天のジグソーパズル―令和

元号が変わりました。これには大きな意味があります。日本人全員の潜在意識にこの「令和」という文字と音が入ったのです。辞書的には文字通り、和になりなさいという上意という意味になります。嫌も応もなく司令、命令なわけです。
では何故ジグソーパズルと関係があるのかを見て行きましょう。

令を分解するとアルファベット1番目の文字Aという字になります。Aはアと読むのでの文字が当てられます。卩というものは、元は一つだった文字なり図が割られて別々になり、後で合わせて一つであったことを証明する為に使われました。ジグソーパズルです。元はたった一つだった全ての現象体が別れて散らばって存在しているとイメージしてください。吾もその一片です。たった一つしかない絶対空である1(ワン)の理(コトワリ)を吾という個々の生命体が苦節を体験しながら学び、理解してゆく使命を負っていると取りました。個々ですから自分で行動しなければならないと言われているのです。という言(コトバ)によって成り立つ思考、思念を通して理を理解して行くのが人と言う現象体の使命です。

和はワなら環、調和しながら滞りなく循環する全ての生命の環。調和とはナゴムということですから、光の海の一部だった一滴が、を頂き、めを果たしに旅立ってきたのです。

あなたはなる天の実親によって生み出された、かけがえのない、そして二つとないユニークな一滴なわけです。そしてほとんどの生命活動は実親によって育まれています。寝ている間も呼吸は続いています。食べたものも自然に消化されています。不具合があったら痛みという信号を出してもらえます。心が喜ばないことをすると、辛い、悲しい思いをさせていただきます。何が言いたいのかと言いますと、

愛されているのです。非常に精妙なエネルギーなので、感覚が鈍ってきている人には感じ取りにくいかもしれません。それで、この世には自分を愛し、気遣ってくれる人など一人もいないと、絶望して自殺したり、自暴自棄になって事故を起こして死んでしまったり、薬漬けになって生きながら屍のような廃人になってしまう人も大勢います。私も何回か意気消沈のあまり、病気になって死にかけたことがありました。痛いのも辛いのも叱られているのだと思ってありがたやと感謝して、よくよく自分を見て見れば、原因が自分にあることが多いのだと分かります。

空なる絶対天のいとし子ですから本来は喜びに満ちて活動しているはずなのに、どこが違うのかを探って見るのが、言によって成っていることを自覚するまでの道のりです。それは、人智ではなく、なるの方を駆使して、詞を頂いたユニークな生物である人としての務めを自覚して歩む道のりなのです。
わっている、パズルの一片、一片がそれぞれユニークな存在なので、欠けたら図は完成しないのです。

どれほど麗しく、必要不可欠な天のいとし子なのかを「令和」の時代に気づき、前の元号を継いで大いなるを完させて行きたいものです。

2019.4.2

続・心の断捨離

以前「心の断捨離」というテーマでお話をしたことがあります。今日は更に心を対象に見つめて行くことをしようと思います。

最近になって家族のTがこの世での生を終えて淡々と去って行きました。悲しみで胸が張り裂けるのではないかと思っていたのが、案に相違して悲嘆に暮れるほどの辛さもなく、受けとめることが出来ました。この世で最も深く信頼し、敬愛していた人でしたので、意外なことでした。哀しくないわけでもないのですが、苦しくはないのです。まるでそこに居るかのような温もりが家の中に残っていて、いつものように何か相談事をすると、懐かしい声で答が聞こえてくるのです。49日間だけなのかしら、とも思いましたが、違うという気がします。

父が亡くなった後、今まで知らなかった情報が入って来たことを思い出しました。知恵の量が増えたという感じで驚いたことでした。詩が好きだった父の感性が乗り移ったかのように、急に詩心が備わったのか、大学の詩の授業で感想文を提出したら、講師が他の生徒にも分かち合いたいと、読み上げてくれたこともありました。哲学書を読むとチンプンカンプンだった箇所が何故か理解できるようになったこともありました。母が亡くなった後も同様で、新しい観点、新しい感性が加わったことを感じたものです。また、それまで好きではなかった、母の好物の食べ物が急に美味しく感じられて、今では大好物になっているのも不思議な現象のひとつです。それらを口にすると、母が一緒に味わっているという感じがするのです。「美味しいね」という懐かしい声と共に。
無形の遺産というものなのでしょうか。有難いことだと思います。この話を二人の友人にしたら、二人とも同じような経験をしたと言っていました。

悲しみという字を使った熟語は悲惨、悲嘆のように、字を見ただけでも辛く苦しい感じがしますが、哀憐という方の哀しみは切なくて、懐かしくて、胸が大きく反応します。

悲は「心に非ず」、と書きます。哀は「アイ」と読むのですねえ。愛があって胸がいっぱいの状態の哀しみです。不幸とは違うのです。

断捨離の際に感情的な動きを観察したように、今回も哀しみを見つめました。それで悲嘆ではなく、哀憐だということが体感できました。愛は不滅にして永遠なので、温もりという感触で残っているのだと思いました。心とは此処(ココ)という存在の場に露(ロ)われているもの、此処に永遠不滅に存在している、即ち愛のエネルギーであると解しますと、悲しみという字は何故そのように書くのかが納得できます。

