ミクロの決死圏―体の中を旅して見ました

前回「バカの壁」についてお話をしました際、光透波理論を病の治療に応用できる手法があることに少し触れました。治療資格を得るために受講して良かったと思っています。おそらく受講者の中では最高齢者だったかもしれません。覚えることが非常に多く、記憶力の低下を防止する為にもなりました。

一番回数の多い練習台は自分です。鼻が悪い、耳が悪い、胃腸が弱い、腎臓が弱い、アレルギー体質、心臓が弱っている、細菌感染していた。ウイルス感染していた等々盛りだくさんで調査と治療の実施と結果の判定には事欠きません。

まず「バカの壁」を取り(一時的です)、賢い方の自分との通信回線を開きます。それから調査対象を絞って検査。

腎臓の糸球体濾過機能を調べます。右が45%、左が60%働いているという情報をもらいました。かなり低いですが、尿毒症にはなっていませんでした。

この美しい精緻な構造を眺めて、機能低下を認識して、自己治癒力を発動する手法を適用します。(注。体の内部は実際にはほとんど色はついていません。ここで使用されている画像は細胞構造を見やすくするために人工的に色をつけてあります)右と左を別々に行いました。右が60%、左が75%に回復。更に機能をあげるのは又の機会にして、心臓を調査。

右心室、右心房、左心室、左心房、心筋と見て、循環システムも調査。寄生虫感染が見つかった箇所で、除去して良いとのことで、除去しました。炎症がある箇所の炎症を鎮め、毛細血管のつまりも少し融かせました。右心室に三尖弁という弁をコントロールしている筋肉の中の一本が動いていないということで、治療。呼吸に意識を向けて、横隔膜と呼吸筋群をコントロールしている脳の司令塔にアクセスして肺を一杯にするように呼吸を整えました。呼吸が楽で息切れもない快適な感じです。

別の日。胃腸の調子が悪く、調べたらやはり寄生虫がいました。ランブル鞭毛虫という名前です。画像を見ると可愛いですが、断固撤去してもらいます。


寄生虫や細菌、ウイルスに関する部門を担当した講師の方に言わせると全ての生き物には生まれてきた何かの意味があるのだと言います。嫌な奴と思って無理やり除去するとか殺すという気持ちで処置するとダイオフという死に方をして、後に毒素を残して行く場合があるので、それが無い時のみ除去するように注意されています。ともかく自分勝手を謝って、出て行っていただきました。

耳の炎症は腸の循環システムとメンタルな原因が主原因とのことで、寄生虫はすでにいなくなったので、小腸の問題を起こしている原因らしいメンタルな問題を処理することにしました。今までも「心の断捨離」で行ってきましたが、全く触れていなかった過去のある数日間のトラウマが見つかりました。大喜びです。ずっと隠れていたのです。それだけ根が深い問題だったのかもしれません。耳だれはその後一度も出ていません。先月の耳鼻咽喉科の検診で、もう来年まで来なくて良いと言われました。鼻の通りも良いので、睡眠時に口を閉じて眠れるようなりました。薬も全く飲んでいません。

又別の日。このところ睡眠が不規則になって来たので、リラクセーションにつながる様々な治療をしてから、ふと睡眠に関与しているセロトニンの分泌状態を調べたら必要量の半分も出ていないことが分かり、夜更かしとパソコンのし過ぎを反省。制作所の松果体の治療をしました。

勿論自分だけでなく、友達の体内旅行もしていますが、とても楽しく、半分遊び気分で行っています。又いろいろな発見があったら書くつもりです。何しろ日本は半病人が多い国です。単に健康なだけでなく、楽しく、有意義な人生を送っていただきたいです。病気の時には人の役に立つことなどする余裕がなかなか出ないので人間関係もギスギスしがちです。

出典:美しい人体図巻 ポプラ社
   人体解剖図 成美堂出版

ミクロの決死圏の動画の一部を載せますね。
(注。私がこういう風に旅をしたわけではありません。誤解無きようにお願いします。あくまで様々な解剖図を眺めながら、賢い方の自分に質問しながら情報を得て、この映画で旅をしている人達のようなイメージで行っていただけです)

「バカの壁」を越えて見つけたこと

4番目の問題

病が治る人、治らない人

2019.09.29

「バカの壁」を越えて見つけたこと

以前光透波理論を学ぶ仲間の女性に、「あんたに今必要な本」と言われてプレゼントされたのが養老孟司[1]さんの書かれた「バカの壁」という本です。読んでいて抱腹絶倒であったと共に膝を打って、「そうだ、そうだ、本当にそうだ。私はバカだ」と目からウロコが落ちました。

あれから十数年、バカ度はどのくらい下がったのかと自己客観視。どのあたりがバカでどのあたりが進歩したかを調べました。分かったことの一つは、「どんな理論を学んでも、現象を起こせなければ説得力はないね」と教えてくださった飯島秀行[2]さんの言葉の意味です。要するに具体的に何かの役に立つ行為に繋がらなけばそれを学んでいる人の貢献度はあまりないと言われたのだと解しました。飯島さんはフリーエネルギーを開発され、成功されました。現象を起こし、貢献したのです。

二十世紀という時に地球という星に生まれ出てきて、100年足らずの間に私という、詞の大海原の一滴に何か意味あることが出来るのか。光透波理論の真髄をどう応用して行けば「生きがいの発見」という素晴らしいプレゼントを頂けるのか。そしてそれを実践して「世界の平和と地球の蘇生」を実現させる原動力である「人類の覚醒」につながる行動の一端を担えるのか。

