豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

前回の記事の末尾に、豚に羽が生える可能性に触れました。これは少し捕捉説明が必要と思い、この記事を書いております。

スティーブさんは単にpossibility(可能性、実現性、今はなくとも将来は可能かもしれないという意味を含んでいる)とpotential(開発したものではなく、潜在的な能力)の違いについて、豚の羽という比喩をお使いになったのですが、せっかくですので羽というものについて他の観点からの考察をしてみたいと思います。

鳥は飛べるというpotentialを備えられて生まれてきています。羽があるということの他に体の構造が筋肉と骨とで出来ていて脂肪はあまりありません。余分な体重がつかいないように飛びながらでも排便ができます。こういう構造を持っているから飛べるのだろうと、飛べない我々人間は解釈しています。これはこれでそうとしておきましょう。

これに対して芋虫は飛べません。でも成長の過程において羽化という現象を通過して構造的変容をして飛べるようになります。

では、ダンボという比喩は何を意味しているのでしょうか。象は豚に劣らず体重が大きい生き物です。いくら耳が大きくても飛べるような身体的構造は持っていないと、見た人たちがその可能性をすぐに否定するような条件を備えています。おそらくクリエイターのディズニー氏はそれを意図して象を選んだのでしょう。しかし、その一般的通念をくつがえして、ご存知のように、ダンボはおまじないの羽をもらって飛びました。象のpotentialでは飛べない、しかし羽というおまじないの奇跡的効果で飛べたという経験をしました。Possibilityを信じるに足る基礎的条件は整ったのです。おまじないの羽は無くとも、可能性を信じる固い信念があれば既成概念を打ち壊して、奇跡は起こせるというのがこの物語のテーマでした。

 

では人間が飛べるpossibilityはどうでしょうか。物理的には無理な形態をもっているので、他に何かしなければ飛べるようにはなりません。重力場をコントロールできるような能力を開発すれば可能性はあるかもしれません。

ここで、人間と言う生物のpotentialとpossibilityという二つの能力について考えて見ましょう。人間には抽象的観念を把握する能力があります。可能性という言葉も生来の能力という言葉も重力場という言葉も理解できます。

私たちが存在しているこの宇宙という場は電気と磁気が交差するグリッドのような構造が見えないところで基盤になって機能しています。このグリッドの交点がゼロポイントと呼ばれる「場」だという人たちが大勢出てきています。21世紀の科学です。ゼロポイントは重力の作用を受けない場です。では重力場の制御と言うことはどのようにしたら可能なのでしょうか。ダンボの例ですと、自分は飛べるのだという信念です。誰がなんと反対しようと自分はそれにつられることなくやってのけました。友達の声援も力に加わっていたようです。増幅された信念のパワーです。

では信念とは何でしょうか。見たところどうやら既成概念を上書きし、それをくつがえす力を持ったエネルギーのようです。信念の力の源泉は不退転の心です。迷っていては出てきません。

もう一つは「そんなことは無理だ、不可能だ」と思ったことがない人(例えば無心な幼児)が持っているものです。否定のエネルギーの影響力は絶大なものですので、ほんの少しでも自分を疑う気持ちがあるとエネルギーダウンしてしまいます。

人間が飛べるはずがないという既成概念を打ち壊すような例がときおり現れても打消しの力のほうがはるかに大きいので、いつの間にかうやむやのうちに立ち消えになってしまうようです。

今から十年くらい前にYou Tubeで放映されていたロシアの森で犬を散歩させていた男性が空に浮かんでいる少女をビデオに撮って話題になりました。今でも見られます。最新のアップロードではコマごとに見ては隠れたワイヤーがないか画像が合成されていないかを検証し、そういう痕跡は見られないと書かれていました。

人間の意識は抽象を把握できることから、いったん人としてのpotentialに気づいたら、possibilityは大幅に拡がるのではないでしょうか。21世紀に生きる人間が自らの絶大なる潜在能力に目覚めたら、それが羽化です。人類史の紆余曲折の失敗と挫折から学び、意識を練りあげ、真理を理解する力を培い、最後に熟して羽化すると、芋虫が飛べるようになるように人間も飛べるようになるのではないでしょうか。スティーブ・アールさんの本の末尾に、人類全体の進化とは特定の一個人が超越することでは起きないとありました。全人類の集合意識が熟れて羽化することが、人間をこの宇宙に出現させた天の意図なのかもしれません。集合意識が熟れるということは不可能という思い込みの呪縛が外れるということですから。

