気づきへの導き

11月20日の朝9:07分、右のコメカミに鋭い痛みが走った。電気的な感じの走り方で、「あ、電気→雷にL」と思い、メモしました。遠隔ヒーリングの時刻になっていたので、後で字分けすることにして、痛みの来た時刻もメモ。

他の人にはせっせとヒーリングしているのに、セルフヒーリングをさぼるので、今日はきちんとしようと思い、感覚を研ぎ澄ませて痛みの原因を探索。電気的刺激と感じたことから、

電を字分けすることから始めました。電を二つに分けると雷とL(開くという意味の形)になるので、神がなんと言っているのかを考えました。コメカミは米、そして神と当て、神経かと問うと、そうだと出ました。神経は、大自然の法則に即した正しい経/道と取れますので、何か道に外れたことをしていると言われたのだと解釈。それが体のどの部位に不具合が出ているのかを探ることで分かることが多いので、診断を始めました。

一番気になった箇所は胃の重さでしたので、その原因を調べたところ、真っ先に「迷走神経[i]」と出ました。「わあ~来た来た」と合点。米(コメ→光命)が走っている(シンニュウの意味)という意味の上に更に、走っているのは迷い走っていると重ねて教えてくださっているというご丁寧さで、無視できるはずもない。自律神経のバランスがとれていなくて、副交感神経の一部である迷走神経の機能不全で胃の消化不良が起きていると診断。

二番目に「食べ方」と出ました。これはすぐに思い当たりました。一緒に暮らしていた家族が亡くなってから家で独りで食事する時にゆっくり時間をかけて食べないことが多いからです。まるで仕事のように、さっさと片づけて次の仕事にかかろうとして、食べ物を味わい、美味しいなあと自然の恵みに感謝することもない食べ方になりがちでした。

次なる原因は膵臓の外分泌機能の不全。これも必要な消化酵素が出ていない為に消化不良のみならず、脂質異常や胃酸過多も起きていると出ました。

胃の診断が終わって、次に出たのは視神経でした。眼精疲労のみでなく、他も探したところ、またまた「来ました」。視交差の異状と三叉神経の不具合。

交差と三叉で二重に交差と示されたので、何が交差しているのかと考えると、「父と母と子である自分との三者の関わり」と答が来ました。三叉神経の不調には感情的要因が大きく関わっています。翌日は母の命日ですので母との関りで解消していない感情的なしこりを取る必要性を感じました。心の断捨離もこのところさぼっていましたので、「迷って走って」いたわけです。眼精疲労は常時ありますので、その治療もしました。多くの静脈の流れが悪く、未分解の老廃物が滞っているので、これを分解排出する治療をしました。肝臓さんに協力して頂く為に十分にねぎらい、黙って働き続けてくださっていることに感謝します。前回のセルフヒーリングで肝臓の門脈の不具合と総胆管の狭窄と言う、肝臓に必要な胆汁を補給する機能の不全を改善してあったので、肝臓さんは文句なく作業に協力してくれます。普段のお付き合いがいざという時の大きな頼みになるのは人間関係と同じ原理です。

米神から迷走神経、三叉神経と続けての「お告げ」でしたので、様々な気づきを頂けました。

こめかみを英語でTemple(寺、神の社)というのも面白いですね。米を噛むと動く筋肉のある場所というのが語源のようです。米はしっかり噛みましょう。

2020.11.21
母の命日の朝

[i] 12対ある脳神経の一つであり、第X脳神経とも呼ばれる。副交感神経の代表的な神経。複雑な走行を示し、頸部胸部内臓、さらには腹部内臓にまで分布する。脳神経中最大の分布領域を持ち、主として副交感神経繊維からなるが、交感神経とも拮抗し、声帯心臓胃腸消化腺の運動、分泌を支配する。多数に枝分れしてきわめて複雑な経路を示すのでこの名がある。

出典:ウィキペディア

 