私は人間が好きです。バカでも怠惰でも自分勝手でも好きです。人間を相手の仕事をしたいです。それは分かっていました。人間の心理や本性について学んでも来ました。そして様々な手法も学んできました。でも、本当に効果のある、自分に向いた手法はまだ見つけられないでいました。今は「これかも」という手法に出会ったと思っています。

教えて下さった方とのお約束で具体的な手法をお教えはできませんし、光透波理論をご存じない方なので、自分の解釈による理論を織り込んでのお話となるため、お名前を出すことは控えるべきと思います。いつかその方にも光透波理論のことをご紹介してご承諾を得られたらもっと詳しいことをお話しできるかもしれません。

養老孟司さんによれば、世界とは複雑なもので、「わかる」ことはできない。「客観的事実」や「本質的真実」は信仰の領域である。この世に絶対的な「正しさ」や「正義」なるものは存在しない。「これが正しい」「これがあたりまえだ」と思い込むことは思考停止である。社会や自分の属する集団の意見を盲目的に正しいと思い込み、それを鵜呑みにするのはバカのすることだ。常識を知っているということは「人間なら普通はこうだ」という判断ができるということだ。推測を真理と取り違えたり、科学や宗教を妄信したり、わかっているつもりになること、それが健全な思考の広がりを妨げる「バカの壁」だ。

バカの壁とは「自我の壁」とも言えると思います。この自我の壁を乗越えて、人類(実は地球人だけではないと私は解しています)発生以来のあらゆる感情的・知的体験がもたらす知恵と発見が細大漏らさず記録されている謂わば「図書館」のようなものがあるとしている人たちがいます。私もその一人です。これは「アカシックレコード」とも「人類の集合意識」とも呼ばれています。情報の源で、ここから私たちは自分に興味のある情報を必要に応じて取り込んで、それが「自分の思考・発見」というように思っています。

さて、今私が学び、実践している治療法とはこの源から得た情報を活用して、精神的・肉体的に病んでいる(多くの場合両方病んでいます)人やケガなどによって苦しんでいる人が最も効率的に速やかに常態に戻れるような自己治癒力の発動をうながすという手法です。術者は自我の介入を避ける非常に効果的な準備をしてから、被術者から直接情報を得る源とのいうなれば「通信回線」を開きます。被術者の自我の壁のかなたにある情報源ですので、ご本人は自分の病の原因は知りません。そして、「知った時が回復のプロセスの始まり」となります。

太母さんが言うところの、「医王さま」が誰の中にもいらして、それが働く邪魔をしなければ「病気は勝手に治って行く」と聞いてはいたのですが、発動を促す条件があまりにも実現不可能なことが多く、実際にはできなかったのです。

誰もが大宇宙の分身同士で敵も味方もない、従って戦いも競争も不要、生きとし生けるものもまた分身同士で互いに助け合ってこの世界は成り立っている。それぞれを敬い、感謝して生きるのが幸せな世界を作る条件。要不要を無視して濫造する物品とそうせざるを得ない経済機構がもたらすあらゆる汚染を止め、必要最低限の物だけ持ち、「身無一物福寿無尽蔵[3]」を悟り、真の幸せを確立すれば病も死も一如であると分かり、恐怖も心配ともおさらば。

私は70歳を過ぎてもまだこの心境に達していなかったのです。でも自我の壁の向こうで発見した、人間本来の英知との通信回線を通し、少し「バカ度」が下がって来ているように思っている今日この頃です。

[1] ようろう たけし
日本の医学博士、解剖学者。東京大学名誉教授

[2] いいじま ひでゆき
フリーエネルギー研究家。一般財団法人テネモス国際環境研究会理事長

[3] 何もかも捨て去り、拘りも恨みもつらみもすべて手放せばその時にあらゆる福寿が降り注ぐ。

『仏眼(ぶつげん)』が発刊されました

 表題の『仏眼』は菊池霊鷲が著した最後の書です。この本には前編ともいうべき書があります。今から60数年前に発表され、その後英訳され、1967年に、世界各国の元首および要人に百数十名に向けて、全人類への警鐘「第一のメッセージとして送られました。『舟を岸につなぎなさい』がそれです。

 当時はまだ環境問題など一般に取りざたされていない時代ではありましたが、反響は大きく、多数の要人からメッセージが届きました。中でも当時の国連事務総長からの手紙に、「メッセージの趣旨には賛同しますが、何分にも時期尚早にて、すぐには実践できない事情が多々あり、心に留めては置きます」というものがありましたが、この返信に代表されるのが当時の要人の多くが同じ懸念を持ちながらも、一般的常識外の内容である為実際には何も出来ないという内容のものでした。 

 さて、今はもう時期尚早などとは言えない状況となって来ています。世界中で起きている環境汚染や、生態系の崩壊、異常気象、原因不明の多くの疾病疾患等の問題は六十数年前とは異なり、誰にも否定できない明白さで、人類につきつけられています。
 こういう時にこそこの書を発表することはいろいろな意味において、人類とその宿主である地球環境の保全に貢献することが出来るのではないかと思い、当書の発刊を決意した次第です。

 このメッセージ文の中に十六の議題というものが挙げられてあり、その回答として書かれたのがこの『仏眼』です。
 議題の回答だけ教示して欲しいとのことで、当時のローマ法王庁から特使が二回来られた事もありました。私も一回同席しましたが、霊鷲太母は、回答は、一国、一組織に対しては出来ない、万国・万教関与の上でなければ、と断り、その代わりに次の様なことを話していました。

