仏眼とは何か

人の心の中に巣くっておる「いわゆる悪」の中身は煎じ詰めると「嫉妬と羨望」、嫉妬の裏側は自己の能力の過小評価。羨望も同じで、一番大事でしかも必要なものは既に持っているのだということに気がついておらんことから起きる苦しみと悩み。その結果の行為は「自分にないものを持っている人を抹殺したいという欲求」。優れた(と思っている)人を殺しても、自己否定は解決しない。だから隠して、仮面をかぶって生きざるを得ない。この悲劇!なんとも憐れ。来世で修正するというチャンスがあったら、転生するわけ。

空気がなかったらすぐに死んでしもうのに、それを汚して「文明の利器っちゅう物」たくさんこさえて、水も汚しほうだい。一番大切な物を汚して、作る程に売らねばならんから、世界中走り回って売りこみ。さらにもっと要らん物作って、もらった物は「吸うことも、飲むことも、食べることも出来ん銭っちゅうもん」。賢いはずの人間がどうやってそんな汚い世界作って、平気でおるのか分からん。

わしの寺では「人は皆、阿弥陀様の懐住まいの果報者」と言っておった。「極楽浄土」はどこか他の場所にあって、死んでからでないと行けないと思っとる。それでその極楽のまん中で、一生懸命囲いを作って、不幸でおる。どうやら不幸が好きらしい。そうとしか思えんね。不幸だと病気になる。それであわてて、医者だ、薬だと騒ぐ。でも世の中見とるとどうも病人が多い。寺に治してくれと来る者もおる。何故来たかと訊ねると、治らん病気だと医者に見放され、行くところが無いという話。「治らん病気などない。固執というもんはないんじゃ。学者に言わせると細胞は7年で入れ替わるということじゃが、それなら治らんというのはおかしい」どうも学のある者も間違っとるらしい。

こりゃ大変だ、「どうしたら分かってもらえるんじゃろ」、と目開とらん者に伝えようにも、言葉が思いつかん。それで一生懸命書いたのが「慧日」という本じゃ。智慧の太陽が心の中に昇ると「見えん物が見えるようになる」それを見てもらわにゃ。わしが生まれてからどう生きたか、何を思っておったかを書いた。学校に行かんで川や森で遊んでおったから、綴り方なぞ上手くなくて、鉛筆舐めなめ、書いては消し、書いては消しして何年も苦労して書いた。読んでもらった人たちの中で大分分かってくれた者がおったが全く足りない。皆「感動した」と涙こぼして言っても、あまりわしのようにならん。それで、またまた書いたのが、「舟を岸につなぎなさい」という世界の人にあてたメッセージ。これもまたあんまり効き目がのうて、またまた、何か書かんと、と思い、最後に書いてみたのが、「仏眼」。

縁ある者に読んで聞かせているだけで、もう本にして出版はせん。「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦さんも言っとったが、そういう時期が来んと発表しても「何のこっちゃ?」でしかないと分かった。

しかし、今がその時ではないかと言う気がした私は決意して2017年に本にしました。以下の説明にあるように、この本の本髄を把握できたら目が開くという著者の本願である、「全人類開眼」が叶う可能性があるのです。

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

仏眼

母の教えは単純素朴

眼が開いとらん人間がこれまた眼が開いとらん人間の言うことを鵜呑みにして、尻尾に追いて行くなど考えられん程の愚かなことじゃ。誰も信用してはいけないよ。愚者を信じる者はその結果をも受け入れるしかないね。因果応報というものは誰か他の者が尻ぬぐい出来るものではない。獅子は自分の子を谷に落とすと言うが、まあ、親を頼りにしとったら生きて行かれんという教えじゃな。

自分の眼でしっかり見きわめるには、自然界をよく見ておれば良い。自然のままに生きておる者達と合わんことをしているなら、何かが間違っとる。意見が合わん者と喧嘩せんでもいいよ、自分が分かっておればいいだけ。親切な人になど成らんでもいいから、幸せな人になりなさい。幸せな人はただ歩いとるだけで、見た者が何か知らんけど嬉しくなって気が晴れるもんじゃから。

生き甲斐がないと言って寺に相談に来る若いもんがよくおるが、わしに生き甲斐などないよ。生きているのがもう甲斐(注。十分満足)なんじゃから。寝ても覚めてもちゃんと呼吸はしておって、忘れておっても食べたものはちゃんと消化されて、要所に配分されていく。生きておるこの不思議、この体が自動的に生命を維持しておるこの有難さ、不平不満などどこ探しても見つからんね。