愛する者の喪失という、本来は非常に辛い出来事と感情的反応が分離して、それを観察している自分を見つめ続けていたら、心がどんどん自由になっていって、苦しみから解放されたと言う経験を久司典夫さんがなさったプロセスがスティーブ・アールさんの本に書かれていました。哀しみあるいは悲しみ(原文でsorrow)はそれを観察することで自然に過去に起きた辛い出来事から離れて行くと典夫さんは言っているのですが、プロセスは非常に長期間で、後から後から湧いてきたそうです。人は40年も50年も生きていると実に大量の悲哀と対になった出来事の記憶をため込んでいるとのことです。私は70年分ため込んでいるのですから、プロセスは非常に長いと思います。でもその途上でどのように心が解放されて行くのかを見るのが楽しみです。

断捨離とは切って分離させることで、その呪縛から離れることだと、文字通り字が教え示して下さっていたのです。固執していた感情は捨てようと思って捨てられるものではなく、木から熟した果実が自然に落ちて離れて行くまで待つしかないのです。
2018.12.5

夢が誘う心の断捨離

 

縁は異なもの味なもの

云音表の一行目、アイウエオのイには三つの字が入っています。意と爲(旧字の為)と異です。意思あるいは意図があって、行為がそれに続くということは分かりますから同じ音のくくりの中にあることは納得できます。口を開いて出るアの発音は楽ですが、イになると口を横に開くという筋肉活動が加わり、エネルギー消費も増えます。つまり努力が要るわけです。そこに意思、意図、行為という能動的活動が必要な文字が入っているのかなと、当初は推察しました(今ではもっともっと広大な意味があることを発見していますが)。ですが何故ここに異が入っているのだろうと不思議に思ったことを憶えています。

世の中のご夫婦や仲の良い友達同士を見て、あの人とこの人が何故?と不思議に思ったことはありませんか。これをことわざでは、「縁は異なもの味なもの」と言います。男女の巡り合い、結びつきというものは不可思議なものだという意味だそうです。

不可思議に挑戦してみることにしました。それで異を分けて見ました。

なんだか電磁場が共鳴している感じがビンビンします。天空は言(コトバ)が共鳴している命のエネルギーが充満しているところで、目には見えないネットワーク、天網が張り巡らされている。それぞれの網の交差点がある周波数をもった個々の命と他の命との結び目なのでは、と受け止められます。それぞれはまた個々の意識を持っていて、結びついている他の命と交流して生命活動(爲)を行っています。縁でつながった相手との交流が共鳴なのでしょう。響きが美しいハーモニーを奏でているのか、はたまた不協和音を放っているのか、いずれにしても体験して味わっていることが生きているという意味なのだと思います。喧嘩ばかりしている夫婦が別れないのも、一見仲が良さそうな夫婦が離婚するのも何を味わって、それが口に快いのか、苦くて吐き出したいのかは当事者のみの知るところなのでしょう。

人間以外の生き物はもっと寛容なようです。

昔アフリカのサバンナに行ったことがあります。当時は今よりはるかに多くの動物が生息していました。絶滅危惧種という言葉も一般的ではなかった時代でした(いつのこっちゃ)。イギリス領だったため、密猟者も厳重に監視されていて、捕食者と捕食される者も見たところのんびりしている感じでした。野生のままの動物生息地ですから、捕食動物にも餌は与えませんが、動物の移動を妨げるような障害物(自動車道路やフェンスなど)が無い広大な地域が確保されていましたから餌を得るのは比較的楽だったようです。

宿泊していた樹上のホテルの窓からは水を湛えた大きな池を見ることができました。そこには多くの動物が水を飲みに来ていたのですが、捕食動物も他の動物もみな一緒に水を飲んでいました。ライオンや豹も空腹でない時はのんびりしているので、草食動物も平気ですぐそばで水を飲んでいました。敵同士というくくりはないので、その時々で命の危険がある時だけ、即時対応しながら生きているのが人間以外の生き物のようです。天敵と言う言葉は人間だけが使っているのです。不協和音は人間同士の関係においてのみ発生するものなのだと思います。

2018.10.5

嫌い!の効用

友達が恋人になる時

 

光透波とは何か

光透波(コトハ)、透明な光の波とは何を意味するのか

この三文字の組み合わせを最初に使った方は小田野早秧(おだの さなえ)という明治後期生まれの女性です。1953年この人が45歳の時のことでした。本人の言によれば、台所の天井の隅から突然光の文字がピカピカッと「光」、「透」、「波」と一つずつ現れては消えた。あまりに速いので「ヒカリ」などと言っている隙がなく、思わず「コ」と叫んだそうです。当然次は「ト」その次は「ハ」と読み、後で何度も「コトハ、コトハ」と繰り返されたそうです。それからこの啓示現象(それ以外に説明ができない神秘的な出来事なのでそう称します)を解明する為の一意専心、一心不乱の人生が始まりました。詳細については本に出ています。現在は「光透波理論」あるいは「命波理論」としてまとめられた4冊の本があり。読めばこの語が何を意味しているかが分かります。他にも本がありますが、この理論を学んでいる弟子たちが少し書いています。

ここでは少しだけご紹介します。「光」は太陽光のような可視光線ではなく目に見えない光を指します。なぜ目に見えないかというと波長が人間の目で見える範囲外にあるからです。見えないから「透」、透き通っているとなります。「波」は振動のことです。宇宙が振動するエネルギーの極小の何か(名称については色々な説があります)で成り立っていることはもう分かっています。でも一口に透明と言っても、透明度には無限の階層があり、光には無数の種類があるのです。その中でも最高至高の光の波を「光透波」と名付けたのが小田野先生です。