 環境問題を引き起こす根本原因となっているものは、人間の「根本無明(こんぽんむみょう:単なる無知ではなく学問をしても解決できない愚昧・迷妄)」である、という趣旨と、「開眼(かいげん:悟りを開くこと)」ということの意義です。
 今や、地球の住民である全人類は国境、宗派を超えて同じ問題に直面している訳ですから、万国関与とも言えます。そこで、議題を先に提示し、その後にこの著書を発表するという編集で、この本を作りました。

 第一部が、『舟を岸につなぎなさい』
 第二部が、『仏眼』
となります。

ご購入希望申し受けます。

本 単価:1,000円 送料別途。10冊以上送料無料
『仏眼』朗読CD 単価:500円 送料別途
講演ビデオ(2枚組120分)3,000円 送料別途

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追記。「無明からの脱却」という現象について生前太母さんはこうも言っていました。一人の人が目を開き、無明を脱するのではなく、「全人類」が目を開くことが地球とその全ての住民の蘇生の要となるということを知ってもらいたい。私が打ち立てた本願(自分や家族の為、ある特定のグループや民族の為でなく、全ての存在を対象にした願い。つまり神仏の立てる願)は「全人類開眼、万物皆安堵」だったのだから。「一人一人が開眼すると言うと膨大な数だから無理」と思うかもしれないが、そうではない。ごく少数の人たちが先に目を開くと、その影響が次から次へと波及して行くから、ある時一挙に可能になるのだ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

 

新しい時代の幕開け…地獄から令和→零話へ!

 5月16日某病院の先生から母の大腸の腫瘍の検査結果を伺いました。正式名はS状結腸癌というそうです。癌の大きさは1cm位の初期癌でした。どのような手術をするのか消化器外科の先生からお話をお聞きしました。もう少し小さければ内視鏡で取ることができたそうですが、母の場合腹腔鏡手術で大腸をある程度切除し、その周辺のリンパ節も取る必要があるとのことでした。セカンドオピニオンで、他の病院の先生にも見て頂くことになり、6月18日に検査入院し検査の結果、27日に手術が行われました。

 27日から約10日間点滴で栄養を入れ11日目に試験で重湯を食べたのですが、熱が出たりしたためその後4日間は点滴でやっと7月12日に本格的な食事が始まりました。何度かお見舞いに行きほとんど毎日電話していたのですが、11日に電話した時に

「今日はどう?」と電話で聞くと
「地獄に来たことがない人にはわからんやろね。」

というなんともユニークな回答でした。2週間程食事をしていませんし、6人部屋だったので同室にかなり重篤な方もおられ、一晩中看護師さんたちが出入りしたり、また他には薬の副作用か何かによる妄想で一晩中話されていたりで眠ることができない状態も何日か有りました。それでお見舞いに行くたびに「ここは地獄よ」と言っていました。母は87歳ですが心臓や肺はすこぶる良い状態だったので、高齢にも関わらず手術ができたのでした。

 どんな苦労もその痛みや苦しみは本人にしかわかりませんが、僕は大病をしたこともなく何かひどく不自由な目にもあったことはありませんので、自分にとっての「地獄」とは何だろうと文字に問うて見ました。

地→十一也

獄→犭+言+犬

 言(コトバ)が犭(ケモノ)化しているとはどういうことでしょうか?

 言語の人為的な使い方は対立的感情や打算的勘定を生みますから、当然争いを誘発します。命の本質を対立的な次元で使っているからです。人と人のコミュニケーションはコトバで行いますから、その表現によって感情にいろんな作用を及ぼします。私達の感情を作っているのは正しく「コトバ」なのです。つまり人の意識はコトバで作られているのです。
 ある時は人の言葉によって励まされ、ある時は友人の放った一言でものすごく落ち込むこともあります。コトバによって喜び、コトバによって苦しみ、悩んでいるのです。

 小田野早秧先生によって言語の本質は光が透明になったエネルギー、光透波ということを学びました。しかも生命の本質、真空の本質、知性の本質が同値一体であるという結論でした。命のエネルギーの音、命波音は日本語の発声音76音(清音51音、濁音20音、乾音5音)です。その音の意實は「天鏡図」に示されています。
 日本語である命波音には音本来の一音一音の意味があったのです。私達日本人は日本語が命のエネルギーの音だなんて全く知りませんでした。ましてやその音に音本来の意味があったなんてことは知る術もありません。ですから命本来の音の意味を従来どおり、私達日本人が作った意味、人為的な意味で使ってきました。それが今までの日本言語だったのです。
 言葉の意味を人為的、動物次元で使っていたのです。ですから地獄の「獄」の文字の中に言(コトバ)が獣化していると示されているのだと思います。言葉を問い(十一)その本質を見極めることが「文字」を通じて可能になりました。文字が命(真空、知性)の結晶化現象であり、その幾何構造を紐解くことによって、命(真空、知性)の本質を理解することができます。

 私の母にとっての地獄は病院での入院生活でしたが、「地獄」という文字が示している地獄とは、言(コトバ)を地上で動物次元の範囲で使うことは意識が対立的感情としてしか働かないので、感情をある程度セルフコントロールできる場合以外は、親子関係や他の人間関係に様々な影響があります。

 地球で様々な大変なことを経験するからこそ、私達は人類誕生以来360万年の間、悩み、苦しみ、考えてきました。悩み、苦しみ、考えてきたのは「コトバ」によってです。「コトバ」で考えているのですが、いつも考えている内容を問題とし、「コトバ」がどのようなエネルギーなのかなどとは考えませんでした。