そうは言っても時々物悲しい時もあるかもしれんが、そういう時にわしは歌を唄う。そうすると体中の細胞が一緒に振動して、余分なものが振るい落とされていって、元気が出てくる。医者も薬も要らんよ。

 

悪魔は裏口から入って来る

私の祖母は賢い人で、私は子供のころよく聞いた言葉を生涯忘れずに生きてきました。なぜ忘れなかったかと言うと、後で「成程そうか、その通りだ」と納得できたからです。いくつかご紹介する際に、もう一人、いえ、多分他にも引用させていただくと思います。何しろ自分で発見したことなど微々たるものですので、人生で巡り合う幸運に恵まれた賢い方々の発見、卓見をお借りしてのお話をしていくことになるかと思います。

さて、近い将来人類は前代未聞の情報の洪水に飲み込まれ、アップアップすることになるかもしれません。溺れない程度の少量の情報公開であれば何とか処理していけるかもしれませんが、それでもなおかつ、精神的にも肉体的にも苦痛な体験をする人たちも大勢いるかと思います。それを乗り越える用意が出来ている方々が縁あって今この記事をお読みになっていると思います。

祖母のことば

人の心の奥底にゃ、鬼が住むか、蛇が住むか

自分自身の心を客観的に観ることに慣れた人だからこそ、これに気づいているのです。

げに、悪に強い者は善にも強いものじゃ

ある時、遊郭で散財していた夫の借金を取り立てに高利貸が祖母に返済をせまりに来ました。金額を聞き、頷いて、泣きも、嘆きもせずに、平静に、あるだけの金を今渡すが、足りない分はこれから払えるだけ払って行きますと答え、そして返済計画を話しました。働き者だった祖母は様々な才能を持っていたので、収入を得る手段も持っていたようです。この様子をじっと見ていたその男は承知した後、寺の後援者になってくれたそうです。悪鬼のように思われている高利貸が、祖母には良き相談者となり、お布施もくれるようなったそうです。

尊敬する親鸞聖人の書をよく読んでいた祖母は「善悪一如」ということばの真意もよく理解していたようです。

表題の言葉ですが、IT用語でバックドアというものがあります。裏口、勝手口という意味の語です。ソフトウエアやシステムの一部として管理者や利用者に気づかれないよう秘密裏に仕込まれた、遠隔操作のための接続窓口をこのように呼ぶそうです。

実はこの接続窓口は各人の心の中にもあるのです。

善悪一如という大法則を知らない人は、自分は棚に上げ、他者をさばき、勧善懲悪とばかりにヒーローを気取って悪者を退治して、これからは平和な世の中になる、と思うでしょう。

ところがどっこい、そうは問屋がおろさないのです。

私にインスピレーションを与えてくださる、賢人ルドルフ・シュタイナーも言っています。

何かが一方において無視されて、無力化されると、その何かは境域または境界の正反対の側から別の姿をとって現れてくる

欠陥を非難する事によって学ぶのではなく、欠陥を理解する事によってのみ学ぶことが精神性を高める

神智学、仏法あるいは光透波理論を学び、宇宙の構造とその成り立ちを学ぶ人にとっては、当たり前のように受け取られていると思いますが、実はそうでもないと私は体験的に知っています。

心の断捨離をしていると様々な感情の嵐に襲われることがあります。ひとつひとつ観察しては消えて行くのを見てきましたが、なんとまだまだ残っているのです。あきれるほど執こく、心の襞の間に隠れているのです。それを知っていると、怒りや復讐心がむらむらと湧き上がって来た時に対応できます。もう一つ、シュタイナーのことばを。

悪の本当の意味は人間の利己主義と結びついて考える時、初めて見えてきます。そして自分の中の悪、不完全さと戦い、それを克服する可能性は自分の中の利己主義をどう克服するかの一点にかかっているのです

2023.10.01

正覚の大音十方に嚮流す

正覚の大音十方に嚮流す
しょうがくのだいおんじゅっぽうにこうるす

長らくブログに投稿しないで来ました。何を書けば今という時代、その時代の世界の状況、そして否応もなくその状況下で好むと好まざるとに関わらず生きていなくてはならない人類。自身も含め家族や周囲の人たちの病、苦痛、生活苦と自由に移動もできないような閉塞感の中で生きてきた数年間でした。何か言うと波風が立つので言うこともままならない、常に周囲を横目で見ながら忖度して生きる他はないような状態だったと思います。いやそういう中で生きていることにさえ、気づいていない無知の暗闇の中にいる人たちも多いと思います。

