幽霊と直談判

今から10年ほど前のことですが、 それ以前から時々訪ねて来ていたある女性が折り入って相談したいことがあると言って来られました。どういう相談かと訊きますと、自分には死んだ人が見える。母親も三人の姉もやはり見えるのだと言いながら私の様子をうかがって、大丈夫そうだと分かったようで続けました。幽霊なんていないと一喝されたら話にならないから心配だったのでしょう。
相談の内容は、今オフィスビルの掃除の仕事をしているのだがそのビルに幽霊が出て気分が良くない。体が冷えるし暗いし嫌な場所でやめたいのだが、自宅の近くの職場で給料も良いのでできれば続けたいとのこと。それでお祓いをしてくれということと、幽霊にはどう対処したら良いかというものでした。
お祓いはさておき、幽霊の対処は生きている人と変わらない、何が言いたいのか訊いて、出来ることと出来ないことがあるのでしっかり交渉するようにと。また交渉の時に気をつけるべき注意事項も付け加えておきました。

2、3か月後にニコニコして現れた彼女の報告です。

幽霊はそのビルの建築中に足場から落ちて死んだ男性で、その家族が全くお供えをしないし、お盆も命日も全く何もしないというのだそうです。それでいつも腹が空いていてのども乾いているので何か欲しいと言うのだそうです。
「何が欲しいのか」と尋ねた途端に頭の中に、天丼、カツ丼、うな重その他の食べ物と飲み物が飛び込んで来た(声でなくビジュアルで入ってきた)ので手を振ってさえぎって、早速習ってきたセリフで「出来ることなら手伝ってあげても良いが限度があるし何時までもは出来ない」としっかりした声で断固断ると、急に弱腰になって、「じゃあオニギリでもいい。それと何か飲み物を」というので「水なら」と答えるとそれでもいいと言ったそうです。それで期間の交渉に入り、一月というのを一週間にまで下げさせて交渉成立。

翌朝家族の弁当を作るついでにオニギリを二個握って、沢庵も少し添え(優しい人なのです)、ペットボトルに水を入れ仕事に出かけた。その途上にある家の塀越しに小さなビワの実が沢山ついている木が目に入った。その日はそのまま急いで仕事場に行き、ロッカールームの棚の一番上の人目につかない場所に食べ物を置いた。翌朝は少し早く家をでて例のビワの木のある家の玄関のチャイムを鳴らし、出てきた人にビワを分けてもらえないかと尋ね、ちょっとした手土産を渡そうとしたら(すごく律儀な人なのです)、手を振っていらないと断られ、ビワの実を小さな枝ごと二本も切ってくれた(この人も親切ですねえ)そうです。例の場所に食べ物を置いて掃除を始め、終わったらその幽霊が出てきてお礼を言った時にビワが大好きだったので嬉しかったと言われたそうです。翌日は寝坊してオニギリを作っている時間がなくコンビニで買ったのを置いた。その日には「二個じゃ足りない。三個は要る」と文句を言われたそうです(前日のビワは棚においてるのねえ)。そのコンビニでオニギリを一個買って家に帰って計ったところ彼女が握ったオニギリ二個分が三個分に相当する量だったそうで、ちょっとすまないと思い、翌日はビールのマメ缶をつけた(全く律儀だねえ)。

一週間が経ち、最後の日にその幽霊が「ありがとう。俺はもうこれで行くから(きっと良いところに行けるでしょうね)、でも頼みがあるんだが」とおずおずと切り出した。何かというと、友達がいて(どこに?)やはり腹を空かせているのでと。これでようやく役目がすんだと思ってほっとしていた矢先だったので腹が立って、ちょっとつっけんどんに断ったら「一週間じゃなくて、三日でもいいから」と頼まれた。まあ三日ならと承知したがオニギリ二個なの?と訊くと一個でもいいとのこと、さすがにでもかわいそうで翌日から二個を三日間供えた。最後の日にもう一人の幽霊が来て、やはりお礼を言って、これで行くからと言ったそうです(どちらも気のいい幽霊だったのですねえ)。
それからほどなくして掃除係りの担当の会社の上の人に呼ばれ、突然給料を上げると言われたそうです。何故なのか不思議に思っていたらその男性が、前からこのビルには幽霊が住みついていて、暗くて嫌な感じがしていたのが、急に明るくなった。お供えをしていたのには気がついていた、ありがとう、と言ったそうです。
はい、めでたし、めでたし。