絶対の孤独の体験記

絶対の孤独の体験記

新年のご挨拶文にありました、小田野先生が言われるところの「絶対の孤独」とはどういうものなのかを考えるに当たり、おそらくその意味での絶対性、あるいは唯一無二、というものを体験した人と言えるのではないかと思われるのが久司典夫さんです。スティーブ・アールさんの書かれた本に描写されていた久司典夫さんの体験を一例としてご紹介します。

以下は逐次的翻訳文ではなく、私の読後感も交えた抜粋文です。

典夫はある時例によって運転中に何かを考えている時、様々な考えが起きては去って行くのを見ていた。考えが湧いてきて去った後、次の考えが湧いてくるまでにほんのわずかだが、何もない静寂があるということに気づいた。考えが湧いてくる前にも後にも間隙があったのだ。あたかも静寂と言う生地があってその上に思考が乗っているような感じだった。思考の間隙はほんのわずかの時間だったが、非常に興味を引かれた典夫は間隙の方に注意を向けた。その体験があった後のこと。

やはり運転中、陽光と空の美しい自然の驚異に満ちた風景の中を走っていたのだが、景色よりももっと気をとられていたことは思考というものと、あの静寂の瞬間の発見と言うことだった。そして静寂というものの不可思議さについて夢中になって思索していた時のこと。静寂の間隙がほんの一瞬の長さから何分の一秒、そして一秒、二秒、数秒となり、しまいに十秒、十五秒の長さになっていったのだった。その静寂の時にあらゆる思考は消え去り、彼のマインドは完全に静かになった。それにも関わらず周囲の状況は把握できていたし、運転は完璧に制御できていて道路の状況や他の自動車も見えていた。何も考えていない時のほうがかえって周囲の状況がクリアに把握できていることから、思考はむしろ邪魔なのだと思えた。典夫という人物が運転の主導権を握っているのではなく、典夫は単なる代行者なのだと思い、自然に動いて行く流れに楽について行くだけにして、思索作業に戻った。思考と静寂の二つは正反対の現象であり、静寂という間が無かったら思考は出てくることはできないという意味で補完関係にあるのではないか。しかし、思考は時間的に有限であり、消えてゆくのに対し、静寂は永遠で時間を超越しているものなのだと考えていた。

今や静寂は分単位になり、思考にとって代わった。静寂の支配する中は空白でありながら、同時に何かが充満していて、形はなく、内容物はないのにも関わらず、そこに満ちている存在はそれが何であるか説明不能のものだった。神の恩寵と呼ぶか、絶対平等性と呼ぶか、無償の愛と呼ぶか、他にもいろいろの表現はあると思うがどれもそれを表現するには十分ではなかった。そして、今までにそこに行ったという記憶はないのに、まるで故郷か自分の家に帰ったような感じがした。

サービスエリアに車を停め、食堂のカウンターに座り、お茶を飲みながら周囲の人々を見渡すと、キッチンで働く人、カウンターの中の人、何か食べている客がいて、彼も別にその人たちとどこも変わらない普通の人だ。彼にとっての家庭は彼らにとっても家庭だし、彼にとってそうであるものはどの人にとってもそうなのだと思った。誰かが誰かより教養があるとか高学歴だとか能力的に優れているとかは全く関係なく、皆が平等だということに気づいた。全人類共有の場であるパラダイスの真っただ中にあるサービスエリアに、存在の一表象である典夫が座っているのだ。

このことからさらに典夫は運転席から見える風景の中のあらゆる物が、エネルギーの所産であって、それらが生きていることに気づく。生物だけではなく、石や岩までが生きていて、全ては一つなのだと気づいて、最後に角棒で脳天を殴られたかのような衝撃で全身を震わせながら響き渡った声が言ったことは、

