自分の頭の上の蠅はよく見えない

「頭の蠅も追えない」とは、自分の身の回り(自分の頭の上)の些細なことすら満足に処理できない、世話できない状態を指すことわざで、転じて自分自身のことさえきちんとできないのに、他人のことに口出ししたり、大きなことを言ったりするなという戒めとして使われます。
あなたの周囲にもそういう人いますよね。
「余計なお節介」、「うるさい人だねえ」、なんて思ったこともあるでしょう。うるさいを漢字で五月蠅いと書くのも面白いですね。

さて、何故そういう人が多いのでしょうかと考えてみました。それは多くの場合自分の至らなさ、無能さを見たくないという心理が働いているからではないでしょうか。「自分を知らない人」ということになります。これから先を読みたくないという人はこれでお終い。知りたい人は先へお進みください。

自分を客観的に観るという作業を「内観」といいます。内観方法も色々とあるでしょうが、私は「字分け」という方法を採用しています。字(ジ)ならぬ自(ジ)を分けることが出来る便利な手法です。この工程は慣れるまでは少し複雑ですので、他にも簡単に出来る方法もあります。

失敗した時、憤慨した時、傷ついた時、悲しかった時、落ち込んでしまった時など、否定的な感情が起こって、なかなか抜け出られないことがあったら、その時の状況と湧き上がった感情を日誌のように書いておきます。書いているうちに、何と少しずつ冷静さが戻ってくるのです。問題を紙に書いていると、紙に移ってしまうのです。この時、客観視という現象が起こります。
誰が関与して、どういう状況で、それが起きたかを淡々と書いて行きます。その時に、言い訳をしないただ起きたことだけを書くのです。

書いた日時も記入しておきます。それだけですその日、その翌日、そのずっと後、何年後にも日誌の内容は読み返すことが出来ます。何故あの時あんなに傷ついたのだろう、思い返すとバカバカしい、可笑しい、恥ずかしい等と感じたら、もうあなたは学習済になっていると気づけます。これは嬉しい発見です。きっとモチベーションもアップもすると思います。

他人の頭の蠅はよく見えます。見るのが辛くないからです。でも自分のは見たくないので見えにくいです。見る為にとても役立つ方法は、他者の欠点は自分にもあるかもしれないと考えることです。それに気づく人は、賢い人で、これは他者は自分の鏡と心得えている人です。
そういう人は他者を裁かないのです。また、他者をさばくことは実は自分を裁くことなのです。ちょっと変だと思うかもしれませんが、「許せない、罰せられるべきだ」という思いは怒り、憤慨、復讐心等の感情につながっているので、幸福感や充実感とは別物になっているからです。脳内ホルモンの分泌の種類の違いです。自分自身の細胞が傷つくのです

また、頼まれてもいないのに、勝手に助けようとして、後で「余計なことをするな」と怒られるかもしれません。問題解決は当人にとっての学びのチャンスだったかもしれないのに、それを妨げたのかもしれません。いつも周囲の人に助けられて生きている人は自立出来ない人になってしまいます。頭も回転しなくなり勝ちで、年齢が行く程に認知症のリスクは高まり、周囲の人達にとって厄介者になってしまいます。周囲の人達もストレスがたまり、冷淡になり、怒ったり、罵ったりするかもしれません。それで人間関係がギクシャクしてしまうかもしれません。

まず、自分の頭のハエを見てみましょう。以前書いた「煩悩」を観るという手法も役に立つと思います。内観作業に有効な方法と思います。ただ読んでいるだけで、自分の頭のハエが見えてきます。

こつは、ただ読むだけで言い訳しないそれだけです。

裁かない、お節介しない、ただ見守っているだけの親がいます。その子たちは自立心が育ち、自分の子供に対してもそうするでしょう。互いを尊重し、必要なことだけを見極めて、助けます。

