本当は、孤独な人など一人もいません

3月23日の朝、3時半過ぎに目が覚め、窓のロールスクリーンを上げて、外が見えるようにして、床にクッションを敷いて座り、外を見ました。半月なのに煌々と光る月が美しく、見ていると母のことが思い出されました。

母は若い頃日本中を徒歩で旅する人でした。お金があまり無いので、人の来ないお墓や山中の森や林の中で寝たそうです。人里を離れた灯りの無いところなので、夜空は満天の星です。瞬く星を見上げながら、星と話をし、月と話をし、静寂を満喫して、幸せだったそうです。

後年、私が覚えているのは、母がよく唄っていた童謡で、「お月さん」でした。ちょっと調子外れで、歌詞も勝手に少し変えて唄っていましたが、聴くと私の胸はいつもキュンとなって、何故か少し物悲しい気持ちになったものです。孤児の歌なので、寂しがりやの私も同調したのかもしれません。私も声には出さずに唄いました(正調で)。

お月さん、一人なの?
私もやっぱり一人なの
お月さん空の上
私は並木の草の上
お月さん幾つなの?
私は七つのみなしごよ
お月さんもう帰る?
私もそろそろ、おねむなの
お月さん、さようなら
明日の晩まで、さようなら

何故か涙があふれ続け、母懐かしさで胸いっぱいになりました。

その時、目の端の方で何かがチカチカしているのに気がつきました。視線を移すと、星でした。月明かりがあまりに煌々としていたので、小さな星たちの瞬きに気づかなかったのです。「あらま、気がつかなかったわ、ごめんね」という気持ちで、今度は星々を眺めました。

チカチカチカチカ、まるで何か言いたげです。もっとよく見ようと、別の部屋に移動して外を眺めました。月がないので星の数がずっと多くなっていました。

その時に聞こえたのは、ルナさんと呼ばれる存在の言葉でした。その前日に観た動画の中で彼女に、朝4時に起きて、空を見てくださいと言われたのです。その時は多分4時になっていたと思います。そして、彼女が言った言葉が、

空に瞬く星たちはただ光っているのではないのです

この時、腹の底からこみあげてきたのは「笑い」でした。おかしくて、おかしくて、クスクスとしばらく笑いながら、声に出して言いました。

ほんと、ほんと、その通り、ただ光っているんじゃないよね。お話ししているのよね。
私と一緒に瞬いて、繋がって、嬉しくて振動して、仲間になってくれて嬉しいって言っているのよね。私も嬉しいわ。

星たちはもっと瞬いて、「ようこそ、一緒になれて嬉しいです」と言っているように聞えました。

またまた涙で、胸キュンで、そして、またルナさんの言葉が響いてきました。

孤独な人なんて一人もいません

ほんと、ほんと、みんな繋がっているんだから。でもそれを知らない人たちが大勢いて、孤独の中で、悲しんだり、絶望したり、愛してもらえないって怒ったり、恨んだりしているの。この人たちを腹の底から笑わせるために私が出来ることは、この喜びを伝えて行くこと。だから、今書いています。

母の言葉も今聞こえてきました。

由来、天地の理法は、自身の喜びを知らずして、
他を喜ばせ益すること、到底適わぬ道理にあるなり
各自(おのがじし)その喜びを知(さと)るべし
して、他をして真の喜びにあらしめよ
それ、真の喜びとは、万人はおろか、万物と心通うことの外なきなり
心通うとき、自ずから万物をいたわり、
尊重するなり
喜びとは、孤立の一滴にはなく、通い合うところに始めて生ずるなり
されば 万物と通う心を極楽と知るべし

絶対の孤独の体験記

 

仏眼とは何か

人の心の中に巣くっておる「いわゆる悪」の中身は煎じ詰めると「嫉妬と羨望」、嫉妬の裏側は自己の能力の過小評価。羨望も同じで、一番大事でしかも必要なものは既に持っているのだということに気がついておらんことから起きる苦しみと悩み。その結果の行為は「自分にないものを持っている人を抹殺したいという欲求」。優れた(と思っている)人を殺しても、自己否定は解決しない。だから隠して、仮面をかぶって生きざるを得ない。この悲劇!なんとも憐れ。来世で修正するというチャンスがあったら、転生するわけ。

