を目の当たりにしていませんか?

アナスタシアの言うところの「人類滅亡につながるテクノクラートの世界」、『舟を岸につなぎなさい』で16の議題として提示されている、いくつかもここに挙げておきたいと思います。議題に対する答えがこの本にあるからです。以下の三項目です。

一 文明が大車輪で発展すれば、災害も大車輪で大発展することに目を留めなさい。なぜか?

九 人類の苦しみの第一因は、要不要の算定を無視した物品乱造であり、悩みの最大因は、乱造せざるを得ない経済機構にある。ということについてと、その重苦から脱する方法について

十 物品乱造の結果、乱費となり、これが人類と他の万物との関係をどのようにしているかについて

この本に全ての答がある訳ではありません。経済学的見地に立って、理解すると、それだけでも地球蘇生の一端を担う一員となるかもしれません。斎藤さんは3.5%効果と呼んでいます。人類の3.5%が「そうか、そうか、そうなんだ」と分かったら、「起こってくる変化がある」のだと言っていらっしゃいますが、私もその意味が他のいくつかの教えと照らし合わせて納得できます。

後は光透波理論で示されている命の本質に対する理解を深めて行くという行動が、それを理解できる日本人と日本語を使って生きている人々に課せられている責務だとお伝えしたいと思います。人類の何パーセントかは分かりませんが、日本人の何パーセントかは理解しないと「変化のうねり」は起きないと思っています。光透波理論を学んでいない人たちにとっては斎藤さんの本が背中をどんと押してくださっていると思い、感謝しています。

以下は字分けです。

2021年8月に三人の知人が病気になりました。

人が肉体を持たされて(個として)生み出されて来た(子)此処(茲)、現世という「場」は肉体があるが故に、生きる為に戦い、切磋琢磨し、しかし反対に家族を持って愛と友愛を味わい、学んでは理解し、更なる試練や不都合を乗越える為に知恵を絞って行く、そういうところです。真言は少なく虚言の多い人類社会で、個人として孤独に耐えながら、あまりの辛さに愛を求め、騙され、利用され、「何故生まれて来たのだろう?」と悩み苦しみます。命の實親である宇宙親の元にUターンするには此処(茲HEREヒヤ日/時 也)という場にいる間に学ばなければ、親の意図が成就しません。叡智にもいろいろありますが、宇宙親の叡智は全知であって、普く負っている、つまり欠損欠落のない叡智です。でも誰もがあらゆる答を得ることはできないのです。降りて来た「場」の規制と限界内で生きる過程で突き付けられた難問の「答」を得るために「問う」ということをすることが課題なのです。「問えば答は頂ける」のはいつもいつものことで、体験ずみです。でも頂ける答もどれほどの名答かというのはその人の理解力に制限されてしまいます。練習、鍛錬を積むことで限界は広がりますが、それでも終わりなき道ではあります。何故なら、至高の答(T)の透明度、明快度はあまりにも深く、自我意識を抱えて生きている人の理解がはるかに及びません。それぞれの限界内で理解できる範囲の答です。これを積み重ねて行くのが、8方向にリカヒ(理解)のヒカリ(光)、即ち波紋のように拡散して行く知恵(波智)、を放って行く影響力の大きさに正比例して行くと捉えています。

命の場でどれだけ「イノチ意能智」というものの本質を理解しているかが命の健康度に響いて行くのではないかと思います。病は「愛の鞭」です。「無知で真の叡智という愛」は受けられません、実は受けているのですが、それに気づけないのです。無知とは知識が無いという意味ではなく、不断に平等に与えられている叡智を拒絶している状態を言います。壁を作ってしまっている状態の人のことを指します。以前書いた記事の中の表現ですが、「バカの壁」です。全ての現象体は人間も含め動植物も平等に親の愛を受けています。ただ人間はそれを認識できないのです。たまに認識しても、「自分は賢い、人より優れている」と自負した途端に真の叡智との間に壁が出来てしまうのです。

これは自分でも毎日確認して戒めにしてゆくつもりです。

2021.08.20

最後の断捨離

今年4月24日にお寺を訪ねて来られた方がありました。事前に音楽を演奏して仏前に捧げたい旨許可を求めてからの来訪でした。

頂いた名刺に「雅楽士」とありましたので、雅楽の音楽を好んだ母の顔が思い浮かびました。母がよく唄っていたのは「越天楽」でした。

さて、仏前で手を合わせ、今日は「献笛」をして良いかと許可を求め、笛を吹く前に「散華」をして一礼。床に座って笛を吹きだしました。ちなみに「竜笛」という楽器です。

最初の壱越調(イチコツチョウ)という曲を聴いている時に耳の中で小骨と鼓膜が振動しているのが感じ取られました。一緒に振動しているうちに、高音部の聞き取り範囲が広がって行く感覚があり、次に低音部の聞き取り範囲が広がって行く感覚がありました。