想像してみてください。暗闇の中を手探りで生きていた時に突然一筋の光が差し込んだらどうなるかを。あっと驚くような情景が目の前に展開するのを。

見えるということがどれほどすばらしいかを。

何がどこにあるかが見えない。どんな危険が潜んでいるのかも分からないという恐怖が消え去り、対処すべき事柄が明確に見えるという喜びに勇躍、すべきことに向かって行動するでしょう。何しろ生存をかけているのですから。

その時が来ました。もうすぐ隠されていた状況が目前に展開しだすのです。

見たくないもの、知りたくはなかったことも多いでしょう。でも見えないよりもずっと良いと思う人も多いでしょう。

見えるからこそ対応出来るわけです。そして対応できる自分がいかに賢く、能力に恵まれているかを再認識して、同じように夫々の能力に応じた行動をとる人たちと新たな発見と理解と、それから生まれる気づきを共有する喜びに胸がときめき、心が喜びに満ちるのを。

表題の言葉の意味を説明しますね。

人は考えることが出来、考えて気づいたことを発表する手段をいただいてこの世に生み出されて来た生き物です。そして何かを発見し、気づいた結果を分かち合いたいという欲求をもっています。自分一人で納得して満足して誰にも言わずにいられる人はあまりいないと思います。で、声に出し、文章に書き、人によっては歌にして伝えます。

「そうか、そうだったんだ、そうなんだ。今やっと分かった。嬉しいなあ、これを誰に伝えようか」

と思った時にその人から大きな音(うるさいという意味でなく、伝播力が高いという意味です)が出て、それが大宇宙に発信されます。そして、その響きに呼応して、同じように思っている存在達が共鳴、調和して、その波動がさらに拡がって行きます。そういう意味です。

交流と書かずに、嚮流とあるのはそういう深い意味があるからです。

何が展開していくのかについては、追々に書いて行くつもりです。まずはお知らせまで。

この三年間本気では書けなかった年明けのご挨拶でしたが、やっと謹賀新年と書けます。これからどうぞよろしくお願いいたします。

2023年9月30日13:46

2023年のご挨拶

2023年のご挨拶

癸卯 元旦

毎年元旦になりますと、

「明けましておめでとうございます」

とご挨拶してまいりました。習慣ですね。「おめでとう」と言えるかなあ、などとは考えません。

この3年間、月日とともにどんどん暮らしにくく、制限された日々を過ごしてまいりました。

さて、今年は、

「災い転じて福となる」年になるのでしょうか?

「夜明け前が一番暗い」

と言いますが、暗闇の中から輝く光の世界へと明けて、

明けましておめでとう

となりますでしょうか?

そう願います

共に希い、祈り、何があろうとも、「心しなやかに」明るく生きてまいりましょう

文字通りその2 直通

2022.02.02 6:39に「直通」を頂きました。先ずはを分けました。

これだけで私にとってはゾクゾクするほど「その通り」なのですが、説明も加えます。

というのは私達が命を頂いて生活している「場」である地球という惑星も含めて、あらゆる物質の存在を有らしめている創造の源、言い換えると「命の實親」を指します。沢山別名があります。「創造主」、「真空」というとよりピンとくる人もあるでしょう。

この空がっているというのはどういうことなのでしょうか。何もない空がどうやって養っているのでしょうか。

一足飛びに、「何も無いものが智慧そのもの」なのだと言えばこの話は終わりです。でももう少し続けさせてください。

日本語では漢字に読み音が二種あり、先に音読の音に「字の鍵」から文字を当てました。次に訓読のナオに当てた文字の意義を見てみましょう。

という字を分解すると「大=小」となります。これは凄いことなのです。大小は物質の持つ特性です。空に大小はありません。それだからこそ、(統治する者である他に数字の4の古字でもある)それが真ん中を意味すると同じ音を持っています。は大きいという意味があるとともに絶対の一者()と分解できます。絶対の一者とは創造主、絶対神、あるいは在りて在る全ての物をも意味します。互いに関係があることはこれで分かります。

