困ったさん

以前勤めていた会社の上司のOさんは海外から帰国した私が日本社会に馴染めるように厳しくしかし温かく教育をしてくれました。その時の私の呼び名が「困ったさん」でした。
お辞儀の仕方、ミスをした時の謝り方、エレベータへの乗り込み方、何人かで歩く時の身の置き場、挨拶の仕方等、実に細かく丁寧に指導をしてくださいました。ユーモアのある方で、私が誰かにお辞儀をしているのを見て、
「君、腰が悪いの?」と訊くのです。
「はあ、若い時にぎっくり腰をしてから云々」とトンマな返事をし始めたのに対しては手を振って止めて、
「あのね、お辞儀をするときには体を二つに曲げるものなんだ。首だけコックリじゃだめ。頭を深くさげて、両手の平を膝につけて、ゆっくりと、一、二、三と数を数えるの。相手が誰かで数は変える。分かった?腰は治しなさいね」、という風でした。
かなり強く叱られたのは見積書の桁を間違った時です。通常かかる費用から計算して十分の一の金額で仕事を受けてしまったら会社は大損するわけです。しっかり意見されてから一緒に謝りに行ってくれましたが、担当者が変に思って稟議をあげていなかったので事なきを得ましたがこれは本当に落ち込みました。
「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあります。親元でぬくぬくと甘やかされて育つと世間に出てから通用しない人になるからあえて世間の波風にさらして子供を鍛えてもらうという意味だそうです。私の母は小さいときから私を他家に預けては何日も何週間もどこかへ行ってしまう人でした。まあ、それでも家にいる時には甘やかされていましたが。ともかく二十歳からよく海外へ一人旅をしました。二十歳後半からはアメリカで生活をしました。そして帰国後にOさんに出会った次第です。何をかくそうバイリンガルのお話の中に出てくるセミリンガルにより近い私でした。

私は生涯を通じて良い師に恵まれたと思います。小田野先生もそうでしたが良い師とは智恵と知識があるというだけではなく、愛がある人だと思います。今でもOさんを思い出す度に「困ったさん」という声音の中に込められている情愛を胸に沁みるように感じます。亡くなられて十年ほどになりますが、その人の愛は人の心にまだ生き続けているのです。まさに「愛は永遠なり」ですね。

情愛はエネルギーそのもので、強い伝播力を持っています。愛ある人の周囲には大勢の人が集まってきます。人は無意識のうちに自分にとって心地よいものをしっかり選び分けているのです。もちろん動物も、そして今は多くの人たちも認め始めていますが、植物さえも情愛に反応します。毎日大酒を飲む、覚せい剤を飲む、大食する、家事の手伝いを全く分担せず用事を頼むと怒って切れる、鬱になって引きこもる等の行為は情愛というエネルギー不足が原因です。こう言いますと、子供がこれらの行為をしている親御さんは怒るかもしれませんね。子供にはたっぷり愛を降り注いていると思って疑わないでしょうから。でもその愛にも種類があることを考えてみませんか。

厳島瀬戸内海に厳島という島があります。「イツクシマ」と読みます。大きな神社(神のやしろ)があり、世界遺産になっていますね。音が運んでいる他の文字でまず頭に浮かぶのが「慈しみ」です。厳しいのが慈しみと教えていただいていると受け止めています。厳しさが情愛なのかどうかの判別法のひとつは親が子供に対して、

「怒る」のか「叱る」のかどちらなのかだと言えます。怒る場合は怒りという感情が混じっていますが、叱るのは諭すという行為です。諭すとは「目下の者(子供は目下)にことの道理を理解できるように言い聞かせる」という意味です。ことの道理を理解できるように言い聞かせるためにはカッカと頭に血が上って怒っている時にはできません。怒りという感情は主として大脳の偏桃体という感情のセンターが優位で活動している状態で起きています。「道理を理解させるために考える」時には前頭葉の前野が優位に活動しています。前頭前野と偏桃体の働きは拮抗します。つまりどちらか一方しか働かないという意味です。