空気がなかったらすぐに死んでしもうのに、それを汚して「文明の利器っちゅう物」たくさんこさえて、水も汚しほうだい。一番大切な物を汚して、作る程に売らねばならんから、世界中走り回って売りこみ。さらにもっと要らん物作って、もらった物は「吸うことも、飲むことも、食べることも出来ん銭っちゅうもん」。賢いはずの人間がどうやってそんな汚い世界作って、平気でおるのか分からん。

わしの寺では「人は皆、阿弥陀様の懐住まいの果報者」と言っておった。「極楽浄土」はどこか他の場所にあって、死んでからでないと行けないと思っとる。それでその極楽のまん中で、一生懸命囲いを作って、不幸でおる。どうやら不幸が好きらしい。そうとしか思えんね。不幸だと病気になる。それであわてて、医者だ、薬だと騒ぐ。でも世の中見とるとどうも病人が多い。寺に治してくれと来る者もおる。何故来たかと訊ねると、治らん病気だと医者に見放され、行くところが無いという話。「治らん病気などない。固執というもんはないんじゃ。学者に言わせると細胞は7年で入れ替わるということじゃが、それなら治らんというのはおかしい」どうも学のある者も間違っとるらしい。

こりゃ大変だ、「どうしたら分かってもらえるんじゃろ」、と目開とらん者に伝えようにも、言葉が思いつかん。それで一生懸命書いたのが「慧日」という本じゃ。智慧の太陽が心の中に昇ると「見えん物が見えるようになる」それを見てもらわにゃ。わしが生まれてからどう生きたか、何を思っておったかを書いた。学校に行かんで川や森で遊んでおったから、綴り方なぞ上手くなくて、鉛筆舐めなめ、書いては消し、書いては消しして何年も苦労して書いた。読んでもらった人たちの中で大分分かってくれた者がおったが全く足りない。皆「感動した」と涙こぼして言っても、あまりわしのようにならん。それで、またまた書いたのが、「舟を岸につなぎなさい」という世界の人にあてたメッセージ。これもまたあんまり効き目がのうて、またまた、何か書かんと、と思い、最後に書いてみたのが、「仏眼」。

縁ある者に読んで聞かせているだけで、もう本にして出版はせん。「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦さんも言っとったが、そういう時期が来んと発表しても「何のこっちゃ?」でしかないと分かった。

しかし、今がその時ではないかと言う気がした私は決意して2017年に本にしました。以下の説明にあるように、この本の本髄を把握できたら目が開くという著者の本願である、「全人類開眼」が叶う可能性があるのです。

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

仏眼

母の教えは単純素朴

眼が開いとらん人間がこれまた眼が開いとらん人間の言うことを鵜呑みにして、尻尾に追いて行くなど考えられん程の愚かなことじゃ。誰も信用してはいけないよ。愚者を信じる者はその結果をも受け入れるしかないね。因果応報というものは誰か他の者が尻ぬぐい出来るものではない。獅子は自分の子を谷に落とすと言うが、まあ、親を頼りにしとったら生きて行かれんという教えじゃな。

自分の眼でしっかり見きわめるには、自然界をよく見ておれば良い。自然のままに生きておる者達と合わんことをしているなら、何かが間違っとる。意見が合わん者と喧嘩せんでもいいよ、自分が分かっておればいいだけ。親切な人になど成らんでもいいから、幸せな人になりなさい。幸せな人はただ歩いとるだけで、見た者が何か知らんけど嬉しくなって気が晴れるもんじゃから。