そこに生まれるのが平和な社会です。でも煩悩リストを読めば、自分も含めて自我意識を超越している人などいないと気づくでしょう。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩や親子喧嘩も起きるかもしれませんが、まあ、ほどほどで、恨みが残らない程度で済むのではないでしょうか。中学生の頃、大喧嘩した同級生がいたのですが、後で大親友になりました。一生の友で亡くなるまでその関係は続きました。あの時に意地悪なその人に私が意地悪をしたのです。それで大泣きになって、しばらくは口もきかなかったのですが、少したって、私にそれまでした意地悪を謝ったと共に、「意地悪って良くないのね」と気づいてくれたのが嬉しかったです。

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

不幸になろうと思って生れ来る人はいない

 

2026年のご挨拶

2026年
丙 午

 波乱の多い2025年でした。皆さまいかが乗り超えていらっしゃいましたか? ともかく生きていればこその人生です。つつがなくお迎えになられたのならおめでとうございます。

パンドラの箱の比喩を例にとりますと、今の世界の多くの災害、蔓延する病、増え続ける詐欺事件、経済的困窮等、禍いばかりで明るいニュースの少ない年でした。あらゆる禍いが飛び出した箱の底に最後に残ったのは「希望」だったと言われています。希望だけは捨てないで持ち続けることにします。これはちょうど体が病んだ時、胎毒と呼ばれる蓄積された不要な物を出して行く過程のようなものと捉えますと、出るだけ出た後に残る物は希望という光だとも解釈出来ます。そういう意味では「膿出し」の後に清々しい元気な細胞が再生される経緯とも捉えることが出来ます。私はそう願っています。

今年は午年です。昨年は巳年、一昨年は辰年で、水に関係した宇宙の要素を意味していましたが、今年は丙午なので、火と馬です。不要なもの、不浄なものを燃やしてさっぱりとして新たな年を迎えるつもりで、今年一年も引き続き多くの不用品を断捨離しました。物が減るごとに家も気持ちもさっぱりして、清々しい気分になりました。午/馬は動物でもありますが、ウとマという音を取りますと、「字の鍵(天鏡図)」の表から意味するものは「宇宙の間」とも取れます。間ですから何もない所です。何もない空間、つまり「無の世界」と捉えると、物質世界でない所です。無の世界からあらゆる有が生まれ出て来ては、時と共に滅び去って行く、これを「無常」と言います。物に執着して、そこに囚われていると、失うことに対する恐怖心や心配で心が晴れ晴れとするわけには行きません。それで断捨離をすると、清々とするのではないかと思います。掃除も楽になります。これも膿出しのようなものかもしれません。

どうか恐れに取り込まれて、心配しながら生きるのだけはやめましょう。「大丈夫、私たちは必ず死ねます(知り合いのカウンセラーの言葉です。心配性の人にピッタリですね)」。
生きている間中びくびくと心配しているか、しないか自分で決めて、それまで出来る限り幸せに周囲の人達を明るく照らしながら光の元に帰るまで楽しく生きてまいりましょう。

2025年のご挨拶

2025年のご挨拶
乙巳 元旦

今年は巳年。昨年は辰年。龍と蛇として見ると、どちらも水に縁があります。竜神は雨と水を司る神とし祀られています。

蛇神は日本においては水神として祀られています。また豊穣や金運を司る神様としても祀られてきたほか、脱皮することから、「復活」と「再生」を意味するそうです。

2024年は世界各地で洪水が多かったです。日本も大雨が続きました。嫌でも水の力を知らされた年ではないかと思いました。逆に水不足の災害地ではどれほど水が生命維持に必要かも身に染みて実感させられたとも言えます。

さて、水は流れているだけでなく、大気中にも充満しています。宇宙間にも充満しています。

星は水が集まって、生まれ、長い時間を経ると徐々に水が燃え尽きて、死んでしまいます。これを生き物になぞらえて「星が年を取る」とか、「星が死ぬ」と呼んでいます。星座を形作っている星を恒星といい、これらの星を光らせているエネルギーの源は、星の中心部で起きている核融合反応で、主に水素を燃料としています。この燃料を使い果たしてしまうと、もはや星は光り続けることが出来なくなり、「死ぬ」ことになってしまうのです。