追記。これは余談ですが、お供えは仕事の帰りに下げて近くの川に流すか自分で食べたそうです。それからその女性の姉二人も訪ねて見えて、幽霊との交渉の話のお礼を言われました。年かさの姉の方は非常に鋭敏な人で、子供の頃から死んだ人に悩まされた人生だったそうです。妹の場合は良い霊で良かったが悪い幽霊との対応は非常に気骨が折れることなのだと言っていました。お祓いや相談事にも乗ってきたがもう疲れてしまったのでどんなに脅されても相手にしないようになったとのこと。その時から約二年後にその方は亡くなられました。まだ60歳前だったそうです。そういう血統のようなものがあるのですねえ。ちなみに小田野先生も私の母も見えた人です。
2016.3.5

幽霊は在るのか無いのか

 

 

幽霊は在るのか無いのか

幽霊を見たことはありますか。見たという人を知っていますか。

私がこの質問をした相手の半分くらいの人はどちらかの経験があると言っていました。要するに思ったより多かったということです。ただしこれは私の知人や友人が「類は類を呼ぶ」の喩えにあるように少し変わった人たちであるからかもしれません。でも誓って言いますが精神病の人はいません。

直接見たと答えた人の多くはその幽霊は亡くなった家族や友人だったとのことです。他には泊まった家やホテルなどで見た知らない人。変わった例は大勢の人が集まる公共の施設、葬儀場、競技場、会社のビル等でした。「見たと言う人を知っている」と答えた人より直接見たと答えた人の方が多かったのです。全員が嘘をついているか勘違いしていない限りはすでに死んでいるのにその姿が目に見えるという何かが在るわけです。

では目に見える何かということを考えてみましょう。肉体の目は道具としての役目を果たしています。いわばカメラのようなものです。肉眼というカメラのレンズの奥に網膜があり、それが視神経に接続されていて、その神経が脳の視角野につながっていて、「何を見たか」の認識をしているわけです。過去に見たものが何という名前かを記憶していると何を見たかという認識がすぐに出来るそうです。それはさておいて、視覚野や名前を記憶する脳の分野が損傷を受けると「目というカメラが捉えたもの」が何かは分からなくなってしまいます。脳溢血で多くの分野を損傷した脳神経科学者のジル・ボルト・テーラーさんや脳の損傷を受けた人たちの多くを実際に診察した脳神経学者のオリバー・サックスさんによれば、その人たちにとって形というものは何もなくて、
ぐちゃぐちゃの色の氾濫」が目に飛び込んでくるので苦痛であるそうです。

また見る機能にも個人差があります。私の知っている染色家によれば繊維や染料の色を二万色以上認識できるそうです。例えばグリーンという色に三千種類あるとして、それぞれの色を識別できるということです。また「オーラが見える」と言っている人を私は何人も知っています。見えるか見えないかの個人差があるとしたら幽霊が見えるかどうかも個人差があるのではないかと思います。
染色家の場合を例にとると、彼女は二万種類の色の名前を知っているのです。名前が識別を可能にさせているわけです。これは誰にでもうなずけることだと思います。

さて、オーラはどうでしょう?これは先に「在ると思っている」という信念があって、鍛錬すれば見えるようになると思っていると「見えるようになる」という場合と、子供の頃から見えたという場合があります。私は両方のケースを知っています。幽霊の場合も同じです。その人たちの場合は、