雑草から学んだこと

一緒に暮らしていた家族が亡くなって約二年になります。亡くなる半年前くらいから庭仕事を少し手伝いうようになって、通算二年半、主に草取りをしました。

草を取りながら、その生命力に直に触れ、学んだことがあります。草は一応人間が「雑草」と分類したもので、きれいな花が咲く植物ではないものです。きれいな花が咲けば「園芸種」として販売され、珍重されます。それはさておき、雑草取りをしたことがある人ならすぐに分かることですが、「取っても取ってもすぐに又生えてくる」のです。とても良い環境とは思えないところにも生えるのです。もっと良い場所があるのに、踏み石の隙間の、狭くて、土の少ないところ、セメントの隙間などです。それを放っておくと石が持ち上がるほど大きく成長し、根がはって非常に取り除き難くなります。何という力強さでしょうか。

感心しながら根を残さないように気をつけてゆっくりと揺らしながら細かい根がつながっているものを抜くことに自己満足しながら、その反面、「何故こんなことをする必要があるのだろうか」とも思います。草は人間と共存できないのだろうか。考え出すと疑問は山のようにあることに気が付きます。

生態系全体の循環に関わる視点からなら、不要な草は無い筈ですが、「これが私の庭」という個人の所有地で、しかもあるガーデンデザインに沿って、要るもの、要らないものと分類すると、不要なものが雑草ということになります。人間社会はそうは行きませんよね。不要な人間は刑務所や精神病院、老人ホームなどに隔離しても、抜き取って捨ててしまうことはしません。ある意味では残酷なことかもしれません。自由を奪われて生きることを強制されているわけですから。草は自由に好きなところに生えます。それを私の勝手で、たい肥にして他の形で有効利用するなら草も役目を果たしているのだから抜き取っても良いと自分に言いながら抜きとります。

何故生え難いところにも生えるのか。「どこが良い場所、どこが悪い場所ということで決めていないのかもしれない」。要するに居心地だけで決めないらしい。では、何故か。一つには、居心地の悪いところを良い場所に変える結果を生むことです。自然界にとってセメントで固めた地面は異質な場所です。生命の育ち難い場所です。これを良い場所に変えるには、先ず生えることです。小さな草が根をはり、水を吸収し、土を集め、徐々に場所を広げ、石垣や舗装道路に亀裂を入れ、最後にそれらを崩し、ひっくり返し、粉みじんにして行きます。そうすると、あたり一面が草地になり、「居心地の良い」場に変わるのです。私の場合は「私の家」の敷地が崩れてしまうと困る事情があるので、対応策として雑草取りをしますが。

では誰がそれを指導指示しているのか。これは「自然」という文字を見ると分かります。

「自ずからに然らしめられている」という意味です。「そのような道理になっている」のに従って、大自然は運行しているのだと分かります。人間以外の生物の大多数、とりわけ植物と小さな生物である昆虫類や微生物には共通点があります。個体としてでなく、集団として共同作業をする点です。共同作業には全体を生かす為に常に個体が無料奉仕しています。個体は比較的には短命です。「生きているうちに成し遂げたいこと」などという時間的制限を持ちませんので、結果的には「倦まず弛まず」の作業ができます。何年かかろうと何十年かかろうとお構いなしに、次の世代が引き続き作業しますので、「人類滅亡後」何十年、何百年か経ると、地球上から人口の建造物は全部崩壊して無くなってしまいます。何千年も崩壊していないピラミッドやスフィンクスは人間が劣化を防ぐために補修をしているから保たれていますが、人間がいなくなればやはり、消えてしまいます。画像を見るとかなり劣化しているのが分かります。

草から学んだことは、当たり前のことが人間にとってはもはや当たり前でないことです。それは、

生物(人間もそうです)には自らの力で生きる能力が自然に備わっているという厳然たる事実です。これが多くの人間にはもうすでに当たり前ではなくなっているのです。自然から大きく離れた生活を始めてしまったからです。

