縦の軸は父

生前小田野早秧先生がよくおっしゃっていたことに「どんな人にも両親はいるのよね、人殺しだって、詐欺師だってね」というものがありました。何回も聞いていましたが、その意味するところはほとんど理解していませんでした。両親の愛を知らずに育った人は大勢いるかもしれませんが、ともかく人は石や、木の股から生まれてくるわけではないのだということを何故かよく指摘していらっしゃいました。

両親があるという同じ条件下で生まれた私たち人間にとって、その親に対する思い、その親の子に対する思いや育て方で人生の悲喜劇が生じてくるわけです。親の生き様や考え方の結果として形成された人格が中心軸となって他の様々な環境的要因が加わって多種多様な人間性が表れてきます。その様々な人間が互いに関わりあって社会を作り、現代の人間社会が出来上がっているわけです。この現代社会を見てあなたは何を思いますか?

自分の周囲に幸せそうで満ち足りていて、穏やかな人柄の人がどのくらいの比率でいますか。そばに居るだけでほっとするような人、声を聞くだけで元気が出てくるような人はどうでしょうか。こういう人が大多数の社会を想像できますか?小さな集落ではあるでしょうが大きな集団、例えば国のような規模になると今の地球上にはおそらく無いと思います。

幸せな人とは幸せな親子関係を持った人(その親が生きていようといまいと)であるとインドの聖者カルキ・バガバンやロシアの覚者アナスタシアが指摘していますがその人たちの至言を待つまでもなく、常識的に考えても納得のゆくことですね。その親子関係を調えるための様々な手法を使ったセミナーで内観中にあることが起きました。父親が出てきたのです。実際に目の前に出てきた感じです。容姿も声や身振りもまったく父そのままの明瞭さで浮かび上がって来て、見つめると見つめ返してくるのです。そしてその目の中に悲しみと慈愛とが混じっていました。それから十年余り経った今これを書いている時でも私の目には涙が盛り上がってきます。甘酸っぱいような懐かしい涙です。話を戻して内観中のこと、その時の感情的反応をそのまま何もコメントせず見つめるようにあらかじめ指示されていたので胸が痛烈に痛む感情の激動を味わいつつ多くの思い出が映画のシーンのように目の前を通り過ぎて行くのを観察しました。その結果としてある気づきが起きました。

 私という人格の半分は機能していなかったのだ。私は不完全な器みたいなもので欠陥商品みたいなものだったのだ。私はまるで片親育ちの子供のような人間なのだ。

父とどういうふうに仲直りをすれば一番胸が楽になるだろうかと考えて真っ先に出てきた答えは「許す」でした。次が「謝る」、そして「感謝する」、そのあと「文句を言う」でした。胸に貯まっていたわだかまりをどっさり吐き出しました。許した後なので遠慮なく何でも言えました。甘えながら文句を言いました。肩を打ったりもしました。困った顔の父の目にはもう悲しみはなくなっていました。すっかり仲直りできた感じでした。後で知ったのですが2時間も経っていました。

母親との人間関係が悪い人は人生がデコボコ道のように困難が多く、父親との人間関係が悪い人はお金で苦労するとカルキ・バガバンは教えていらっしゃいます。私はこの時を境にお金の苦労があまりなくなりました。何かを売ろうとするとそれが一番市場価格の高い時で、すぐに売れ、買うときは値下がりしているというようになっているのです。これは功利的な点での話ですが、人間関係でも男性と気楽にリラックスした状態で付き合えるようになりました。以前は男性に対して構えがあったせいかそばに寄ってきてくれない人たちが大勢いました。怖いと言われたこともあります。衝突もよくあり、双方疲れるという結果になりました。振り返れば亡き夫には気の毒なことをしました。でもしっかり謝ったのでおそらく許してくれたと思います(ハハのんきだね)。

父とは先に出てきたエネルギー、男性原理で、命波では数値は「一」に当たります。まず父という縦軸が立って(成立して)初めて母という「二」の数値を持った横軸が立てられる。父母という二つの異なるエネルギーの性質が一体となることで「時空軸」が完成し、その後で「子」という森羅万象が生まれて来られる条件が整ったことになるので、古来日本では、

 一が二を生み二が三を生み、三が万象を生む

と言われています。両親が生きていようといまいと自分の心の中で起きている嵐のような葛藤は仲直りすることで静まります。嵐が去ったのちに訪れるものは平穏です。心の中心軸に平穏な安定性が出来たとき、その人は周囲の人から見ると幸せで、穏やかで、ほっとするような人になるのでしょう。それでも人生の荒波に対して時には振れたりはしますが。私ごとですが今はその時で、一緒に暮らしている家族が生命の危機に瀕していて余命いくばくという状態が続いていたのですが、今奇跡的に小康状態になり、こうしてようやく何かを書く気になりました。
2016.7.1記

続く
父の音、宇宙の種音

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/

 

 