「地獄」の本質を文字によって学ぶと「地獄」の意味が変わります。

地獄→字極

 字を通じて極みを理解することが、対立的感情の地獄から絶対無限エネルギーの結晶化現象である字による極への転換なのです。
 文字の音の意味を命のエネルギーの音の意味に転換すると、そこには地上の対立的感情の意味ではなく宇宙の絶対無限エネルギーの意味が展開します。宇宙の絶対無限エネルギーは完全な調和、絶対調和の完全安定エネルギーなのです。

地獄→極楽

地獄にいながらにして極楽を味わうことが可能なのです。そのことを、他の文字に置き換え、つなぐと、

字極楽

となります。地上地獄界において宇宙字極を楽しむことができるのです。

 そのことは新しい元号にもきちんと示されています。
 2019年5月1日徳仁天皇が第124代目の天皇として即位されました。この一ヶ月前4月1日には新元号が「令和」と発表になりました。

 この発表を聞いたのは車の中でした。「令」という文字の中に

令→人+一+卩

卩(セツ、割符)が入っていました。「よっしゃ!」と思わず声をあげました。日本語の表意文字は上記の「令」の文字のように分けることができます。このような文字が新しい元号として発表されたことは、私達日本人に卩(セツ、割符、)によって一(絶対)をL(開)開くと示されているのだと思います。

 このように文字を分け、その意味をエネルギー的に解釈する方法を見つけられた方が「小田野早秧」先生です。このような文字の幾何的な分け方を「字分け」と言います。
 「令和」とは令に和すとも考えられます。令とは「命令、法則」という意味であり「和」は「和やか、数」という意味があります。「令和」の言語的な意味はいろんな捉え方ができますが、「法則に和す」とも考えられます。

 「令和」という文字の示す意味は字分けの仕方はいろいろあると思いますが、

令和→卩(字分け)によって絶対を開き和す
令和の読みを「天鏡図」で索引すると
令和→レイワ零意和

 天の法則の心に和すとも考えられます。宇宙が私達人類にどのように「光透波」という絶対無限エネルギーを与え、育み、愛しまれているのか、その法則的関係性を理解し、どのように実生活に役立てるのか、最初に私たちがやるべきことは、言葉で創られている自意識を字分けによって読み換えること、つまり、

人為的自我意識→文字を通じて→天念(宇宙意思)

に読み換えることだと思います。

令和から零話へ続く…

2019年7月18日16時25分 八田光典

光透波理論改訂版発刊のご案内

長らくお待たせしました。『小田野早秧の光透波理論 改訂版』が発刊されました。
この書は何百万年か前に人類が地球に誕生して以来、様々な成長の過程を経て、ついに、21世紀というこの時に、丁度熟れた果実が樹から離れるように、人間とは何であるのかを自覚し、誠の成人として自立し、自由を獲得する用意が出来た時に初めて紐解くべく天意によって用意されたものです。それ以前には信じがたいような前代未聞の真理の数々が書き連ねられた珠玉の名編であると思います。そこで、巻頭には、こう書きました。

万物を創造し、全生命を生かし続けている至高の叡智力の正体が、
ここに細大漏らさず明らかにされている人類の至宝の書

「人は考える葦である」と言った思想家がいましたが、人以外の生物は考えるということはしません。そこで、考えるということを少ししてみましょう。

先ず「真空」について考えるとします。人それぞれがそれなりの意味考えて文章にしてみますと、多くの場合、何やら掴みどころのない熟語だと思われるのではないでしょうか。

例えば「真空とは何も無いところ」、とします。無いとは何か?何かが有るのなら簡単ですが、無いということを想像するのは難しいと思います。次に「知性」とは何かと考えて見ましょう。最後に「生命」とは何かを考えて見ましょう。

これらの実質、実態を極めようとすると、如何に情報不足かということが分かると思います。一体自分には何が分かっているのだろう。どうもよく分かっていないようだということを発見できるかと思います。「考える」ということをすると、自分が如何に何も知らないかが分かるのです。以下のように整理して考えて行くと明確な認識が構築されて行くと思います。収録されている4冊の本の一冊目『生命の原理』から、

現代では吾々の肉眼視野は、顕微鏡、望遠鏡の視力に電子力をも併用して、自然の現象する森羅万象を細大漏らさず検討し尽くそうとしてはいるが、未だ最後に余りにも根本的な大きな見落としが眼前にあるという問題を残している。吾々が知り又知りつつある様々な現象実在を、現に抱容している基盤であるところの、宇宙大空間の「真空=何もない最後のもの即ち無」の実質と、吾々人間自体がこの宇宙の様々な現象実在を知り、又知ろうとする力「知性」そのものの実質と、この知性を以て今現在に生きつつある吾々の「生命」の実質、この三つの実質の理解だけが現実の吾々の知生活に未だに全くの空白を残しているということにある。誰であれ「もの」の本質を正しく知り、完(まった)き理解を遂げれば、その「もの」をよく活用できることは必然である。正しく活用できないのは、その「もの」を知らないという実証である。