人間も動物も、樹木も皆水が無ければ生きていられません。この水が命を育んでいることを知っているからこそ、古来人は水を神として祀ってきたのでしょう。

この水を汚している張本人は他でもない人間です。水道水はもとより、多くの飲料水には健康に良くない成分が含まれています。土を汚染する農薬や除草剤や化学肥料も土に染み込み、水が健康を害するものになってしまいます。

これを神として大切にして、決して汚さないで生きることが自分の為にもなります。

今年はアメリカ合衆国の政権が替わります。今までとは全く異なる新しい時代の夜明けとも期待出来る政権と思います。この政権で、アメリカ合衆国保健福祉長官(日本の厚生大臣に相当)になるロバート・ケネディJr.という人は、水道水に毒を入れない、飲料はもとよりあらゆる食品を安全なものにする、と宣言しています。

素晴らしい年の幕開けとなりますね。

良い食べ物は体が教えてくれる

食の安全性など気にしていない知人三人と食事していた際、一人が、「最近すごく高いお寿司屋さんに行って、いくらでも食べられる気がしてすごく沢山食べたけど、値段考えて止めた。普通なら後でなかなかお腹空かないのにすぐまた減ったのよ」と言いました。

さて、昨日友人とオーガニックな食材のみを使ったイタリアンレストランに行ってコース料理を頂きました。二時間以上かけて、ワインをゆっくりと飲みながら(すぐにガンガン出さないで、美味しい水が出してあって、間で水を足してくれる)食事とオーナーのお話を聞きながらおしゃべりも楽しみました。そして腹一杯食べたのですが、家に帰ってしばらくしたらまた空腹になり、見事に消化されているのが分かりました。

体は美味しいものはしっかり消化してくれて、その証拠に胃に滞留しないのです。胃に未消化の食べ物が滞留すると体は嫌がって胃酸を出して分解しようとするのですが、その間も食べ物はガスを発生します。そしてゲップが出て逆流して排除しようとします。胃酸は胃の中の粘膜は丈夫なのですが、食道の粘膜は酸に弱いので爛れます。これを「逆流性食道炎」と言います。

同じ日にレストランに向かう電車の中での体験です。端の席に座っていた私のとなりに高校生らしき男子が四人座りました。四人は食べ物を袋から出して食べ始めたのですが、何だか分かりませんがひき肉のようなものを挟んだパンでした。その匂いの強烈さとあまりの悪臭に耐えられなくて席を立って他の座席に移りました。あんなに臭いものが分からないのはよほど嗅覚が麻痺しているに違いないと思いました。嗅覚が麻痺すると腐ったものも誤って食べてしまう危険性があります。よく集団旅行で若い人たちが食中毒で病院に急送されたというニュースが出ますが、「匂いで気がつかない」人が増えているからではないかと思います。体が教えてくれなくなってきているのです。件の四人も若さで乗り切れてもそのままの感覚で少し年齢が高くなったらどういう病気になって行くのでしょうか?

さて、移った席の真向かいに次の駅で乗り込んできた非常に肥満した女性が座って、袋からカップに入った何かをスプーンで食べ始めました。強烈な香辛料の匂いと甘ったるい嫌な匂いが車内の空調の風にのって私にも届いてきます。「匂いの暴力」とは正にこのことですね。次にその女性は多分空いたカップをしまうのに、手提げ袋の中をひっかきまわし始めましたが、見つからないようで、中身を膝の上に広げ始めました。ふくろ菓子とふわふわの菓子パンとキャンディーの袋も出てきました。いつも何かを食べていたいのはきっと「何か体に必要なものが足りないからではないかと思って見ていました。場所も構わずに食べるのは我慢できないからなのでしょう。おそらくその結果が「超肥満」だと思いました。座っているお腹の前に膝がほとんどないほどの肥満でお腹の上に載せた袋が落ちそうでした。

2024.09.28
4番目の問題

病が治る人、治らない人

 

頭から飛び込め

私は8歳の時に川で溺れたことがあります。よく覚えていませんが、水をしたたか飲んで、目の前が暗くなり、それから意識を失ったようです。次に気づいた時は陸の上でした。誰か知らない(今でも知りません)若い男性が助けあげて下さって、蘇生処置で水を吐かせてくださり、助かりました。家族がお礼を言っていたかと思いますが、私はお礼も言わず、名前も知らないままでした。