フィクションもノンフィクション

前回の話のタイトルと同じじゃないの、と思った方へ。違います。前後が入れ替わっています。

この数年よく見る悪夢は道に迷って約束の場所に行けないというものと、ある集まりに出かけると全く場違いの場所で知っている人もいないし孤立して居心地の悪い思いをする上に、そこで何か話をすることになっているのに全く用意していないので立ち往生というもの。細かいことはさておき生理的には胸はドキドキ、頭はカッカとして考えがまとめられない、手のひらに汗で喉はカラカラ。

夢なのだから当然現実ではない、つまりフィクションの世界のようなものだけれど生理的反応は現実と全く変わらない。そういう意味ではフィクションもノンフィクションの世界と同じに心理的反応をしていることになる。脳は現実と非現実とを区別していないそうで、起きた事件がふとんの中で体は動いていなくとも脳としてはあたかも実際に起きているかのように反応するそうです。そして私の体験でも実際にそうです。

生理的に同じように反応できるなら悪夢の反対に楽しい夢を見れば幸せに感じる上に幸せな時にでるホルモンも分泌されるはずです。そういうときに出るホルモンは体を元気にし、若返らせてくれる効果もあります。脳の働きも活発になり、老化防止になることにつながって行くという理屈になります。どこにも行かなくて、従って費用もかからず、混雑もなく一石二鳥いや三鳥にもなるかもしれません。

良い夢を見るには体がリラックスしていると良いそうです。そのためには今日起きた好ましくない出来事を繰り返し追体験する癖を止めると良い睡眠がとりやすくなると思います。繰り返しとは「あの時こうすればよかった。何故しなかったのだろう。私は優柔不断な人間だ。まったく嫌になってしまう」、「あの時ああ言えばよかったのにすっかり誤解されてしまった。何故いつもこうなるのだろう」というように、すでに起きてしまって戻れない過去に縛られている癖は誰にでもよくあることだと思います。頭を一振りするときれいさっぱり忘れてしまって、さて寝ようと枕に頭がついたらすぐ眠れる人になりたいですね。それにいくつか良い方法があるようで、リラクゼーションの方法についてはは色々なハウツー本が出ていますし、幸せそうな人をお手本に秘訣を聞いてみても良いと思います。

幸せな人の例を一つ挙げます。私ごとですが母です。太母(たも)さんと呼ばれていました。自分のことを極楽とんぼと評していました。

  • その時その時で一番したいことを真っ先にする。場所をかまわず大きな声で歌を唄う(止められたらやめるだけ)。来客があるのに横になって昼寝をする。この場合は相手も誘う(若い女性の場合は相手が誰かを見て気をつけてください)。夜中に起きて片付け物をする(隣の部屋で寝ている私には大いに迷惑ですが気にもしていない)。食事の時間になっても草むしりをしている。夕方に昼食を食べている。好きな時にしたいことをしているので海外旅行に行っても全く時差ぼけしない人でした。これは一考の価値がある現象です。
  • 人の思惑を意に介さない(上記のことが出来る人なら当然ですが。相手が怒ると、「あなたは私、私はあなた。人間はみなひとつなの。人がどう思うかなどとくよくよするようなつまらないことはもうやめなさい」などと言って煙に巻く。それでもカンカンに怒っていると大きな声で歌を唄ってから何処かに消えてしまいます。怒っている人に理屈は通らないと分かっているみたいでした。
  • 「思い出して不愉快なことは忘れれば良い。忘れること神のごとしと言うじゃろう?何、忘れられない?困ったね。練習せんといかんね。不愉快になりたいという欲求を持っとるのかな?そうでないなら忘れなさい」と理路整然(?)と説く。相手は自分の盲点をつかれ驚いて反省する場合もあって、これは役に立つ。説いている人が幸せそうで健康で屈託がないので説得力があります。「復讐心は自分を痛める猛毒で相手には効かないという道理がある」とも説いていました。
  • 風邪をひくと大喜びで「お焚き上げじゃ。風邪は万病を払う玉ホウキ。ありがたい、ありがたい」と言って、よけい涼しい恰好をし、水を飲んで何も食べずに寝てしまう。熱も痛みも大体ありがたがって体さんにお礼を言っていました。「私が馬鹿者でも体は違う。細胞の一つ一つが智慧光の化身で自治の完成体。その賢い働きを妨げないことが肝要じゃ」と言っていました。つまり食欲が無ければ食べない。動きたくなければ寝ているということです。自然の法則に逆らわない生き方を知っていて実行していたわけです。
  • 人は生まれながらに幸せに輝いて生きたいという欲求を持たされて来ている。それなのに好んで不幸せになっている。その原因を突き止めることじゃ。それは心の奥底のそのまた底の潜在意識と呼ばれているものが自分は幸せになる資格がない、と思っていることが原因。何故そう思うようになったかというと自分は悪い子だと思っているからじゃ。良い子悪い子と区別するのは自分が他と離れて孤立しているように錯覚しておるからで、本当は人間は一人しかいないのだということが分かればそれで解決。