ああ、何てこった!僕ってものは本当はいないんだ
僕ってものは存在していないんだ

まだそれは大雑把な気づきだったが、衝撃的な認識であり、粉みじんに打ち砕かれながらも躍り上がるような刺激で、その上非常に滑稽でもあった。

注。このことを The Cosmic Two-by-Four(天からの角棒というような意味)と著者は表現しています。

注。典夫さんは今、自分という個人は幻影であって、実はすべては一つであって、一つしかないのが実在であるという気づきから、個人という幻想を、Phantom Selfと表現しています。

著者は、典夫さんの体験はひとつの体験であって、誰もが同じことをしなさい、それが「気づきへの道」ですとは言っていません。トラックを運転しながら同じような手法を使えという意味ではありません。命とそして宇宙という場を成立、維持、機能させている叡智はただで答を提供してはくれないのです。答は問いに応じて現れてくるものなのです。深遠なる叡智による答を得るには正しい問を持つことなのです。従来のいわゆる人類の智慧の集積が十分ではないばかりかむしろ有害であることは現在の人類社会がどういう状態になっているかを見れば分かることです。人類は今まで種全体としての進化を推進するどころか、何くれとなく策を弄して阻んできたのです。典夫さんの体験はとても面白いものですが、それは典夫さんの物語なのです。それは人というものが本来持っている能力を我々に見せてくれてはいます。喩えとして、豚に羽が生えて飛べるようになるかどうかは可能性としては(絶対ないとは言えない)あっても、豚が本来持っている能力ではないのと同じです。目指すべきものは特殊な例外的個人の気づきではなく、全人類の集合意識の進化なのです。

久司典夫さんの気づき

困った時の文字頼み

 

 

2019年のご挨拶

2019年明けましておめでとうございます
本年もよろしくおつき合いのほどをお願いいたします。

今年は干支では己亥(ツチノト イノシシ)の年となります。亥は猪ではないので、それは脇において、己という字と亥について考えて見ましょう。

己という字はオノレとも読み、自分自身を指します。これをツチノトとも読ませているので両方を参考に解釈を展開してまいりましょう。

ツ通チ智ノ能ト透と当てますと、文字通りには絶対透明の、従って誤謬のない智慧の能力に通じる、となります。オノレはまずそういう知恵に通じている段階には至っていませんので、その大分手前の半端な知恵でなんとか懸命に生きております。しょっちゅうヘマをしては、それを叱ってくれる人も今はいないので、自分に向かって、「しっかりしなさいよ。もっと慎重にね。あわてないのよ。よく考えてからやりなさいよ」などとたしなめております。そう言ってくれていた人がいた時も大方は聞き流しでヘマをしておりましたが。

次に亥の方はイノシシあるいはガイと読みます。意能詞思と当てますと、意識を構成している詞(人が使っている語ではなく、司っている方のコトバ)とコトバの能らきによって成り立つ思考、どの文字をとってもコトバを指しています。高い次元においては詞が土台となっている思いですが、我意が入るとそれこそ害となります。なるべく我を通そうとやっきにならずに、意能詞思の方で清々しく生きたいものです。

さて、今年も相変わらずの物心共々の断捨離を続けながら「孤独」の醍醐味とおっしゃっておられた小田野先生の真意を探ってまいろうと思っております。

天はね、お一人なのよ。父母は一体なのですからね。絶対大(一と大)の天は二人(二と人)が合わさって一文字なのですから。絶対の孤独なのよ。半端な孤独じゃあないのよ。その絶対というものの正体をつかんで行くのが私の趣味で仕事なの。寂しいなんて言っている悠長な人生じゃないのよ。小田野早秧でいられるのは限られている時間なのだから。間に合うかどうかは分からないけど、一生懸命に絶対を掴もうとしているわけ。そうしたらもう人間商売やりに帰ってこなくてもすむのよ。
母が亡くなった時も、父が亡くなった時もそりゃあ身を切られるように辛くて悲しかったし、他にもいろいろ辛いことがあって、舌を噛んで死んでしまいたいと思ったことも何度もあったけれど、決して死んではいけない、そんなことをしたら天には迎えていただけない。だって暗いところに行ってしまうんですから。だから必死で空母様に手を伸ばして、いつか抱き取っていただけるまでこうして生きているのよ。あなたもどんなに辛いことがあっても決して死んでしまおうなんてしたらいけませんよ。それこそ新規まき直しの大損なのよ。