怒っている時には叱れないのです

Oさんの諭しにこもっていた愛情は今でも私の胸を温かく潤しているのですから、子供にとって親に叱られた記憶は一生を通じて胸を温かく潤し、自己破壊的な行為をしないような歯止めになるのではないでしょうか。

2016.2.2 記

バイリンガルって本当にいいの

 

小田野先生の字分けシーン

バイリンガルって本当にいいの

バイリンガル、モノリンガル、セミリンガル、ナイリンガルについて

日本語という言語は日本以外の国では話されていません。ご存知のように今世界で一番多くの国で公用語として使われている言語は英語です。英語圏(地図のピンクの部分)というのは地理的にも広域で、南北両大陸にまたがっています。広くてもロシア語圏(グリーン)や中国語圏(オレンジ色)は使われているのはその国のみです。多国的に広がっているのはスペイン語圏(褐色)、フランス語圏(黄色)です。カナダは英語域とフランス語域が混在しているので縞模様になっています。日本など見つからないくらい小範囲ですね。ただし英語以外の言語圏の人たちも世界会議などの場面になりますと英語が主要語になっています。インターネットで何か調べようとすると他言語の文献も英語に訳されて発表されていることが分かります。つまり英語は国際語になっているわけです。英語ができたら便利だろうなと思う人の気持ちはよくわかります。

world_language map

では、本題に入りましょう。

この頃三歳から英語を習わせようとしている動きがあります。流行と言ってもいいでしょう。そしてバイリンガル教育という言葉をよく見かけるようになりました。でも皆が皆三歳から英語を習ったらどうなるのかと少し心配です。ではまずこの語の意味を少し詳しく調べてみましょう。

バイリンガルとは

多くの要素が複雑にからんでいる語です。一般には単に二つの言語がほぼ同じように話せ、文章も読める人という意味で使われているし、そう思っている人が多いのではないでしょうか。でも話せるということが必ずしもその言語が使われている地域の文化理解していることにはなりません。文化とは風俗習慣、宗教、歴史と歴史上の著名人、社会通念、善悪の基準、政治的経済的な仕組み等の他にマナー、食習慣、漫画や映画などの芸能と芸能人など全部を含んでいます。同じことが母国語にも言えます。上に挙げたようなことを知らないで人づきあいや会話が上手にできるでしょうか。

まとめますと、バイリンガルとは二つの文化にまたがってそれぞれの言語をほぼ同等に話せ、読め、それを使って深い思考ができ、地域社会に馴染める人となるかと思います。それは次を読めばもっとよく理解できるでしょう。

セミリンガル

よくある例は、母国語形成期(0~4歳くらいまで)に両親の母国から外国に移住し、言語形成期(4~14歳くらいまで)にも大方外国で暮らした人たちです。両親からは母国語を周囲の大人からは両国語混在で話しかけられ、言葉を教えられ。学校では外国語を使って生活をした結果、いわゆるバイリンガルになったと思われています。おそらく本人もそう思っているでしょう。しかし実際にはどちらも母国語にはなっていない場合があるのです。英語を話すとブロークン、文法やスペルは間違いだらけ。マナーも悪いとひんしゅくを買う。日本語のほうは敬語も丁寧語も普通語もめちゃくちゃ、漢字もほとんど読めない、書けない、挨拶もちゃんとできない、となっています。「英語力50%、日本語力50%、合わせて100%、それでいいじゃん」と言う冗談がありますが、これは困った結果を生みます。どちらの社会でも高等教育は受けられなくなりますし仕事にもつけなくなります。こういう人たちはセミリンガルと呼ばれることがあります。言語形成期に二つの言語が同時に入ってくる環境でうまく振り分けが出来れば良いのですが、それが出来ない子供の場合は十分な言語力の発達が阻害されてしまうことがあるのだそうです。学校も現地の学校と、例えば日本人学校のような祖国の言語が使えるような特別教育をする学校と二つの学校に入り、他の子供たちが放課後に遊んでいる時にも勉強させられるという生活を強いられます。外国人と同国人の二つの文化の間でうまく人付き合いが出来、そのうえ遊びという社会性を養う絶好の成長の場が削られるというハンデイも背負います。それを乗り越えてどちらの文化にも完全に溶け込めなかった子供たちがこのジャンルに入るのです。ある意味で被害者と言えます。