生き甲斐がないと言って寺に相談に来る若いもんがよくおるが、わしに生き甲斐などないよ。生きているのがもう甲斐(注。十分満足)なんじゃから。寝ても覚めてもちゃんと呼吸はしておって、忘れておっても食べたものはちゃんと消化されて、要所に配分されていく。生きておるこの不思議、この体が自動的に生命を維持しておるこの有難さ、不平不満などどこ探しても見つからんね。

そうは言っても時々物悲しい時もあるかもしれんが、そういう時にわしは歌を唄う。そうすると体中の細胞が一緒に振動して、余分なものが振るい落とされていって、元気が出てくる。医者も薬も要らんよ。

 

悪魔は裏口から入って来る

私の祖母は賢い人で、私は子供のころよく聞いた言葉を生涯忘れずに生きてきました。なぜ忘れなかったかと言うと、後で「成程そうか、その通りだ」と納得できたからです。いくつかご紹介する際に、もう一人、いえ、多分他にも引用させていただくと思います。何しろ自分で発見したことなど微々たるものですので、人生で巡り合う幸運に恵まれた賢い方々の発見、卓見をお借りしてのお話をしていくことになるかと思います。

さて、近い将来人類は前代未聞の情報の洪水に飲み込まれ、アップアップすることになるかもしれません。溺れない程度の少量の情報公開であれば何とか処理していけるかもしれませんが、それでもなおかつ、精神的にも肉体的にも苦痛な体験をする人たちも大勢いるかと思います。それを乗り越える用意が出来ている方々が縁あって今この記事をお読みになっていると思います。

祖母のことば

人の心の奥底にゃ、鬼が住むか、蛇が住むか

自分自身の心を客観的に観ることに慣れた人だからこそ、これに気づいているのです。

げに、悪に強い者は善にも強いものじゃ

ある時、遊郭で散財していた夫の借金を取り立てに高利貸が祖母に返済をせまりに来ました。金額を聞き、頷いて、泣きも、嘆きもせずに、平静に、あるだけの金を今渡すが、足りない分はこれから払えるだけ払って行きますと答え、そして返済計画を話しました。働き者だった祖母は様々な才能を持っていたので、収入を得る手段も持っていたようです。この様子をじっと見ていたその男は承知した後、寺の後援者になってくれたそうです。悪鬼のように思われている高利貸が、祖母には良き相談者となり、お布施もくれるようなったそうです。

尊敬する親鸞聖人の書をよく読んでいた祖母は「善悪一如」ということばの真意もよく理解していたようです。

表題の言葉ですが、IT用語でバックドアというものがあります。裏口、勝手口という意味の語です。ソフトウエアやシステムの一部として管理者や利用者に気づかれないよう秘密裏に仕込まれた、遠隔操作のための接続窓口をこのように呼ぶそうです。

実はこの接続窓口は各人の心の中にもあるのです。

善悪一如という大法則を知らない人は、自分は棚に上げ、他者をさばき、勧善懲悪とばかりにヒーローを気取って悪者を退治して、これからは平和な世の中になる、と思うでしょう。

ところがどっこい、そうは問屋がおろさないのです。

私にインスピレーションを与えてくださる、賢人ルドルフ・シュタイナーも言っています。

何かが一方において無視されて、無力化されると、その何かは境域または境界の正反対の側から別の姿をとって現れてくる

欠陥を非難する事によって学ぶのではなく、欠陥を理解する事によってのみ学ぶことが精神性を高める

神智学、仏法あるいは光透波理論を学び、宇宙の構造とその成り立ちを学ぶ人にとっては、当たり前のように受け取られていると思いますが、実はそうでもないと私は体験的に知っています。

心の断捨離をしていると様々な感情の嵐に襲われることがあります。ひとつひとつ観察しては消えて行くのを見てきましたが、なんとまだまだ残っているのです。あきれるほど執こく、心の襞の間に隠れているのです。それを知っていると、怒りや復讐心がむらむらと湧き上がって来た時に対応できます。もう一つ、シュタイナーのことばを。

悪の本当の意味は人間の利己主義と結びついて考える時、初めて見えてきます。そして自分の中の悪、不完全さと戦い、それを克服する可能性は自分の中の利己主義をどう克服するかの一点にかかっているのです