大損の意味を長いこと取り違えていた私ですが、損得はちょうどシーソーのような関係にあるのだと気づきました。人間界においての得は天界においては損、逆もまた然りです。物質的なものの全てを捨て去ることはないと思っていますが、昨年は手放して行く過程でずいぶんと清涼感を味わいました。人生もホームストレッチに入って来た今ですが、可処分エネルギーのほぼ全部を傾注して人類の進化を推進しようと努めておられた先生とは違ってかなり享楽的な私ですので、そこまでのエネルギー消費はしないで、多少は字分けもしながら、他のことも楽しんで生きて行こうと思っております。昨年は無理をして文字通り骨を折りましたのでそれも教訓だったと思います。知らない内に肩に力が入って体がこわ張っていることがあるものです。時々肩の力の入り具合を確かめるのも必要と思います。

今年こそは、本来は至高の叡智に通じるコトバという能力を授けられている人間である私たちがその力に気づいて、荒れ狂う人間界と地球を和ませ、美化して行く役割をそれぞれの持ち場で発揮して行かれるような大転換の節目の年となりますよう、祈念しつつ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

菊池 静流
写真提供:梶山淳子

「久司典夫さんの気づき」を読んでパート2

「久司典夫さんの気づき」を大変興味深く読ませていただきました。福岡在住の八田と申します。

僕も一度20年ほど前に典夫さんとお会いしました。その時はまだ典夫さんもこのような体験をされていなかったのですが、とても純粋な方でお会いした時に「あっ!ここにも同志がいた!」と思いました。
典夫さんは概念思考停止体験を経験した際に、「今まであると思っていたもの」は自分が対立的意識、概念思考で作り出した産物だったと気づかれたのだと思います。宇宙の本質に偽りはありませんから、本質に出会った時に始めて、周りのすべての人為的なものは自然には本来存在しないものであって、「今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった」と気づかれたのだと思います。

「ジャッジメントを伴わない観察」とあります。以前友人が教えてくれた「クルシュナムルティー」という方が「観察するものと観察されるものとの統合こそ、あるがままに見る」ということ、「瞬時の理解」こそ「ジャッジメントを伴わない観察」ということについて読んだことがありました。一切の批判をせずに見るということだと思いましたが明確に理解したわけではありませんでした。

世界は私たちの意識、思考で作られているのですが、意識や思考がコトバでありそのコトバが人為的な意味で使われてきたので、対立的感情を生みます。対立的感情によって他の人と自分とは違っているとしか思えないような考えになるのだと思います。そのことを典夫さんはファントム(幻想)・セルフと名付け、いつも何かをジャッジしている自分、ファントム・セルフが自分自身の本質だと思っているのです。ファントム・セルフとは私たち人が作ってきたコトバの意味なのです。日本語の表意文字で書くと人が為す書いて偽りとなります。

人+為→偽(イツワリ)

光透波を学び始めてどのようなことかやっと理解できました。それは観察する者と観察される者、両者ともコトバなのです。しかも今まではコトバを人為的にしか使うことしかできなかったので、いつまでも典夫さんの言うPERCEPTIONによって相対的に判断することしかできませんでした。

例えば私とあなたの命のエネルギーは全く同じですし肉体も同じなのですが、何が違うのか、それぞれの自我が違うのです。「あるがままに見る」良い方法としては音として捉えることです。すると両者とも「ワ」「タ」「シ」、「ア」「ナ」「タ」となり、概念無しになるためにある意味で同次元と言えます。

しかし意味を持つ表意文字で表すと、「私」という文字は自分を表し、「貴方」という文字は自分とは違う他の人と、明確な違いがあります。「私」、「貴方」は今まで私たちが学んできた言葉の意味、言語の意味です。ところが小田野早秧先生は様々な啓示による誘導、徹底した分析癖によって宇宙の本質である絶対無限エネルギーが発している音には音本来の意實が有ることを突き止められました。

そしてその日本語の音の図を「天鏡図」として纏められました。その図から音の意味を索引すると、

「ワタシ」とは「和やかな田(絶対電磁場)の詞(コトバ)」と読むことができます。また「アナタ」とは「空(宇宙)の大を示す田(絶対電磁場)」と読むことができます。読み替えてみると、「私」と「貴方」に対しそれまで持っていた意味とは全く違った意味になります。「私」という「語ゴ5」)は自分、個人という意味ですが、読み替えた「和田詞」)は、絶対電磁場の和やかな「詞シ4…光透波」という、光が透明になったエネルギー、光透波を表す意實になります。このように読み替えることを小田野先生は「字分け」と言われていました。