目というカメラが捉えた「形あるいは様々な色という振動」を何であるかと認識するプロセスにおいてすでに名称が記憶庫にあって、しかも「それは存在する」と思っていることが存在しているという認識を可能にしているということだと思います。
ややこしい言い方ですみません。でも見たからといって気体や光の色も含めて実体として在るかどうかはそれぞれの人にとって「何であるか」を認識するプロセスの違いによって異なるのではないでしょうか。プロセスには信念、期待、他者(親兄弟も含め)の体験談が大きく関わっているようです。

幽霊は在るのかどうかという題でこの話は始まりましたが、ユニコーンは在るのか、天使は在るのかという問いも提起したいですし、続きが必要な話題です。
次回は「精霊あるいはエレメンタル」についても触れて行きたいと思います。
2016.3.4 記

幽霊と直談判

神は電気です

前回は「神」を分けてみました。カミという音がついている字でした。今度は「カミナリ」という音を持った文字「雷」を分けてみましょう。
雷について「科学不思議探検」では分かりやすくこう言っています。

雷の正体は電気です。電気には、必ずプラスとマイナスがあります。電気は、このプラスとマイナスの間を流れるときに、いろいろな働きをするのです。 雷の電気も、ふつうの電気と同じでプラスとマイナスの間を流れます。ただ、ふつうの電気と少しちがうところは、空気中を流れるということです。ふつうの電気は、電線や鉄をつたわって流れますが、雷は、雷雲(かみなりぐも)の中で電気が発生し、はなれたところのプラスとマイナスの間に電流が流れたときに発生するのです。空気というのは、ふつうは電気を通しません。しかし、雷の電気は非常に強いために、ふつうは電気を通さない空気中でもむりやり流れてしまうのです。このとき、空気は熱くなりはげしくふるえます。 この空気のふるえが、あの雷の「バリバリ」や「ゴロゴロ」といった音になるのです。

雷を分けると「雨と田」の二文字ができます。雨という字は訓読みでアメ、音読みでウという音がついています。云音表を参照すると「于」という字が入っています。この字は+と-が合わさって出来ています。プラスとマイナスです。この字はウと読む他にココとも読みます。此処という電磁場が宇宙という処でもあります。宇宙に存在するあらゆる物質が大は星雲から小は微生物やそれより更に小さな原子に至るまで電磁場でもあるので文字通りだと言えます。文字通りってそういう意味だっだのね。

雷の図形

 

雨はまたアメと読むので「ア/空というメ/命(命は物質でなく空です)」であり、天でもあると字が示しています。天とは地に対して形のないもの、高きところにあるもの、神的なもの等を指す字です。田は「田の字分け」にもあったように物の生まれてくる処、そしてデンと読むので電に通じます。電磁場である于、天の田が「カミナリ」と字が示しているのです。神を成立させているものは鳴っている電気で神也(神である)というふうに解釈できます。
田の字分け

「神って電気なんだ」と、これも一つの側面です。電気は全くエコヒイキ無しの存在です。電気は悪人善人を裁いて地獄や天国行を決めたりもしません。単に「機能」なのですから。でも停電になると困るので大切です。現代生活においては日常生活全般に渡って頼っているものです。地上で便利に使っている電気の機能は天にあってはもっともっと重大な役目を果たしているのですがそれはまた別の機会にお話しします。

次は裸意ですが、裸(全く衣を着ていない実体そのものという意味)の「音の心」でもあるとも示されています。天の田という鳴る神が意なのだとも示していると理解しました。

今はまだ「だからどうなの」と思われるかもしれませんが、絶対的に中立で、無批判で好き嫌いなどない電磁気という働きが神なら宗教戦争は意味なくなりますね。本物の神、偽物の神などという論争は意味がなくなります。人間は長い長い間「神」という「概念(害念)」に振り回されて無用な悲劇を繰り返してきました。字を分けるという作業の意義は「概念」を洗い清めて行くことなのです。字が分かれるとその時に概念が割れて壊れて行くのです。すぐにはそうならないかもしれませんが、続けて行くことで少しずつ思い込みという頑迷な重りが軽くなって、自由になって行くのだと思っています。最後は羽化登仙となるといいですね。