先ほど書きましたように、三歳からの英語教育に関して心配なのは一つの言語を完全に母国語とすることが出来ないうちに他の言語の影響を受けて正常な発達が阻害される危険性を理解して対策をとる姿勢で臨んでいらっしゃる親御さんたちばかりではないのではないかということなのです。

モノリンガル

モノリンガルは一つの言語を生まれながらに使って生きている人です。生まれた国で親や親せきや学校の友達と一緒に育って、無理なく身についた言葉でコミュニケーションがごく当たり前にできるので問題は別にありません。時々、「外国語ができるようになりた~い」と憧れて(外国旅行に行くとこうなる人が多い)、会話学校などに入って多くの場合は途中でやめる人も大勢いるようですけれど。言語形成期を過ぎてからの外国語の習得は難しい場合が多いからです。でも出来なくても痛痒はないのですから悩むことはあまりないと思います。母国の言葉を大切にしてなるべく心からの声を相手に伝え、友達の輪を広げて行き、温かい社会を作る一員になっていただきたいと思います。美しい言葉を豊かな表現力で使うことのできるモノリンガルエキスパートになっている方が、外国語が少しできて母国語が下手なよりずっと素晴らしいと思います。 日本語と日本人のユニーク性については他でお話しします。

さて、最後に出てくる「困ったさん」はナイリンガルですが、これは私の造語です。あえて失礼な言い方をすると、ある意味で母国語が一つもない人のことす。

「え?あたし今日本語話してるじゃん」と頭の上に?マークが出ている方に申し上げます。母国語というのは、その能力が十分に発達した段階において、「論理的な思考ができる言語」を指します。また。「他者の言わんとするところが、よく理解でき、その相手が言っていないこと(ニュアンスと言います)もくみ取れる言語」のことです。今風に言えば「空気が読める」でしょうか。アメリカで暮らしている時に日本の方たちからよく聞いたことですが、「外人の言っていることってニュアンスがよく分からないんだよね」と。

ここまでくると私は、しっかり説教ばあさんになっています。そして「今さらそんなこと言われてももう遅いわ」と不愉快に思われたり、傷ついたりされた人もあるかもしれません。でもご安心ください。幾つになっても脳は発達するのです。

以下は「日本学術会議・面白情報館」に出ていた記事です。他にこういう回復例はいくつもあって、アメリカの「脳溢血による失語症友の会」に相当する会にいろいろな症例が載っています。そのうちに少しご紹介するかもしれません。

ドイツに住んでいる中年男性のBさんは、となりの人の家に招かれて楽しく話をしている最中に、突然体調がおかしくなり、意識を失ってしまいました。目が覚めたときは病院にいて、医師たちに取り囲まれていましたが、彼らが話していることがまったく理解できません。しかも、自分から言葉を話すこともできなくなっていました。  普通、私たちが言葉を聞いて理解したり、話したりするとき、左脳の「言語野(げんごや)」とよばれる部分を使っています。Bさんは、脳卒中(のうそっちゅう)で左脳の言語野をやられてしまったのです。その後Bさんは、一生懸命にリハビリを行い、ついに言葉を取り戻しました。Bさんは、どうして言葉を取り戻すことができたのでしょう?

Bさんの脳を調べたところ、左脳の言語野の機能を、なんと右脳が肩代わりしていることがわかりました。左脳にある言語野が、右脳に移動していたのです。 Bさんのケースは、大人の脳でもニューロンネットワークが組み変わることができることを示しています。