2023.10.01

正覚の大音十方に嚮流す

正覚の大音十方に嚮流す
しょうがくのだいおんじゅっぽうにこうるす

長らくブログに投稿しないで来ました。何を書けば今という時代、その時代の世界の状況、そして否応もなくその状況下で好むと好まざるとに関わらず生きていなくてはならない人類。自身も含め家族や周囲の人たちの病、苦痛、生活苦と自由に移動もできないような閉塞感の中で生きてきた数年間でした。何か言うと波風が立つので言うこともままならない、常に周囲を横目で見ながら忖度して生きる他はないような状態だったと思います。いやそういう中で生きていることにさえ、気づいていない無知の暗闇の中にいる人たちも多いと思います。

想像してみてください。暗闇の中を手探りで生きていた時に突然一筋の光が差し込んだらどうなるかを。あっと驚くような情景が目の前に展開するのを。

見えるということがどれほどすばらしいかを。

何がどこにあるかが見えない。どんな危険が潜んでいるのかも分からないという恐怖が消え去り、対処すべき事柄が明確に見えるという喜びに勇躍、すべきことに向かって行動するでしょう。何しろ生存をかけているのですから。

その時が来ました。もうすぐ隠されていた状況が目前に展開しだすのです。

見たくないもの、知りたくはなかったことも多いでしょう。でも見えないよりもずっと良いと思う人も多いでしょう。

見えるからこそ対応出来るわけです。そして対応できる自分がいかに賢く、能力に恵まれているかを再認識して、同じように夫々の能力に応じた行動をとる人たちと新たな発見と理解と、それから生まれる気づきを共有する喜びに胸がときめき、心が喜びに満ちるのを。

表題の言葉の意味を説明しますね。

人は考えることが出来、考えて気づいたことを発表する手段をいただいてこの世に生み出されて来た生き物です。そして何かを発見し、気づいた結果を分かち合いたいという欲求をもっています。自分一人で納得して満足して誰にも言わずにいられる人はあまりいないと思います。で、声に出し、文章に書き、人によっては歌にして伝えます。

「そうか、そうだったんだ、そうなんだ。今やっと分かった。嬉しいなあ、これを誰に伝えようか」

と思った時にその人から大きな音(うるさいという意味でなく、伝播力が高いという意味です)が出て、それが大宇宙に発信されます。そして、その響きに呼応して、同じように思っている存在達が共鳴、調和して、その波動がさらに拡がって行きます。そういう意味です。

交流と書かずに、嚮流とあるのはそういう深い意味があるからです。

何が展開していくのかについては、追々に書いて行くつもりです。まずはお知らせまで。

この三年間本気では書けなかった年明けのご挨拶でしたが、やっと謹賀新年と書けます。これからどうぞよろしくお願いいたします。

2023年9月30日13:46

『仏眼(ぶつげん)』が発刊されました

 表題の『仏眼』は菊池霊鷲が著した最後の書です。この本には前編ともいうべき書があります。今から60数年前に発表され、その後英訳され、1967年に、世界各国の元首および要人に百数十名に向けて、全人類への警鐘「第一のメッセージとして送られました。『舟を岸につなぎなさい』がそれです。

 当時はまだ環境問題など一般に取りざたされていない時代ではありましたが、反響は大きく、多数の要人からメッセージが届きました。中でも当時の国連事務総長からの手紙に、「メッセージの趣旨には賛同しますが、何分にも時期尚早にて、すぐには実践できない事情が多々あり、心に留めては置きます」というものがありましたが、この返信に代表されるのが当時の要人の多くが同じ懸念を持ちながらも、一般的常識外の内容である為実際には何も出来ないという内容のものでした。 