この絶対至高の光はまた、その性質から「止速」と名けられています。行ったと思ったらすでに帰ってきている速さなので、あたかも止まっているかのごとき態だからです。この光を仏教では「如来・如去」と呼びます。人智で把握しがたい光な為に「不可思議光」とも呼ばれています。幾何学的数学的にも他の表現でその一面や他の視点からも説明されだしてきています。神聖幾何学的には「フラワーオブライフ理論」を使って様々な講義を発表されている方々もありますし、「ヌース理論」を展開されている半田広宣さんという方がいらっしゃいます。人間は言語を使って思考し、疑問を解く才能を与えられていますので、これらの方々が学び、理解して得た情報を言語(最近では図解や動画入りで)で発表されていますので、そこからも学ぶことができます。その意味では中世暗闇時代を考えると有難い時代になっています。私も少しずつ学ばせていただきながら、少し理解したことを皆様にもお伝えして行きたいと思っておりますのでよろしくお願いします。
2018.9.18

ちょっと科学的な説明が欲しい方に
労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

超光速粒子タキオンと光透波

愛が不在の場

今の世界情勢を見ながら感じた印象を表すのに出てきた言葉です。「愛が不在の場」とはどういう世界でしょうか。

虚無という言葉がありますが、完全にはその意味を推し量ることはできません。「愛が不在の場」に付けられた名称はまだありません。何故なら愛は普遍的でかつ遍在すると考えられているからです。そうだとすると不在にはなれないのです。
愛の別名は「神」、「至高の叡智」、「創造の源」、などです。まだまだたくさんあります。何故なら「それ」は誰にとっても心の中心にあって自分を見守ってくれている「何か偉大なもの(Something Great)」だからです。そして誰もが「それ」を何らかの名称で思い起こしたい欲求をもっているからそれぞれの人にとって特別な名称があるのだと思います。小田野先生は「真空様」または「空母様」と呼んでいらっしゃいました。それを口にするときのお顔と目はうっとりと幸せそうに輝いていました。名称が感情の引き金になっていることがよく分かります。子供のころ私は「のの様」と呼んでいましたが、それを口にすると何故か安心してそれまでざわついていた気持ちが収まったものです。
説明しがたい種類のある「状態」あるいは「それにつけられた名称」を理解するために効果的な手法があります。それは「そうではないもの」を列挙することです。

そうではないもの

  • 悪あるいは邪:ちょっと意外かもしれませんが、愛が不在の場とは思いません。大局的に見ると悪や邪が愛のある側面を意味する場合もある。これは少し複雑ですがいわゆる「善」なるものが必ずしも全体の和合と調和を保証するわけではないということに気がついたら分かるかもしれない。何故なら「愛は差別しない、裁かない」から、正邪、善悪は一体となってまる飲み込みされているはずなのです。
    良い例は、もう誰の目にも明らかな地球環境の劣悪化と絶え間ない戦争の原因を作っている人間も、汚染反対、戦争反対派の人間も同じように母なる地球に生かされていることに変わりはありません。地球あっての私たちです、なければどんな人でも平等に死んでしまいます。ただ、今は地球様もだいぶ荒れ狂っていますから、あちこちで大勢の人が死んでいます。日本などは今現在災害列島の態を呈しています。
  • 闇:闇の反対は光ではないのです。宇宙空間は真っ暗闇だが愛は遍在しています。ただしこれは物理的に見た闇の話。物理的に見た闇とは人間の視覚が認識している「光」の不在という意味での闇のことです。この闇というものに対する感情的反応は多くの場合、不安、恐怖、忌み嫌うものとして避けたいもの等々あまり快い感情とは結びついていないと思います。これに対し「光」は肯定的感情を呼び起こします。愛は闇ではなく光としてのイメージと結びついています。しかしどちらも不安そのものでもなければ愛そのものでもありません。あくまでも感情とセットになってしまっているイメージだと思います。違う言い方をすると、闇とか光という名称に対してそれぞれの人が持っている意味合い、含蓄です。ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、一つの例があります。
    「そう言われてもあなたの頭の中にある絵は私には見えませんので、もっと具体的に説明してください」とある人に言われたことがあります。賢い人で、そのおかげで私もコミュニケーションの難しさと言うものを再認識させてもらえました。
    元に戻ります。含蓄とは概念なのです。真理でもなければ事実でもありません。人間はこれに踊らされて互いに誤解し合って、自分の方が正しい、相手が悪いのだと思い込んで戦っています。
  • 憎悪、妬み、羨望、怒り等の否定的感情:感情が発動する原因には「愛されたい」という欲求があり、その欲求の源泉には「愛を認めている」という前提条件があるのだと言えます。全くの虚無であるなら感情は発動しません。感情の動きがあるということが、そこにエネルギーが発生して周囲に影響の波動を発信しているということなのです。
    これを端的に示している言葉があります。
    EMOTIONです。字分けをしますと、EとMOTION、エネルギーの動き、とも読み解けます。イモオションと発音しますので、意網王思陽云が当てられます。思いという動きが展開している4次元の形の無い場に飛び交っている感情のエネルギーが互いに影響し合って織りなしている網(ネットワーク)が地上のインターネットという網も含めて今と言う時(陽/日/時)の人類社会の状態を現出、維持、発展させ続けているのです。活動の原動力が感情だと字が教えてくださっているのです。良い意味でも悪い意味でも交流という活動がネットワークを形成していると受け止めています。ここまで見てくると出てくるものは、最も「愛が不在の場」に近いものは、
  • 無関心だと思います。何故なら感情がほぼ不在だから。感情的死と言えます。体は動いていて話もしているのでまるで生き物のように見えるのが厄介です。市民権を持っていて、生活しているので汚染もしているのに何ら積極的に場を形成するプロセスに関与していないわけです。こういう人たちばかりの世界になるとロボットの社会のようになります。作業はしていますが、感情が無いのですから。そこには笑いがなく、涙もなく、感激も感動も、怒りや憎しみさえありません。まさしく虚無ですね。生きている意味がないのではないでしょうか。味わい、感動し、発見し、学ぶという人生の味がないのです。