他にもいろいろあるのですが、今日はこの辺でやめておきます。

では何故人は好んで不幸せでいるのでしょうか。一つには現実と夢の世界という二つの世界にまたがって生きているという体験を二つの分離した現象と思っていることあるのではないかと思います。冒頭にフィクションもノンフィクションと書いたように、脳は体験によって生理的反応を起こします。感情的反応は夢であっても起こります。夢の世界とは「物理的には無い世界」です。この無い世界にもし本当の自分が住んでいて、物理的な世界には体の中に閉じ込められた「自分という存在、つまり自我意識」がいて、それだけが現実で、従って個別の存在で、多くの場合は理解もされていないし、愛されてもいないし、正当に評価されてもいない、感謝もされていない。とこのような孤独感を感じているのではないでしょうか。

意識は物理的境界の外にいつでも飛翔できます。限界を決定しているのはそれぞれの人のそれまでに受けてきた教育(まず親の考え方です)やそれまでの生活体験に対する反応行為の集積から引き出された偏った結論です。一人の人がその人生で体験することは限定されています。親の考え、教育制度を制定した国の方針、肉体的特徴(性別、容貌、運動機能、頭脳の働き等)にも制限がかかっています。これをいったん外側から見る、俯瞰するような視点を持つことが自由になるための第一歩だと思います。以前誰かの言いなりにならない、私たちは偽の情報の上に成り立っている人間社会に生きていると書きました。そのことをしっかりと踏まえてその上での視点の持ち方を考えて見ると今まで見えなかったものが見えてくると思います。

2016.6.1 記

ノンフィクションもフィクション

ノンフィクションもフィクション

本屋さんで書籍の販売コーナーを見るとノンフィクションとフィクションと二つにセクションが分かれて展示されています。フィクションとは虚構、作り事のことで小説はフィクションです。ウィキペディアを見ると「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味しているとも書いてあります。これに対してノンフィクションは史実や記録に基づいた文章や映像などの創作作品。また、その形態。ドキュメンタリーやインタビューなど多肢にわたる。製作上の綿密な調査や取捨選択など作成者の独自色が出る、と書かれています。

ノンフィクション

ここで間違ってしまいがちなことは、ノンフィクションは事実あるいは真実だと思ってしまうことです。史実や記録が間違っていてもねつ造されていてもそれに基づいて書かれた文章はノンフィクションというジャンルになっているのです。

最近健康に関連したセミナーをいくつか受講していて思ったことがあります。講師はそれぞれ体のことを専門に学んで学位をもっていらっしゃる医師や科学者で本も書いています。

セミナーではプロジェクターを使って様々なチャートやグラフを提示してそれぞれの主張するところを発表されます。統計学的な数値を次々に提示されると「なるほどそうだったのか、知らなかったなあ」と感心しますし、それが事実あるいは真実だとつい思ってしまいます。例をあげましょう。体に関する専門家で医師である人が、「牛乳は北欧の白色人種は消化できる人が多いが日本人も含むアジア人やイヌイットやアボリジニなど先住民と呼ばれる人たちには消化吸収できない」という説明でチャートには主な人種と消化力の有無とその程度が提示されていました。私も牛乳の消化力は低いし、知人で全く受け付けない人たちもいることからなるほどと納得しました。この専門家はまたワクチンなどの予防接種は効果がないばかりでなく、人体には有害なものが多いということ、薬も副作用を考慮するとあまり飲まないほうが良いという考えの持ち主でした。それからほどなくしてワクチンや薬に関しては同じような見解を表明している医師の本を読んでいたら、多くの点で先の専門家の意見と同じようなことが書いてあったのですが、牛乳と乳製品に関しては、どんどん食べなさい。安価である上に栄養価が高く、非常に優れた食品であると勧めてありました。どちらが正しいかどうかではなくそれぞれの意見なのです。それを踏まえて自分が選択をし、結果は自分が摘み取るということになるわけです。言われた通りにやったのにかえって元気がなくなった、責任をとれと言っても通用しません。

今はインターネットいう情報源があるために体の健康維持のことや食品の栄養価、病気のことを即座に調べることができます。人類にとって未曽有の情報源が無料あるいはほぼ無料で提供されています。調べる気さえあればいくらでも情報収集ができます。便利ではありますが、フィクションとノンフィクションが入り混じっていて混乱させられます。同じことに関し全く反対の意見があるために常に選択をしながら生きなければならないわけです。何かを調べる際には多くの情報源から複数の意見や調査結果を見て比較検討し、誰の意見も決して鵜呑みにせずに最後は自分で判断することが肝要かと思います。その時に大切なのは、