「可聴範囲がひろがっていますか?」と内なる叡智に訊きますと、「はい」でした。単に聞き取りが良くなっているだけでなく、鼓膜の汚れがふるい落とされて行く感じがしました。以前左の鼓膜にポリープが出来ていて、右も汚れが酷いと医師に言われて、セルフヒーリングをしたことがあり、状態は改善していたのですが、まだ完全にきれいになっていないことは感じていました。

高齢になって軽い難聴になっていたのがかなり改善されてはいたのですが、それでも半年前の聴力検査では50代の女性の平均程度でしたので、音響機器の音量は若い人用より多分大分大きくなっていると思います。

次の曲になって、こんどは胃腸が整って行く感覚がありました。消化器系全体が元気になって行く感覚がありました。「胃重」気味だったのが、すっきりして行く感覚です。体が喜んでいるのも感じ取られました。

次はどこの機能が亢進されるのだろうと、欲張りな私は期待でいっぱい。

少し休憩した後、
3曲目で心臓が楽になりました。

次の4曲目には脳細胞の活性化が進んでいるのが分かりましたが、この時です。

脳の上部、頭頂葉の真ん中あたりに「小豆粒大の膠のような塊」があるのがイメージでくっきりと浮かび、それが融けて行くイメージが見えました。自分が固執しているものを溶かして行くために何年も「心の断捨離」を続けて来たのにまだ残っているのは分かっていました。

どうしても許せない人がいる。許せたと思っても何かのきっかけがあるとその人の顔が浮かび、むらむらと怒りが湧いてくるのです。その怒りを見つめては消えてゆくのを見ている作業を続けてきました。他の人が同じような目にあっているのを見ると、それが現実でなく芝居の中であっても腹が立つのです。

ところが、その人の名前が思い出せないのです。顔もぼんやりしています。そして、
何の感情も湧きおこらないのです。
ふと、これが最後の断捨離だと思いました。万歳です。

次の曲はその名も五常楽級(ゴショウラク)でした。その名のように五感もすべて楽しく、楽であるのが平常心となっているのが理想でした。見る物は皆美しいい、食べるものは美味。聞くものも楽しい。母、太母の「天地人清浄のうた」の意味が体感出来ました。全身の細胞が喜びに振るえて、活性化して行くのが分かりました。音楽と共に振動してうっ滞が融けて流れて消えて行く感覚でした。

そして「越天楽」となりました。感謝と喜びで涙がいっぱい。嬉しそうな母の顔が見えています。この喜びが「十方無限世界」に響き渡るのだと言う母の言葉も思い浮かびました。次の曲の間もずっと、母の声で聞こえていたのが、

捨てなさい、捨てなさい、捨てて、捨てて、捨てたことも忘れてしまいなさい

そして、聞こえました。

“Don’t worry!” 初め英語で来た。
心配ない
何も心配することはない
幸せでいるだけでいい
よかったのう、静流
人類が開眼するのは急転直下。もうじきじゃ。

でした。今は痛いほどその心が分かります。これが地球蘇生の鍵です。人が理解し、納得し、あらゆる固執を離れ、喜びに満ちて、淡々と生きていることが一番の浄化なのだと今私は確信しています。誰かが悪い、許せないという思いが重い心となって、怒りが錨のように心を沈めて喜びを感じられなくしているのです。

『仏眼』の言葉です。

 

2021.05.28

 

 

 

 

日本人は死なない、死ねない

この一年半ほどでコロナウイルスによる脅威とその感染予防対策で世界中で大きな変化と混乱が起きています。ですが、これをどうこう言う為にこの文を書いている訳ではありません。本題に入る前に一年余りで出た統計についてお話ししたいと思います。

先ず、国別の感染者数と死亡者数がまとめてありますので、これを見てみましょう。統計はデータをどうとったかで結果が違ってくるものですから、大体の数値です。アメリカの友人たちに聞いたところでは、全米で半強制的に検査をさせられたそうです。症状が出ていようといまいと検査をしないと移動ができません。他の町や、州に行けない、レストランに入れてもらえないので、仕方ないのです。欧米諸国も大体同様です。それで、感染者数がかなり多くあると分かったわけです。あまり検査を徹底していない国では当然数値は低くなります。それも踏まえてのお話しになります。