2016.02.22 記

 

芸術にカンニングは効かない

人間は他の動物と比べると個体差が非常に大きな生物です。体の大きさや体形も肌の色も髪や目の色も違いますが、一番大きいのは各人の能力の違いです。私は運動能力があまり高くないのでオリンピック競技などでアスリートのパフォーマンスを見ていると、よくぞこんなことが出来るものだと感嘆します。人並み外れて芸に秀でるということは鍛錬を必要とします。この鍛錬の成果が人間としての限界近くにまで高まると「神技」と呼ばれます。
神技は見ているだけでも目を楽しませ、胸を躍らせ、爽快感や痛快感を呼び起こしてくれます。技とは磨かれた智恵の結晶で、これを芸術と呼びますね。ただし頭で考えているだけでは達成できないもので、行動を必要とします

You Tubeで見た神技をひとつご紹介します。他にも幾つか神技があるのですが、これは私が特に好きな技です。とても美しい女性ですしね。

まさに神技ですね。

言葉を使うのも技です。誰もが当たり前に毎日使っているのでそうとは気づかないかもしれませんが言葉の使い方が優れていて美しいという技も芸術だと思います。そして言葉を光透波にまで高めて行くのにも鍛錬が必要です。必要とはそれをしないでは達成できないという条件です。誰か他の人にやってもらって自分が成果だけをもらうことは出来ないのです。術とは行いを求めるという字です。また必ずそうすることが要である。つまり心の能き(ノ)が要るということも字によって示されています。
カンニングで美の創造はできません。

術と必

カタカナの「ノ」は命波では、能(はたら)きと解されています。デカルト座標(直交座標)の交点0 から、x、y の方向へ例えば1 進むと斜線が出来てきます。0 地点から動きが加わっている状態ですので働き(能き)を意味します。

ノと能

芸術という技を磨くには心の能きが要であるとのことですのでノラクラは時々の息抜きにして、心を込めて真剣に、それがどのような道であれそれぞれの意にかなった美を創造して人々に喜びと感動を届けて行きたいものです。

2016.2.9 記

理解という光

八田光典さんの「闇の進化」をお読みいただけましたでしょうか。闇は門の中に音が閉じ込められていると字が教えてくださっているのですねえ。音が生き生きと活動できる状態にないということなのでしょうか?考えてみましょう。

音が活動している、つまり展開している世界がこの私たちが存在している宇宙なのです。
どうしてか?

宇宙は振動するエネルギーで成り立っているという見方があります。物体も究極的には振動するエネルギーが素となって成り立っている「場」であると言えます。原子は中心核の周囲を電子が猛烈な速さで回転して作っている場と言えばイメージが浮かぶと思います。そして振動しているものとは音です。人間の耳に聞こえようと聞こえまいと、音です。この音が展開している処で私たちが存在している(と思っている)物体のある場所が三次元という処であると多くの人が思っています。しかし場所ではなく此処という処が心であると字が教えてくださっています。

幾何次元を見てみましょう。一次元は線です。幅のない線が無限に重なっていくとします。面ができます。二次元です。一次元の線だけから見ると二次元は90°立ち上がっている形と取れます。さて、広がりは出来ましたが厚みがありません。この面が無限に重なって行くとまた90°開いて立体ができます。図を見ましょう。

次元006

三次元になりますと、もうその形を崩さずに90°開くことは出来ません。しかし図にあるように直行する軸をx、y、zと三つとり、それぞれが90°開くと三次元の形を維持したままで、結果的に回転します。回転という動きは時間性能であると言われています。四次元は時間であるという言い方もされています。

つぎは字を見ましょう。

点が四つそれぞれ一から四次元と順番に並んでいると見ます。ちなみに点が四つある字は漢字の部首で連火と言います。連なる火ですからエネルギーという意味の字です。焦点はどちらも連火ですね。点が三つという字はありません。
ここで二つ目の二次元にあたる箇所に90°開いているというL の形を入れます。ちなみに光透波理論でアルファベットのL は開くという意味に取られています。