 さて、今はもう時期尚早などとは言えない状況となって来ています。世界中で起きている環境汚染や、生態系の崩壊、異常気象、原因不明の多くの疾病疾患等の問題は六十数年前とは異なり、誰にも否定できない明白さで、人類につきつけられています。
 こういう時にこそこの書を発表することはいろいろな意味において、人類とその宿主である地球環境の保全に貢献することが出来るのではないかと思い、当書の発刊を決意した次第です。

 このメッセージ文の中に十六の議題というものが挙げられてあり、その回答として書かれたのがこの『仏眼』です。
 議題の回答だけ教示して欲しいとのことで、当時のローマ法王庁から特使が二回来られた事もありました。私も一回同席しましたが、霊鷲太母は、回答は、一国、一組織に対しては出来ない、万国・万教関与の上でなければ、と断り、その代わりに次の様なことを話していました。

 環境問題を引き起こす根本原因となっているものは、人間の「根本無明(こんぽんむみょう:単なる無知ではなく学問をしても解決できない愚昧・迷妄)」である、という趣旨と、「開眼(かいげん:悟りを開くこと)」ということの意義です。
 今や、地球の住民である全人類は国境、宗派を超えて同じ問題に直面している訳ですから、万国関与とも言えます。そこで、議題を先に提示し、その後にこの著書を発表するという編集で、この本を作りました。

 第一部が、『舟を岸につなぎなさい』
 第二部が、『仏眼』
となります。

ご購入希望申し受けます。

本 単価:1,000円 送料別途。10冊以上送料無料
『仏眼』朗読CD 単価:500円 送料別途
講演ビデオ(2枚組120分)3,000円 送料別途

お問合せページからご注文できます。

追記。「無明からの脱却」という現象について生前太母さんはこうも言っていました。一人の人が目を開き、無明を脱するのではなく、「全人類」が目を開くことが地球とその全ての住民の蘇生の要となるということを知ってもらいたい。私が打ち立てた本願(自分や家族の為、ある特定のグループや民族の為でなく、全ての存在を対象にした願い。つまり神仏の立てる願)は「全人類開眼、万物皆安堵」だったのだから。「一人一人が開眼すると言うと膨大な数だから無理」と思うかもしれないが、そうではない。ごく少数の人たちが先に目を開くと、その影響が次から次へと波及して行くから、ある時一挙に可能になるのだ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

 

春の小川のように

母が好きだった歌で、少し音痴気味に歌っていました。

春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色美しく
咲けよ咲けよと、ささやきながら

静流という名前は母が書いた小説の主人公の名前ですが、その本の冒頭にあります。

静かな流れとは、
善にも悪にも、清にも濁にも、美にも醜にも、かかずらうことなしに、心身ともにひたすらに流れゆく一生の姿になぞらえたのです。

なかなか善悪や美醜に拘ることなくは生きられませんでしたが、それでも母の願いはいつも心の中に大きな位置を占めてはいました。今年のあいさつ文の中で、カウンセラーの仕事は裁くことではないと書きましたが、この戒めは大切にしています。
人生の荒波に否応もなくもまれる中、悲しみや怖れに捕らわれて心が乱れた時に、拘りを捨て、さらさらと流れて行くのは難しいのですが、役に立つことはいくつかあります。
その一つとして、瞑想と言うほどおおげさなものではないのですが、しずかに座って、目を閉じてイメージする風景の中でもよく出てくるものは、穏やかに流れる川なのです。何を投げ込まれても放り返しはできない受け身の人生は川に似ています。でもさらさらとただ流れて行くのなら、ただそれだけのことです。良いも悪いもありません。嫌でも何でも受け身なのですから。それを苦にするかしないかだけが自分にできることです。

最近、末期癌の患者の「緩和ケア」という仕事を主にしている医師の講演を聞きました。ホスピスとは違って投薬や医療の他に代替治療も含め様々な処置をするクリニックです。彼によれば癌の70%は酷い痛みを伴うそうです。その痛みの緩和ケアをするにあたって、有効ないくつかのポイントがあるそうです。痛みの対処の方法はいろいろありますが、どれでもその人に合えばそれが有効ということで、手段は選びません。しかしどの場合も常に共通なのはその人の心の状態で、それが否定的か肯定的かで痛み苦しみが違ってくるそうです。