多少の不整合性や検査法のバラツキがあっても全体的に見て、日本人は感染者数も少なく、死亡者数も非常に少ない。下のチャートを見ると、100万人あたりの死亡者率では世界で16位となっている。いわゆる欧米諸国がダントツに多く、アジア、オセアニアは少ない。

 

日本人感染者と死亡者が少ないのが何故かは分からないので、「ファクターX」と呼んでいる学者もいますが、そこにリストしていないファクターがあると私は思っています。

それが、毎日私達が使っている言語にも関係していると思うのです。

日本人は小数民族ではないのですが世界でもユニークな民族で、他のあらゆる国のどの地域の人々とも全く異なる言語を使用しています。根本的な違いは、全ての単語の音節が母音で終わるという言語です。世界中のどこの国でも日本語は使われていません。そして印欧語族とか何らかの語族にも属していないユニークな言語なのです。日本人の脳がユニークだという点はすでにご紹介しましたが、脳の左右の半球の機能に優劣がないということなのです。これが原因かどうかは分かりませんが、日本人はあまりけんかをしません。不協和音を嫌う、悪く言えば「ことなかれ主義」だそうです。自己主張もあまりしません。白か黒かという議論をしないのです。だいたいグレーです。どっちでもいいんじゃないかしら、です。

最近外国人の女性が日本語の力について語っている動画を友人が教えてくれました。最後にとても大切なことを教えて下さっているので全部見てくださいね。

https://www.youtube.com/watch?v=oyno-NNbwqU&t=701s

アリシヤさんは日本人は優しい、それは日本語の力で、自分も日本語を使うようになって優しくなったと言っています。

世界は今分断され、闘争が止みません。覇権を競う心を持つ人たちが勝敗で価値を決め、人類社会を支配しています。経済効果優先なので、地球は汚れ切っています。海洋汚染の画像は見たくないかもしれませんが、掲載します。人体の60%以上は水なのに、水が汚染されているのですから、当然大地も汚染され、結果的に病人だらけになっています。ウイルスの脅威を心配するより地球の汚染を心配するほうが先なのに。原因があって結果をつきつけられているだけです。私達みなの責任で、誰を責めてもどうにもなりません。最初の画像の美しい海を見ると、幸せな気持ちになります。以下の画像は人間がしたことです。

あなたが裁くと宇宙が汚れる

今年の初めに頂いたメッセージです。身につまされました。

裁くのを止めるというのは難しいですが、これは自分で出来ることです。戦いを止めるのには先ず、「許す」という行動が先です。過去の恨みを捨て去って、それぞれの違いを認め、尊敬し、優しくなること以外にもう出来ることはあまりありません。経済効果優先主義も元々は覇権主義から出ているので、汚染に歯止めをかけるには勝敗レースから外れれば良いのです。より多くの人が裁くのを止めるという方法は、「急がば回れ」みたいなようですが、一番の近道ではないかと思います。この記事の始めに日本人の死亡率が低いというチャートを出しました。私の考えでは、ファクターXとは日本人の存在理由なのです。

日本人は死なないのではなく、死ねないのです

役目があるからです。日本は「大和」とも言います。大きな調和が世界を平和にする影響力を発揮するのだと思います。ヤマトと読みますので、世界平和というに向けてを放つ(行動する)のは大調和の波動を毎日言葉で発している日本人の役割なのです。

最近嬉しいことがありました。イギリスの友人が教えてくれた地球に優しい発明です。プラスチックの代用品がキノコを使って費用もあまりかけないで出来るのだそうです。嬉しくて涙がでました。地球に優しい人たちが増えてきて、こういう発明をしているのだと分かると有難いです。

https://www.treasureislandsweets.co.uk/eggs-strawberrys-fruity/foam-mushrooms.html

https://tabi-labo.com/297610/wt-haecklesnewpackaging

https://ecovativedesign.com/about-our-materials/how-its-made/

2021.03.11

 

 

 

 

 

猫の神様

一昨年くらい前からどこかの猫が家にしょっちゅう来るようになりました。大きな茶トラで、体の大きさに比例してかなりの量の糞をわが家の庭の土の上にする習慣がついてしまいました。どこの猫かも分からないし、仕方なく糞の始末をしていました。玄関わきのベンチがお気に入りの場所で、悠然とそこで日向ぼっこしているのをよく見かけました。それも仕方ないと思って我慢。脅かしてもその時だけ逃げて、また戻ってくるからです。

しかしある時にベンチの上に嘔吐したものが飛び散っているのを見かけ、近寄ると周囲の壁や、タイルの床にも飛び散っていて、乾いてしまっていたので、洗い流しに手間がかかり、さすがにもう嫌だと思いました。