母が亡くなった後、予想よりはるかに強い空白感に見舞われ、まだ心が痛む状態にさえなっていない時、一緒に看護してくれていた家族のTが夜私の寝室に来て、「しばらく一緒に寝ましょう」と言って脇に自分の布団を敷き、黙って連れ添ってくれました。別に何か言わなくとも、傍に誰かの気配があると空白感が消えるのを実感しました。一緒の部屋で寝ていた一か月ほどの間に号泣も肉体的胸の痛みも含めて様々な喪のプロセスが続きました。
「もう一人で寝られるわね、親を亡くした悲しみは13か月って言われているからあと一年よ」と言われましたが、確かに強烈な痛みはしだいに和らぎ、一年後にはほぼ常態にもどっていたと記憶しています。

黙って寄り添うという行動が愛から出てきている場合のエネルギーは大きな影響力を持っていて、痛み、苦しみを和らげます。この時に発散しているエネルギーはとても快い波動の網を形成していると私は感じます。ただ、逆に触れると傷つくような網も出来ていますので、賢く見極めて気をつけて生きていただきたいと思います。直感的に危ないと感じる感性を磨くことがとても重要だと思います。
私事ですが、今その家族がまた私を離れて行ってしまう時が目前に迫ってきていますが、今度の喪失感をどのように乗り越えるかが私の次の課題となっています。何年か前に「独りに強い人になって行ってね」と言われてからずっとその方針で対策を講じながらいろいろと準備かつ練習をしておりますが、その時になったらどうなりますか。ともかく私の一番楽しい時間は、課題を決め、思考を巡らせ、ある種の理解と納得に行き着く作業をしている時で、これの良い点は費用がかからないことです。娯楽があれば独りでも楽しいという字があります。「独楽」です。小田野先生はこの言葉がお好きでした。

独楽ってねえ、英語でTOPって言うんですって。最高ってことよね。英語もよく出来ているわね。コマって言うんだから、光間じゃない。間は全部光ってことなのよ。独りだからって淋しいわけないのよ。空母さまに抱かれているんだから。私も独りでくるくる回って楽しんでいるのよ。気持ちは三昧ってことよ。字分け三昧。

2018.9.17

サシスセソの面白い話

最近面白い講演を聴きました。広島の歯医者さんで舌の訓練が健康回復に非常に効果的なうえ、女性には嬉しいことに若見えも可能というお話でした。その方は字分けも少し交えてお話しをされていましたので、私も思わず身を乗り出してみっちり2時間の講演を休憩なしで居眠りもせずにお聴きしました。
「舌は下におかずに上においてください」とのことで、舌がベロンと下がっている形を乚と見て、舌と乚とで「乱」です、と白板に書かれました。乱れちゃったら困りますね、整っていなければ、とのことでした。

なあるほど。こういう字分けもありか、と納得。

光透波理論では宇宙の創生から万象の生成には音が関わっているということを折に触れてお話ししてまいりましたが、その音と言うのは一音一音が独立して発音できる明瞭な音であるともお話ししたかと思います。その音が乱れていると光透波理論的に見るとエネルギーが正しい動きをしないということになります。この講師の説では、舌が滑らかに動かないと正しくしかも美しい音が発音できないというのです。日本語は言霊の音なので大事なことだと言われました。

以下は舌と口腔内の図です。

図1

硬口蓋を天井とすると、舌がピタリと天井を押し上げる形で収まっていることが分かると思います。この形は、食べる、話す等何かをしていない時の理想的な舌の位置なのだそうです。舌がダランと下がっていると筋肉の動きが緩慢になり、姿勢も首が前に出て頭を脊柱が効率よく支えられない為に腰痛になりがちな上、動作も鈍くなり、動物なら捕捉されるか、捕捉できないかで生きて行けなくなります。実験として、舌を口蓋につけて足踏みしてから片足立ちをして、次に舌を下げて同じことをすると姿勢が崩れやすくなることが体験できます。

次は発音の話です。舌が短い人の話し方を俗に「舌足らず」と言いますね。これは舌小帯という腱が生まれつき短い、あるいは太い人、そうでなくとも舌をあまり大きく動かさないで話す癖のある人で積年の習慣が舌根を固くしてしまった人に起きる現象です。舌が滑らかに動くかどうかが一番良く分かるのは「サシスセソ」が明確に発音できるかどうかです。英語などの子音語では語尾のSが明確に発音できないと単数か複数かが分からないし、多くの子音が不明瞭になります。これは専門的に言いますと、硬口蓋破裂音が発音できないという問題になるため、常に子音の発音をしている欧米の人たちは赤ちゃんが生まれた時に口の中を調べて舌小帯に異常があった場合はすぐに手術をすることが多いようです。