イギリスの有名な劇作家のバーナード・ショーは、94歳で亡くなるまで多くの戯曲(ぎきょく)を残しましたが、90歳代に入ってからも数編の戯曲を書いています。脳はたとえ老人になっても、豊かな創造性や活動をすることができるのです。
ニューロン(神経細胞)は、1日に10万個死んでいくといわれます。ニューロンの数は基本的には増えることはなく、減る一方ですが、心配することはありません。ニューロンには新しく突起を伸ばしてネットワークを作り上げていく力があり、老人になってもその力はなくならないのです。  実際、老化して亡くなった人の脳のニューロンを調べてみると、むしろ若い人よりも豊かな突起のつながり方をしている場合があります。老化した脳は、確かに若い脳に比べて反応のスピードなどが遅くなったりしますが、豊かに作り上げたニューロンネットワークを使って学習したり、若者にはない知恵や思考を展開できるのです。

https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku4/kioku4_2.html

何歳からでもコミュニケーションの能力は伸ばして行けるということですからがっかりしないでくださいね。失礼な呼び方であると承知でナイリンガルなどと言ってしまいましたが、言語力はいくつからでも身につけられるということならそこからの脱却を目指していただきたいと思います。

先ほどちょっと触れましたが、日本語のユニーク性についてはまだまだこれからもお話ししてまいります。
2016.1.29

田の字分け

田と言う字をフラワーオブライフと呼ばれる神聖幾何学的に見てみました。
まず字を分けてみます。の線は重なっている部分です。
その形を一つずつ見ると、漢字の円が二つあることが分かるでしょうか。

田の字分け1円が二つ

次に円を二つ中心で重なるように描きます。文字の円はちょうど半分の位置で重なっていましたから。円もそうすると図のようになります。

2円の図

ベサイカパイシュスこの形は神聖幾何学的にははとても重要な形です。ベサイカパイシスあるいはベシカピシスと呼ばれています。訳すと「聖なる魚」となります。宇宙の母胎、子宮を意味するそうです。他にもキリストのシンボルともされています。ともかくこの原初の形からあらゆるものが生み出されてきたと言われているのです。
田という字は光透波理論においては万物の生み出されて来る処とされています。土の上にある田からはお米が出てきますね。天の田からは米だけでなくすべてのものが生まれてくる処と解されています。図らずも(私たちが図れるものではありません)洋の東西で創造の源が形の上ではある一致点を見たことになります。正方形の中に十文字が入った形を分解すると円という字が二つ真ん中で重なっていることが偶然とは思えません。
ではここで、この二つの円が三つ、四つと増えてできた形が花のようにになっているので生命の花とい名前がつけられている状態がビデオになっているので見てみましょう。

最後に二次元画像から立体へと立ち上がったら立体の田という形が出てきたのが面白いですね。

次の字分けは「雷」です。
2016.1.27

困った時の文字頼み

光透波のお勉強を始めて今年でちょうど20年になります。その間人並みに多くの問題に直面させられました。時には「字分け」なんかで助かるものか、と疑ったこともありました。何日も何週間もまともに字分けをしないでいたことも何回もありました。しかし不思議なことにやはり最後は「字に聞く」という手段に戻って行くのです。私にとっては最後の頼みの綱なのです。

行き詰った状態の時、机に向かって、あるいは手帳を開いて鉛筆で問題となっている事柄、あるいは気になる言葉を文字に書き始める。電車の中などでは頭の中でノートを広げ、そこに想像の鉛筆で書きます。すると次々に「思い」という波が押し寄せてきます。それを見つめ、噛みしめ、味わい、整理して行くという作業をしていると問題の核心が見えてきて解決法も出てきます。

解決法は一気にできるものと、時間がかかるものと様々ですが、いつかは必ず解決しました。他者が絡んでいる問題でもその他者を離れたところ(その人を変えたりしないという意味)で解決できるのだということを経験しました。問いに対する答の典型的な出方は朝起きる前に夢または文字のイメージ、または声で入ってきます。声は小田野先生だけではなく、好きな聖者、家族、友人などもあります。20年の経験で分かった非常に簡単なルールをお教えします。

問えば答がいただけるのです。問わなければいただけません。

以下は小田野先生の言葉です。

字の前に、自分の意(心音)を澄ませる者が、
やがて永劫の英知に同化して
無限に生きる可能性が開かれます

難しい言い方ですが、分かりやすく言いますと、永劫の英知という至高の速度の光のエネルギー(光透波)の振動数に少しでも近づいて行きたいと、心の奥底から願い、求め、謙虚になって字に向かうことです、謙虚になるということは、頭に充満している思い込みや知識をいったん手放すという意味です。よく言われる喩えですが、「いっぱいのコップにはもう水は入らない」です。