二冊目の『考える力』からもう一節ご紹介します。

そこで私がくりかえし確信するのは、知性は意識(詞基)内を回転する詞の組み合せで人間自己の内部に成立し、この抽象の資料を提供しつつある虚空は「光透波」の回転によって、空間の基本実質として、不断に「透明」の姿で現成充実しているということである。
つまり透明質である「虚空」というものは、物質現象を差し引いた空間性の基本質であり、この虚空状態に気体原子を充満させている空間中で、吾々は呼吸を続けているのである。だから吾々が呼吸を続けている空間から、気体原子を取り去って、そこに不断に働く地球引力や太陽斥力を差し引けば虚空の生地が残存する。しかもこの虚空の生地は、太陽斥力、地球引力、気体原子に浸透して、同時にこれ等を無条件に抱容し且つ保持し且つ進化させている。
一方人間が仮死状態に陥り、気体原子の呼吸を一時停止しても、甦って来た人の記憶を調べれば、呼吸とは無関係にその人は、夢中と似た意識活動を続けていた場合が多い。

肉体は亡びても『詞を元素とした意識』は不滅だということなのです。この名著に初めて出会ってから二十数年が経ちます。読むほどに深まる理解が意識をより明晰に、透明にして行く過程を実体験することができる本であると私は実感しています。
菊池静流

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令和、命の木

2019年4月1日、新元号が発表されました。その夜、テレビのニュース番組で画面に映る「令和」と書かれた文字をぼんやり眺めていると、私の頭の中で自動的に字分けが起き、「命の木」と読み変えていました。

令和を右から書くと和令です。和を禾と口に分けて、口と令を重ねると命という字になり、禾はノと木に分けられます。和令、禾命、命ノ木、イノチノキ、となる訳です。このような字の分け方は変則的ですが、私の中で整理出来るということは字の導きによる為ですので、字分けの一例としてお伝えいたします。

なぜ、令和を命の木と読み変えたのか?その理由を考えていきました。まず、命の木についての一般的な意味を調べてみると

生命の樹は旧約聖書の創世記にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/生命の樹)とありました。

平成はタイラナリと読むことが出来、平らな状態を図に表現すると直線になります。現実の空間で「平ら」を視覚的に捉えると、地球は丸いので視覚の範囲によっては「平ら」から「円」になってしまいます。これを私と視覚対象物との関係に置き換えてみると、私が眼前に見る対象物は私と対面するものとして私の外に在り、私にとって直線上の正面である「平ら」な位置に視覚化される、私ではないものです。また、肉体的な視覚は直線上の「平ら」な位置に、面的(2次元)に「平ら」な像を映す構造です。視覚の範囲によって「平ら」な直線上にある対象物は直線を延長した「円」上にある対象物になりますが、私たちの視覚能力では対象物を「円」上に在る面的な像として見ることが出来ません。では、視覚ではなく、意識を使ったらどうなるでしょうか。意識を使うのですから対象物は私の内側に在り、そのまま一回りして対象物の背面から対象物の鼻先へ出て見ます。

このように意識の中で「平ら」から「円」へと範囲を移す時、対象物は私の内に在る面的な像となり、つまり私は私と対面します。エデン(回田)を回る電(デン)と取り、回転する電場だとすれば、電気現象が生まれる場であるエデンの中心に植えられた命の木は、磁性と電性の回転軸のことだと考えられます。

E(エネルギー)は波です。そして生命であり性能であり、性能とははたらきです(小田野早秧の光透波理論 “言語エネルギー 現実編” 参照)。

神は無限エネルギーなので、「神に等しき永遠の命を得る」とは、フリーエネルギーを得ることではないでしょうか。意識を使って円上に対象物を捉え、正面から私を見る私の眼。性能度の差があるとしても、その眼が少しも開いていなければフリーエネルギーを使うことは不可能でしょう。静流先生のお母様でいらっしゃる太母様が示された「仏眼」とはこのことだと思いました。

令和、レイワは零為環(零にするめぐり)、麗和(一対に並べあわせる。注。麗には対という意味もある)と文字をあて嵌められます。私と視覚対象物のそれぞれが互いに意識の中で「円」を描く時、イザナギとイザナミの国生み神話のように左回り、右回りの輪が出来ます。

渦の発生原因(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/渦)と同様に、質的に異なる二つのものがぶつかり合い回転しはじめ、回転は加速し、加速は度を増し、中心に命の木が立ちます。

令和→←和令と、左右に読み返すこと自体がすでに答でした。令和を命の木と読み変えたことからこのように学ばせていただきました。

令和元年 5月24日1:40  藤田知江

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静流

ダウジングと診断と対処法と残る課題

ダウジングについて、誤解のないようにお伝えしておくべきなので、他のことと共にこの記事を書いております。一般のダウジングは振り子やロッドを使います。どちらの場合も動きは時計回りと反時計回りというのが一般的です。私は違う規定をして始めていたのです。今は一般的な方法を使っています。他にも道具を使わないダウジングもしています。これは全く別の動きをするものです。

さて、体の不具合に関してだいぶいろいろと書いてきました。自分を実験台にすると誰からもクレームが来ませんので、例にとっておりますが、何をもって体に良いか悪いかを決める前に、日本人全体に共通の項目があることを申し上げておきたいと思います。

日本人は被爆しているのです。これが先にあって、その後に起きた様々な不具合にどのように対応するかという問題がでてきているのが現状です。自分の周囲を見て、どれほど多くの人たちが癌をはじめ、アレルギー、体の痛みに耐えて生きているでしょうか。私のような高齢者になりますと、回復力も遅いですし、何か作業をすると疲れも早く出ます。ただ、これは別に苦にしてはおりません。