図2

話が不明瞭だと社会生活に支障をきたす恐れがあることから、親は子供の将来を思って手術してもらうわけです。最近では日本でも小児科医が数千円で簡単に処置をしてくれるようです。また舌が口蓋全体に拡がってピタリとついていないと口の中が狭くなって固まってしまい、歯が生える場所が足りなくて歯並びが悪くなるうえ、行き場のない骨が隆起する現象が起きます。骨隆起があると乱杭歯にもなります。歯列矯正も完全にはうまく行きません。ですから日本人にとって子供の頃から日本語の全ての音を明確に発音する訓練をすることがとても大事なことなのだそうです。英語の場合もその点では同じで、話すのに使っている音は異なりますが、口腔内の発達には明確な発音が必要なようです。

話があちこちに行きすぎました。日本語の話に戻ります。サシスセソは勿論のこと、イキシチニヒミ、、、の段の発音は特に口を横に開いたままで中で舌が敏捷に動かないときれいに発音できません。舌先を前歯の裏側に付け、舌全体を口蓋に押し当てて見てください。舌が拡がらないのは固まっているからなのです。うまくつかないのではないでしょうか。年齢が高いほど固まっている傾向があります。舌根の少し手前の両脇を親指と人差し指で挟んでつまむと痛い、舌の中央を指で押し下げると痛いという場合は固まっています。
舌小帯異状がなくとも舌根が固まってしまっている人に朗報があります。簡単な道具で舌が動かせるようになるのです。その結果は良いことづくめです。websiteを見てください。https://www.keepup.jp/

私はこの会社の回し者ではないので、器具は買わなくとも自分で他の方法を探して試すことも考えて見てください。

ストレス要因が多い社会で、ともすれば崩しがちな胃腸や、心肺の活動に関与している迷走神経が正常に働くようになるというのが良いことの一つ、体がたちどころに温まるのも良いこと、女性にとっては(男性もそうかも)嬉しいことに口元のたるみが引き締まって、ほうれい線が消えるかも。これは下図にある咬筋と側頭筋が鍛えられた結果の効用です。

美しいうえに賢そうな人は必ず口元が引き締まっていますよね。閉口に関わる筋肉が強いから自然にそうなるわけです。また、鼻呼吸をすることで細菌や有害なダストなど外部からの異物を排除するセンサーのある機能は鼻にはあっても口にはないので、それは良いことです。またいびきも相当程度回避できるかもしれません。高いびきには家族も閉口します。

次に、私も最近経験するようになった誤嚥の問題です。これは正しい舌の位置を保っていない人の場合、舌骨の動きが不活発になることで悪化します。
食べ物を飲み込む時、口が開いていると、動かせるのは舌だけで、嚥下は難しいです。また上下の顎の歯が軽くかみ合わさります。これは顎がふらついていたのでは、嚥下はできないからです。顎を固定するために奥歯が一瞬かみ合うのです。歯は咀嚼だけではなく、嚥下にも重要な役割を果たしています。

その次に軟口蓋(図1参照)が反り上がって、鼻咽腔(口から鼻に繋がる通路)を封鎖します。このとき口腔内は完全に封鎖されます。そこで、舌が勢いよく口蓋に向かって押し上がり、口腔の内圧を一瞬にして高めます。この時咽ぼとけに触れると喉が一旦上がってからまた下がるのが分かります。舌が口蓋を押し上げるのに連動して、喉頭が上がるのです。その時の舌根部は、食塊を咽頭に送り込みやすいように下方に押し下がっています(図4)。舌根とともに気管の入り口にある蓋(喉頭蓋:こうとうがい)も下がって、気管の入り口を塞ぎます。さらに次の瞬間、反射運動として食道の入り口が開き、喉頭蓋の上、あるいは左右の両脇を通過してきた食塊が食道に運ばれていきます。
嚥下の際の食塊は、口が塞がり、鼻が塞がり、そして気管が塞がり、圧に押されるようにして食道に移送されます。「飲み込む・嚥下運動」は、口から咽にかけて、それぞれの器官が100分の1秒単位で行う反射的協調によって成り立っています。これがしばしば加齢によって反射が鈍くなり誤嚥が起こります。誤嚥性肺炎という言葉も最近はよく聞くようになりました。わが身にも起きている誤嚥はあなどれない問題です。

ともかく舌の働きは実に重要だということがお分かりいただけたでしょうか。
歯はなくとも話は(ハナシと言うくらいですから)できますが、舌がなければ決して話せません。千の口とは千(多くの)もの働きをしている多機能な器官だという意味でもあると思います。舌の体操をすれば万病の予防になる可能性があるとはその先生のお説でした。