それから数日後に散歩で近くの江ノ島に行ったおり、神社の掲示板に、「私達を連れ帰らないでください。野良ですが、島の人たちが世話をしてくれているのです」と猫の絵入りのポスターが目に入りました。それで、江ノ島には「猫神社」があるのを思い出し、フト(フト、というのはインスピレーションが入って来たしるしです)、猫の神様にお願いしたら良いかもしれないと気づきました。

犬猫撃退剤など使いたくないので、「家に猫が来ないようにお願いできますでしょうか?」とわが家の情景と猫の姿をイメージしながら訊いてみました。「はい」という返事が来たように感じたので、お礼を言って、帰宅。

それから数か月になりますが、一度もその猫を見かけなくなり、糞もまったくされていません。「猫の神様」の霊験あらたかでした。

あらゆる生き物にはその種族の元締めのような、いうなれば知恵ある意識があるというふうに、私は受け止めています。動物園で寝ている夜行動物を見たいので、「コアラの神様」、「ワラビーの神様」、その他もろもろの種族の神様にお願いしたところ、どの動物も寝床から這い出て来て、写真を撮らせてくれました。終わるとまたサッサとねぐらに戻って寝てしまうので、案内係の女性がびっくりしていました。

 

では人間はどうでしょうか。人間の場合は「人類の集合意識」という表現が分かりやすいかもしれません。知恵というものは形がなく、見えも触りもできません。どこかに在るとか場所もありません。ですが、その集合が有るというふうに思ってください。そう思えばその人の意識の中で「人類の意識の集合」という位置が座を占めます。一旦座を占めることでアクセスする焦点が出来ます。そして「つながる」わけです。いきなりつながるかどうかは私にも保証はできませんが、少なくとも基盤はできたので、あとは信念と練習が功を奏するでしょう。

存在とはそれに付けられた名称で、名称(コトバです)が存在を確立するのです。名前が無いものを想像することはできません。想像できれば、ある時ある状態に達したら創造ができ、現象を起こし、願った成果も出てくるという仕組みがあるのに気づいてくださると、きっと楽しい体験ができることでしょう。 

以前投稿したものですが、内容を捕捉していると思います。

「バカの壁」を越えて見つけたこと

2021.03.09

 

 

 

近道はたいてい遠回り

数日前に急に微熱、悪寒、軽い頭痛、食欲不振になった。この場合はもしかしたらウイルス?とパニックになる人もいるかも。でも私は平気。「あら、風邪だわ」となり、太母さんの言葉を思い出しました。

風邪は万病を掃う玉箒(たまぼうき)

何か不自然なこと、体が嫌がることをし続けると、赤信号として前述の症状がでて無視ができない。仕方がないから対処することになります。医者に診てもらうと二つに一つの選択。「栄養つけてゆっくり休んで治るまで無理しないように」、あるいは「注射しましょう。その後この薬を飲んで」となります。前者は時間がかかる方法。後者はすぐに仕事にもどらなければならない人用だと思います。私はどちらもしないことにしています。専門家は知っていますが、注射で風邪は治りません。症状が軽くなるだけです。でも治っていないのでまた薬が必要になり、副作用と言うおまけもついてきます。

風邪の原因のトップは「過食、偏食」で次が様々な生活習慣、精神的、肉体的疲労等だというのが太母さんの見解で、すぐに、「断食しなさい」となります。でもそこまでしなくとも少なくとも小食にして、胃腸をふくむ五臓六腑に休暇をあげるということにしています。この中でとても重要なのは、時間をかけるということだと思います。風邪をひくと引き始めから終わるまで大体一週間とちょっとかかると言われています。医者も人生経験豊かな年寄り達も皆そう言っていました。

さて、今日で4日目。くしゃみ、鼻水、鼻づまりは大分収まって、胃も調子よく、昼に食べたものがすぐに消化されました。ダウジングであと何日?と訊くとあと3日と言われました。「やっぱり7日間かかるのか、速くならないかな」と生来せっかちな私は訊きました。

答は「いいえ」でした。原因は食事会が続いて飲酒が過ぎたことのようで、ダウジングでしっかり出ました。一週間禁酒の決意。普通は当たり前なのでしょうが、私には決意。

ここには大切な教えが含まれていると思います。人生とはプロセスするということです。生まれてから死ぬまでの長くても100年くらい。生きるというプロセスです。経験を重ねて行きながら、悲喜こもごもの感情を味わいます。良いことばかりは続かないのは皆さまご経験済みと思います。嫌なこと、悲しいことは早く終わって欲しいというのが人情ですが、これもそうはなりません。