その直が透明の命の内容だというのは開くと出てくるからです。は一つの次元から上の次元へ開くという形であることから、光透波理論ではと取っています。

絶対の真空の創造主とじているとは究極の恩寵と言えます。神は死んだと言って自殺して哲学者もいましたね。通じていれば孤独でもなければ苦しみも不信も無い訳です。

それを今日頂いたのですから感謝しかありません。じているとは、実はまったく当たり前のことで、創造の源が生命の源ですから、その人が知っていようといまいと生かして頂いているわけです。生命エネルギーの供給が途絶えたら途端に死んでしまうからです。

これがものの道理というものだと分かっていれば当たり前が実は大変なことで、「有り難い」わけです。

直について更に拡大して見ましょう。ジカとも読むのです。「字化」と当てますと、しているととれます。真空という見ることも触れることも出来ない「透明の実体」が見えるようになっているのがなんと、字なのです。「字に化けて」私達が見て、分解して、どういう構造になっているのかまでが分かるように備えられてあるのです。

なんと凄すぎるまでの親切な設定になっているものが文字の真の存在価値なのです。どうぞこれに気づいてください。「ああ又字分けなの!面倒くさいわね」、と飛ばして文だけ読んでいる読者の方が多いかもしれませんが、字分けの画像の方もどうぞジックリ(字通空理)と見てください。

自分を知るのには字分をするのが遠そうで近い道なのです。

2022年のご挨拶

新年おめでとうございます。

昨年はあっという間に過ぎてしまった感があります。あまり大きな活動をしないで静かに家で過ごす時間が長かったです。私はせっかちな性分なのですが、急いで行くところもする事もないので自然に内側に向かって旅する結果となりました。そして「最後の断捨離」などとおこがましい記事を書いてアップしました。

最後なんかではなかったのです!

人間関係での好悪や批判的なものの見方はほとんどなくなっても、まだまだ煩悩もあれば、悩みも、体の不調もしっかりあります。ただし、それがあまり苦にはならなくなっているようで、それが違うのかなと思う今日この頃です。

今年はどんな年になるかまだ分かりませんが、「人生は必ず辛い」などどいう、おそらく大多数の人にとっては意味不明であろう記事も書きましたが、これがこの二年間に実際に人々に降りかかった試練でした。これまでとは異なり逃げ場がない試練なのです。そして初めて、逃げても無駄だし、助けてくれる人も実際にはいない、いなかった、ということに気づいた年でもありました。

その経験の後に来る今年が2022年なのです。

自立の年
誰も非難できないので仕方なく(?)責任をとる年
自分で考えて決断する年
不可避である死というものを見つめ、
 その実相を探求し、理解して、恐怖から解放される年

昨年中に私の交友範囲で多くの方が亡くなりました。大恩ある方もいらっしゃいました。生きている間にもっと会っておけばよかったとも思いましたが、ウイルスの関係で会えなかったこともあります。多くの人にとってもおそらく人類史上前代未聞の転機に直面させられた二年間だったと思います。歴史上大きな戦争や疫病や天変地異はありましたが、全世界が巻き込まれたことは無かったと思います。第一次と第二次大戦でさえ全世界もれなくではなかったと思います。国境、民族、イデオロギー、宗教に関わりなく被害にあったという意味です。これが如何に人類の成長、あるいは進化にとって踏まなければならないプロセスであるか、その意義を知れば、そこに見えてくるものは「希望」なのだと私は受け止めています。

さあ朝日に向かって希望への船出をしましょう。

壬寅を分けたら文字通りだった

壬寅という字を分けて見ると、「分けて文字通り」でした。少し説明いたします。あくまでも私個人の見方ですので、他の人が分ければまた違う見方が楽しめます。

 

は「天鏡図」、つまり音に宇宙共通の意味を当てた、文字という真理を指示している「鍵」と取ります。小田野早秧先生は「文字の鍵」と呼んでいらっしゃいました。鍵が無ければ音の意味を探る手立てがないからです。

また、上の図ではが意味をんでいると出ていますね。その図のきとはスパイラルで転しているエネルギーの力にってその活動する状態、実態、機能、目的等を示しているのですが、見ただけでは理解できません。読み解いて理解し、納得して行かなければ身につかないという仕組みになっています。身につかなければ現象を起こす原動力にならないのです。現象を起こさなければ地球や天のお役に立てないのです。