その時から水が怖くなりました。それで海に入る時も胸から下までしか水がない位置までしか行けなくて、足元からそろりそろりと水に入り、顔を水につけないで泳いでいました。波がある時は海には入らず、もっぱらプールでした。それも足から水に入り、顔を水につけないように泳ぎました。

後年、学校でプールに飛び込んで泳ぐように言われ、嫌だと言ったら、「頭からザブンと飛び込め」と言われたのです。とても好きな先生に褒めて欲しくて、一大決心をして「死ぬ思い」で思いっきり飛び込みました。そして向こう岸まで行ったら、その先生が腕を伸ばして引き上げてくれました。ニコニコしながら着ていたジャケットを肩にかけてくれました。私の水恐怖症を治して下さったのだと後で気づきました。ジャケットの温もりと、恐怖心を乗り越えた喜びとを一生忘れません。

その後、私は「度胸あるわね」といろいろな人に言われるようになりました。

思いっきり「頭から、全身で飛び込む」という決意で、乗り越えて来た人生になったわけです。

足元からそろそろと恐々では決してやり遂げられないのだと言いたいのです。友人のカウンセラーでとてもユーモアのある人の口癖でとても役に立つことばがあります。

「大丈夫、誰でも必ず死ねます」

実は「死」は怖いものではなく、「死が怖い」という恐怖心が人の心を委縮させ、引っ込み思案にさせ、誰かに嫌われたり、疎外されたりするのが怖くて、唯々諾々と周囲の圧力に負けて奴隷のように従ってしまうのです。それはとても惨めなことで、「自分を負け犬」だと思い、恥を忍びながら生きていくことになってしまうのです。自己嫌悪がばれないように表を取り繕って、ビクビクするか、反対に威丈高な態度で生きることになりがちです。どちらにしても友達はあまりできません。周囲にいるのは似たりよったりの人が多く、内心は好きにはなれない人ばかりとなります。偽物の友情で、かりそめの幸福感を束の間味わいながら、欲求不満を抱えながら生きることになることになるのではないでしょうか。それで、新年の計で、もう人のいうなりになるのを止めましょうと書いたのです。

2024年のご挨拶

甲辰 元旦

今年は素晴らしい年になるのではないかと大きな希望をもっております。

この数年はとても良い年だったとは言えませんでしたが、その中でも心を強くしなやかに、希望を持ち、明るい未来だけを思い描いて過ごしてまいりました。

親しくしていた方が何人も他界されたり、思いがけずにけがをしたり、少し体調を崩したりしたこともありましたが、不思議なほどめげることなく生きていられました。

それほど盤石のように確固たる希望を持って、明るい心でいることの効果があったと言えると思います。

さて、今年は辰年です。トップ画像は龍ですが、タツとも読めますので、立つに通じます。「自立」、自分で立つ、誰かに責任を押し付けることなく、やってしまったことの責任をとる、そして、何よりも「自分の頭で考える」と言うことを続けて来たことを今更ながらに有難いことだったと思っております。

誰かの圧力を受けて、不本意なことをしてしまった結果が、悲惨なことだったら、踏んだり蹴ったりですよね。持って行き場のないような遣る瀬無さになってしまいます。でも自分で考えて決めたことなら、結果が不本意でも後悔はあまりないと思います。そして、自分で後始末をして、前より大分賢くなったなあ、と思って乗り越えられます。ちゃんと乗り越えました。

今年からは自立を目指し、もう他人の言いなりはやめてみませんか。これを新年の計にしましょう。何か不都合があっても乗り越えて行ける人になれば、きっと良いことが起きます。簡単に動揺しない人になれるのです。不思議なほど平静でいられ、問題対処の糸口もすぐに見つかるのです。誰かに頼ろうとすると、頭の働きは途端にストップしてしまいますが、自分で対処しようとすると知恵が湧いて来るのです。これって凄くないですか。無料でお試しください。