2016.1.27 記

病が治る人、治らない人

今年の始めに訪ねていらした女性がありました。治療関係のお仕事をされている方で私も温熱治療なるものを少ししている関係でお話が弾みました。少しお疲れとのことで、温熱をさせていただきながらお話を続けましょうということになりました。あちこち熱いようで(健康体ならそれほど熱いとは感じない)体調を崩していることを自覚されたようで、その原因のお話になりました。働きすぎは確かにあるでしょうが、それよりも何よりも何か心に屈託があることが分かりました。

病気の原因はいろいろありますが、中でも特に大きな比重を占めているものは精神的な疲れのようですねと意見が一致しました。治療の手法は何であれ、いくら治療をしても効果が上がらない人とそうでない人が常にあります。病の重さとは別に短期間で良くなる人とそうでない人の違いは何でしょうと訊かれたので、思わず「それは生きがいの有る無しだと思います」と答えている自分の声が聞こえました。「答えている自分の声が聞こえる」とは変な言い方だと思われる方もあると思いますが、何か質問されて間髪を入れずに答が口から出てくる時、私は自分がそれを知っていることに気づいていないか忘れている時なので、聞いてみてから「ああ、そうか」といまさらながらに気づくわけです。

生きがい! はっとしました。この頃の自分には情熱を傾けて打ち込む何かが足りないのではないかという何とも言えないもやもやとした焦りのような気持ちがあり、それが原因で体力気力の低下を自覚していた矢先でした。早速情熱というテーマでさまざまに思いを巡らせては内観をし、字を分けても見ました。字を分けるということの効能については別のページでさまざまな角度からご紹介をして行くつもりです。人の心はとても複雑な迷路のような構造をしている上に単なる平面的な迷路ではなくそれが顕在意識という表層部と潜在意識という深層部、これがまた何層にもなっているというやっかいなものなので、治癒の経緯も一筋縄では行きません。それでも生きがいは大きな要因であるとは思います。

ともかく生きがい作りに少し集中して見ようとこの日に思い立ちました。それがこのサイトを作るきっかけになった一連の出来事の一つなのです。他のきっかけについては光透波のページでお話しをいたします。

2016.1.12 記

4番目の問題

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

個人を構成している要素ー私は何でできているのか

私には菊池静流という名前があって戸籍にはそのように記載されています。この名前が個人と他の人とを区別しているしるしの表示ラベルの役目をしています。名前がないと他の人と区別がつきません。存在していないも同然なのです。法律的には名前がないとその国の市民であるとは認めてもらえません。パスポートももらえませんし、銀行口座も作れません。結婚もできないし、家も買えないし、学校にも入れません。ある意味で存在していないわけです。

さて、私という人の存在を私が認識する、これを自己認識と言いますが、その為には何が必要なのでしょう。「ここは何処?私は誰?」の誰に当たります。自己紹介ではまず名前を言いますね。それから何処で生まれ育ち、何を職業としていて、家族はこれこれ、趣味なども付け加えたりします。そう発表している際に私たちは頭の中の記憶庫に保存されている子供の頃からの様々な体験を思い浮かべています。家族の話をしている時には家族の顔や名前、性格、一緒に過ごした体験も思い浮かべていると思います。楽しかった、美味しかった、つらかった、悔しかったなどの感情もよみがえってきます。味も匂いも景色も浮かんできます。

ではこのような情報が記憶庫から取り出せない、あるいは記憶庫そのものが縮かんで固まってしまったらどうなるでしょうか。自分が誰か分からなくなってしまいます。迷子になったお年寄りが家に帰れないのは自分の名前や住所が思い出せないからです。つまり、

私とは記憶の集積でできているわけです

自己認識とは記憶に依って可能となっていると言えます。この記憶の働きをコントロールしている海馬その他の頭の中の器官が鈍ってしまわないように頭を鍛えていなければなりません。そこで頭を鍛えるという鍛錬についてはこれから「光透波理論」という手法に基づいて少しずつお話しして行きます。