何が自然で、何が不自然かという感覚の麻痺が起きてしまっていて、「あれ、何か変だ、怪しいぞ」と思わないで誰かに「これは良いものですよ」、「こうしないと死にますよ」などと押し付けられたり、脅かされたりすると言うなりになって、生殺与奪権を他者にゆずって、所謂「丸投げ」をして生きています。生きているとは言い難い状態ですが、ともかく脳死していないし、心臓が動いている限りは生きているとみなされます。でも自分で生きてはいないのです。

人としての役割は他の生物にはない能力を駆使して、大自然の営みを損なうことなくこの地上に生きる物全てと共存共栄し、更に他の生物には出来ないことを加えることで、天国のような美しい場所を作り、和気あいあいと交流して、互いの智慧を分かち合い、分かち合う喜びの音楽を奏でることだと思います。それを代弁している詩があり、初めてその歌を聴いた時に、私はそれに大きな感動と感銘を受けました。

 天のお舟に乗り込んで つま弾く指を携えて
 銀河に響くメロディーを 奏でるために旅立った
 時代は来世 人々は 琴に玉水はじかせて
 七色橋より滴り落ちる 光し羽衣、胸宿す
 忘れ去られて那由他 不可思議 幾年過ぎた
 物語を始めよう 再び始まる物語
 お伽話とみまごうほどの美しき
 天地をつなぐ物語 それはあなたの物語

余計かもしれない付け足し。

天界にいて光だったら体が無いので指は無い。つま弾けないとメロディーは銀河に響かせられない。琴(コト→言→光透)に玉水(玉のような音→母音・マントラ、美しい思いの響き)、虹のような美しい光の架け橋から舞い降りてくる光の羽衣を胸に宿す。羽衣は天に還る乗り物。この為に地上に降りて来たのに、人間として体を持ったが故に、すっかり奏でることを忘れて長い長い年月(那由多、不可思議は巨大数の単位)が経ってしまった。でも今からその物語を再び始めよう。

巨大数は面白いので抜粋して書いておきます。

一、十10、百102―――億108、兆1012、京1016―――那由他1060、不可思議1064

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

 

 

人生は絶対に辛い

私たちはみな例外なくどこかに生まれさせられた来ました。どこの国のどの人種で男が女か決めて生まれてきたわけではないわけです。経済的の豊かで、教養があって、愛情深い親か、酒飲みで子供をなぐる親か、貧乏でも温かく優しい親か、つまり出たとこ勝負です。

今誰かに「幸福ですか」と訊かれたらどう答えますか。「おおむね幸せだと思うが、日による」、「寂しくて、悲しくて、心配で仕方がない」、「病気で苦しい、痛い、何故生きていかなくてはいけないのか分からない、死んだ方が楽なのに」、「大好きな人と愛し合って結婚できて、とても幸せ」等々。

さて、以上の答には共通点があります。幸不幸が条件付きだという点です。永年生きて来て、大勢の人と巡り合って観察してきましたが、無条件に幸せな人にはほとんど会ったことはありません。条件が変わればすぐに幸福から不幸のどん底へと落ちる可能性を持って人はその日その日を生きています。また、不幸なのは人間だけです。他の動物は感情はありますが、その時々を生きているだけなので、将来を心配したり、現況を嘆いて何故不運なのか、どうして自分はこんな目にばかり会うのだろうかとは考えません。神様を恨んだりもしません。そういう言葉を持たないせいだからですが、人間は言葉を持っているので、やっかいです。そこで質問。

問:何故不幸なのか

不幸でなければ幸福なのかだろうか?多分違います、やはり不幸になる潜在性があるからです。たとえば、去年の今頃誰が「コロナウイルス禍」を予測していたでしょうか。

答:快楽を求めるから

この事実に気づいている人は少ないです。快楽と苦悩とを二つに分けて一方を求め、もう一方を避けるからなのですが、何の意味かすぐには分かりにくいかもしれません。どんなに恵まれた環境に生まれた人でも苦悩は決して避けられないという現実的体験をいくらしてもそれから学べないからです。

