先日物置の奥にあった古い花瓶を年長の家族のTが私に見せてどういう品物かを話してくれた。Tは母の姪で私が生まれる前の父を知っている人だ。それによると二人が東京に住んでいたころ商店街を散歩中に骨董店をのぞいてこれを見つけ二人で相談して買ったという。子供の頃に家にあって時々花が活けてあったのを思い出すと同時に若かった頃の両親の姿が目に浮かんできた。父は母のことを「かあさん」と呼んでいて非常にていねいで美しい言葉で話す人だった。父の声音には尊敬と愛情の両方がこもっていた。両親は互いに対し美しい言葉で話をする人たちだった。物心ついた頃から何年かは疎開先の奥多摩に住んでいたのだが、当時は家族の団欒には祖母とTも加わって楽しそうに笑いながら話をしていたのをよく覚えている。和やかで美しい声音が快く、その場を離れたくなくていつも茶の間の片隅に座布団を敷いてそこに寝そべっていた。途中で眠ってしまうと誰かが抱き上げて布団まで運んでくれたものだ。ふんわり柔らかいのが母の腕で、大きくて骨っぽいのが父の腕だった。父の腕の感触と匂いをまざまざと思い出すと同時に懐かしさがこみあげてきた。後年父に対し腹が立つことがあって心が離れてしまいがちになったが今ではただ懐かしい。
父に対し怒っていたあの頃何がそんなに腹立たしかったのだろうか、怒りの原因はなんだったのだろうかと内観を続けていた時にまるでヘドロのような汚濁の池にはまって溺れ死にしそうになった経験があった。その時に大きな気づきがあった。汚濁は個人のものではなく人類全体の怒りの集積だったのだと。この時に「一蓮托生」という言葉の意味が初めて実感できた。
天の父母である至高の叡智である創造の源とは異なり、人間である両親は決して完ぺきではないが、足りない点も含めて受け入れ、愛することができたら心に空白の穴は出来ないだろうと思う。人間が犯すあらゆる理不尽で残虐で破壊的な行為は心に穴があるせいだと言った賢い人がいる。その通りだと思う。
心に穴があると、寒くて、孤独で、腹が立ってイラつき、誰かを攻撃したくなる。または何かの依存症になって穴があることを忘れてしまおうとする。それでも穴は埋まらないのでいつまでたっても破壊行為は止まらない。多くの人が同じように破壊的になると地球は大きな被害を受ける。愛と他者に対する尊敬の心のない人々の犯す行為が積もり積もって今は地球上の生命は瀕死の状態になってきている。どれだけの種が絶滅したろうか。絶滅危惧種になっているだろうか。海も土も水も汚染されてしまった。それでも破壊行為は止まない。乾いた心の飢えに浸食されて心身ともにボロボロになって行きつく果てが「病」という愛の鞭で、「気づきなさい」と教えてもらっているのだ。
「自分は何も悪いことはしていないのに何故こんなひどい目にあうのか」と言う人は多いが、悪いこととは他の人間に対してという意味が多い。全生命にとってという点から見てもそう言い切れるだろうか。これが「一蓮托生」ということなのだ。これに気づかないと自己破壊する。そういう順序と筋道を明確に認識する理性がある人たちが破壊の反対のエネルギーの振動を発信することで悪行の根源にある破壊のエネルギーの振動を打ち消す効果をもたらすことができるのだと私は考えている。
たとえ講演会をして回らなくても、本を書かなくても、誰にも知られない無名の人であっても、今いる処で触れ合っている人たちや生き物に愛と尊敬のこもった美しい言葉で話しかけ、感謝と友愛を表現するという日常の行為が地球に平和をもたらすすごい影響力を持っていると私は信じています。
2016.8.3