明な実体(なので実体という意味)なってんでいるのは「字」ですが、人がコトバで考え、積極的に分けないと答が導き出されて来ないのです。誰か他の人が分けたのを見ただけでは積極的ではないので、身につかないという仕組みになっています。

(トヒ)を頂く前提です。絶対(の意)宇宙(透明の宇宙・實の宇宙・真空・無)は振動する波にって森羅万象を創造、運行、維持しているので、これは始めからそう出来ています。自然とは「自ずから然らしめられている」という意味の字ですので、どうしてそうなったのかは分からないのが当たり前で、これをどうしてかと探るのが人に備えられた好奇心というもので、止められません。

ところがこれを何と人は理解できる能力を持たされて生まれて来ているのです。宇宙の子である「字」を書き、読み、理解出来るのは人だけですから。ただ、自分の潜在能力をほとんどの人は自覚していませんが。

出来たのもをほとんど理解していないのが人間です。毀せますが、作れないのです。髪の毛一本、血の一滴一つ作れません。理解が深まると「ほとんど何も知らない」自分に気づきます。それでやっと謙虚になり、感謝心が起き、おそらく今あるがままで幸せなのだと思えるようになるのだと思います。

ダイオキシンを持ってきてください

小田野早秧先生がある時誰かが持ってきた古くなってカビの生えたカレーを見て、箸でグルグルっとかき回し、食べ始められました。驚いて「先生そんなことしたら、お腹毀します」と止めました。

私の顔を見て、「別に大丈夫ですよ。でもあなたは止めた方が良いかもしれないわね」とおっしゃいました。

しばらくして、「あのね。今ダイオキシンという毒について騒がれているでしょう。枯葉剤かなんかで。それが食べ物にも入って来ているって。あれを今度持ってきて下さらない。私それを飲んで見せますよ。多分何ともならないと思います」

目を白黒させて、先生のおっしゃることの意味も解せずにいた私でした。まだお伺いして日も浅く、光透波のエネルギーの何たるかも何も知らないに等しい私でした。

何が言いたいのかと言いますと、ある人には毒でも他の人には毒ではないということの意味です。人それぞれ自分の体を健康に保つ機能を持たされて生まれて来ているのですが、その後の生き方でその機能がどんどん失われて行くもののようです。そこで毒を字分けして皆様にもシェアいたします。地球環境も汚染で「毒化」してきていますので、それで病気になっている人たちが周囲に大勢いるからです。

生き方と物事の捉え方次第で、個人差が出てくるということになります。ダイオキシンは試しませんでしたが。

2021.8.24.11.14 毒という字を頂く

 

 

まず、この宇宙の成り立ちは、先にエネルギーが中心に向かって集まって、集まる毎に重力が加えられ、加圧の果てに究極の黒一点となり、これ以上行き場もない結果として爆発反転して拡がり、現宇宙という電磁場が出現したという順序性を見てみると、磁性が先、次に電性が生じたとなります。父の磁性(閉じている状態・閉音=ン)があって、母という電性(開いて母音が出来た)が出てきたわけです。

求心の極みの閉じた状態から遠心の開いた状態が出て来たのだと踏まえると、毒は毒ではなくなります。法則性を理解すると「毒」という概念が「道空―空の道」という天然の普遍的意味に変換されます。空は天ですから天への道と取れます。天への道はそれ自体がの叡を指しています。その實智を理解するには、自分で考え(る、つまり考えるという行動を意味することを字が教示しています)天(アメ)へのは各人の足で踏んで行くというのが「」という字で示されています。天への路とは(十ト一ヒ→)にりです。

隠されている意味が現れる(露呈と言います)のは概念を天然の意味に変換することで可能となります。宇宙の(干・電磁場)の成り立ちと法則をめて天へのを私も歩んでいるわけです。