後半年か一年くらいの命と言われている。怖い、苦しい、理不尽だ、まだ死にたくない。半年しかない、が半年もあるというふうに、気持ちが肯定的に変わるきっかけとして有効なことばは、「人間は100%死にます」だそうです。自分だけが理不尽にも死ぬのではなく、誰でも死ぬのです。これで視点が変わるそうです。後は死ぬまでどう生きるかを選択すれば良いのだそうで、これは一つの目標になります。嘆いていても意味がないのは分かります。

へえ~、そうなのか。誰でも死ぬとは知っていても、自分が死ぬということをしっかりわきまえてはいない人が大勢いるということです。

この医師が、どのような処置をする場合もお勧めは、瞑想や座禅などの心のケアだと言います。痛み止めの薬の量が違ってくるというのです。ほとんどの場合大幅な違いが出てくるそうです。心が静まっていて穏やかなら痛み苦しみは少ないという実例を見てきた人の証言です。

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

何気なく…

ふと何気なく手に取った詩集の中の一つが目に飛び込んできた。いつもそうなのだが、「ふと何気なくという何か」が、心の深いところにある琴線に触れて美しい音を出す。

 

母は歩くのが好きな人で日本中テクテク歩いた。木のポックリを履いて。
海岸では貝を拾い、道や川では小石を拾って帰ってきた。「石はみな光っている。宝石だけじゃないの」。その母の思い出がどっとよみがえってきたきっかけを作ってくれた詩の一篇は、

 歩いていると
小石がピカリと光ったので
ふところに抱いて帰った
小さな石の方から私を
友だちに選んでくれたのは
うれしいことだ

高見順という人の「小さな石」という詩で、家族のTが好きな詩人だったので家に詩集があり、今朝ふと私に見せてくれたのだ。
パッと開いたページにこの詩があり、パラパラと見ているといくつかが目にとまり、心が音楽を奏でる。

暗い雑木林のなかを
小さな花を手にして
憎しみを胸に秘めて歩いてゐたら
頭上の木の間から一条の光がさして
私にそっとささやいた
わかりましたと私は答へた

愛や憎しみは
感じても見られない
愛のうちに憎しみを感じても
それを目で見ることはできない
私が手にしていた花の
言葉を聞くことができないやうに

光もこの目には見えても
光の言葉は聞かれないのに
聞けた私は仕合せだった
憎しみを花にゆだねて
落葉の下に静かに埋めて
私は暗い道から歩み出た

素晴らしい朝だ。
2017.4.8

生きるために生きる人たち

 

4番目の問題

前回の記事で提示した16の問題の一つを考えて見ましょう。4番目の問題です。

医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?

まず医学が「進歩しているにも関わらず」と言わずに「歩調を合わせて」と言っていることに注目してください。これはどういう意味でしょうか?
文字通りに解釈すれば、進歩と歩調を合わせるとは一方が他方の原因を作っているという意味です。ここまで言い切らないとしたら、進歩が必ずしも病を治癒させることがない上に進歩の途上で予測していなかった他の要因が加わり、かえって患者が増える結果をもたらしている、いうふうにも取れませんか?

では、まず医学とは何をするものかから明確にしましょう。

医学とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。
ウィキペディアより

診断と治療は分かります。疫病に罹ったら医師を訪ね、検査を受けて診断してもらい、治療を受けます。現代の医学の主流である西洋医学の場合ですと、各種の手術、処置、投薬を受けます。病院や診療所ではこれが主な活動内容です。また、予防する方法としては、健康増進や維持に役立つような食事、運動の勧め、休息や睡眠を必要なだけとることを勧められるでしょう。普通はこれで終わりです。そしてこれが功を奏しているとは言えない現実を皆様もよくご存じと思います。多くの疾病は完全に治癒することはありません。症状が和らぐが、病は治らないままに寿命が尽きて亡くなることが大半のケースです。また、一つの疾病から解放されても他の疾病が出てくる。薬は、しばらくは効いていてもそのうち効かなくなる、長く使用すると副作用やそれ以前の処置の影響による余病併発、副作用による種々の不具合が表面化するというケースもあります。つまり医学療法とは根本的解決法とは言えないということです。