心の字分け 心という字ができています。ココロ、此処(三次元)というところにロ、云音表から参照すると「露」という字が当てられるので「露われている」と取ります。此処に露われているものが心とはどういう意味なのでしょうか。宇宙全体でしょうか。三次元全体と取りますと、一つしかないことになります。では私の心、息子の心、夫や妻の心という場合は別物でしょうか。大方の人はそう思っています。形がないのですから一つ二つとは数えられませんがそれでもなおかつ個々の心という境界線はしっかり各人によって作られています。横道にそれました。

では音と心を一文字にしてみましょう。「意」という字になります。意識の意、意味の意。意思の意です。意とは音が此処に展開しているという意味になります。その音が展開できない状態で閉じ込められているのが闇という状態であると教えていただいているのです。闇識、闇味、闇思では困りますね。

何か大きな気づきが起きたのではないでしょうか。起きたのならその現象は「理解」と呼ばれます。理解という字は以前「リカヒ」と読まれていました。逆に読むと「ヒカリ」、となります。自分が暗闇で手探りで這いまわっている状態をイメージしてください。どこに何があるのか、危険なものはないだろうか。出口はあるのだろうか、皆目見当がつきません。そこに光が差しました。一目瞭然、自分のいる場所が見えます。これが理解です。
2016.2.7 記

 

困ったさん

以前勤めていた会社の上司のOさんは海外から帰国した私が日本社会に馴染めるように厳しくしかし温かく教育をしてくれました。その時の私の呼び名が「困ったさん」でした。
お辞儀の仕方、ミスをした時の謝り方、エレベータへの乗り込み方、何人かで歩く時の身の置き場、挨拶の仕方等、実に細かく丁寧に指導をしてくださいました。ユーモアのある方で、私が誰かにお辞儀をしているのを見て、
「君、腰が悪いの?」と訊くのです。
「はあ、若い時にぎっくり腰をしてから云々」とトンマな返事をし始めたのに対しては手を振って止めて、
「あのね、お辞儀をするときには体を二つに曲げるものなんだ。首だけコックリじゃだめ。頭を深くさげて、両手の平を膝につけて、ゆっくりと、一、二、三と数を数えるの。相手が誰かで数は変える。分かった?腰は治しなさいね」、という風でした。
かなり強く叱られたのは見積書の桁を間違った時です。通常かかる費用から計算して十分の一の金額で仕事を受けてしまったら会社は大損するわけです。しっかり意見されてから一緒に謝りに行ってくれましたが、担当者が変に思って稟議をあげていなかったので事なきを得ましたがこれは本当に落ち込みました。
「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあります。親元でぬくぬくと甘やかされて育つと世間に出てから通用しない人になるからあえて世間の波風にさらして子供を鍛えてもらうという意味だそうです。私の母は小さいときから私を他家に預けては何日も何週間もどこかへ行ってしまう人でした。まあ、それでも家にいる時には甘やかされていましたが。ともかく二十歳からよく海外へ一人旅をしました。二十歳後半からはアメリカで生活をしました。そして帰国後にOさんに出会った次第です。何をかくそうバイリンガルのお話の中に出てくるセミリンガルにより近い私でした。

私は生涯を通じて良い師に恵まれたと思います。小田野先生もそうでしたが良い師とは智恵と知識があるというだけではなく、愛がある人だと思います。今でもOさんを思い出す度に「困ったさん」という声音の中に込められている情愛を胸に沁みるように感じます。亡くなられて十年ほどになりますが、その人の愛は人の心にまだ生き続けているのです。まさに「愛は永遠なり」ですね。

情愛はエネルギーそのもので、強い伝播力を持っています。愛ある人の周囲には大勢の人が集まってきます。人は無意識のうちに自分にとって心地よいものをしっかり選び分けているのです。もちろん動物も、そして今は多くの人たちも認め始めていますが、植物さえも情愛に反応します。毎日大酒を飲む、覚せい剤を飲む、大食する、家事の手伝いを全く分担せず用事を頼むと怒って切れる、鬱になって引きこもる等の行為は情愛というエネルギー不足が原因です。こう言いますと、子供がこれらの行為をしている親御さんは怒るかもしれませんね。子供にはたっぷり愛を降り注いていると思って疑わないでしょうから。でもその愛にも種類があることを考えてみませんか。