頭から飛び込め

正覚の大音十方に嚮流す

正覚の大音十方に嚮流す
しょうがくのだいおんじゅっぽうにこうるす

長らくブログに投稿しないで来ました。何を書けば今という時代、その時代の世界の状況、そして否応もなくその状況下で好むと好まざるとに関わらず生きていなくてはならない人類。自身も含め家族や周囲の人たちの病、苦痛、生活苦と自由に移動もできないような閉塞感の中で生きてきた数年間でした。何か言うと波風が立つので言うこともままならない、常に周囲を横目で見ながら忖度して生きる他はないような状態だったと思います。いやそういう中で生きていることにさえ、気づいていない無知の暗闇の中にいる人たちも多いと思います。

想像してみてください。暗闇の中を手探りで生きていた時に突然一筋の光が差し込んだらどうなるかを。あっと驚くような情景が目の前に展開するのを。

見えるということがどれほどすばらしいかを。

何がどこにあるかが見えない。どんな危険が潜んでいるのかも分からないという恐怖が消え去り、対処すべき事柄が明確に見えるという喜びに勇躍、すべきことに向かって行動するでしょう。何しろ生存をかけているのですから。

その時が来ました。もうすぐ隠されていた状況が目前に展開しだすのです。

見たくないもの、知りたくはなかったことも多いでしょう。でも見えないよりもずっと良いと思う人も多いでしょう。

見えるからこそ対応出来るわけです。そして対応できる自分がいかに賢く、能力に恵まれているかを再認識して、同じように夫々の能力に応じた行動をとる人たちと新たな発見と理解と、それから生まれる気づきを共有する喜びに胸がときめき、心が喜びに満ちるのを。

表題の言葉の意味を説明しますね。

人は考えることが出来、考えて気づいたことを発表する手段をいただいてこの世に生み出されて来た生き物です。そして何かを発見し、気づいた結果を分かち合いたいという欲求をもっています。自分一人で納得して満足して誰にも言わずにいられる人はあまりいないと思います。で、声に出し、文章に書き、人によっては歌にして伝えます。

「そうか、そうだったんだ、そうなんだ。今やっと分かった。嬉しいなあ、これを誰に伝えようか」

と思った時にその人から大きな音(うるさいという意味でなく、伝播力が高いという意味です)が出て、それが大宇宙に発信されます。そして、その響きに呼応して、同じように思っている存在達が共鳴、調和して、その波動がさらに拡がって行きます。そういう意味です。

交流と書かずに、嚮流とあるのはそういう深い意味があるからです。

何が展開していくのかについては、追々に書いて行くつもりです。まずはお知らせまで。

この三年間本気では書けなかった年明けのご挨拶でしたが、やっと謹賀新年と書けます。これからどうぞよろしくお願いいたします。

2023年9月30日13:46

2023年のご挨拶

2023年のご挨拶

癸卯 元旦

毎年元旦になりますと、

「明けましておめでとうございます」

とご挨拶してまいりました。習慣ですね。「おめでとう」と言えるかなあ、などとは考えません。

この3年間、月日とともにどんどん暮らしにくく、制限された日々を過ごしてまいりました。

さて、今年は、

「災い転じて福となる」年になるのでしょうか?

「夜明け前が一番暗い」

と言いますが、暗闇の中から輝く光の世界へと明けて、

明けましておめでとう

となりますでしょうか?

そう願います

共に希い、祈り、何があろうとも、「心しなやかに」明るく生きてまいりましょう

文字通りその2 直通

2022.02.02 6:39に「直通」を頂きました。先ずはを分けました。

これだけで私にとってはゾクゾクするほど「その通り」なのですが、説明も加えます。

というのは私達が命を頂いて生活している「場」である地球という惑星も含めて、あらゆる物質の存在を有らしめている創造の源、言い換えると「命の實親」を指します。沢山別名があります。「創造主」、「真空」というとよりピンとくる人もあるでしょう。