体は生きている細胞の集合体です。各細胞はそれぞれ異なる役割を分担して決して他の細胞の仕事を妨げたり、横から口を出して指図して全体の調和を乱したりはしません。他の集団が機能障害を起こした場合のみ助っ人となって仕事の分担を軽減してあげるということはありますが、通常は己の分をわきまえてコツコツと仕事をしています。

この生命の営みを妨げる、横から口を出す、一つの集団ばかりに都合の良い処遇をして、他にとっては迷惑なことをする、というような全体のバランスが崩れるようなことをするのが人間の行う治療です。何故なら人間は人体を作れるほどの知恵をまだ持っていないからです。どの細胞が何の役割を果たしているかを100%は知らない(一体何%くらい分かっているのでしょうね)のに様々な薬を投与したり、生体の部分を切り取ったり、他の生体から取ってきたものを移植したり、注入したりしているのです。効を奏する場合もありますが、奏さない場合は「できる限りの手はつくしましたが残念ながらご臨終です」となります。

日常生活に支障をきたさない病に罹った場合は治す効果のある措置として様々な方法がありますが、軽度の疾患で生活のスタイルを変える人がどれくらいいるでしょうか。あまりいないと思います。歳をとってゆくのですからだんだんに悪くなる方に向かって行きます。その結果重篤な病に罹ったらどうするか。びっくりしてやっと本腰を入れて良くなる処理をし始めます。でも多くの場合はもう手遅れです。

早い内に手当できたのにそれをしないで手遅れになってしまった原因は根本にあるその人の心の持ち方に関わっているのです。一個の細胞といえどもおろそかにはしない、何故なら自分のものではないのだから。お作りになったのは大自然の叡智という、別名を創造の源という存在です。したがって大切に思う、尊敬して接する気持ちが必要なのです。

もう一つ忘れてならないのは、人間は孤立した存在ではないということです。地球という環境に依存して、地球と一蓮托生の存在なのです。地球の大気を吸って、大地が育てた食物を食べ、水を飲み、太陽の光を浴びて生きています。この環境がどんどん汚染されているのに100%の健康体など期待できるはずがないのです。医薬品を作る過程でどのくらいの水が汚れ、空気が汚れ、実験台の動物が虐待されるかを知っていますか。

自分独りが完璧に健康にはなれません。何故なら全ての人の行動の原動力なっている潜在意識が許さないからです。潜在意識を100%コントロールできる人はいません。何故なら潜在意識を見ることもそれと対話することできないからです。
薬や各種の延命処置や、文明の利器である機械の導入による過重な労働からの解放や、住環境の快適化などで寿命は延びても、潜在意識の影響から逃れることは出来ません。人間本位で他の生物も含めて地球環境を汚染し、傷つけているのに自分だけが幸せになることなどできないと思ってしまっているからです。そしてそう思っていることにさえ気づいていないので、改善しようもないのです。

霊鷲太母は端的にこう言っています

喜びとは、孤立の一滴にはなく、
通い合うところに始めて生ずるなり
されば、万物と通う心を
極楽と知るべし

著書『仏眼』より

気持ちの処理法の一つとして私は、病は避けられないと受け入れる(ある意味で自業自得だから)。そして病からの解放とは病を気に病む感情からの解放というものであると思っています。病によって不幸になるわけではないのです。不幸だと病みがちということは言えると思いますが。
2017.2.13

https://37kotoha.net/10/覚者と凡人はどこが違う/

太母についてはこちらもどうぞ。

http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-backno.htm

病が治る人、治らない人

 

 

 