厳島瀬戸内海に厳島という島があります。「イツクシマ」と読みます。大きな神社(神のやしろ)があり、世界遺産になっていますね。音が運んでいる他の文字でまず頭に浮かぶのが「慈しみ」です。厳しいのが慈しみと教えていただいていると受け止めています。厳しさが情愛なのかどうかの判別法のひとつは親が子供に対して、

「怒る」のか「叱る」のかどちらなのかだと言えます。怒る場合は怒りという感情が混じっていますが、叱るのは諭すという行為です。諭すとは「目下の者(子供は目下)にことの道理を理解できるように言い聞かせる」という意味です。ことの道理を理解できるように言い聞かせるためにはカッカと頭に血が上って怒っている時にはできません。怒りという感情は主として大脳の偏桃体という感情のセンターが優位で活動している状態で起きています。「道理を理解させるために考える」時には前頭葉の前野が優位に活動しています。前頭前野と偏桃体の働きは拮抗します。つまりどちらか一方しか働かないという意味です。

怒っている時には叱れないのです

Oさんの諭しにこもっていた愛情は今でも私の胸を温かく潤しているのですから、子供にとって親に叱られた記憶は一生を通じて胸を温かく潤し、自己破壊的な行為をしないような歯止めになるのではないでしょうか。

2016.2.2 記

バイリンガルって本当にいいの

 

バイリンガルって本当にいいの

バイリンガル、モノリンガル、セミリンガル、ナイリンガルについて

日本語という言語は日本以外の国では話されていません。ご存知のように今世界で一番多くの国で公用語として使われている言語は英語です。英語圏(地図のピンクの部分)というのは地理的にも広域で、南北両大陸にまたがっています。広くてもロシア語圏(グリーン)や中国語圏(オレンジ色)は使われているのはその国のみです。多国的に広がっているのはスペイン語圏(褐色)、フランス語圏(黄色)です。カナダは英語域とフランス語域が混在しているので縞模様になっています。日本など見つからないくらい小範囲ですね。ただし英語以外の言語圏の人たちも世界会議などの場面になりますと英語が主要語になっています。インターネットで何か調べようとすると他言語の文献も英語に訳されて発表されていることが分かります。つまり英語は国際語になっているわけです。英語ができたら便利だろうなと思う人の気持ちはよくわかります。

world_language map

では、本題に入りましょう。

この頃三歳から英語を習わせようとしている動きがあります。流行と言ってもいいでしょう。そしてバイリンガル教育という言葉をよく見かけるようになりました。でも皆が皆三歳から英語を習ったらどうなるのかと少し心配です。ではまずこの語の意味を少し詳しく調べてみましょう。

バイリンガルとは

多くの要素が複雑にからんでいる語です。一般には単に二つの言語がほぼ同じように話せ、文章も読める人という意味で使われているし、そう思っている人が多いのではないでしょうか。でも話せるということが必ずしもその言語が使われている地域の文化理解していることにはなりません。文化とは風俗習慣、宗教、歴史と歴史上の著名人、社会通念、善悪の基準、政治的経済的な仕組み等の他にマナー、食習慣、漫画や映画などの芸能と芸能人など全部を含んでいます。同じことが母国語にも言えます。上に挙げたようなことを知らないで人づきあいや会話が上手にできるでしょうか。

まとめますと、バイリンガルとは二つの文化にまたがってそれぞれの言語をほぼ同等に話せ、読め、それを使って深い思考ができ、地域社会に馴染める人となるかと思います。それは次を読めばもっとよく理解できるでしょう。