ぜロから無限まで永遠に続く数ですが、かれて部分的に示されます。例えば日付です。それで日付をサイン(メッセージ)と受け止めて、意味を探ります。

2021はこの前の字分けで書きましたので省きます。8.24.11.14ですから、8(H)は24(X、エクス工空数)、タクミという知恵をを通してる)。それをするのは14(N、ン)が母の働きで開いて出て来た「ナニヌネノ」、真ん中にある「ヌ」は奴(人間の意)で、その責務は、音の能(ノ)を何(ナ二)と問う、考えるという仕事です。11もやはり十トと一ヒ、問です。そしてアルファベットのKの順番です。計は全き(十全の)言(コトバ)ですから詞という、光透波を指し、同時に計らいという意味もあります。人智で計り難い計らいで、計りしれないのが私の拙い理解力です。でも24を足して一桁数に戻すと6ですので、ム、務めと取り、各人の務めとも解せます。ツトメ、透明に通じるまで務めることでその積み重ねが毒を毒でなくなるまでの人に培って行くのでないかと思います。これは言葉を使って、文字を分けて行います。そして概念でガチガチに固まった自我意識を回答を通して解凍して、理解して行くわけです。これでもう毒なんか少しも怖くなくなります。死ぬのも、病むのも怖くありません。とてつもない解放感です。は不断にれています。「バカの壁」で遮断しないでただ悦んで受ければ良いだけです。時には非常に厳しいのが愛ですが、感謝して頂いております。

2021.08.25

人新世の「資本論」を読んで

人新世の「資本論」を読んで

長年に渡り、地球の代弁者を自称している母親(霊鷲太母)の哀しみを見ながらどうしてよいか、私に何が出来るのかと悩みました。悩みから逃れる為の様々な逃避行為もしてきました。

光透波理論を読んでもそれだけで、私にとっては具体的に何をしたら良いのか明らかな答えは出ませんでした。理論に不備があるのではなく、自分の理解力の浅さと実践の足りなさが原因です。どのくらい浅いかということについは後程説明します。ここで言う実践とは「理解への鍵となる字分け」のことを指します。

人間という思考力を頂いて生み出されてきた私達が「理解していれば」それが宇宙という「場」全体に影響を与えるということ、つまり「人という、言葉を操り考える能力を与えられた存在としての責務を理解して行くという行動」で人類社会が招いた数々の災害と残虐行為等は糺されて行くのか?現在の地球の状況を見ていると「果たして間に合うのか?」という疑問と焦燥です。

実は糺されて行くのですが、それにはもっともっと多くの人が理解し、真の宇宙とはどういうものなのかを理解して行くことが必要なのです。「変化を現象させるうねり」を起こすに足る人数です。

小田野早秧先生を始め、アナスタシアによる貴重な教え、霊鷲太母が遺していってくれた「舟を岸につなぎなさい」と「仏眼」、これらは自分にとっては貴重であり、個人的には「心の断捨離」もほぼ終了することが出来ました。でもまだ足りないものがたくさんあるのです。

宇宙の、いや真空の、無というゼロの「場」の構造と働きを理解するには追及が足りなかったのです。今小田野先生の理論を学んだ人々でさえ地球環境の酷さの影響を受け、肉体的に弱っています。縁あって治療をさせて頂きながら、そこで又学ばせられました。理解を深めて行くのには「命の本質」を突き止めて行かなければならないと、病に指摘されているのです。今全世界の人々の大多数が「病気」です。厳しい指摘を受けているわけです。人は「気息奄々」にならないと行動を改めることをしない癖があります。

突き付けられた課題はとてつもなく大きなものです。人類全体の「気づきとそれによって可能となるあらゆる生物に対する愛他心の確立」です。あえて「開眼」あるいは「悟り」、はたまた「アセンション」とは言いません。そんな謂わば、「絵にかいた餅」を追い求めて苦闘することは必要かどうかさえ分かりません。また効果的なのかどうかも分かりません。何故ならそれを実現した人の数の少なさです。私としては「開眼云々」という状態は行動の結果であって、それが起きるか起きないかは自分で決められることではないのだと解しています。今まで見えなかったもの、明らかでなかったものを理解するには踏まなければならない道程というものがあります。カンニングは利かないのです。道理を理解することなく、何か奇跡的な「開眼」という結果を得ようとしてもそれは起きないということは既に見て来ています。

要は、「自我の消滅」を目的(本末転倒です)としないで、「自我意識」を持ったままで、それでもなおかつ具体的に何をすれば良いか、何が必要か、何が必要かということを明確にした指針があればそれを伝えて行くという仕事の一端は担えます。自分に授けられた範囲での才能を無駄にすることなく活用することで。

その答の一つ、いやもっと幾つかありますが、それを明確に、分かりやすい表現で示してくださっている本に最近出会いました。

斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』です。現在の、いやもっと昔から続けられてきたのですが、資本主義という経済機構が必然的にもたらす地球全体にわたる「気候変動」の危機に大きな焦点が当てられています。今、気候変動を否定する人はいないでしょう。実際に誰もが被害を受けているからです。夏に冷房が無くていられますか?自分でなくとも知っている人達が洪水や台風の被害にあっていませんか?干ばつと洪水と農地の汚染よる農作物の減少で、新鮮で美味しい食品の入手に苦労していませんか?他にも貧富の差による圧倒的大多数の人達の極度の貧困と飢えや、過労死するほど働いても楽にならない生活を目の当たりにしていませんか?