皆さまお大事に、いつまでも若々しく元気でいてください。
2018.8.28

濁りはOKだった

少し前に「人間は嘘つきである」というお話をしました。今回はまた人間性と言うものについて更に考えて行くことにしました。

自然界の生き物たちは大きな循環の中でそれぞれの持ち分の役割を、それとは自覚せずに果たしながら生きています。自覚がないのは勿論人間のように考える機能を持たされていないからです。これに対して考えることのできる人間はやっかいな重荷を背負わされて生きることを余儀なくされています。中でも大きな重荷は後悔と罪悪感だと思います。やってしまったことは過去に戻って取り返しができないのに、「あの時ああしなければ良かったのに」、と後悔してもどうにもなりません。自分のしたことで他の生命が被害にあったり、辛い思いをしたりしても謝って済まない場合が多々あります。済まないという気持ちと自分を責める気持ちはなかなか吹っ切り難いものです。人間と言うものは罪悪感を超越できないと言い切る哲学者たち(サルトルと実存主義哲学者等)もいました。顕在意識で吹っ切ったと思っていても、潜在意識は制御し難いものだからだそうです。

では人間性と言うものの話に戻って考えて見ましょう。まず「性分」というものの意味を考えて見ましょう。
有名な亀とサソリの喩えでは、泳げないサソリが川を渡るのに亀に助けを求めます。亀はサソリに毒針で刺されることを恐れて断ります。サソリは、「俺がお前を刺したら一緒に溺れてしまうのだから刺すわけがない」と言う。それで承知した亀でしたが、川を渡っている途中でやはり刺されてしまいます。水に沈みながら「どうしてそんなことをするのか」と亀に聞かれ、サソリは答えます。「それが俺の性分だから」と。
いけないことだと理屈では分かっていてもどうにもならない、抑制できないものが性分というものだという教えです。ここには善悪正邪の別はありません。何しろ性分なのですから責めても変わるわけではないのだということなのです。
人間は嘘をつく、自分にも他者にも。その結果様々な不幸な事態を招きます。その自分の中にあるどうしようもない愚かさや理不尽さを抱えながら生きて行く人生を、「濁り」と表現しているのが云音表の六行目です。

最近この行の濁音に当てられた文字を一つずつ分けて見たところ今まで気づかずに来たある発見をしました。どの音に当てられたどの文字を見ても濁りという否定的な含蓄を持った文字が無いのです。ちなみに二行目のガギグゲゴにはあります。この濁音は五行目の「奴/人」がでて来る前の行の音です。このことには後に触れます。
ともかく人の務めの行の濁音には罪科につながるような意味を持った字が無いということだけ覚えておいてください。
自己保存の為に嘘をつかざるを得ないような人間社会の構造にあえて挑戦して真実を追求し、それを貫き、さらに無知な人々を啓蒙しようと試みた過去の偉人たちの大多数は処刑あるいは暗殺されました。殺したのは人間たちであってその人間たちも嘘つきなのです。

これに対し、「罪を犯しても誰も咎めていませんよ」と天の声は言っているのではないでしょうか。批判するのは仲間の人間たちなのです。いやもっと怖いのは自己批判の声です。罪悪感を超越した後にどのような自由な思考が展開されるかを実体験したいと思いませんか。

初めに父なる閉音があってそれが開いて展開すると出来たのが母なるアイウエオでしたね。このままでは開きっぱなし。そこに二行目のカキクケコという子音が展開されました。その時すぐに濁音のガギグゲゴが出てきたのです。清濁が相まって天地創造の作業が始まったという訳です。ちょっと飛躍していますが、ここでは筋道を説明はしません。
ともかく言いたかったことは濁がなければ今の天地創造は完結しなかったと云音表が教え示しているのだと私は受け止めています。
濁音は高い次元においては必要不可欠であっても低い次元においては毒であり、危険な武器でもあります。六行目の人間の務めの中に反濁音があってこそ人類の次元上昇の可能性が既に初めから備えられていたと言えると思います。

天地と言う「場」に元々「備」えられていた人としての天分、思考力(至高の力→刀=SWORD→S+WORD)という能力を発揮して、清濁や正邪の正しい意味とその役割を理解把握して人間同士の戦いを上から見ることのできる位置に上昇することが進化ではないでしょうか。それが人類の究極望むことで、権力や莫大な財産という、肉体を持って生きている間だけしか持てないものとは違うのだと思います。永遠の生命というものの中で個人は成立しないので、個人財産は意味がないものだと気づいた人たちが我欲の呪縛から解放されることが出来たのです。

バビブベボ 場備分辺望

2018.7.18

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

 

六行目は三様の働き

光透波理論的に言いますと、五十音の第六行目は「ム」という音に「務」という字を当て、務めの行と呼んでいます。この行には「三様の態」という脇書きがついています。三種類の機能を持っているという意味です。清音のみの五十音の他に濁音と半濁音を加えますと、全部で75音ありますので、これも小田野早秧によって文字を当てた表にされています。

75音の表の六行目を見ますと、濁音と半濁音も含めて三行が並んで同じ囲みのボックスに入っています。日本語に使われている全ての音の総計は「ン」も加えると76音だけです。この数値に着目した小田野は以下の文字を構成することを発見して大きな納得をされたとのことです。

弁と言う字の意味は「話」、「コトバで言い表すこと」等です。これが天の弁ですと、「弁天」という多芸多才の智慧にあふれた神様の名前にもなっています。
余談ですが、琵琶(ビワ/備話)を持っていらっしゃるのも意味深ですね。琵琶は音楽のメロディーを聞かせる楽器ではなく、弾き語りのための楽器で、語るとは弁を使うということです。面白いですね。