愛する人が亡くなったり、好きな人と別れたりすると、友達が大丈夫かと心配して訊いてくれます。それに対し英語では、「I’m prosessing今プロセス中なの」という答えが一般的です。一挙に哀悼や惜別の苦しみは解消しないので、それを味わいながらプロセスするという意味です。日本では「親の喪は13ケ月」と言います。一年ではちょっと足りないほどの喪失感だという経験的な言葉なのでしょう。私も三回家族を失い、やはり一年などでは悲嘆は消えませんでした。今でも思い出せは悲しいし、淋しいですが、痛みはもうあまりありません。三人目の家族の喪中では心肺機能が低下する程の打撃で、苦し紛れに色々とバカなことをしました。飲酒の増加です。これで心臓の不具合に加えて内臓の疲れが加わり年に3回くらい風邪をひきました。やれやれ。

このプロセスするということが出来ないと重大な精神的障害が出ます。PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)です。まず苦悩と悲嘆には向き合わないとプロセスは進みません。早く治って立ち直るうまい方法もあまりないようです。

人間という生き物には前頭葉があって、大きな海馬もあって、たくさんの記憶の蓄積が出来るので、その意義を追求したくなるやっかいな性癖を持っています。想像力がたくましいので、疑心暗鬼、不公平な扱いを受けている自分は神に見捨てられているのだなど、どうしても納得が行かない、気持ちの整理がつかない、ケジメがつかない気持ちが後を引きます。PTSDというのはケジメがつかないので先に進めない状態を言うそうです。「人生は絶対に辛い」という厳正なる事実と向き合うしかないのですから受け入れて対処するしかないということになります。

風邪をひいたことで色々考えて、「万病掃う玉箒」論の母を思い出しました。とても彼女らしい写真があったので、アップしました。

「バカの壁」を越えて見つけたこと

ミクロの決死圏―体の中を旅して見ました

人生は絶対に辛い

 

 

時間性能が全ての原因!驚きの見解

光透波理論を長年教えていらっしゃる八田光典さんが分かりやすく説明をして下さいました。PDFを添付します。
時間性能が何故原因なのか?

今年は丑です。 丑 → 二 + 刀 

二フ普を負っておられる刀(無上の力)こそウシ宇宙詞のことです。2021年からはTU(注。アルファベット20番目の文字はT、21はU)ツ通、通うと取れます。この丑という文字の意味に始めという意味があるそうです。またチュウと読むそうですから「中」と取ると内側であり、「宙」と取ると八行目の「ユ由」に「ウ」が加わると「宙」の字になります。(注。宙を分けると由とウになる)

「宙」から「ウ場」に至ると即「ユ由(誘、結、湧)」の大誘導が起こるのではないかと思います。

八田光典

 

2021年のご挨拶

2021年の干支は辛丑(カノト ウシ)

辛い(ツライ)と書いてカノトと読むのは不思議ですね。少し前に「人生は絶対に辛い」という記事を投稿しましたが、今年は辛い年になるのかなあ。いえいえ希望を持って「一」をプラスして幸せな丑になりたいですね。

一は絶対性をも意味しますが、具体的に私達に何が出来るかというと、国と国、宗教と宗教、人種や民族や理念の違いを乗り越えて、協調して、調和して、共存できるようにして行くという行動をとることではないかと思います。争いを止めるには心の中に巣くっているネガティブな思いをしっかり見つめて、消えてゆくのを見届けることだと思います。今年は「心の断捨離」に更に励んで行こうと思っております。

本年もよろしくお願いいたします。

続・気づきへの導き

この前の記事で体が教えてくれる気づきへの導きについて書きましたが、「視交叉」についてはお話ししませんでした。

これは続きでもあるし、違う観点からの考え方でもあるので、別の記事にしました。

悪循環という表現があります。ひとつ何かが悪くなると、次から次へと悪い事態が生じてくるということを経験していない人はないと思います。今回はこれを自分を例にとってお話しします。

私はコンピューターをほぼ毎日使います。一日2時間から数時間使います。その際にマウスとキーボード打ちをします。指と手首が疲れてこわ張ります。その疲れが肘に来ます。悪循環の始まりです。次に肘から肩に来ます。そして肩甲骨に来ます。肩甲骨の内側に膏肓というツボがありますが。これが深部の重要な部位につながっているのです。

「病膏肓に入る」という言葉がありますが、病がこの場所に入ると医者でも治療士でももう治すために打つ手がないという意味だそうです。どこか特定の内臓ではなく体の奥深い部分という意味だそうです。

さて、成人で肩こりという症状をお持ちでない人はあまりいないと思います。ひどくなければ柔軟体操や温灸、マッサージでほぐせますが、毎日の生活で肩が凝ることをしている人にはあまり効きません。焼け石に水です。