何故かと言いますと、「死」と言うものが比較的近いので、当然のことと思っているからです。しかし、私よりもはるかに若い方たちが苦しんでいらっしゃるのを見ると、「何故だ、何でこんなに辛い思いをして生きなければならないのか」と疑問が解けずにいる間は辛いだろうと思います。疑問が解けない間は痛みよりも「訳がからない」という辛さに苛まれます。訳さえ分かれば立ち向かえるし、持っている不具合が治らなくてもそれを受け入れるという選択肢があることに気づいて気持ちはずいぶんと楽になると思います。私の友人の治療家の最近の著書に「病むことも生きること」と書いてありました。病は敵ではないという見方があるのを教えておられるのです。そうすると「悪あがき」はしなくなるでしょう。病んでいる内臓の大半を切り取って、最後にはやはり死を迎えた人の言葉が、「やり直せるものなら決して手術などしない」だったそうです。

環境の汚染を踏まえながらの診断ですから、まともな内臓などないかもしれないと、内臓の一つ一つがどのくらい機能不全になっているかも問いながらのダウジングもしてみました。左の腎は100%機能していますか、90%?80%?、60でYESだったので、逆進行して65と聞いたらNOでした。全く無傷の内臓などほとんどなかったのですが、それでも気持ちは元気に生活を続けております。有難いことに少しも怖くないのです。最近の大きな収穫は3歳の時のある記憶を思い出したことです。それが断捨離のおかげでついに見つかったのです。恐怖の最後の尻尾につながっていたのです。

病んでいる箇所の対応には優先順位があります。それを体は知っているので、信号を発して下さっています。母は非常に健康な人でしたが、よくこのように教えていました。

体の中には「医王様」がおられて、治るには何をしてはいけないか、何をすれば良いかちゃんと教えて下さっているのに、その声を聞きもせずに邪魔ばかりするのが人間と言うものじゃ。ちゃんと治ろうとしておるのに薬を入れて治るのを止めておる。獣を見ていると、ちゃんとするべきことをしておるよ。自然に逆らわんことじゃ。心配せんこと。ちゃあんとなるようになってゆくものだから。

心臓がどこにあるのかもよく知らない人でした。でも体の声を聞いて、対処していました。多くの場合治るまで何も食べず、水を飲んで、草むしりなどしていました。時々草を食べてもいました。自然治癒力にまかせて安心して生きていただけです。妊婦が苦いものや酸っぱいものなど食べたい時には食べているのを見ると、お腹の中にいる赤ちゃんが体に必要なものを教えてくれているのだと言っていました。同様に不要なものは吐き出すのが「つわり」だとも、「医王様は遠慮深い方なので邪魔するとすぐに引っ込んでしまわれる」とも言っていました。

小田野先生は「生の目的は死である」と言い切っておられました。生きているものは生まれた時から刻々と死に向かって進んでいるというのが当たり前の理で、逃げ隠れできないし、反対方向へ行く手立ても全くないのです。そこで、「死とは何ぞや」と、答を得る探求を始められたのです。答を探求する旅は喜びと興奮に満ちていて、不具合などほとんど気にもならないご様子をよく知っております。ある時先生の首が曲がったまま元に戻らず、首につながっている背中の骨と腰も曲がっておられるのを見た人が、すぐ隣に仙骨を治療する専門家が住んでいるのに、何故診てもらわないのかと尋ねたところ、「私の首が曲がってしまった訳を理解しない内に治すようなことをしてどうする」と答えられたそうです。その後何か月してから首はまっすぐになっていました。自然に治ったのであって、仙骨治療を受けたわけではありません。解答を得るために様々な疑問を持ち、解いて行くことが生きがいの方でした。痛みなど全くと言って良いほど苦にしておられなかったこの方の最後は、襲い来る激痛に耐えて息をすることさえままならない状態でした。それをじっと見ていた私にやっと途切れ途切れに、「良く見ていなさいよ。私は天鏡図の最後のところまで今見届けているのですからね」と。それが私の聞いた最後のお言葉でした。でもその時にはその意味は分かりませんでした。

今は不具合も痛みも苦しみも全部真っ直ぐ見据えて、びくともせずに残りの人生を送りたいと思っております。体の声を聞きながら。

明晰性が確答をもらう絶対条件

 

 

明晰性が確答をもらう絶対条件

自分の意識が明晰でなくて、何を問い、何を答えてもらえるだろうか。
質問が詳細で、明確であればあるほど頂ける答も端的で、すぐに応用が出来ます。

ダウジングを例にとりますと、「はい」なら振れる、「いいえ」なら動かないと設定。
鼻炎の他に皮膚トラブルがある私を例にとります。

「私が敏感肌で発疹が出るのには根本原因がありますか」
「はい」
「原因は一つ以上ありますか」
「はい」
「二つですか」
「はい」
「三つ以上ですか」
「はい」
「二つだけ答えてください。食べ物が原因ですか」
「はい」
「砂糖を使った甘いものですか」
「はい」
「甘い果物少しは良いですか」
「はい」
「他にもありますか」
「はい」
「乳製品ですか」
「はい」
「小麦製品ですか」
「はい」
「三点に注意すれば、症状は緩和しますか」
「はい」
「もう一つは人間関係のトラブルですか」
「いいえ」
「自分自身が原因ですか」
「はい」

 以上の要領で自分の中にある原因についても聞いて行きます。答が端的なだけにすぐに処置できます。人生の途上で降りかかるあらゆるトラブルを解決して行く方法で最上のものは「自力」で「問と答」を引き出して行くことだと思います。答が分かったら後は必要に応じて友達なり、専門家の助けも求めて行けます。後回しになった三つ目以降の原因の電磁波に関しては専門家に助けてもらいました。アルコール飲料に関しては摂取制限をしています。自分自身の問題は継続して心の断捨離をしています。あまりに一時に全部の原因を処理したくないので、選択は自分でしました。