セミリンガル

よくある例は、母国語形成期(0~4歳くらいまで)に両親の母国から外国に移住し、言語形成期(4~14歳くらいまで)にも大方外国で暮らした人たちです。両親からは母国語を周囲の大人からは両国語混在で話しかけられ、言葉を教えられ。学校では外国語を使って生活をした結果、いわゆるバイリンガルになったと思われています。おそらく本人もそう思っているでしょう。しかし実際にはどちらも母国語にはなっていない場合があるのです。英語を話すとブロークン、文法やスペルは間違いだらけ。マナーも悪いとひんしゅくを買う。日本語のほうは敬語も丁寧語も普通語もめちゃくちゃ、漢字もほとんど読めない、書けない、挨拶もちゃんとできない、となっています。「英語力50%、日本語力50%、合わせて100%、それでいいじゃん」と言う冗談がありますが、これは困った結果を生みます。どちらの社会でも高等教育は受けられなくなりますし仕事にもつけなくなります。こういう人たちはセミリンガルと呼ばれることがあります。言語形成期に二つの言語が同時に入ってくる環境でうまく振り分けが出来れば良いのですが、それが出来ない子供の場合は十分な言語力の発達が阻害されてしまうことがあるのだそうです。学校も現地の学校と、例えば日本人学校のような祖国の言語が使えるような特別教育をする学校と二つの学校に入り、他の子供たちが放課後に遊んでいる時にも勉強させられるという生活を強いられます。外国人と同国人の二つの文化の間でうまく人付き合いが出来、そのうえ遊びという社会性を養う絶好の成長の場が削られるというハンデイも背負います。それを乗り越えてどちらの文化にも完全に溶け込めなかった子供たちがこのジャンルに入るのです。ある意味で被害者と言えます。

先ほど書きましたように、三歳からの英語教育に関して心配なのは一つの言語を完全に母国語とすることが出来ないうちに他の言語の影響を受けて正常な発達が阻害される危険性を理解して対策をとる姿勢で臨んでいらっしゃる親御さんたちばかりではないのではないかということなのです。

モノリンガル

モノリンガルは一つの言語を生まれながらに使って生きている人です。生まれた国で親や親せきや学校の友達と一緒に育って、無理なく身についた言葉でコミュニケーションがごく当たり前にできるので問題は別にありません。時々、「外国語ができるようになりた~い」と憧れて(外国旅行に行くとこうなる人が多い)、会話学校などに入って多くの場合は途中でやめる人も大勢いるようですけれど。言語形成期を過ぎてからの外国語の習得は難しい場合が多いからです。でも出来なくても痛痒はないのですから悩むことはあまりないと思います。母国の言葉を大切にしてなるべく心からの声を相手に伝え、友達の輪を広げて行き、温かい社会を作る一員になっていただきたいと思います。美しい言葉を豊かな表現力で使うことのできるモノリンガルエキスパートになっている方が、外国語が少しできて母国語が下手なよりずっと素晴らしいと思います。 日本語と日本人のユニーク性については他でお話しします。

さて、最後に出てくる「困ったさん」はナイリンガルですが、これは私の造語です。あえて失礼な言い方をすると、ある意味で母国語が一つもない人のことす。

「え?あたし今日本語話してるじゃん」と頭の上に?マークが出ている方に申し上げます。母国語というのは、その能力が十分に発達した段階において、「論理的な思考ができる言語」を指します。また。「他者の言わんとするところが、よく理解でき、その相手が言っていないこと(ニュアンスと言います)もくみ取れる言語」のことです。今風に言えば「空気が読める」でしょうか。アメリカで暮らしている時に日本の方たちからよく聞いたことですが、「外人の言っていることってニュアンスがよく分からないんだよね」と。

ここまでくると私は、しっかり説教ばあさんになっています。そして「今さらそんなこと言われてももう遅いわ」と不愉快に思われたり、傷ついたりされた人もあるかもしれません。でもご安心ください。幾つになっても脳は発達するのです。

以下は「日本学術会議・面白情報館」に出ていた記事です。他にこういう回復例はいくつもあって、アメリカの「脳溢血による失語症友の会」に相当する会にいろいろな症例が載っています。そのうちに少しご紹介するかもしれません。