天鏡図の索引による意味の読み替えによって、言語として使ってきた意味を、宇宙を表している詞(光透波)の意實に読み替えることが可能になります。典夫さんが言われているファントム・セルフは言語(コトバ)で作られていて、その意味は人が為してきた…偽りの意味で使ってきたので、対立的、差別的にしか働きません。しかし読み替え後は宇宙の本質の意實に転換できるのです。

今まで輪廻も含めて長い間蓄積してきた自意識の言語情報である語を、詞の意實に読み替え続けると、もちろん個人差はありますが、自意識の変化を自覚できるようになります。徐々にですが「私」と「貴方」の違いが薄れていくのです。

典夫さんの体験は、私の知る限りの他の多くの覚醒体験のように、自我意識…概念思考停止経験によって起こっているように思います。しかしこのような体験はあくまでも自我意識ファントム・セルフと宇宙の本来のエネルギーとの違いを体験的に味わうことだと思います。しかしこの体験で終わりではないと思います。

宇宙の音の意實においては「和田詞」と「空奈田」に違いはありません。全てのコトバは宇宙の本来の意實を表しているのだと思いますが、それまでは言語の意味しか知らなかったので、偽りとしてしか捉えることができなかったのです。読み替え…字分けによってさらなる文字の意實の普遍性を学ぶことができます。ファントム・セルフを客観できる新たな視点、軸が備わるように思います。この軸を宇宙軸(天軸)と私は呼んでいます。ファントム・セルフをいつも客観視しているもう一つの軸ができてくると、感情を客観する「観情」が生まれます。客観性が増した意識はファントム・セルフを客観でき、ファントム・セルフのみの意識の時よりも自意識のセルフコントロールが可能になります。また存在している自然生物の本来の意味や自然現象を通じて宇宙の理(言÷)を理解できるようになります。

小田野先生が天(宇宙實親)から学ばれた宇宙の本質、絶対、無限エネルギーの音は母音がすべての音に添う母音系言語…日本語の読み替え(字分け)によって、語意識であるファントム・セルフを少しずつ読み替えることができます。読み替えの先に現れてくるのは「宇宙との血縁」、宇宙の子としての自覚なのです。ですから宇宙の子と書いて

ウ(宇宙)+子→字

その「字」を「分ける」と書いて

字分=自分

「字分け」こそが、ファントム・セルフから自分の本質に読み替える→甦りの法、再生の法なのです。

小田野先生は「天に直通ケーブルかけちゃったのよ!」とよく言われていました。ですから字割り、字割り(ジワリ、ジワリ)と字道に読み替えを重ねることが実は最高の近道!なのです。

2018年10月1日 20時19分 八田光典

付記。
八田光典さんは小田野早秧先生に17年間も師事された方で、私にとっては先輩です。基礎講座も長らく続けてこられ、多くの貴重な資料も作成されています。ブログサイトは以下です。
http://www.kotoha-a-f.org/

菊池静流

「久司典夫さんの気づき」を読んで

光透波を学ぶ仲間の藤田知江さんから長いコメントが届きましたが、これはコメントより投稿記事にしたほうが良いように思い、掲載します。今までは私一人で記事を書いていましたが、これからは他の方たちにも書いていただき、他の視点、別の考え方も読者の方々にご紹介して行きたいと思い、新しいカテゴリーを作ることにしました。
藤田さんは私が光透波の講座を始めたばかりの頃からの受講生で、20年間月一回の研究会にほとんど欠席したことがないという熱心な人です。今では私が思いもしなかった斬新な切り口の字分けを見せてくださいますので毎月の会を楽しみにしております。