『小田野早秧の光透波理論』よりの抜粋

 もし吾々に「ことば」がなくて「耳にきく」音感のすべてが、一様に何の意味にも感覚されず、「目に見る」すべてが「無名詞」の実在の世界であったとすれば、吾々は何事をも何物をも「知る」という実感を得ることは不可能であろう。こうして「知」の性能が空白になれば「考える」という事実も成立し得ない。体験体得といえども「感能力」から「ことば」をはずして何が成り立つだろう。
 実に吾々が「感知」する事実の成立は、吾々が感覚する限りの実在現象が総て名詞(動詞も働きに対する名詞を成している)になって、吾々の生命に感置されて「思考力」や「理解力」という知性能に活用されているからである。
 「ことば」こそが、人類に理解する理性を成立進展せしめて、無形に有形に人を動かしているのである。

 少し難しい表現かもしれませんが、人間に「ことば」を使う能力がなかったら、いかなる問も作れないし、答もいただけないということです。答えは問が明晰なほど明確であるということも当然の理ですから、明晰であろうとする意志が大切だと認識することがスタートラインです。

2019.4.23
困った時の文字頼み

天のジグソーパズル―令和

元号が変わりました。これには大きな意味があります。日本人全員の潜在意識にこの「令和」という文字と音が入ったのです。辞書的には文字通り、和になりなさいという上意という意味になります。嫌も応もなく司令、命令なわけです。
では何故ジグソーパズルと関係があるのかを見て行きましょう。

令を分解するとアルファベット1番目の文字Aという字になります。Aはアと読むのでの文字が当てられます。卩というものは、元は一つだった文字なり図が割られて別々になり、後で合わせて一つであったことを証明する為に使われました。ジグソーパズルです。元はたった一つだった全ての現象体が別れて散らばって存在しているとイメージしてください。吾もその一片です。たった一つしかない絶対空である1(ワン)の理(コトワリ)を吾という個々の生命体が苦節を体験しながら学び、理解してゆく使命を負っていると取りました。個々ですから自分で行動しなければならないと言われているのです。という言(コトバ)によって成り立つ思考、思念を通して理を理解して行くのが人と言う現象体の使命です。

和はワなら環、調和しながら滞りなく循環する全ての生命の環。調和とはナゴムということですから、光の海の一部だった一滴が、を頂き、めを果たしに旅立ってきたのです。

あなたはなる天の実親によって生み出された、かけがえのない、そして二つとないユニークな一滴なわけです。そしてほとんどの生命活動は実親によって育まれています。寝ている間も呼吸は続いています。食べたものも自然に消化されています。不具合があったら痛みという信号を出してもらえます。心が喜ばないことをすると、辛い、悲しい思いをさせていただきます。何が言いたいのかと言いますと、

愛されているのです。非常に精妙なエネルギーなので、感覚が鈍ってきている人には感じ取りにくいかもしれません。それで、この世には自分を愛し、気遣ってくれる人など一人もいないと、絶望して自殺したり、自暴自棄になって事故を起こして死んでしまったり、薬漬けになって生きながら屍のような廃人になってしまう人も大勢います。私も何回か意気消沈のあまり、病気になって死にかけたことがありました。痛いのも辛いのも叱られているのだと思ってありがたやと感謝して、よくよく自分を見て見れば、原因が自分にあることが多いのだと分かります。

空なる絶対天のいとし子ですから本来は喜びに満ちて活動しているはずなのに、どこが違うのかを探って見るのが、言によって成っていることを自覚するまでの道のりです。それは、人智ではなく、なるの方を駆使して、詞を頂いたユニークな生物である人としての務めを自覚して歩む道のりなのです。
わっている、パズルの一片、一片がそれぞれユニークな存在なので、欠けたら図は完成しないのです。

どれほど麗しく、必要不可欠な天のいとし子なのかを「令和」の時代に気づき、前の元号を継いで大いなるを完させて行きたいものです。

2019.4.2

負の連鎖―情報過多の落とし穴

先日電車に乗っていて気がついたのですが(車中でスマホをしないので、閑です)、高校生らしい男子が5人乗りこんできました。中で一人を除いて全員口で呼吸をしていました。治療師の端くれとして、長年の間に眼で診断する訓練も受けたので、観察はていねいに行うことにしています。3人はかなり重度の蓄膿症のようですぐにそれと分かるほどの顔面腫脹による盛り上がりが鼻の両脇にありました。もう一人はマスクをしていましたが、鼻を覆わず口だけ覆ってありました。やはり鼻で呼吸はしていません。一人だけ鼻で呼吸していましたので、5人に一人鼻炎ではないという確率です。10代の青年が元気はつらつどころか病気なのです。この人たちは将来どうなってしまうのでしょうか。