苦悩と快楽の二つに一つの間で囚われの身となっているのが、

地  獄

地(土と也)なのです。答は十と一(トヒ→問)也と書いてあります。土はヒジとも読むので、秘字、字に隠されているとも教えてくれています。

実は、問えば答が来るという法則があるのです。答は問と一対でコインの裏表の関係にあります。非常に信じがたいことでしょうが、私の経験からそう言えるのです。

獄という字を見ると、獣と犬の間に言が挟まっていて身動きができない形をしています。言を使わないと問えないので答も得られないと字が教えているのです。犬は動物でなく、大の一点、つまり大宇宙の一点(自己も点)という存在。ワンネスの一部という意味です。これは長くなるのでここでは触れません。

問えば必ず答が得られることをほとんどの人は知りません。大自然の法則なのに。

答は来るのに、それが答えだと気がつかないからです。自分にとって都合が悪い、関係ない、当てはまらない等の理由で無意識的にあるいは意識的に無視するからです。

秘(旧字は祕)は分解すると、示すと必ずとなる。字の教えでは、何事も隠されてはいない、問えば必ずそこに示されているのだ、となっています。

字分けでなくとも、ダウジングにはいろいろな手法がありますが、訊けば答が来るので、これによっても、なるほどと納得できます。チャネリングも同じです。訊けば答えてもらえます。喩えていえば、意識という共通の海のような、図書館のような情報の場から必要な情報を取り出せるのです。

始めに快と不快があった。生まれたては二種類の感覚しかない

 赤ちゃんは快いなら、笑顔。ご機嫌さん。

 快眠、快便、痛み無し。不安無し。

不愉快なら、泣き叫ぶ。

 この時は生理的にも辛い状態。力いっぱい叫びながら息むとヘルニアにもなる。汗をどっとかき、心臓もドキドキ。どうして良いか分からないのでフラストレーションがたまり、対処してくれない親に怒りが生まれる。続くと不安感が出る。パニック症状。

 こうして快・不快を基準に、日々体験した様々な刺激に伴う感情を無意識に分類し、最初の二つに加えてどんどん項目が増えて行く。成長の過程を見ましょう。

第一段階、非言語期:悲しい、寂しい、不安、怖い、嬉しい、ひもじい、痛い、冷たい、温かい、美味しい、不味い等、生命を脅かすかそうでないかの分類。自己防衛本能の発達。言葉にして表現して解消できないためにトラウマになる。

第二段階、発語期~言語力獲得期:第一段階では漠然としていた感情に名前がついてくる。悲しみ、苦しみ、怒り、苛立ち、不安、喜び、期待、失望、恨み、満足、不満。感情を表現する対象(親や周囲の人々)の反応によって、様々な感情に善悪の区別が出来る。良い子ね。悪い子。静かにしなさい、うるさいわね。まあおとなしい子ね。

 ここで分離化が出来上がる。環境による価値観の形成期
 これがこの後一生ついて回る!!!

こうして快・不快を基準に、日々体験した様々な刺激に伴う感情を無意識に分類し、最初の二つに加えてどんどん項目が増えて行く。そうしてあなたという成人が出来上がってきたわけです。受け身の現象体なのですから、今のあなたがそういう人なのは仕方がなかったと言えますが、人生街道を歩む途上で多くの選択をしてきたと思います。そして失敗や挫折や、「やったー!」うまくいった心躍る体験もしたでしょう。でも長くは続かなかったはずです。次々にやってくる不都合な問題があるので、また選択・対処が必要です。去年の今頃「コロナウイルス禍」を誰が予測していたでしょうか。

ひとつの実際に役立つ方法があります。

1 カッコに入っている枕詞を外に出してみる

(私にとって)不都合、良い人、悪い人、損、等々
カッコ内を取ると、いろいろなことが見えてくる

大転換!