さて、「ヌ/奴」が出てきた後に「務」の行となっているので、奴/人間の務めと教え示されていると解釈して更なる探求をして行きましょう。

清音の他に二種の展開をしている行はここだけです。半濁音は一行しかないのです。この音を、濁りに反発して音を清める力を持った音という意味で小田野は「反濁音」と名付けました。神社で「パンパン」と柏手をうったり、太鼓を打ったりする音は「清め」の為の行為と言われています。小田野は濁音を清い音に還す性能を持った音として捉えていました。
五行目のナニヌネノの真ん中、「基本の音の段」であるウクスツヌで奴/人間が地球に生まれ出て来ました。誕生から約46億年と言われている地球の歴史の0.1%にも満たないような一コマの最後の方でやっと出て来たということですから、人間を生み出すまでの準備期間ともいえる長い期間がアからトまでの作業内容であったわけです。紅白歌合戦ならトリが出てきたわけです。最後に登場することをトリと言うのも面白いですね。透(至高の速度を持つエネルギーの属性)の理とはね。

閑話休題。小田野早秧作成の地球と人類の進化の歴史年表によれば36億年くらい前にアメーバのような単純な構造の最初の生命体が誕生してから何十億年が経ち、360万年前くらい前に「地上最終生物」として人類の祖先が誕生したとあります。単細胞生物から人類のような複雑な細胞構造を持った知的生命体が生まれるまでにはそれだけ進化の過程があったとも言えると思います。

では六行目のお話に入りましょう。
清音のハヒフヘホの行にはエネルギーの有り方や人間が存在する宇宙と言う「場」の状態、その構造を教え示している文字が表示されています。その状態の中で如何に生きて行けば良いのかが直接的に説明されている行とも言えます。勿論字分けによって掘り下げなければ分からないのですが。

如何に生きるべきかという哲学的命題に答を見出す為には考えるということの他に、生きて体験するという行為も必要とされています。体験するというのは多くの場合、「こうすると失敗して痛い目を見る」ということです。苦しみ、悩みながら少しずつ学んで賢くなるという過程が個人としても、人類全体としても何万年、何千年、何十年とあったわけです。奪い奪われ、殺し殺され、騙し騙され、搾取し搾取されてきた歴史的体験の集積があります。辛酸の体験は詩や戯曲、小説や、現代では映画のような画像もあるドラマとしても表現され、個人が体験していないことでも人類共有の情報として体験されています。これが濁音のバビブベボの行に表示されている文字を分解すると出てくるのですが、直接的には必ずしも好ましくない意味には見えないのが示唆的です。表面的には中立的なのに、掘り下げると残酷な意味から希望が持てる意味までを含んでいます。

例えば、牛を電気棒で殺しても、それをした人以外は血抜きをして小分けにしてある状態で入手して、誰か他の人が調理して器に盛って出されたものを食べる際には残酷さは体験されていません。もっとわかり難い例もあります。
両親が愛する子供に衣服を与え、汚れたら洗濯して清潔なものを着せ、労働して報酬を得て、食べ物を入手して与える。月謝を払って教育が受けられるようにする。そして成人したら独立して生きられるように準備をしてあげる。しかし世の中で生きる為には切磋琢磨し、闘い、勝ち残って行かなければならないので、ギャップは非常に大きいでしょう。子供を甘やかして、生存に必要な知恵をほとんど授けない両親の行為は結果的には残酷と言えます。「親切が仇」となり、子供が自立できなくなってしまうのです。ですから時には文字通り「親を切る」ことが自立には必要なのです。

ですからそのように濁音の行は複雑なのです。
濁りを取るにはそれに反発するようなエネルギーが必要なのです。これがパピプペポの行に表示されている文字を分解、分析すると分かって来ます。以前パピプペポの行の話も少ししましたが、反濁音の行の文字が含んでいる意義は非常に複雑にして難解です。直接的に解決するような行為だけでなく、長期的かつ紆余曲折もある複雑な過程を要することが多いからです。今回は書ききれませんので、いつかまた折を見て書きます。

2018.6.12 記
20 T 至高の答 18トク解く 6ム務 12開く

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

ナニヌネノのヌ

  1. 今回は云音表五行目のナニヌネノのお話です。

「ツ」を頂いた日は14日でした。アルファベットの14番目の文字はNです。Nに母音を付けるとNA、NI、NU…となり、ナニヌネノが出来上がります。N一文字ですと、「ン」の発音になることから云音表では五十音の前に位置しています。命波音種の図でも同じです。

発生基本音の段にあるツの音の次の音はヌです。始まりの閉音であるNと深いつながりがある行が五行目でこの行の五には玉という字が使われています。太古の文字で数字の五に玉と言う字が使われていたことに着目した小田野早秧が深い理由があってこの字を使いました。
天の完成が四(王と言う字も玉と同じ理由で使われています)行目で終わり、次に出てきたのがナニヌネノとなります。一、二、三と同じ方向で来た文字に縦の線が加わって王という字になっているのには深い意味があります。次元の図の箇所で、一つの次元から次の次元へと立ち上がるという形 L は(アルファベットのLの形)でこれは開くと解釈されていることは前にお話ししました(小さな字参照)。三次元までは同じベクトルで、四次元が成立する条件として縦軸が加わって回転という動きが成立したと小田野によって解釈されました。四次元を表す王に・(点が加わった形が玉です。天という場が完成して出てきた点が奴点(ヌ点)という存在で、これが私たち人間の存在意義であると光透波理論は主張しています。