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

下記に提示されている項目は『舟を岸につなぎなさい』と題されたメッセージ文の抜粋です。

この本で提示されている15項目の問題は今から60年も前に書かれたものです。日本は高度成長期の始まりにありました。環境汚染という言葉など誰も知らなかった頃です。今この問題を見て、あなたは何問答えられるでしょうか?そして16番目に、すべてを統括する答があることを示唆している項目が提示されています。

  1. 文明が大車輪で発展すれば、災害も大車輪で大発展することに目を留めなさい。 なぜか?
  2. 災害の七割までは人間が引き起すものであります。ということは、災害の七割までは人間 が防止できます。どのようにして?
  3. 今、他の天体への究明と試みが大掛かりになされていますが、距離における「より遠く」 とか、面積における「より広く」とか、速度における「より速く」とかいうものと、我々の幸 福の要素、安全とか愛情とか信頼とかいうものとは、あまり関係のあるものではありません。 天体究明も大切に違いないが、足元にもっと大切な問題があることを忘れてはいませんか?
  4. 医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、 寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?
  5. 和合調和を招くのが宗教であるのに、宗教と名乗りつつ、世界に排他反目の巨大な壁を造 らせた矛盾と罪に留意し、反省して、教義の欠陥を正し、信仰の誤りを直しなさい。直すには?
  6. 文明生活と人口問題についてと、衣食住についての心構え
  7. 精神的美風(美しいならわし)が急速にうすれつつある今日において、それらの美風が再び 人類の上によみがえってくる処方箋について
  8. 常に善い悪いと言い続けてきながら、未だに善悪邪正の判定をする明確なより所を持たな いのはなぜか? ということとそのより所
  9. 人類の苦しみの第一因は、要不要の算定を無視した物品乱造であり、悩みの最大因は、乱造せざるを得ない経済機構にある。ということについてと、その重苦から脱する方法について
  10. 物品乱造の結果、乱費となり、これが人類と他の万物との関係をどのようにしているかに ついて
  11. 空気の生態と、その果たしている三大役割について
  12. 科学界に対する要望と、その研究目的についての示唆
  13. 原子力はその使用目的が何であれ、取り扱うこと自体が災害のもとであるという理由に ついて
  14. 既に蓄蔵されている原子力開放にあたっての諸条件について
  15. 教育は学校に始まってはもう手遅れで、出生と同時に始まらねばならないということと、その始まりにおける諸注意について
  16. 以上15項目の解答がすべて帰着する終点において発生してくる諸問題について

以上16項目中、最も重要なのは、最終の第16項です。 前記15項目は、あなた方がよく検討なされば、容易に解明するものであり、もうとっくに解明してもいます。 しかし、その解明を基調にしたさまざまな具体策を「どのようにして最もスムーズに、かつ急速に、現在の社会機構上に適合させていくか」が問題の重点であり、この重点を取り扱うの が第16項だからであります。
前記15項目にはすべて帰着する一点があります。今日まであなた方が何を求め、何を得ても満足できないで、幸福とは永続性のないものだとあきらめかかっていたのは、この一点を見 落としていたからであります。15項目の帰着する一点こそ、ついにそれが何であったかを明示するものです。

以上の問題点に関し、それぞれの方が、「ああ、60年前の予測がまったくその通りになってきている」と思われたのなら、それがこの本の信ぴょう性を証明するものではないでしょうか。この回答を聞くために40年ほど前にローマ法王庁からお使いの方が二度見えたのですが、「どこか一か国、あるいは一団体や一宗教に対して回答はできない」と言って、著者は回答を控えていたのです。
そこで私からの質問です。どうすればすべての問題が解決すると思われますか?まず、初めの質問である、「どれとどれの解決法が分かるでしょうか」がある意味でヒントとなります。どれかを解決しても他が影響を受けて余計問題が大きくなるようならそれは解決法ではありません。どうぞ頭をしぼってみてください。いえ、心を澄ませて、母なる地球に、そして生きとし生けるものに心を同調させ、自然の声を聞いてみてください。

https://37kotoha.net/10/4番目の問題/