大自然の法則とそれに則して成り立っている完全循環型の生物圏の中で自分のとろうとする行為がはみ出していないかどうか。もしかして人間だけに都合の良い考えなのではないだろうかという問いを持つことだと思います。よく言われていることですが、「胸に手を当てて考えて見なさい」という言葉です。この場合の胸とはハートセンターと呼ばれる感情の状態が肉体に直に表れている場所だと私は思っています。「何かおかしい、変な胸さわぎがする、しっくりこない、気分が良くない」という感覚です。この感覚がいかに鋭いかどうかで人生が決まります。すぐに騙される人とほとんど騙されることがない人との違いが出てきます。覚者と凡人との差とも言えます。

誰それの意見はそれをすることでその人とその人の属している社会(企業、国家、職業分野等々)にとってのみ有利なのではないか。それによって困る人たち(他の生物も全部含め)がありはしないだろうか。そう考えながら物事を見て行くと感覚は鋭くなって行くと思います。

フィクションである小説は「事実らしい」ということが重要なポイントになります。事実らしくないとあまり売れません。多分ワクワクドキドキしないからでしょう。これはノンフィクションにもそっくりあてはまることなのです。「事実らしいだけで事実ではないかもしれない」と思って賢く情報処理をして行きましょう。

2016.5.8
フィクションもノンフィクション

 

 

見る喜び、美の形

 

桜
桜が散ってしまい急に淋しくなった周囲の景色が他の花々によって新たに埋められてきました。我が家の庭は白い花が多く、それはそれで華やかなものです。こでまり、ジューンベリー、ドウダンそしてシャクナゲと大中小の白い花が次々に開花。それらを見ると胸がときめきます。人は普通美しいものを見ると喜びという感情が湧き起こるようにできています。ただしそのような感情があまりない人たちもいるそうです。

2009年に発表された二つの調査の結果を見てみると次のことが分かったそうです。

まず精神病質者ではないと鑑定された一般の人と犯罪者として投獄されている人の内反社会的人格障害者(注1)と診断された21名の人の脳の違いを調査した結果、脳の前頭葉の二つの部分に関して大きな違いがあることが分かったのだそうです。一つは中前頭回(注2)という場所、そして眼窩前頭回(注3)という場所、どちらも嬉しいとか楽しいとかの豊かな感情を起こさせる場所だそうです。中前頭回の働きを促進するような軽い電気的刺激を与える実験で笑いを引き起こせることが分かっています。反社会的人格障害者において中前頭回が平均18%、眼窩前頭回が平均9%も小さかったそうです。

次に精神病質者27名を普通の人32名と比較した調査でも違いはでたと発表されています。この場合は感情のセンターと呼ばれている大脳偏桃体が平均18%小さかったそうです。
https://m.livescience.com/13083-criminals-brain-neuroscience-ethics.html

豊かな感情は子供の頃にその元が養われるそうです。凶悪犯罪者の多くがそうである社会病質者、精神病質者は憎しみや強い怒りのような感情はあっても喜びや幸福感のような感情の方は枯渇したような人が多いと言うことなのです。美しいものを見て美しいと感じることは当たり前と思うでしょうが、そうではない人たちも大勢いるのです。惨たらしいものを見ると面白がるという感情は美しいものを見ても感動しないということにつながっているかもしれません。また、人工的なものは美しくとも自然の美という完ぺきなバランスをもった形に比べると不完全なものも多々あるかと思います。美に対する感動は美しいものを見れば見るほど養われて行くと思います。そして美しいものを見る喜びの体験が多ければ多いほど偏桃体その他の脳の分野は発達すると思います。

こでまり3 (800x800)

ドウダン

シャクナゲ美のバランスに関しては黄金比というトピックでまたお話しして行きます。

注1.法律といった規範や他者の権利や感情を軽視して、人に対しては不誠実で、欺瞞に満ちた言動を行い、暴力を伴いやすい傾向があるパーソナリティ障害

注2.中前頭回はヒト前頭葉の、上側約 1/3 の領域を占める脳回」笑いが引き起こされる領域 刺激電流のレベルが上がるにつれ、笑いの持続時間や強度が増加した。 例えば、弱い電流は微笑みのみが生み出されるのに対して、強い電流では大笑いが引き起こされた。笑いの起きている間は言語や手の動きなどの全ての活動は停止した。

注3.網膜の裏側にある眼窩前頭野は、脳の前頭前野皮質と皮質下が出会う重要な位置を占めています。そして、情動脳である大脳辺縁系と、知性の脳である前頭前野をつなぐ働きをしています。つまり、情動の源である大脳辺縁系の偏桃体が喚起した情動を制御し、偏桃体からの要求を抑制する働きをするのです。周囲の状況を的確に解釈し、内的及び外的経験に照らし合わせて、意思決定を行なうためには、大切な部位です。この部位の機能が低下すると、共感する力が損なわれます。
多くの精神疾患、あるいは人格障害、発達障害は、前頭前野や帯状回、眼窩前頭野などの機能障害に原因がありますが、この眼窩前頭野の障害では、辺縁系の活動の調整、統合に支障が生じます。すなわち、抑制力の低下が起き、衝動をおさえられないといった、いわゆる強迫性を生じるのです。