副鼻腔炎というとショックが少ないように思えますが、蓄膿症という言葉には不気味な響きがあります。その通り、怖い病気です。耳に膿が入ると中耳炎、慢性化すると難聴が加速されます。眼も悪くなりますし、頭もぼーっとして働きが鈍くなり、注意力が散漫になることから様々な事故が起きやすくなります。膿が喉から体の中にも入って行きますので、様々な疾患の原因にもなります。それより何より苦しいし鬱陶しいです。動物としての人間は自己防御のメカニズムからそれに対応するために感覚を鈍くして苦しさがあまり精神を疲弊させないように防御しますが、解決にはなりません。多くの場合どんどん重篤化して行く傾向にあるからです。動物としての「感」は生き延びる為に備えられた重要な機能です。これが鈍ってくるのですから大問題です。嗅覚が鈍ると腐敗しているなどの体に良くない食べ物を食べてしまいます。聴覚も触覚も危険が近づくと警戒信号を出して、「何かおかしい」と気づかせてくれますが、この機能も衰えます。雨の日に川の中洲でキャンプをして死んでしまった人たちもいました。十分な支度をしないで登山をする人たちも多いです。プラットホームの端近くでスマホをしていて誰かにぶつかって線路に落ちた人もいます。危険は直感的に感じ取るもので、~~だから~~しないという判断力や知識はそれほど無くともほぼ無意識に避けるのが動物的直感です。動物は判断や予備知識を使わずに生き延びています。

さて、またまた私ごとになりますが、蓄膿が原因の難聴になってしまいました。長年の花粉症によるアレルギー性鼻炎が中耳炎を引き起こし、難聴度は片耳が軽度、片耳が中度の難聴という検査結果でした。それが直接間接に関係した症状もいろいろあります。粘膜も含めての皮膚のかゆみ、発疹、頭痛、頭痛が原因の閃輝暗転という視野の一部が暗くなって見えなくなる症状が出る。耳下腺の痛み、明け方に出る咳が何十分も止まらない為に疲労と睡眠不足になる。まだまだありますが、これだけでも相当鬱陶しいですし、楽しく明るく生きるのには努力が必要になります。幸せなら努力など要らないので疲れはしません。疲労があると余病併発、急激な老化現象が起きます。負の連鎖です。

知人に鼻の治療の上手い(当然体全体のケアも含まれます)鍼灸師がいることをすっかり忘れていたのを他の友人に教えてもらったのが今年の始めでした。本当にすっかり忘れていたのです。これが年をとるとよく起きる現象です。ともかく、正月三週目に治療を始めて数回で鼻のつまりが無くなりました。頭痛は軽くなり、閃輝暗転は一度起きただけで、もう1か月起きていません。明け方の咳も止まりました。粘膜のかゆみも半減して、花粉の季節にもかかわらず、くしゃみもあまり出なくなりました。難聴に関しては先週の聴力検査で両耳とも正常範囲で、大体40歳代の人の平均値になっているとのことでした。加齢性難聴だとこうは行かないことが多いそうで、中耳炎が主原因だったからだろうと言われました。耳のケアに関しては自分が行っている温熱治療の器具を使って毎日内臓や耳下腺などを温めていました。耳が聞こえなくなって来たという状況にはかなりの恐れがあったため、本腰を入れて何とかしようと決意できたのだと思います。
結果的に5週間で負の連鎖が止まったのです。もう一つ付け加えなければならないことは、ほぼ毎日飲んでいたお酒も週に1回にしたことです。今は2回のこともあります(ちょっとあぶないかな)。でも自分でケアをすることはこれからも続けて行くつもりです。

心の断捨離では体に向き合っていなかったので、それだけでは十分ではないということをここで皆様にお伝えしたかったのです。今はインターネットのおかげで体の不調があると原因や治療法などいろいろ調べることができるのですが、あまりにも多くの情報が飛び交っていて、何かを調べているとそれに関連した物品の売り込みの広告がどっと入って来ます。一日おきくらいに閲覧履歴を削除してもどんどん入ってくる情報であふれかえります。まるで真反対の情報もあります。これとあれをしたら、結果は相克するかもしれないものあります。過剰になるのは足りないよりも危険です。素人が言っているのかプロが言っているのか、プロが言っていても半分宣伝なのか。混乱しないためには慎重に比較検討するという作業が必要になります。基本的には「何も要らない、何も買わない」という姿勢でのぞみ、必要最低限度の処置を何回も考え、比較検討した後に試験的にやってみるということをしています。効き目がありそうなものを足すのではなく、悪いものを取り去るというのが原因治療、未病ケアであると教えて下さった治療家たちに賛同しています。

二年ほど前に家の中の電磁波対策と言うのをいろいろやったのですが、十分ではなかったのでしょう、アレルギー反応はあまり軽減しませんでした。サプリなどを足して行くのではなく、不具合の根本原因の一つと考えられる帯電をしないための対策も必要と思ったのです。しかし素人考えの処置では十分ではなかったかもしれないことが二年間の実験で分かってきたので、現在プロに調査と対策の提案を依頼しています。これでさらにアレルギー反応が軽減すれば蓄膿の原因である鼻炎とはお別れすることができるかもしれません。医師や治療家に丸投げしないで、本人参加型の根本的な未病対策が大切だと思います。そしてもし可能なら家族の為の未病対策も大切だと思います。家族の病気は辛いものです。

ともかくアレルギーの症状が軽減したので、点眼薬やかゆみ止めは止められました。食べ物は外食を避け、出来合いのものを買わず自分で作っています。アルコール飲料と乳製品もアレルゲンなのですが、ワインを飲むとチーズが欲しくなります。ワインを飲むのを止めたら別にチーズは要らないので一石二鳥でした。一日平均4、5千歩あるき、軽い運動(主に掃除と庭の手入れ)を毎日するという簡単なことはしていますが、後は気楽にしています。気持ちの持ちようも健康維持の大切な要因です。心の断捨離も続けて行くつもりです。

高校生の男子を電車の中で見て、日本の将来を憂慮したのがきっかけで、この文を書きました。
2019.2.25

覚者と凡人はどこが違う

4番目の問題