2016.1.13 記

脳は全自動にしてはいけない

メニューには頭のページとありますが、帽子の台の話ではなくこれからお話しして行こうと思っているのは実は脳のことです。

脳が何をしているかは皆さまよくご存じですね。脳が働いていなかったら、体は動きません。考えることもできないし見ることも聞くこともできません。要するに生活できないのですが、これの使い方は人によって千差万別です。天才から普通の人(おおざっぱなくくりですが)、認知症で生活全部を他の人に介助してもらって生きている人までいます。

皆さまは今このブログを読んでいらっしゃるわけですから認知症にはなっていらっしゃらないと思います。認知症の初期の兆しは、「知らないことに対して好奇心が起きない」というものです。新しい情報を取り込んでそれを使って今までしたことがなかったことを始める、考えたこともなかったことにつて考えてみるという気がなくなってしまった状態になっているということです。たとえば定年退職後に今まで妻任せだった料理を始める、娘と孫が住んでいるアメリカに行くために英会話を習う、運動不足解消にダンスを習う、楽しく頭をひねることができる俳句をひねってみる等々。

日常的にずっとやってきた作業はあまり考えなくても手順がしっかり脳に刻まれているので出来るものです。いわば全自動洗濯機のようにスイッチを入れると自然に動き出すというのに似ています。慣れたことはオートマチック仕様、初めてやることはマニュアル仕様の機械みたいなもので、こちらは「考える」という作業をしなければなりません。これが苦痛になってくるのが脳の機能の後退の兆しです。

一度苦痛なこと(考える)を避けても生きていられるという経験をすると、「自分で考えて工夫をしなくても死なないのだ」と学習します。これはどんどんエスカレートして行きます。楽な方へ流れ始めると逆行は時と共にますます困難になります。脳はどんどん縮かんで固まって(脳萎縮)行きます。

高齢でも萎縮していない脳

左は同じ年齢でも中身がスカスカになっているBさんと、みっしり詰まっているAさんの画像です。見ればわかるように加齢による機能後退は誰にでも当てはまるわけではありませんね。

 

萎縮脳年齢比

しかし脳が老化しないように何か防止策をとっていないとやはり普通は年齢と共に萎縮はして行きがちです。食べるもの、運動不足による血行障害など生活習慣もさることながら好奇心や生きる意欲が不足したらやはり普通は若い人とは差が出てきます。

さて、人間も含めて動物は生存が脅かされるような危機に直面すると普段とは違う生理状態になります。死にもの狂いで知恵をしぼる(脳の活動を活性化するホルモンが出るため)、アドレナリンが出て普段の何倍もの力が出る(火事場のバカ力)、普段より敏捷に動ける(遁走行為あるいは戦闘行為を可能にするために生理機能が必要な準備をするため)など。臨戦態勢でボケる人はないと思います。死にたくないという本能があるからです。

ところが人間の社会は自分で生きるための作業が出来なくても誰か他の人が助けてくれるという仕組みになっています。助け合いは確かに素晴らしいことですが、日本のような経済的に豊かな先進工業国の社会では行き過ぎを警告するブザーが働いていないのです。

洗濯機なら洗い物を入れすぎるとブザーが鳴って動きませんが、

脳は全自動にしてはならない 

確かに自律神経という、機械に喩えれば出荷時の初期設定があって体が死なないように自動的に機能しています(恒常性維持機能)が、これ以外の作業は、考えながら、工夫しながら、なるべく自分で出来ることはやってみて、それでも出来ない場合だけ家族や友達やプロに頼む。知らないことは自分で調べてみる。そのうちに「考える力」が出てきます。この(振動するエネルギー波)が脳の神経細胞を奮い立たせ、新しい回路を作り(シナプス結合)私のような高齢者を認知症から護ってくれるのだと信じています。この「考える力」については光透波のページでお話をして行きますね。