バイリンガルって本当にいいの

覚者と凡人はどこが違う

私たちは自己というものを通常どのように認識しているのでしょうか。大方の人は自分が中心にいて周囲に自分を取り巻く環境がある。環境に家族、友人、その他の人々がいて人間社会が成り立っている。その他に動植物を含む自然環境がある、というふうに認識していると思います。つまり自分と自分以外のすべてという関係性においての自己認識だと思います。生まれてからずっとそのように教育されてきたのですから当然だと思います。

しかしこの認識の基盤に成り立ったあらゆる物の見方とその見方によって生活している間に体験を通じて確認され、定着した「固定観念という記憶」が病と不幸せという感覚の根本の原因になっているのです。つまり私という人は「固定観念が服を着ている」ごとき存在だと言えます。

固定観念は一部あるいは大きな部分覆されるか書き換えられることは時々あります。そのような体験をした人々を私は何人か知っています。ただ完全に固定観念が無くなった、あるいは元々ほとんど無かった人という人たちはあまりいません。この人たちは「覚者」と呼ばれています。

どうしたら固定観念から解放され。真に自由な思考ができ、不安と恐れと心配と欲求不満と病から解き放たれるのだろうか。その手法は古今東西の賢者や導師やトレーナーなど自薦他薦で提供されてきました。どれがどのくらい効果があったのかをここでは問いません。言えることは、「覚者はそう多くは出来なかった」ということです。命波の創始者である小田野早秧先生は「字分け」という手法を考案されて、私はそれを実践しています。字分けの目的は「自分とは何か、命とは何か、死とは何か」を明確に把握し、結果的にあらゆる偽物の情報から解放されることです。偽物の情報というのは現代社会という怪物を構成している要素のことです。覚者とは真理を知る者で、偽情報に騙されない人のことです。

字というものは実はそれを分解すれば真理が分かるように作られてあった教科書のようなものなのだということを発見された初めての人類が小田野早秧という人だったのです。発見に至るまでの様々な啓示現象はまさに奇跡そのものです。これからもこのブログでは小田野早秧という人とその生きざま、何故字分けが効果的な手法なのかということと、心身の健康との関係などについてもお話しして行こうと思います。
2016.4.7 記

フィクションもノンフィ

フィクションもノンフィクション

光透波とは何か

 

 

竜はDNA

竜という字を分けて見てみましょう。龍という字もありますが、竜はそれより古くからある古字だそうです。現在英語のDRAGONは竜と訳されています。

竜を分ける

音が開く(Lは開くという意味)と教えてくださっています。音は振動であり振動があらゆる物を作っていることは「理解という光」でも少し触れました。竜は神話や伝説上の生き物ですが、干支にもあるように私たちにとっては馴染みが深くそのイメージはどなたの意識の中にもしっかりと存在していると思います。そして竜には二種類あって、神社の柱などによく彫られているのは登り竜と降り竜のセットです。
さて、今回は竜を二つの観点から考察して見ることにします。次の図ではDNAの二重らせんと竜の関連性をリストアップしています。DRAGONの中にはDNAとRNA(注1)の両方があることを教えてくれたのは光透波の勉強仲間の藤田知江さんです。

DNAは竜

ご存知のようにDNAは4種の塩基で構成されています。4つの塩基の3つずつの組み合わせ(コドンと呼ばれます)は64種類です。64はムシと読めます。後で出てくる虫に関係するのでここで指摘しておきます。ちなみに64はまた易の卦(注2)の総数でもあります。
蛋白質はDNAが異なる種類の設計図を作り、それに従ってRNAが実際に働いて作られます。ここではそれらの関連性が字分けをすると出現するという驚異的な一例をお見せします。

蛋白質の字分

蛋白質の蛋は足を意味する疋と虫に分けられます。アシには吾思を当てました。吾の思い、個人である私の思いとも解せます。この思いは大部分自分が中心ですが、進化して行けばずっと愛他的にもなって行くでしょう。究極は無私の愛である無詞になりますが、その過渡期においては様々な挫折、失望、苦悩、苦痛を味わうという人生を体験するわけです。虫はまた64という数を運んでいます。ビックリ(吃驚)です。初めは吃驚などしないと思いますが、字分けをしているとだんだんに天の計らい、大自然の設計図の緻密さと精妙さに吃驚仰天するようになるのです。私はそうでした。
白は「・」と「日」に分けられます。天は・が回転して展開しているこの世界だとは他に書きました。日はヒと読むと日本語の数読みであるヒ、フ、ミ、ヨ、イの一、絶対という意味でもあります。絶対という唯一無二の天の白(コトバも意味します。告白の白ですから)という黄金の命の波である質(シツ)、詞に通じている質が「蛋白質」という言葉に込められているのです。読み解けばということですが。