この膏肓の内「肓」は右側の肩甲骨の内側にありますが、ここを押すとひどく痛いです。ここから一体どこに影響があるのかを調べて行くと、三叉神経から眼へと繋がりました。そして「視交叉」と分かりました。これは文字通り「視る」対象が「交差」する場所です。私の場合ここが正常に働いていないことで眼精疲労もより悪化するそうです。そして「視野狭窄」の原因にもなっていると出ました。眼科検診で視野検査を受けると、視野が狭くなっていることから緑内障のリスクがあると言われ、それを理由に点眼薬を勧められます。まだ緑内障ではないし、眼圧もそれほど高くないし、視野も変化もしていないので、断っています。点眼薬を一年ほど使っていたのですが、変化がないのに嫌な気がして止めたのを、医師がなかなか納得してくれず、検査で悪い方へ変化があったら使うと約束させられました。何故嫌かというと、点眼後数分は眼を吸水性の高いもので押さえているようにと指示があったからです。これは点眼液が眼から鼻腔を経て喉に流れ込まないようにという意味です。つまり体内に流れ込んだら有害ということです。私が診ている限りの治療を受けている方々の多くが喉と消化器系の内臓のどこかの粘膜が糜爛しているという診断が出ているのですが、全員何らかの薬を服用しています。ダウジングで症状の原因を尋ねると、必ずと言って良いほど「薬害」が含まれます。

長々と回り道をしてすみません。本題に入ります。

視交叉の不具合は胃にも来ていました。三叉神経の不具合の原因ともなっていると出たからです。消化器系に影響を与える神経なので、膵臓の外分泌機能にも影響が出たということだそうです。ついでに骨も診てみました。頚椎に一か所、胸椎に一か所(これは胃の経絡でした)、腰椎に一か所ズレがあり、そこを治療しました。なんと腰痛の原因にもなっていたのです。

まさしく悪循環です。痛みに促されて、専門家に調べてもらって体の不具合のひとつだけを視て、そこを治すべく処置をしても体全体を視なければ根本的解消にはならないということが言いたいのです。ひとつ処置をしてもらっても痛みは他に出てきますので、また違う専門部門に行き、「たらい回し」が始まったら大変です。病院に通うことが主の生活になってしまいます。そしてどんどん薬の種類が増えて行きます。病や不具合の根本原因はいくつかあるでしょうが、非常に健康で、薬も全く飲んでいない健全な人がどういう生活スタイルをしているかを視て、自分が「大自然の法則にのっとった正しい道」からどれだけズレてしまっているかを理解して、できるかぎりの軌道修正をすることが賢い対処法だと思います。これを新しい薬の服用を始める前にやって欲しいです。処方薬は一度始めたら勝手には止めれません。そしてだんだんに増えて行く傾向にあります。薬害が他の症状を出してくるからです。体は「神の社―Temple」で身細胞は「大自然という智慧が創造した完全なる自治の完成体」だということを自然体で生きていた非常に健康な人から教えてもらったことがありました。

身細胞とお話しをして、細胞が嫌がることをしなかった人です。たとえば口に入れて舌が嫌がるものを食べないのはもちろんのこと、顔にも塗りませんし、髪を洗うのにも使いません。まず味わってみて使うかどうか決めるのですが、ほとんどの場合見ただけで分かるようでした。酸素が足りないと細胞が嫌がるので、風通しの良い服を着(当然化学繊維は着ません)、疲れたらゴロンと横になります。布団も要らないようで(毛穴からでる毒素を吸い込んだ布団は体が嫌がるそう)、毛布か布一枚を夏冬通してかけていました。味の濃いものは「元の食材の味が消えるから」と言って、大体は生か薄い塩味で食べていました。何かで味をつけて沢山食べると食べすぎが原因の病気になる、食べ物という大地の恵みを収奪することにもなるとのことでした。この人が「仏眼」を書きました。

その人が亡くなった命日の11月21日にこの記事の元になったメッセージが来ました。

2020.11.23記

 

 

 

 

 

気づきへの導き

11月20日の朝9:07分、右のコメカミに鋭い痛みが走った。電気的な感じの走り方で、「あ、電気→雷にL」と思い、メモしました。遠隔ヒーリングの時刻になっていたので、後で字分けすることにして、痛みの来た時刻もメモ。

他の人にはせっせとヒーリングしているのに、セルフヒーリングをさぼるので、今日はきちんとしようと思い、感覚を研ぎ澄ませて痛みの原因を探索。電気的刺激と感じたことから、