奴は何をするかと言うと、「ナニ」という疑問を持ち、求知本能という衝動に突き動かされ、言(コトバ)という道具を使って答を探索する人生という旅に出たのです。言とは「ネノ」、音の能きです。音が意味を云んでいるのですから。その意味というものを解する能力が私たち奴に与えられているのです。ナニ、ヌ、ネノがきちんと整理図にまとめられていうことを図で確認できると思います。
人間として生まれてきたからには、その存在意義である「問」という仕事をすることが本来の生き方で、十行の五十音図では一行目のヒと十行目のトがヒト(人)と読み解け、逆順ではトヒ(問)と読み解けます。

実に持って用意周到に計らわれていると思います。
読み解くという作業はじっくりと観察し、味わい、掘り下げることで可能になります。ただぼんやり眺めているだけでは問いの答は出てきません。
2018.4.18
タチツテトのツ

小さな字

サシスセソの面白い話

タチツテトのツ

今日は4月14日です。朝方「ツ」という音が頭に入って来ました。まだ意識がもうろうとしていたのですが、「通」という字が続いて頭に入って来ました。起きて紙に書きつける元気がなくて、頭の中で、カタカナの「マ」と「用」と漢字の部首の「シンニュウ」だと思ってまた寝てしまいました。数時間後、幸いに忘れてしまわなかったので、検証してみることにしました。

タチツテトは五十音の4行目にあります。その真ん中の字が「ツ」で、云音表の文字を当てると、通、付、連の三文字になります。今回はこの表を用いて、音と文字が奏でるハーモニーが天上の妙なる交響曲のどの部分を担当しているのかを探検して行こうと思います。

まず、五十音はどういう特徴を持っているのでしょうか。アルファベットに比べますと、ある順番に従い整然と並んでいます。
一行目はアイウエオという母音です。日本語でも使われているアルファベットのローマ字表記ではA、I、U、E、Oになります。
二行目は子音のカキクケコ。KにAIUEOがそれぞれ付いています。
以下サタナハマヤラワ行と十行で各行五音ですから五十音となります。
横段で見ますと一段目が全部A、二段目は全てIで終わります。以下UEOも同様なっていて、きちんと整理されています。

小田野先生が作成された整理図を見て見ましょう。


中段のウという行を見てください。クという字の脇に舌根とあります。これは体内から息が吐かれて音を形成するにあたり、舌根に力がかかっているという意味です。「ク」と発音して見てください。分かりますね。
「ス」と発音すると舌先に息がかかっているのが分かると思います。順番に力点が移動しているのが確認できますね。

では次に何もない「無」から「有」が生じてくる天地創造という観点から力点の移動という意義を考えて見ましょう。体内の音というものはまだ音になる前の音と言えます。口を閉じた状態で息を吐くと「ン~」という、うなり声のような音になります。人間でなくとも動物なら皆同じようなうなり声のような音が出ます。これをまだ何も出来ていない状態の音という意味で、小田野早秧は「閉音」と名付けました。また、五十音の全ての音は口を閉じて発音すると、「ン」という音になることから、「発声基本音」と名付けました。内部から外に向かって開かれ、展開されて行く過程を創造の過程と見て、これを順に表にした五十音というものの存在意義を発見したのが小田野早秧です。

さて、タチツテトの話に戻ります。四行目の終りに「天の完成」と赤字で入っていますね。命波音整理図には入っていなかったのですが、「云音表」の方には入っていますので、説明の必要上私が付け加えました。
創造の過程において、森羅万象の展開が可能となる謂わば、「場」としての宇宙は始めの四行に入っている音の能きによって成立したという意味です。五行目はナニヌネノの音が入っている行で、ここに「ヌ」が入っています。云音表では「奴」という字が当てられています。人間と言う意味の字です。光透波理論では、宇宙と言う場が成立した後に人間が生まれてきたという進化の過程を表していると見ています。
人間が出てくる前のタチツテトの行の同じ段に入っているのが「ツ」です。アから始まってなっている音の展開されている場にっているものは創造のエネルギーそのものなのです。これがきっぱなしに付いていて決して離れることがない。つまり永遠の生命というエネルギーなのです。人間の親とは異なり、見捨てたり、死んでしまったり、気が向いた時だけ命のエネルギーを供給してくださっているのではなく、いつも、いつも、絶えることなく永遠不変にい育てて下さっているのが天(云音表では弖という字が当てられています)という實親なのです。

ツという音の次のテという音には「弖」と「丁」が入っています。次のトには「透」と「答」が入っていますから。天と言う場の完成の最後の締めくくりがツテトの働きだと教示されているという意味に取れます。


マ、真実の真と用とシンニュウ(走っている、つまり活動しているという意味の字)、真実を用いて活動していると分けました。偽でも嘘でもなく真実を用いないと天は完成しないとも読み解けます。

云音表は一見単純な五十音の表に文字がいくつが入っているだけのものに思われるでしょうが、実は用意周到に準備された天の實親から、言と文字を頂き、それを使えるような肉体構造を与えられた人間へのプレゼントなのです。

PRESENT、 PRE  +  SENT
贈り物   予め  送られていた

PRESENTには「今」という意味も、「存在しています」という意味もあります。今ここに私が存在しているのは贈り物だと教え示されていると思うと驚きです。

2018.4.16

小さな字

言を分解すると天地創造の仕組みが分かる