アナスタシアの言うところの「人類滅亡につながるテクノクラートの世界」、『舟を岸につなぎなさい』で16の議題として提示されている、いくつかもここに挙げておきたいと思います。議題に対する答えがこの本にあるからです。以下の三項目です。

一 文明が大車輪で発展すれば、災害も大車輪で大発展することに目を留めなさい。なぜか?

九 人類の苦しみの第一因は、要不要の算定を無視した物品乱造であり、悩みの最大因は、乱造せざるを得ない経済機構にある。ということについてと、その重苦から脱する方法について

十 物品乱造の結果、乱費となり、これが人類と他の万物との関係をどのようにしているかについて

この本に全ての答がある訳ではありません。経済学的見地に立って、理解すると、それだけでも地球蘇生の一端を担う一員となるかもしれません。斎藤さんは3.5%効果と呼んでいます。人類の3.5%が「そうか、そうか、そうなんだ」と分かったら、「起こってくる変化がある」のだと言っていらっしゃいますが、私もその意味が他のいくつかの教えと照らし合わせて納得できます。

後は光透波理論で示されている命の本質に対する理解を深めて行くという行動が、それを理解できる日本人と日本語を使って生きている人々に課せられている責務だとお伝えしたいと思います。人類の何パーセントかは分かりませんが、日本人の何パーセントかは理解しないと「変化のうねり」は起きないと思っています。光透波理論を学んでいない人たちにとっては斎藤さんの本が背中をどんと押してくださっていると思い、感謝しています。

以下は字分けです。

2021年8月に三人の知人が病気になりました。

人が肉体を持たされて(個として)生み出されて来た(子)此処(茲)、現世という「場」は肉体があるが故に、生きる為に戦い、切磋琢磨し、しかし反対に家族を持って愛と友愛を味わい、学んでは理解し、更なる試練や不都合を乗越える為に知恵を絞って行く、そういうところです。真言は少なく虚言の多い人類社会で、個人として孤独に耐えながら、あまりの辛さに愛を求め、騙され、利用され、「何故生まれて来たのだろう?」と悩み苦しみます。命の實親である宇宙親の元にUターンするには此処(茲HEREヒヤ日/時 也)という場にいる間に学ばなければ、親の意図が成就しません。叡智にもいろいろありますが、宇宙親の叡智は全知であって、普く負っている、つまり欠損欠落のない叡智です。でも誰もがあらゆる答を得ることはできないのです。降りて来た「場」の規制と限界内で生きる過程で突き付けられた難問の「答」を得るために「問う」ということをすることが課題なのです。「問えば答は頂ける」のはいつもいつものことで、体験ずみです。でも頂ける答もどれほどの名答かというのはその人の理解力に制限されてしまいます。練習、鍛錬を積むことで限界は広がりますが、それでも終わりなき道ではあります。何故なら、至高の答(T)の透明度、明快度はあまりにも深く、自我意識を抱えて生きている人の理解がはるかに及びません。それぞれの限界内で理解できる範囲の答です。これを積み重ねて行くのが、8方向にリカヒ(理解)のヒカリ(光)、即ち波紋のように拡散して行く知恵(波智)、を放って行く影響力の大きさに正比例して行くと捉えています。

命の場でどれだけ「イノチ意能智」というものの本質を理解しているかが命の健康度に響いて行くのではないかと思います。病は「愛の鞭」です。「無知で真の叡智という愛」は受けられません、実は受けているのですが、それに気づけないのです。無知とは知識が無いという意味ではなく、不断に平等に与えられている叡智を拒絶している状態を言います。壁を作ってしまっている状態の人のことを指します。以前書いた記事の中の表現ですが、「バカの壁」です。全ての現象体は人間も含め動植物も平等に親の愛を受けています。ただ人間はそれを認識できないのです。たまに認識しても、「自分は賢い、人より優れている」と自負した途端に真の叡智との間に壁が出来てしまうのです。

これは自分でも毎日確認して戒めにしてゆくつもりです。

2021.08.20