電を字分けすることから始めました。電を二つに分けると雷とL(開くという意味の形)になるので、神がなんと言っているのかを考えました。コメカミは米、そして神と当て、神経かと問うと、そうだと出ました。神経は、大自然の法則に即した正しい経/道と取れますので、何か道に外れたことをしていると言われたのだと解釈。それが体のどの部位に不具合が出ているのかを探ることで分かることが多いので、診断を始めました。

一番気になった箇所は胃の重さでしたので、その原因を調べたところ、真っ先に「迷走神経[i]」と出ました。「わあ~来た来た」と合点。米(コメ→光命)が走っている(シンニュウの意味)という意味の上に更に、走っているのは迷い走っていると重ねて教えてくださっているというご丁寧さで、無視できるはずもない。自律神経のバランスがとれていなくて、副交感神経の一部である迷走神経の機能不全で胃の消化不良が起きていると診断。

二番目に「食べ方」と出ました。これはすぐに思い当たりました。一緒に暮らしていた家族が亡くなってから家で独りで食事する時にゆっくり時間をかけて食べないことが多いからです。まるで仕事のように、さっさと片づけて次の仕事にかかろうとして、食べ物を味わい、美味しいなあと自然の恵みに感謝することもない食べ方になりがちでした。

次なる原因は膵臓の外分泌機能の不全。これも必要な消化酵素が出ていない為に消化不良のみならず、脂質異常や胃酸過多も起きていると出ました。

胃の診断が終わって、次に出たのは視神経でした。眼精疲労のみでなく、他も探したところ、またまた「来ました」。視交差の異状と三叉神経の不具合。

交差と三叉で二重に交差と示されたので、何が交差しているのかと考えると、「父と母と子である自分との三者の関わり」と答が来ました。三叉神経の不調には感情的要因が大きく関わっています。翌日は母の命日ですので母との関りで解消していない感情的なしこりを取る必要性を感じました。心の断捨離もこのところさぼっていましたので、「迷って走って」いたわけです。眼精疲労は常時ありますので、その治療もしました。多くの静脈の流れが悪く、未分解の老廃物が滞っているので、これを分解排出する治療をしました。肝臓さんに協力して頂く為に十分にねぎらい、黙って働き続けてくださっていることに感謝します。前回のセルフヒーリングで肝臓の門脈の不具合と総胆管の狭窄と言う、肝臓に必要な胆汁を補給する機能の不全を改善してあったので、肝臓さんは文句なく作業に協力してくれます。普段のお付き合いがいざという時の大きな頼みになるのは人間関係と同じ原理です。

米神から迷走神経、三叉神経と続けての「お告げ」でしたので、様々な気づきを頂けました。

こめかみを英語でTemple(寺、神の社)というのも面白いですね。米を噛むと動く筋肉のある場所というのが語源のようです。米はしっかり噛みましょう。

2020.11.21
母の命日の朝

[i] 12対ある脳神経の一つであり、第X脳神経とも呼ばれる。副交感神経の代表的な神経。複雑な走行を示し、頸部胸部内臓、さらには腹部内臓にまで分布する。脳神経中最大の分布領域を持ち、主として副交感神経繊維からなるが、交感神経とも拮抗し、声帯心臓胃腸消化腺の運動、分泌を支配する。多数に枝分れしてきわめて複雑な経路を示すのでこの名がある。

出典:ウィキペディア

 

雑草から学んだこと

一緒に暮らしていた家族が亡くなって約二年になります。亡くなる半年前くらいから庭仕事を少し手伝いうようになって、通算二年半、主に草取りをしました。

草を取りながら、その生命力に直に触れ、学んだことがあります。草は一応人間が「雑草」と分類したもので、きれいな花が咲く植物ではないものです。きれいな花が咲けば「園芸種」として販売され、珍重されます。それはさておき、雑草取りをしたことがある人ならすぐに分かることですが、「取っても取ってもすぐに又生えてくる」のです。とても良い環境とは思えないところにも生えるのです。もっと良い場所があるのに、踏み石の隙間の、狭くて、土の少ないところ、セメントの隙間などです。それを放っておくと石が持ち上がるほど大きく成長し、根がはって非常に取り除き難くなります。何という力強さでしょうか。

感心しながら根を残さないように気をつけてゆっくりと揺らしながら細かい根がつながっているものを抜くことに自己満足しながら、その反面、「何故こんなことをする必要があるのだろうか」とも思います。草は人間と共存できないのだろうか。考え出すと疑問は山のようにあることに気が付きます。