概念で字を見る人は「虫」と見ただけで毛虫やムカデをイメージして気分が悪くなるかもしれませんが、64にすれば何の不快感もなくなります。無詞に至っては憧れの対象となります。このように概念から脱却するプロセスが字分けとも言えます。

注1.RNA(リボ核酸)には、メッセンジャーRNAのほかに、トランスファーRNA、リボソームRNAの3種類があり、これらのすべてが蛋白質生合成において機能している。
注2.古代中国では存在するすべての根源は宇宙の大局(陰陽の二つが出てくる元。言い換えるとプラスとマイナス)のもとにあり、その大局の変化によって自然界が変化していくと考えた。その変化が8つの形、すなわち、地・雷・水・山・沢・火・風・天である。さらに、この8つを組み合わせると64の卦ができる。
2016.03.16 記

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/

幽霊と直談判

今から10年ほど前のことですが、 それ以前から時々訪ねて来ていたある女性が折り入って相談したいことがあると言って来られました。どういう相談かと訊きますと、自分には死んだ人が見える。母親も三人の姉もやはり見えるのだと言いながら私の様子をうかがって、大丈夫そうだと分かったようで続けました。幽霊なんていないと一喝されたら話にならないから心配だったのでしょう。
相談の内容は、今オフィスビルの掃除の仕事をしているのだがそのビルに幽霊が出て気分が良くない。体が冷えるし暗いし嫌な場所でやめたいのだが、自宅の近くの職場で給料も良いのでできれば続けたいとのこと。それでお祓いをしてくれということと、幽霊にはどう対処したら良いかというものでした。
お祓いはさておき、幽霊の対処は生きている人と変わらない、何が言いたいのか訊いて、出来ることと出来ないことがあるのでしっかり交渉するようにと。また交渉の時に気をつけるべき注意事項も付け加えておきました。

2、3か月後にニコニコして現れた彼女の報告です。

幽霊はそのビルの建築中に足場から落ちて死んだ男性で、その家族が全くお供えをしないし、お盆も命日も全く何もしないというのだそうです。それでいつも腹が空いていてのども乾いているので何か欲しいと言うのだそうです。
「何が欲しいのか」と尋ねた途端に頭の中に、天丼、カツ丼、うな重その他の食べ物と飲み物が飛び込んで来た(声でなくビジュアルで入ってきた)ので手を振ってさえぎって、早速習ってきたセリフで「出来ることなら手伝ってあげても良いが限度があるし何時までもは出来ない」としっかりした声で断固断ると、急に弱腰になって、「じゃあオニギリでもいい。それと何か飲み物を」というので「水なら」と答えるとそれでもいいと言ったそうです。それで期間の交渉に入り、一月というのを一週間にまで下げさせて交渉成立。

翌朝家族の弁当を作るついでにオニギリを二個握って、沢庵も少し添え(優しい人なのです)、ペットボトルに水を入れ仕事に出かけた。その途上にある家の塀越しに小さなビワの実が沢山ついている木が目に入った。その日はそのまま急いで仕事場に行き、ロッカールームの棚の一番上の人目につかない場所に食べ物を置いた。翌朝は少し早く家をでて例のビワの木のある家の玄関のチャイムを鳴らし、出てきた人にビワを分けてもらえないかと尋ね、ちょっとした手土産を渡そうとしたら(すごく律儀な人なのです)、手を振っていらないと断られ、ビワの実を小さな枝ごと二本も切ってくれた(この人も親切ですねえ)そうです。例の場所に食べ物を置いて掃除を始め、終わったらその幽霊が出てきてお礼を言った時にビワが大好きだったので嬉しかったと言われたそうです。翌日は寝坊してオニギリを作っている時間がなくコンビニで買ったのを置いた。その日には「二個じゃ足りない。三個は要る」と文句を言われたそうです(前日のビワは棚においてるのねえ)。そのコンビニでオニギリを一個買って家に帰って計ったところ彼女が握ったオニギリ二個分が三個分に相当する量だったそうで、ちょっとすまないと思い、翌日はビールのマメ缶をつけた(全く律儀だねえ)。

一週間が経ち、最後の日にその幽霊が「ありがとう。俺はもうこれで行くから(きっと良いところに行けるでしょうね)、でも頼みがあるんだが」とおずおずと切り出した。何かというと、友達がいて(どこに?)やはり腹を空かせているのでと。これでようやく役目がすんだと思ってほっとしていた矢先だったので腹が立って、ちょっとつっけんどんに断ったら「一週間じゃなくて、三日でもいいから」と頼まれた。まあ三日ならと承知したがオニギリ二個なの?と訊くと一個でもいいとのこと、さすがにでもかわいそうで翌日から二個を三日間供えた。最後の日にもう一人の幽霊が来て、やはりお礼を言って、これで行くからと言ったそうです(どちらも気のいい幽霊だったのですねえ)。
それからほどなくして掃除係りの担当の会社の上の人に呼ばれ、突然給料を上げると言われたそうです。何故なのか不思議に思っていたらその男性が、前からこのビルには幽霊が住みついていて、暗くて嫌な感じがしていたのが、急に明るくなった。お供えをしていたのには気がついていた、ありがとう、と言ったそうです。
はい、めでたし、めでたし。

追記。これは余談ですが、お供えは仕事の帰りに下げて近くの川に流すか自分で食べたそうです。それからその女性の姉二人も訪ねて見えて、幽霊との交渉の話のお礼を言われました。年かさの姉の方は非常に鋭敏な人で、子供の頃から死んだ人に悩まされた人生だったそうです。妹の場合は良い霊で良かったが悪い幽霊との対応は非常に気骨が折れることなのだと言っていました。お祓いや相談事にも乗ってきたがもう疲れてしまったのでどんなに脅されても相手にしないようになったとのこと。その時から約二年後にその方は亡くなられました。まだ60歳前だったそうです。そういう血統のようなものがあるのですねえ。ちなみに小田野先生も私の母も見えた人です。
2016.3.5

幽霊は在るのか無いのか

 

 

幽霊は在るのか無いのか

幽霊を見たことはありますか。見たという人を知っていますか。

私がこの質問をした相手の半分くらいの人はどちらかの経験があると言っていました。要するに思ったより多かったということです。ただしこれは私の知人や友人が「類は類を呼ぶ」の喩えにあるように少し変わった人たちであるからかもしれません。でも誓って言いますが精神病の人はいません。

直接見たと答えた人の多くはその幽霊は亡くなった家族や友人だったとのことです。他には泊まった家やホテルなどで見た知らない人。変わった例は大勢の人が集まる公共の施設、葬儀場、競技場、会社のビル等でした。「見たと言う人を知っている」と答えた人より直接見たと答えた人の方が多かったのです。全員が嘘をついているか勘違いしていない限りはすでに死んでいるのにその姿が目に見えるという何かが在るわけです。

では目に見える何かということを考えてみましょう。肉体の目は道具としての役目を果たしています。いわばカメラのようなものです。肉眼というカメラのレンズの奥に網膜があり、それが視神経に接続されていて、その神経が脳の視角野につながっていて、「何を見たか」の認識をしているわけです。過去に見たものが何という名前かを記憶していると何を見たかという認識がすぐに出来るそうです。それはさておいて、視覚野や名前を記憶する脳の分野が損傷を受けると「目というカメラが捉えたもの」が何かは分からなくなってしまいます。脳溢血で多くの分野を損傷した脳神経科学者のジル・ボルト・テーラーさんや脳の損傷を受けた人たちの多くを実際に診察した脳神経学者のオリバー・サックスさんによれば、その人たちにとって形というものは何もなくて、
ぐちゃぐちゃの色の氾濫」が目に飛び込んでくるので苦痛であるそうです。

また見る機能にも個人差があります。私の知っている染色家によれば繊維や染料の色を二万色以上認識できるそうです。例えばグリーンという色に三千種類あるとして、それぞれの色を識別できるということです。また「オーラが見える」と言っている人を私は何人も知っています。見えるか見えないかの個人差があるとしたら幽霊が見えるかどうかも個人差があるのではないかと思います。
染色家の場合を例にとると、彼女は二万種類の色の名前を知っているのです。名前が識別を可能にさせているわけです。これは誰にでもうなずけることだと思います。

さて、オーラはどうでしょう?これは先に「在ると思っている」という信念があって、鍛錬すれば見えるようになると思っていると「見えるようになる」という場合と、子供の頃から見えたという場合があります。私は両方のケースを知っています。幽霊の場合も同じです。その人たちの場合は、

目というカメラが捉えた「形あるいは様々な色という振動」を何であるかと認識するプロセスにおいてすでに名称が記憶庫にあって、しかも「それは存在する」と思っていることが存在しているという認識を可能にしているということだと思います。
ややこしい言い方ですみません。でも見たからといって気体や光の色も含めて実体として在るかどうかはそれぞれの人にとって「何であるか」を認識するプロセスの違いによって異なるのではないでしょうか。プロセスには信念、期待、他者(親兄弟も含め)の体験談が大きく関わっているようです。

幽霊は在るのかどうかという題でこの話は始まりましたが、ユニコーンは在るのか、天使は在るのかという問いも提起したいですし、続きが必要な話題です。
次回は「精霊あるいはエレメンタル」についても触れて行きたいと思います。
2016.3.4 記

幽霊と直談判

神は電気です

前回は「神」を分けてみました。カミという音がついている字でした。今度は「カミナリ」という音を持った文字「雷」を分けてみましょう。
雷について「科学不思議探検」では分かりやすくこう言っています。

雷の正体は電気です。電気には、必ずプラスとマイナスがあります。電気は、このプラスとマイナスの間を流れるときに、いろいろな働きをするのです。 雷の電気も、ふつうの電気と同じでプラスとマイナスの間を流れます。ただ、ふつうの電気と少しちがうところは、空気中を流れるということです。ふつうの電気は、電線や鉄をつたわって流れますが、雷は、雷雲(かみなりぐも)の中で電気が発生し、はなれたところのプラスとマイナスの間に電流が流れたときに発生するのです。空気というのは、ふつうは電気を通しません。しかし、雷の電気は非常に強いために、ふつうは電気を通さない空気中でもむりやり流れてしまうのです。このとき、空気は熱くなりはげしくふるえます。 この空気のふるえが、あの雷の「バリバリ」や「ゴロゴロ」といった音になるのです。

雷を分けると「雨と田」の二文字ができます。雨という字は訓読みでアメ、音読みでウという音がついています。云音表を参照すると「于」という字が入っています。この字は+と-が合わさって出来ています。プラスとマイナスです。この字はウと読む他にココとも読みます。此処という電磁場が宇宙という処でもあります。宇宙に存在するあらゆる物質が大は星雲から小は微生物やそれより更に小さな原子に至るまで電磁場でもあるので文字通りだと言えます。文字通りってそういう意味だっだのね。

雷の図形

 

雨はまたアメと読むので「ア/空というメ/命(命は物質でなく空です)」であり、天でもあると字が示しています。天とは地に対して形のないもの、高きところにあるもの、神的なもの等を指す字です。田は「田の字分け」にもあったように物の生まれてくる処、そしてデンと読むので電に通じます。電磁場である于、天の田が「カミナリ」と字が示しているのです。神を成立させているものは鳴っている電気で神也(神である)というふうに解釈できます。
田の字分け

「神って電気なんだ」と、これも一つの側面です。電気は全くエコヒイキ無しの存在です。電気は悪人善人を裁いて地獄や天国行を決めたりもしません。単に「機能」なのですから。でも停電になると困るので大切です。現代生活においては日常生活全般に渡って頼っているものです。地上で便利に使っている電気の機能は天にあってはもっともっと重大な役目を果たしているのですがそれはまた別の機会にお話しします。

次は裸意ですが、裸(全く衣を着ていない実体そのものという意味)の「音の心」でもあるとも示されています。天の田という鳴る神が意なのだとも示していると理解しました。

今はまだ「だからどうなの」と思われるかもしれませんが、絶対的に中立で、無批判で好き嫌いなどない電磁気という働きが神なら宗教戦争は意味なくなりますね。本物の神、偽物の神などという論争は意味がなくなります。人間は長い長い間「神」という「概念(害念)」に振り回されて無用な悲劇を繰り返してきました。字を分けるという作業の意義は「概念」を洗い清めて行くことなのです。字が分かれるとその時に概念が割れて壊れて行くのです。すぐにはそうならないかもしれませんが、続けて行くことで少しずつ思い込みという頑迷な重りが軽くなって、自由になって行くのだと思っています。最後は羽化登仙となるといいですね。

2016.02.22 記

 

芸術にカンニングは効かない

人間は他の動物と比べると個体差が非常に大きな生物です。体の大きさや体形も肌の色も髪や目の色も違いますが、一番大きいのは各人の能力の違いです。私は運動能力があまり高くないのでオリンピック競技などでアスリートのパフォーマンスを見ていると、よくぞこんなことが出来るものだと感嘆します。人並み外れて芸に秀でるということは鍛錬を必要とします。この鍛錬の成果が人間としての限界近くにまで高まると「神技」と呼ばれます。
神技は見ているだけでも目を楽しませ、胸を躍らせ、爽快感や痛快感を呼び起こしてくれます。技とは磨かれた智恵の結晶で、これを芸術と呼びますね。ただし頭で考えているだけでは達成できないもので、行動を必要とします

You Tubeで見た神技をひとつご紹介します。他にも幾つか神技があるのですが、これは私が特に好きな技です。とても美しい女性ですしね。

まさに神技ですね。

言葉を使うのも技です。誰もが当たり前に毎日使っているのでそうとは気づかないかもしれませんが言葉の使い方が優れていて美しいという技も芸術だと思います。そして言葉を光透波にまで高めて行くのにも鍛錬が必要です。必要とはそれをしないでは達成できないという条件です。誰か他の人にやってもらって自分が成果だけをもらうことは出来ないのです。術とは行いを求めるという字です。また必ずそうすることが要である。つまり心の能き(ノ)が要るということも字によって示されています。
カンニングで美の創造はできません。

術と必

カタカナの「ノ」は命波では、能(はたら)きと解されています。デカルト座標(直交座標)の交点0 から、x、y の方向へ例えば1 進むと斜線が出来てきます。0 地点から動きが加わっている状態ですので働き(能き)を意味します。

ノと能

芸術という技を磨くには心の能きが要であるとのことですのでノラクラは時々の息抜きにして、心を込めて真剣に、それがどのような道であれそれぞれの意にかなった美を創造して人々に喜びと感動を届けて行きたいものです。

2016.2.9 記