以下は藤田さんの文です。

久司さんのお話をお聞かせいただき有難うございました。光透波理論を習い始めたばかりの時にクラスが始まってしばらくすると頭痛がし、それからウトウトと眠くなり、しまいには意識がどこかへ行ってしまう、というような思考遮断による自己防衛がよく働きました。久司さんのお話を読むときに久しぶりに同じような抵抗がありました。その抵抗感を懐かしく幸せに感じながら読ませていただきました。私は小田野早秧先生の光透波理論を菊池静流先生から学ばせていただくようになり、今では光透波理論が自分にとって考えの土台となりました。
久司典夫さん、半田公宣さん、飯島秀行さんも唯一の真理を皆さまそれぞれの位置から伝えてくださっています。久司さんのお話を読みながら、半田公宣さんの「自己と他者」、飯島秀行さんの「原因と結果」、小田野早秧先生の「詞と語」のお話を重ねて考えていました。

?            「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」
?            変化を起こす原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるもの
?            変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということ
?            人間は一人残らず目覚めているんだけど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ
(久司典夫さんの気づきより)

判断という漢字は、刀で半分に断つと書きます。切ってしまって半分ですから半分の理です。つまり自分の側からだけ物事を見ている状態です。判断する、とは目の前に結果として現れている現象について語っている私です。
PERCEPTION(認識)の中にはRECEPTION(受け入れる)とPがあります。Pはアルファベット16番でありピィと発音します。ピィに天鏡圖から文字をあてると日意となります。日は時のことであり、意はおもいです。認識は過ごしてきた日々の思いの積み重ねでつくられ、それを受け入れているということです。
私にとって衝撃だったことがあります。それは「人間は言語を周囲から学習しないと言語能力を使うことが出来ない」という事実でした。私の内面空間という思いの場は言葉で出来ていて(映像も言葉がないと結びつかない)、それは誰かから教えられたものですからつまり他者の集まりです。私はたくさんの他者であり、様々な結果であり、それは言語であるということになります。そしてそれが私のパーセプションなのです。

「変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけ」ですから私の個人的意識である内面空間が変わるべきところです。どう変わるというのでしょう?
人間は生きている間中考えています。考える力は命の力から発しているので目覚めていない人はいないのです。他者、結果、語といった遠心性の現象に対して、自己、原因、詞へ向かう圧をかけます。圧は負荷であり、一時的な求心性を起こします。宇宙呼吸(光透波理論p.259)により必ず爆発反転しエネルギーが生まれるためです。これが「在るものをそのまま観る」ことによって出てくる変化を起こす原動力です。
「それを知っている」というのはその場に今、居るということだと思います。

このように考えましたがよろしいでしょうか。
私は目覚めていないので実際はわかりませんが、光透波理論と字に向かうことにより理解を進められる方法を学ばせていただきましたおかげで、伝えてくださっている方々の座っている位置を頭の中で整理し感覚的に察するようになりました。それは暗闇の目標ではなくなって夜空の星のような指標と感じています。

ご挨拶2016年版

Face1今日は。菊池静流と申します。これから最近思ったことや発見したこと、人生の先輩から教えていただいたことなどをこのお教室でお話ししてまいりますのでどうぞよろしくお願いします。

以前も「静流の部屋」というホームページを作って書き込みをしておりましたが、この何年かはさぼっておりました。実を言うと、考えるのが面倒くさい、新しい技能の習得や最近発表された新分野の論文や著書を読むのが苦痛でコンテンツを充実させる材料不足などなどの理由からです。またこういう発表の場を作って何かを書いて行こうと決心したきっかけは加齢による記憶力の低下がひどくなったことを自覚したからです。

先週のことですが、朝起きた時に何故か昨日の夕食は一体何を食べたのかなと思ったのです。そして何も覚えていないことを発見。大ショックでした。一生懸命思い出そうと食卓のシーンを思い浮かべ、食卓の上に何が乗っていたかを、頭の中の写真集をごそごそかき回して見つけて行き、一つ一つ糸をたぐるように思いだして行き、最後にフルメニューが乗っかるまで頑張りました。「これはもう認知症が始まっているのに違いない」と背中に冷水を浴びたような感じでぞっとしました。それから猛然と、自分で始めるウエブサイト入門講座のようなチュートリアルを見ながらこのサイトを立ち上げた次第です。かっこいいウエブサイトが作れるようになるには時間がかかると思いますが、とりあえずできる範囲でやって行こうと思います。
2016.1.10 記

https://www.iii.ne.jp/kikuchi/ こちらものぞいて見てください