生態系全体の循環に関わる視点からなら、不要な草は無い筈ですが、「これが私の庭」という個人の所有地で、しかもあるガーデンデザインに沿って、要るもの、要らないものと分類すると、不要なものが雑草ということになります。人間社会はそうは行きませんよね。不要な人間は刑務所や精神病院、老人ホームなどに隔離しても、抜き取って捨ててしまうことはしません。ある意味では残酷なことかもしれません。自由を奪われて生きることを強制されているわけですから。草は自由に好きなところに生えます。それを私の勝手で、たい肥にして他の形で有効利用するなら草も役目を果たしているのだから抜き取っても良いと自分に言いながら抜きとります。

何故生え難いところにも生えるのか。「どこが良い場所、どこが悪い場所ということで決めていないのかもしれない」。要するに居心地だけで決めないらしい。では、何故か。一つには、居心地の悪いところを良い場所に変える結果を生むことです。自然界にとってセメントで固めた地面は異質な場所です。生命の育ち難い場所です。これを良い場所に変えるには、先ず生えることです。小さな草が根をはり、水を吸収し、土を集め、徐々に場所を広げ、石垣や舗装道路に亀裂を入れ、最後にそれらを崩し、ひっくり返し、粉みじんにして行きます。そうすると、あたり一面が草地になり、「居心地の良い」場に変わるのです。私の場合は「私の家」の敷地が崩れてしまうと困る事情があるので、対応策として雑草取りをしますが。

では誰がそれを指導指示しているのか。これは「自然」という文字を見ると分かります。

「自ずからに然らしめられている」という意味です。「そのような道理になっている」のに従って、大自然は運行しているのだと分かります。人間以外の生物の大多数、とりわけ植物と小さな生物である昆虫類や微生物には共通点があります。個体としてでなく、集団として共同作業をする点です。共同作業には全体を生かす為に常に個体が無料奉仕しています。個体は比較的には短命です。「生きているうちに成し遂げたいこと」などという時間的制限を持ちませんので、結果的には「倦まず弛まず」の作業ができます。何年かかろうと何十年かかろうとお構いなしに、次の世代が引き続き作業しますので、「人類滅亡後」何十年、何百年か経ると、地球上から人口の建造物は全部崩壊して無くなってしまいます。何千年も崩壊していないピラミッドやスフィンクスは人間が劣化を防ぐために補修をしているから保たれていますが、人間がいなくなればやはり、消えてしまいます。画像を見るとかなり劣化しているのが分かります。

草から学んだことは、当たり前のことが人間にとってはもはや当たり前でないことです。それは、

生物(人間もそうです)には自らの力で生きる能力が自然に備わっているという厳然たる事実です。これが多くの人間にはもうすでに当たり前ではなくなっているのです。自然から大きく離れた生活を始めてしまったからです。

何が自然で、何が不自然かという感覚の麻痺が起きてしまっていて、「あれ、何か変だ、怪しいぞ」と思わないで誰かに「これは良いものですよ」、「こうしないと死にますよ」などと押し付けられたり、脅かされたりすると言うなりになって、生殺与奪権を他者にゆずって、所謂「丸投げ」をして生きています。生きているとは言い難い状態ですが、ともかく脳死していないし、心臓が動いている限りは生きているとみなされます。でも自分で生きてはいないのです。

人としての役割は他の生物にはない能力を駆使して、大自然の営みを損なうことなくこの地上に生きる物全てと共存共栄し、更に他の生物には出来ないことを加えることで、天国のような美しい場所を作り、和気あいあいと交流して、互いの智慧を分かち合い、分かち合う喜びの音楽を奏でることだと思います。それを代弁している詩があり、初めてその歌を聴いた時に、私はそれに大きな感動と感銘を受けました。

 天のお舟に乗り込んで つま弾く指を携えて
 銀河に響くメロディーを 奏でるために旅立った
 時代は来世 人々は 琴に玉水はじかせて
 七色橋より滴り落ちる 光し羽衣、胸宿す
 忘れ去られて那由他 不可思議 幾年過ぎた
 物語を始めよう 再び始まる物語
 お伽話とみまごうほどの美しき
 天地をつなぐ物語 それはあなたの物語

余計かもしれない付け足し。

天界にいて光だったら体が無いので指は無い。つま弾けないとメロディーは銀河に響かせられない。琴(コト→言→光透)に玉水(玉のような音→母音・マントラ、美しい思いの響き)、虹のような美しい光の架け橋から舞い降りてくる光の羽衣を胸に宿す。羽衣は天に還る乗り物。この為に地上に降りて来たのに、人間として体を持ったが故に、すっかり奏でることを忘れて長い長い年月(那由多、不可思議は巨大数の単位)が経ってしまった。でも今からその物語を再び始めよう。

巨大数は面白いので抜粋して書いておきます。

一、十10、百102―――億108、兆1012、京1016―――那由他1060、不可思議1064

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか