不幸になろうと思って生れ来る人はいない

三年前は長年の知己二人と血族の訃報に接しましたが、昨年は何とかお葬式参列無しで過ごせました。一人去り、二人去り、見回せば周囲にいる人たちは皆年下です。どうか皆さまお元気で長生きされてください。昔の私を知る人達の目減りは寂しいです。

そこで寂しい、あるいは淋しいという気持ちについてお話をしようと思います。

ある健康問題をとりあつかう学会の発表に、病の根本原因は細胞の炎症であるとありました[i]。細胞が炎症し続けると、最終的には壊死しますが、死なない細胞の中には不老化細胞となるものがあります。癌の中でアポトーシスしないものも不老化細胞です。それはさておき、では何故細胞は炎症を起こすのでしょうか?

食べる物? 運動不足? 肥満? 喫煙習慣? アルコール?

いえいえそうではありませんでした。それは何と、

「孤独」なのだそうです。家族がいても、友人がいてもその中でも孤独は心を蝕んでいる例は多いです。そしてその人たちの多くが病を抱えています。健康で薬もまったく服用していない知人は私の周囲にはほとんどいません。皆何らかの疾患を持って、病院通いをしています。だからこそこの話は大切なのです。

誰もが幸せに輝いて生きて行きたいという願いを心の底に持たされて生れて来るのに、赤ちゃんの時は別として、いつの頃からか、寂しい、悲しい、怖い、不安と感じ始め、大きな声で泣きわめく時代を過ぎると、自分で処理をしなければならなくなります。周囲の大人はいつまでもしがみついて来る子供には段々厳しく対応し始めます。それをどう処理するかが個人個人の課題となります。上手に対応する方法はいろいろですが、個人差はあります。

実はこれは人間対人間関係における対応の個人差なのです。大多数の人間は人間社会でのみの生き方を学びます。人間を生み出したそもそもの根源である、大元のことは考慮の外です。そこが問題なのです。

私の母のことばを引用します。

不幸せになろうと思って生れて来た者はおらん。皆幸せに輝いて生きたいと望んで(注。そのように感情を持たされて)生れておるのに大方は途中で不幸せになってしまう。何故か?

私は星見ても、月見ても幸せ。空を見ても雲を見ても幸せ。樹を見ても草花を見ても幸せ。澄んだ川の水、水底の小石、楽しそうに泳いでいる魚たちを見ても幸せ。周り中の物が輝いて命を謳歌しておる。そのまっただ中でどうして不幸せだと思ってしまうのか不思議。生まれた寺では「わしらは阿弥陀さんの懐住まい」と言っておった。その阿弥陀さんちゅうもんが、実はよく分かっとらんで、悪いことすると天罰が下るなんぞ言うもんがおるので、びくびく生きとる。阿弥陀さんは誰もかれも一人残さず幸せにすると約束してこの世界を造ったとお経(注。浄土真宗なので正信念仏偈を指す)にちゃんと書いてある。だから親の懐にいるようなもんじゃて。その親が造った世界を汚しちゃいかん。要らんもん山ほど作って水を汚し、空気を汚し、大地を汚しとる。汚さんには、最小限度の消費で、最大限の幸せを得るのが功徳というもの。美しい地球から収奪しない、少しで満足して、感謝して生きる。自分では種から野菜は造れない。皆太陽と水と大地がやっておる。髪の毛一筋といえども造れない。全部大自然のお働き。息が出来なければすぐに死んでしまうのに、その空気を汚しておる。自分では何も造らんで、全部ただで頂いておるのに、足らん足らんと嘆いて不幸でおる。頭がおかしいとしか思えん。

こういう人に育った背景は著書『慧日』にあります。それによると生れたばかりの赤子の顔を見た祖父が、その顔の輝きに深く感銘を受け、家族が教育をしないようにと別棟で自分の庇護の下に育てることにしたのです。誰にも邪魔されることなく、自由に育ててくれた祖父、母親、兄弟姉妹のお陰かもしれません。でもこういう人はほとんどいません。皆子供に良かれと思って教育をします。それは人間社会に於ける対応という意味の教育です。そしてそれが愛であり、正しいことだと思っているのです。

親切という言葉は、「親を切る」と書きます。間違いだらけの教育を受けた親を責めても意味はありません。勿論全ての親とは言っていませんが、夫々の思い込みというものは多かれ少なかれあるでしょう。そして良かれと思って教育するのでしょう。これに対しては、愛を持って優しく切り離し、これを実行する行為を「出家」と言います。一旦家を出るとは家族とのしがらみを絶つということです。別に家を出る必要はありません。心構えとして、影響を受けないで生きる術を見つけて行けばそれで済みます。口論してもほとんど効果はありませんので、静かにするべきことはだいたいやり、手助けもし、役に立つ人でいればやり過ごせます。そして心で自由でいれば良いのです。外で遊んでいるのを見て怒る親はそんなにいないと思います。楽しそうにしているのを見ると多分嬉しいからでしょう。幸せそうに輝いている効果です。

私も最近、生きとし生けるものの全部と繋がっているのだ、孤独というものは後から習い覚えた感情だったのだと、そう気づいたのです。勿論親しい友人がこの世を去れば寂しいという感情は起きますが、それが細胞に炎症を起こすような身体的ダメージは起きないのです。サイトカインが出ないで、セロトニン等の幸せホルモンが出ているからです。寂しいという字は、しずか、おもむきがある、涅槃の世界、寂静の世界も意味します。淋しいという、涙の林というような感傷が湧き上がる程ではありません。涙もまた、甘く切なく、根底に懐かしさや感謝がある場合は清々しいものではありますが。

どうぞ元気いっぱい光輝いて長生きして下さい。

[i] https://news.uchicago.edu/story/loneliness-triggers-cellular-changes-can-cause-illness-study-shows

https://www.huffingtonpost.jp/2015/12/08/loneliness-is-bad-for-you-and-this-study-may-help_n_8745970.html

AIに訊いてもそう答えてくれます。

Q:孤独が細胞に炎症を?
A:はい、その通りです。近年の科学的研究により、慢性的な孤独感は体内の細胞レベルでの炎症反応を引き起こすことが示されています。
主なメカニズムは以下の通りです。

● ストレス反応: 孤独は慢性的なストレス要因となり、ストレスホルモンであるコルチゾールやノルアドレナリンの分泌を増加させます。
● 免疫系の変化: これらのホルモンや関連する神経活動は、免疫系に影響を与え、炎症誘発性のサイトカイン(免疫細胞から分泌されるタンパク質)の生成を促進し、抗炎症性のサイトカインを抑制します。
遺伝子発現の変化: 特に、「保存的転写反応」(CTRA)と呼ばれる特定の遺伝子セットの発現パターンが変化します。この変化により、炎症に関連する遺伝子の活動が活発化します。
この細胞レベルの炎症は、以下のような様々な健康問題のリスクを高めることが知られています。
● 心血管疾患(心臓病や脳卒中)
● 糖尿病
● 関節リウマチ
● アルツハイマー病などの神経変性疾患
● 特定の癌
● 全体的な死亡率の増加
つまり、孤独は単なる精神的な苦痛ではなく、身体的な健康に直接影響を与える深刻な要因なのです。 

 

 

仏眼序説

久しぶりに『仏眼』を読み、今更ながらにその内容に納得しました。入力し、編集しながら何回も読み返し、朗読もしていても尚、全てを把握出来るわけではないのだと気付きました。

この数カ月、「全ては繋がっている」、そして私はその一部なのだという実体験(?)をしたことから次々に理解し、納得出来るようになった多くの事柄がありました。そこで、今より多くの方々にも読んで頂きたいと思い、この投稿をしました。序説のみですが、文も添付します。

トップ画像は太母が「慧日輪」と名づけた図形で、22歳の時に神秘体験をした際に観たイメージの一つです。コンパスを使って何回も何回も描き直して完成させたものです。

仏眼序説PDF

朗読:菊池静流

本当は、孤独な人など一人もいません

3月23日の朝、3時半過ぎに目が覚め、窓のロールスクリーンを上げて、外が見えるようにして、床にクッションを敷いて座り、外を見ました。半月なのに煌々と光る月が美しく、見ていると母のことが思い出されました。

母は若い頃日本中を徒歩で旅する人でした。お金があまり無いので、人の来ないお墓や山中の森や林の中で寝たそうです。人里を離れた灯りの無いところなので、夜空は満天の星です。瞬く星を見上げながら、星と話をし、月と話をし、静寂を満喫して、幸せだったそうです。

後年、私が覚えているのは、母がよく唄っていた童謡で、「お月さん」でした。ちょっと調子外れで、歌詞も勝手に少し変えて唄っていましたが、聴くと私の胸はいつもキュンとなって、何故か少し物悲しい気持ちになったものです。孤児の歌なので、寂しがりやの私も同調したのかもしれません。私も声には出さずに唄いました(正調で)。

お月さん、一人なの?
私もやっぱり一人なの
お月さん空の上
私は並木の草の上
お月さん幾つなの?
私は七つのみなしごよ
お月さんもう帰る?
私もそろそろ、おねむなの
お月さん、さようなら
明日の晩まで、さようなら

何故か涙があふれ続け、母懐かしさで胸いっぱいになりました。

その時、目の端の方で何かがチカチカしているのに気がつきました。視線を移すと、星でした。月明かりがあまりに煌々としていたので、小さな星たちの瞬きに気づかなかったのです。「あらま、気がつかなかったわ、ごめんね」という気持ちで、今度は星々を眺めました。

チカチカチカチカ、まるで何か言いたげです。もっとよく見ようと、別の部屋に移動して外を眺めました。月がないので星の数がずっと多くなっていました。

その時に聞こえたのは、ルナさんと呼ばれる存在の言葉でした。その前日に観た動画の中で彼女に、朝4時に起きて、空を見てくださいと言われたのです。その時は多分4時になっていたと思います。そして、彼女が言った言葉が、

空に瞬く星たちはただ光っているのではないのです

この時、腹の底からこみあげてきたのは「笑い」でした。おかしくて、おかしくて、クスクスとしばらく笑いながら、声に出して言いました。

ほんと、ほんと、その通り、ただ光っているんじゃないよね。お話ししているのよね。
私と一緒に瞬いて、繋がって、嬉しくて振動して、仲間になってくれて嬉しいって言っているのよね。私も嬉しいわ。

星たちはもっと瞬いて、「ようこそ、一緒になれて嬉しいです」と言っているように聞えました。

またまた涙で、胸キュンで、そして、またルナさんの言葉が響いてきました。

孤独な人なんて一人もいません

ほんと、ほんと、みんな繋がっているんだから。でもそれを知らない人たちが大勢いて、孤独の中で、悲しんだり、絶望したり、愛してもらえないって怒ったり、恨んだりしているの。この人たちを腹の底から笑わせるために私が出来ることは、この喜びを伝えて行くこと。だから、今書いています。

母の言葉も今聞こえてきました。

由来、天地の理法は、自身の喜びを知らずして、
他を喜ばせ益すること、到底適わぬ道理にあるなり
各自(おのがじし)その喜びを知(さと)るべし
して、他をして真の喜びにあらしめよ
それ、真の喜びとは、万人はおろか、万物と心通うことの外なきなり
心通うとき、自ずから万物をいたわり、
尊重するなり
喜びとは、孤立の一滴にはなく、通い合うところに始めて生ずるなり
されば 万物と通う心を極楽と知るべし

絶対の孤独の体験記

 

仏眼とは何か

人の心の中に巣くっておる「いわゆる悪」の中身は煎じ詰めると「嫉妬と羨望」、嫉妬の裏側は自己の能力の過小評価。羨望も同じで、一番大事でしかも必要なものは既に持っているのだということに気がついておらんことから起きる苦しみと悩み。その結果の行為は「自分にないものを持っている人を抹殺したいという欲求」。優れた(と思っている)人を殺しても、自己否定は解決しない。だから隠して、仮面をかぶって生きざるを得ない。この悲劇!なんとも憐れ。来世で修正するというチャンスがあったら、転生するわけ。

空気がなかったらすぐに死んでしもうのに、それを汚して「文明の利器っちゅう物」たくさんこさえて、水も汚しほうだい。一番大切な物を汚して、作る程に売らねばならんから、世界中走り回って売りこみ。さらにもっと要らん物作って、もらった物は「吸うことも、飲むことも、食べることも出来ん銭っちゅうもん」。賢いはずの人間がどうやってそんな汚い世界作って、平気でおるのか分からん。

わしの寺では「人は皆、阿弥陀様の懐住まいの果報者」と言っておった。「極楽浄土」はどこか他の場所にあって、死んでからでないと行けないと思っとる。それでその極楽のまん中で、一生懸命囲いを作って、不幸でおる。どうやら不幸が好きらしい。そうとしか思えんね。不幸だと病気になる。それであわてて、医者だ、薬だと騒ぐ。でも世の中見とるとどうも病人が多い。寺に治してくれと来る者もおる。何故来たかと訊ねると、治らん病気だと医者に見放され、行くところが無いという話。「治らん病気などない。固執というもんはないんじゃ。学者に言わせると細胞は7年で入れ替わるということじゃが、それなら治らんというのはおかしい」どうも学のある者も間違っとるらしい。

こりゃ大変だ、「どうしたら分かってもらえるんじゃろ」、と目開とらん者に伝えようにも、言葉が思いつかん。それで一生懸命書いたのが「慧日」という本じゃ。智慧の太陽が心の中に昇ると「見えん物が見えるようになる」それを見てもらわにゃ。わしが生まれてからどう生きたか、何を思っておったかを書いた。学校に行かんで川や森で遊んでおったから、綴り方なぞ上手くなくて、鉛筆舐めなめ、書いては消し、書いては消しして何年も苦労して書いた。読んでもらった人たちの中で大分分かってくれた者がおったが全く足りない。皆「感動した」と涙こぼして言っても、あまりわしのようにならん。それで、またまた書いたのが、「舟を岸につなぎなさい」という世界の人にあてたメッセージ。これもまたあんまり効き目がのうて、またまた、何か書かんと、と思い、最後に書いてみたのが、「仏眼」。

縁ある者に読んで聞かせているだけで、もう本にして出版はせん。「縁なき衆生は度し難し」とお釈迦さんも言っとったが、そういう時期が来んと発表しても「何のこっちゃ?」でしかないと分かった。

しかし、今がその時ではないかと言う気がした私は決意して2017年に本にしました。以下の説明にあるように、この本の本髄を把握できたら目が開くという著者の本願である、「全人類開眼」が叶う可能性があるのです。

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

仏眼

母の教えは単純素朴

眼が開いとらん人間がこれまた眼が開いとらん人間の言うことを鵜呑みにして、尻尾に追いて行くなど考えられん程の愚かなことじゃ。誰も信用してはいけないよ。愚者を信じる者はその結果をも受け入れるしかないね。因果応報というものは誰か他の者が尻ぬぐい出来るものではない。獅子は自分の子を谷に落とすと言うが、まあ、親を頼りにしとったら生きて行かれんという教えじゃな。

自分の眼でしっかり見きわめるには、自然界をよく見ておれば良い。自然のままに生きておる者達と合わんことをしているなら、何かが間違っとる。意見が合わん者と喧嘩せんでもいいよ、自分が分かっておればいいだけ。親切な人になど成らんでもいいから、幸せな人になりなさい。幸せな人はただ歩いとるだけで、見た者が何か知らんけど嬉しくなって気が晴れるもんじゃから。

生き甲斐がないと言って寺に相談に来る若いもんがよくおるが、わしに生き甲斐などないよ。生きているのがもう甲斐(注。十分満足)なんじゃから。寝ても覚めてもちゃんと呼吸はしておって、忘れておっても食べたものはちゃんと消化されて、要所に配分されていく。生きておるこの不思議、この体が自動的に生命を維持しておるこの有難さ、不平不満などどこ探しても見つからんね。

そうは言っても時々物悲しい時もあるかもしれんが、そういう時にわしは歌を唄う。そうすると体中の細胞が一緒に振動して、余分なものが振るい落とされていって、元気が出てくる。医者も薬も要らんよ。

 

悪魔は裏口から入って来る

私の祖母は賢い人で、私は子供のころよく聞いた言葉を生涯忘れずに生きてきました。なぜ忘れなかったかと言うと、後で「成程そうか、その通りだ」と納得できたからです。いくつかご紹介する際に、もう一人、いえ、多分他にも引用させていただくと思います。何しろ自分で発見したことなど微々たるものですので、人生で巡り合う幸運に恵まれた賢い方々の発見、卓見をお借りしてのお話をしていくことになるかと思います。

さて、近い将来人類は前代未聞の情報の洪水に飲み込まれ、アップアップすることになるかもしれません。溺れない程度の少量の情報公開であれば何とか処理していけるかもしれませんが、それでもなおかつ、精神的にも肉体的にも苦痛な体験をする人たちも大勢いるかと思います。それを乗り越える用意が出来ている方々が縁あって今この記事をお読みになっていると思います。

祖母のことば

人の心の奥底にゃ、鬼が住むか、蛇が住むか

自分自身の心を客観的に観ることに慣れた人だからこそ、これに気づいているのです。

げに、悪に強い者は善にも強いものじゃ

ある時、遊郭で散財していた夫の借金を取り立てに高利貸が祖母に返済をせまりに来ました。金額を聞き、頷いて、泣きも、嘆きもせずに、平静に、あるだけの金を今渡すが、足りない分はこれから払えるだけ払って行きますと答え、そして返済計画を話しました。働き者だった祖母は様々な才能を持っていたので、収入を得る手段も持っていたようです。この様子をじっと見ていたその男は承知した後、寺の後援者になってくれたそうです。悪鬼のように思われている高利貸が、祖母には良き相談者となり、お布施もくれるようなったそうです。

尊敬する親鸞聖人の書をよく読んでいた祖母は「善悪一如」ということばの真意もよく理解していたようです。

表題の言葉ですが、IT用語でバックドアというものがあります。裏口、勝手口という意味の語です。ソフトウエアやシステムの一部として管理者や利用者に気づかれないよう秘密裏に仕込まれた、遠隔操作のための接続窓口をこのように呼ぶそうです。

実はこの接続窓口は各人の心の中にもあるのです。

善悪一如という大法則を知らない人は、自分は棚に上げ、他者をさばき、勧善懲悪とばかりにヒーローを気取って悪者を退治して、これからは平和な世の中になる、と思うでしょう。

ところがどっこい、そうは問屋がおろさないのです。

私にインスピレーションを与えてくださる、賢人ルドルフ・シュタイナーも言っています。

何かが一方において無視されて、無力化されると、その何かは境域または境界の正反対の側から別の姿をとって現れてくる

欠陥を非難する事によって学ぶのではなく、欠陥を理解する事によってのみ学ぶことが精神性を高める

神智学、仏法あるいは光透波理論を学び、宇宙の構造とその成り立ちを学ぶ人にとっては、当たり前のように受け取られていると思いますが、実はそうでもないと私は体験的に知っています。

心の断捨離をしていると様々な感情の嵐に襲われることがあります。ひとつひとつ観察しては消えて行くのを見てきましたが、なんとまだまだ残っているのです。あきれるほど執こく、心の襞の間に隠れているのです。それを知っていると、怒りや復讐心がむらむらと湧き上がって来た時に対応できます。もう一つ、シュタイナーのことばを。

悪の本当の意味は人間の利己主義と結びついて考える時、初めて見えてきます。そして自分の中の悪、不完全さと戦い、それを克服する可能性は自分の中の利己主義をどう克服するかの一点にかかっているのです

2023.10.01

正覚の大音十方に嚮流す

正覚の大音十方に嚮流す
しょうがくのだいおんじゅっぽうにこうるす

長らくブログに投稿しないで来ました。何を書けば今という時代、その時代の世界の状況、そして否応もなくその状況下で好むと好まざるとに関わらず生きていなくてはならない人類。自身も含め家族や周囲の人たちの病、苦痛、生活苦と自由に移動もできないような閉塞感の中で生きてきた数年間でした。何か言うと波風が立つので言うこともままならない、常に周囲を横目で見ながら忖度して生きる他はないような状態だったと思います。いやそういう中で生きていることにさえ、気づいていない無知の暗闇の中にいる人たちも多いと思います。

想像してみてください。暗闇の中を手探りで生きていた時に突然一筋の光が差し込んだらどうなるかを。あっと驚くような情景が目の前に展開するのを。

見えるということがどれほどすばらしいかを。

何がどこにあるかが見えない。どんな危険が潜んでいるのかも分からないという恐怖が消え去り、対処すべき事柄が明確に見えるという喜びに勇躍、すべきことに向かって行動するでしょう。何しろ生存をかけているのですから。

その時が来ました。もうすぐ隠されていた状況が目前に展開しだすのです。

見たくないもの、知りたくはなかったことも多いでしょう。でも見えないよりもずっと良いと思う人も多いでしょう。

見えるからこそ対応出来るわけです。そして対応できる自分がいかに賢く、能力に恵まれているかを再認識して、同じように夫々の能力に応じた行動をとる人たちと新たな発見と理解と、それから生まれる気づきを共有する喜びに胸がときめき、心が喜びに満ちるのを。

表題の言葉の意味を説明しますね。

人は考えることが出来、考えて気づいたことを発表する手段をいただいてこの世に生み出されて来た生き物です。そして何かを発見し、気づいた結果を分かち合いたいという欲求をもっています。自分一人で納得して満足して誰にも言わずにいられる人はあまりいないと思います。で、声に出し、文章に書き、人によっては歌にして伝えます。

「そうか、そうだったんだ、そうなんだ。今やっと分かった。嬉しいなあ、これを誰に伝えようか」

と思った時にその人から大きな音(うるさいという意味でなく、伝播力が高いという意味です)が出て、それが大宇宙に発信されます。そして、その響きに呼応して、同じように思っている存在達が共鳴、調和して、その波動がさらに拡がって行きます。そういう意味です。

交流と書かずに、嚮流とあるのはそういう深い意味があるからです。

何が展開していくのかについては、追々に書いて行くつもりです。まずはお知らせまで。

この三年間本気では書けなかった年明けのご挨拶でしたが、やっと謹賀新年と書けます。これからどうぞよろしくお願いいたします。

2023年9月30日13:46

『仏眼(ぶつげん)』が発刊されました

 表題の『仏眼』は菊池霊鷲が著した最後の書です。この本には前編ともいうべき書があります。今から60数年前に発表され、その後英訳され、1967年に、世界各国の元首および要人に百数十名に向けて、全人類への警鐘「第一のメッセージとして送られました。『舟を岸につなぎなさい』がそれです。

 当時はまだ環境問題など一般に取りざたされていない時代ではありましたが、反響は大きく、多数の要人からメッセージが届きました。中でも当時の国連事務総長からの手紙に、「メッセージの趣旨には賛同しますが、何分にも時期尚早にて、すぐには実践できない事情が多々あり、心に留めては置きます」というものがありましたが、この返信に代表されるのが当時の要人の多くが同じ懸念を持ちながらも、一般的常識外の内容である為実際には何も出来ないという内容のものでした。 

 さて、今はもう時期尚早などとは言えない状況となって来ています。世界中で起きている環境汚染や、生態系の崩壊、異常気象、原因不明の多くの疾病疾患等の問題は六十数年前とは異なり、誰にも否定できない明白さで、人類につきつけられています。
 こういう時にこそこの書を発表することはいろいろな意味において、人類とその宿主である地球環境の保全に貢献することが出来るのではないかと思い、当書の発刊を決意した次第です。

 このメッセージ文の中に十六の議題というものが挙げられてあり、その回答として書かれたのがこの『仏眼』です。
 議題の回答だけ教示して欲しいとのことで、当時のローマ法王庁から特使が二回来られた事もありました。私も一回同席しましたが、霊鷲太母は、回答は、一国、一組織に対しては出来ない、万国・万教関与の上でなければ、と断り、その代わりに次の様なことを話していました。

 環境問題を引き起こす根本原因となっているものは、人間の「根本無明(こんぽんむみょう:単なる無知ではなく学問をしても解決できない愚昧・迷妄)」である、という趣旨と、「開眼(かいげん:悟りを開くこと)」ということの意義です。
 今や、地球の住民である全人類は国境、宗派を超えて同じ問題に直面している訳ですから、万国関与とも言えます。そこで、議題を先に提示し、その後にこの著書を発表するという編集で、この本を作りました。

 第一部が、『舟を岸につなぎなさい』
 第二部が、『仏眼』
となります。

ご購入希望申し受けます。

本 単価:1,000円 送料別途。10冊以上送料無料
『仏眼』朗読CD 単価:500円 送料別途
講演ビデオ(2枚組120分)3,000円 送料別途

お問合せページからご注文できます。

追記。「無明からの脱却」という現象について生前太母さんはこうも言っていました。一人の人が目を開き、無明を脱するのではなく、「全人類」が目を開くことが地球とその全ての住民の蘇生の要となるということを知ってもらいたい。私が打ち立てた本願(自分や家族の為、ある特定のグループや民族の為でなく、全ての存在を対象にした願い。つまり神仏の立てる願)は「全人類開眼、万物皆安堵」だったのだから。「一人一人が開眼すると言うと膨大な数だから無理」と思うかもしれないが、そうではない。ごく少数の人たちが先に目を開くと、その影響が次から次へと波及して行くから、ある時一挙に可能になるのだ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

 