ドイツに住んでいる中年男性のBさんは、となりの人の家に招かれて楽しく話をしている最中に、突然体調がおかしくなり、意識を失ってしまいました。目が覚めたときは病院にいて、医師たちに取り囲まれていましたが、彼らが話していることがまったく理解できません。しかも、自分から言葉を話すこともできなくなっていました。  普通、私たちが言葉を聞いて理解したり、話したりするとき、左脳の「言語野(げんごや)」とよばれる部分を使っています。Bさんは、脳卒中(のうそっちゅう)で左脳の言語野をやられてしまったのです。その後Bさんは、一生懸命にリハビリを行い、ついに言葉を取り戻しました。Bさんは、どうして言葉を取り戻すことができたのでしょう?

Bさんの脳を調べたところ、左脳の言語野の機能を、なんと右脳が肩代わりしていることがわかりました。左脳にある言語野が、右脳に移動していたのです。 Bさんのケースは、大人の脳でもニューロンネットワークが組み変わることができることを示しています。

イギリスの有名な劇作家のバーナード・ショーは、94歳で亡くなるまで多くの戯曲(ぎきょく)を残しましたが、90歳代に入ってからも数編の戯曲を書いています。脳はたとえ老人になっても、豊かな創造性や活動をすることができるのです。
ニューロン(神経細胞)は、1日に10万個死んでいくといわれます。ニューロンの数は基本的には増えることはなく、減る一方ですが、心配することはありません。ニューロンには新しく突起を伸ばしてネットワークを作り上げていく力があり、老人になってもその力はなくならないのです。  実際、老化して亡くなった人の脳のニューロンを調べてみると、むしろ若い人よりも豊かな突起のつながり方をしている場合があります。老化した脳は、確かに若い脳に比べて反応のスピードなどが遅くなったりしますが、豊かに作り上げたニューロンネットワークを使って学習したり、若者にはない知恵や思考を展開できるのです。

https://www.scj.go.jp/omoshiro/kioku4/kioku4_2.html

何歳からでもコミュニケーションの能力は伸ばして行けるということですからがっかりしないでくださいね。失礼な呼び方であると承知でナイリンガルなどと言ってしまいましたが、言語力はいくつからでも身につけられるということならそこからの脱却を目指していただきたいと思います。

先ほどちょっと触れましたが、日本語のユニーク性についてはまだまだこれからもお話ししてまいります。
2016.1.29

田の字分け

田と言う字をフラワーオブライフと呼ばれる神聖幾何学的に見てみました。
まず字を分けてみます。の線は重なっている部分です。
その形を一つずつ見ると、漢字の円が二つあることが分かるでしょうか。

田の字分け1円が二つ

次に円を二つ中心で重なるように描きます。文字の円はちょうど半分の位置で重なっていましたから。円もそうすると図のようになります。

2円の図

ベサイカパイシュスこの形は神聖幾何学的にははとても重要な形です。ベサイカパイシスあるいはベシカピシスと呼ばれています。訳すと「聖なる魚」となります。宇宙の母胎、子宮を意味するそうです。他にもキリストのシンボルともされています。ともかくこの原初の形からあらゆるものが生み出されてきたと言われているのです。
田という字は光透波理論においては万物の生み出されて来る処とされています。土の上にある田からはお米が出てきますね。天の田からは米だけでなくすべてのものが生まれてくる処と解されています。図らずも(私たちが図れるものではありません)洋の東西で創造の源が形の上ではある一致点を見たことになります。正方形の中に十文字が入った形を分解すると円という字が二つ真ん中で重なっていることが偶然とは思えません。
ではここで、この二つの円が三つ、四つと増えてできた形が花のようにになっているので生命の花とい名前がつけられている状態がビデオになっているので見てみましょう。

最後に二次元画像から立体へと立ち上がったら立体の田という形が出てきたのが面白いですね。

次の字分けは「雷」です。
2016.1.27