追記。認知症の原因は大きく分けて加齢による脳機能の後退と脳の血管障害によって起きるものと、アルツハイマー病のような病気とがありますが、いずれも進行度の差はあれ、脳の萎縮が関わっています。アルツハイマー病は脳にアミロイドベータという毒素が蓄積する、レビー症もピック病もヤコブ病も皆脳に何らかの異物が蓄積して起きることが解明されています。他にも脳の病気はいろいろありますが、多くは生活習慣が関わっています。原因が何であれ、結果は脳の神経細胞が侵害されて行くものです。侵害された神経細胞は生き返らないのですが、脳には使われていない神経細胞がたくさんあります。使われていない細胞とはシナプス結合がされていない細胞のことです。そこで新たな回路を作って行くという作業が役に立つのではないかと思うのです。バイパスを作って行くわけです。

2016.1.23 記

字分けについて

字分けをする際にはまず字についている音(ふつうは音読みと訓読みとの二種類の読み方があります)。この字についている音を光透波理論では「字が音を云(はこ)んでいる」と受け止めています。何故なら字を見ると私たちはすぐに頭の中で読むからです。

例をあげますと、「神」という字を見ると、「カミ」または「シン」という音を頭の中で発音します。カ、ミ、シ、ンという4音が運ばれて来たとも言えます。

云ばれている音にはまたそれぞれ文字を当てる(当てる文字は表になっていて「云音表(はこぶね表と呼ばれています)」から引いてきて、当ててはその文字一覧を様々な角度からその人のインスピレーションのおもむくままに検証します。

字はまた形でもあるので形もインスピレーションのおもむくままに検証します。それが次の字分けのような展開となります。初めはなかなか自由自在な展開は出来ないのですが。どんどんやって行くうちに慣れて、そして出てきた結果にはビックリするものが多数あって、はまってくると面白いものです。

実際に字を分けてみてみましょう。

神という字を分けると、カタカナの「ネ」という字と「申」という字になります。「ネ」はまた示す偏という漢字の部首名でもあり、したがって示すという意味もあるので下に書いておきました。

字分け 神

音はネと読みますので横に書き加えます。示すという意味もあるので言いかえれば音が示すともなります。次に申すのはコトバです。口から出てくるコトバは音です。音であるコトバが神なのだと教えてくれているのです。コトバを話すにはその材料となる思いも必要なので当然「思が云ぶ」というのは納得できます。「ええ!神ってコトバなの?」と、ここで驚く人もあるでしょう。でもそこでハタと気がつくことがあります。新約聖書のヨハネの福音書に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった、言は神であった」と書いてあります。この続きを知っていますか?書いておきますね。「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。。。」

一応これで少し納得。他にもそういう類の神話や神秘学があるかなといろいろ調べるのも面白いです。視野がグ~んと拡がる感じがします。どんどん調べて行くと雑学が増えて、それを整理する必要が生じ、ついでに頭の中の引き出しの整理術も磨かれます。そうすると何故か家の中の整理整頓も上手になります。同じ原理による技能なのでしょうね。思いが整理されると話すことが要領を得てきて相手に分かりやすい会話がうまくなって行きます。コミュニケショーンがうまくなると人間関係はどんどんスムーズになって行くようです。そうなったらステキですね。話をするにしても中身になる話題が増えると面白くなります。一石二鳥ですね。

さて、次に難しいのは「母宇数」です。母がなぜ数なのでしょう? 「宇宙は数が基盤で出来ていてそれは母の性能である」と光透波理論は言っているのですが、これについてはいつか他の機会にもっと詳しくお話しします。今はただ、母は電性、父は磁性と関係した機能を持っているとだけ言っておきます。磁性とは中心に向かって集まって行く性質、電性とは中心から外に向かって広がって行く性質を意味します。引力斥力のバランスによってあらゆる存在が現象しているのです。母性原理、男性原理なんて言う文字を見かけると興味をそそられるようになります。そういうことを研究している人たちが書いた文章を読む気持ちが出てくるというのが大事です。理工系でない方は電気と磁気について調べてみるとビックリですよ。私は理工系ではないので今までちっとも知らないで生きてきたけれど、損していたかもとチョッピリ残念に思いました。知らないことを知る度に視野は拡がって行きますから。でも少し電気や機械のことが分かったら冷蔵庫の製氷機が故障したときにインターネットで直し方を調べて何とか直せた時は嬉しかったです。胸がワクワクしました。

話がだいぶ脇道にそれましたが、以上、字分けの効能のお話でした。

困った時の文字頼み