春の小川のように

母が好きだった歌で、少し音痴気味に歌っていました。

春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色美しく
咲けよ咲けよと、ささやきながら

静流という名前は母が書いた小説の主人公の名前ですが、その本の冒頭にあります。

静かな流れとは、
善にも悪にも、清にも濁にも、美にも醜にも、かかずらうことなしに、心身ともにひたすらに流れゆく一生の姿になぞらえたのです。

なかなか善悪や美醜に拘ることなくは生きられませんでしたが、それでも母の願いはいつも心の中に大きな位置を占めてはいました。今年のあいさつ文の中で、カウンセラーの仕事は裁くことではないと書きましたが、この戒めは大切にしています。
人生の荒波に否応もなくもまれる中、悲しみや怖れに捕らわれて心が乱れた時に、拘りを捨て、さらさらと流れて行くのは難しいのですが、役に立つことはいくつかあります。
その一つとして、瞑想と言うほどおおげさなものではないのですが、しずかに座って、目を閉じてイメージする風景の中でもよく出てくるものは、穏やかに流れる川なのです。何を投げ込まれても放り返しはできない受け身の人生は川に似ています。でもさらさらとただ流れて行くのなら、ただそれだけのことです。良いも悪いもありません。嫌でも何でも受け身なのですから。それを苦にするかしないかだけが自分にできることです。

最近、末期癌の患者の「緩和ケア」という仕事を主にしている医師の講演を聞きました。ホスピスとは違って投薬や医療の他に代替治療も含め様々な処置をするクリニックです。彼によれば癌の70%は酷い痛みを伴うそうです。その痛みの緩和ケアをするにあたって、有効ないくつかのポイントがあるそうです。痛みの対処の方法はいろいろありますが、どれでもその人に合えばそれが有効ということで、手段は選びません。しかしどの場合も常に共通なのはその人の心の状態で、それが否定的か肯定的かで痛み苦しみが違ってくるそうです。

後半年か一年くらいの命と言われている。怖い、苦しい、理不尽だ、まだ死にたくない。半年しかない、が半年もあるというふうに、気持ちが肯定的に変わるきっかけとして有効なことばは、「人間は100%死にます」だそうです。自分だけが理不尽にも死ぬのではなく、誰でも死ぬのです。これで視点が変わるそうです。後は死ぬまでどう生きるかを選択すれば良いのだそうで、これは一つの目標になります。嘆いていても意味がないのは分かります。

へえ~、そうなのか。誰でも死ぬとは知っていても、自分が死ぬということをしっかりわきまえてはいない人が大勢いるということです。

この医師が、どのような処置をする場合もお勧めは、瞑想や座禅などの心のケアだと言います。痛み止めの薬の量が違ってくるというのです。ほとんどの場合大幅な違いが出てくるそうです。心が静まっていて穏やかなら痛み苦しみは少ないという実例を見てきた人の証言です。

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

何気なく…

ふと何気なく手に取った詩集の中の一つが目に飛び込んできた。いつもそうなのだが、「ふと何気なくという何か」が、心の深いところにある琴線に触れて美しい音を出す。

 

母は歩くのが好きな人で日本中テクテク歩いた。木のポックリを履いて。
海岸では貝を拾い、道や川では小石を拾って帰ってきた。「石はみな光っている。宝石だけじゃないの」。その母の思い出がどっとよみがえってきたきっかけを作ってくれた詩の一篇は、

 歩いていると
小石がピカリと光ったので
ふところに抱いて帰った
小さな石の方から私を
友だちに選んでくれたのは
うれしいことだ

高見順という人の「小さな石」という詩で、家族のTが好きな詩人だったので家に詩集があり、今朝ふと私に見せてくれたのだ。
パッと開いたページにこの詩があり、パラパラと見ているといくつかが目にとまり、心が音楽を奏でる。

暗い雑木林のなかを
小さな花を手にして
憎しみを胸に秘めて歩いてゐたら
頭上の木の間から一条の光がさして
私にそっとささやいた
わかりましたと私は答へた

愛や憎しみは
感じても見られない
愛のうちに憎しみを感じても
それを目で見ることはできない
私が手にしていた花の
言葉を聞くことができないやうに

光もこの目には見えても
光の言葉は聞かれないのに
聞けた私は仕合せだった
憎しみを花にゆだねて
落葉の下に静かに埋めて
私は暗い道から歩み出た

素晴らしい朝だ。
2017.4.8

生きるために生きる人たち