この空がっているというのはどういうことなのでしょうか。何もない空がどうやって養っているのでしょうか。

一足飛びに、「何も無いものが智慧そのもの」なのだと言えばこの話は終わりです。でももう少し続けさせてください。

日本語では漢字に読み音が二種あり、先に音読の音に「字の鍵」から文字を当てました。次に訓読のナオに当てた文字の意義を見てみましょう。

という字を分解すると「大=小」となります。これは凄いことなのです。大小は物質の持つ特性です。空に大小はありません。それだからこそ、(統治する者である他に数字の4の古字でもある)それが真ん中を意味すると同じ音を持っています。は大きいという意味があるとともに絶対の一者()と分解できます。絶対の一者とは創造主、絶対神、あるいは在りて在る全ての物をも意味します。互いに関係があることはこれで分かります。

その直が透明の命の内容だというのは開くと出てくるからです。は一つの次元から上の次元へ開くという形であることから、光透波理論ではと取っています。

絶対の真空の創造主とじているとは究極の恩寵と言えます。神は死んだと言って自殺して哲学者もいましたね。通じていれば孤独でもなければ苦しみも不信も無い訳です。

それを今日頂いたのですから感謝しかありません。じているとは、実はまったく当たり前のことで、創造の源が生命の源ですから、その人が知っていようといまいと生かして頂いているわけです。生命エネルギーの供給が途絶えたら途端に死んでしまうからです。

これがものの道理というものだと分かっていれば当たり前が実は大変なことで、「有り難い」わけです。

直について更に拡大して見ましょう。ジカとも読むのです。「字化」と当てますと、しているととれます。真空という見ることも触れることも出来ない「透明の実体」が見えるようになっているのがなんと、字なのです。「字に化けて」私達が見て、分解して、どういう構造になっているのかまでが分かるように備えられてあるのです。

なんと凄すぎるまでの親切な設定になっているものが文字の真の存在価値なのです。どうぞこれに気づいてください。「ああ又字分けなの!面倒くさいわね」、と飛ばして文だけ読んでいる読者の方が多いかもしれませんが、字分けの画像の方もどうぞジックリ(字通空理)と見てください。

自分を知るのには字分をするのが遠そうで近い道なのです。

2022年のご挨拶

新年おめでとうございます。

昨年はあっという間に過ぎてしまった感があります。あまり大きな活動をしないで静かに家で過ごす時間が長かったです。私はせっかちな性分なのですが、急いで行くところもする事もないので自然に内側に向かって旅する結果となりました。そして「最後の断捨離」などとおこがましい記事を書いてアップしました。

最後なんかではなかったのです!

人間関係での好悪や批判的なものの見方はほとんどなくなっても、まだまだ煩悩もあれば、悩みも、体の不調もしっかりあります。ただし、それがあまり苦にはならなくなっているようで、それが違うのかなと思う今日この頃です。

今年はどんな年になるかまだ分かりませんが、「人生は必ず辛い」などどいう、おそらく大多数の人にとっては意味不明であろう記事も書きましたが、これがこの二年間に実際に人々に降りかかった試練でした。これまでとは異なり逃げ場がない試練なのです。そして初めて、逃げても無駄だし、助けてくれる人も実際にはいない、いなかった、ということに気づいた年でもありました。

その経験の後に来る今年が2022年なのです。

自立の年
誰も非難できないので仕方なく(?)責任をとる年
自分で考えて決断する年
不可避である死というものを見つめ、
 その実相を探求し、理解して、恐怖から解放される年

昨年中に私の交友範囲で多くの方が亡くなりました。大恩ある方もいらっしゃいました。生きている間にもっと会っておけばよかったとも思いましたが、ウイルスの関係で会えなかったこともあります。多くの人にとってもおそらく人類史上前代未聞の転機に直面させられた二年間だったと思います。歴史上大きな戦争や疫病や天変地異はありましたが、全世界が巻き込まれたことは無かったと思います。第一次と第二次大戦でさえ全世界もれなくではなかったと思います。国境、民族、イデオロギー、宗教に関わりなく被害にあったという意味です。これが如何に人類の成長、あるいは進化にとって踏まなければならないプロセスであるか、その意義を知れば、そこに見えてくるものは「希望」なのだと私は受け止めています。

さあ朝日に向かって希望への船出をしましょう。