ゼロサムゲームが人間社会の構造。快楽というパイを大勢が求め、奪い合い、闘い、傷つき、絶望し、それでも気づかない。

2 (私)という主語を外してみる

例:私の家→家 私の子供→子供等
すると途端にベクトルが変わります。私の子供なら一番の成績、競争で一番強い→自慢の種→ここで、主語無しの単なる子供なら誰が勝っても気分は変わらない。

    •  全体の中における自分の立ち位置が見えてくる
    •  自己中心から他者への思い遣りへと二つの視点ができる
    •  ベクトルが「取り込み」から「分かち合い」へと変わる
    •  つまり、エネルギーの求心性から遠心性へのベクトル変換(開放的・発展的)

どうしたら幸せになれるのか?から、どうしたら周囲の人たちが、社会が、地球が少しでも楽しく、美しく、平和になるお役に立てるのかに変換。

この時快楽は問題外。一生懸命何かの作業をしていると楽か辛いかは二の次になるから。視点が変わったら重要ではないことが分かって、地獄から解放される。退屈という苦痛からも解放される。少し満足というものの解釈が変わってくる。

3 不快感を観察する → 偏桃体活動が優先の状態から前頭葉の活動に切り替わる

先ほど不幸なのは人間だけといいましたが、人間社会にだけ見られる苦悩の原因は持てる者とそうでない者との格差だと思います。集団になると革命や戦争が引き起こされます。支配の構造というものを考えて見ましょう。満ち足りて満足な人以外は何かが欲しいのにそれが無いという欲求不満状態を不幸だと思ってしまいます。これは実は、欲望の創出によって不要なものを貴重と思わされるという手法が何万年間も使われ、ピラミッド型の社会構造が確立、維持されてきたのです。ダイアモンドシンジケートの例をとりますと、年間放出量を制限して高価格を維持するということをしています。貴重品というものの多くは生死に関係ないもので、他の動物にとっては意味のないものです。品物だけではなく、名誉や名声もそうです。

支配の構造は、何かが足りないので不満、不公平、不幸せな人々を作り、わずかな「ご褒美」で人々の自由を奪い、時間を奪い、ごく少数の人だけが贅沢をするというもの。それに気づけばすぐに満ち足りて心が清々しくなる。

身無一物福寿無尽蔵:最小限度の消費によって最大限の幸福が得られる(太母)

それ自体が褒賞なので、他者の称賛は二義的になるので他人の目が苦にならなくなります。肩の荷がドサッと落ちて清々しい状態を味わえると思います。ベクトルは一瞬にして変わるのです。これは体験してみる価値があります。

もう一つ、聞いてみるとびっくりする考え方があります。私の師、小田野先生は「人として生まれて来たので、その使命を果たすために一生懸命苦労を稼いで生きている」とおっしゃっていました。「はあ?」と最初は何のことかさっぱり分かりませんでした。

絶対の愛の光に包まれて至福の体験をした人たちを何人か知っていますが、比類なきものという表現をしていました。それを知るまでは「必ず苦悩はついてまわる」ということなのだそうです。

2020.9.17

5G-誤字から合字、悟自への変遷と転換

5は五次元の5でもあります。天鏡図では玉の行。アカサタの行で天が完成して、ヌ(奴=人間)が出てきた行です。人間の体は地球上では重力を持ち、重さというものを体験実感できるようになっています。この重力を物理ではアルファベットのGで表しています。

まず、人間として肉体の中に、いうなれば囚われて生まれてきたというスタート地点があります。嬰児は体に備わっている五感を体験しつつ、痛い、痒い、ひもじい、気持ち良い、寒い、温かいなど学んで行きます。周囲の物に目を止めると、「ナニ?」と好奇心が湧き、口に入れたり、握ったりして確かめようとします。多くの場合直接触感を使って確認して、学びます。

そしてだんだんに、触れると痛い、熱い、気持ち良いと学習。そして成長するに従い、学んできた多くの事柄に意味付けをして行き、概念を培います。

さて、五感ですが、初めはあくまでも重力下での体験に限られますので、抽象はまだ把握するのに時間がかかります。抽象は重力の影響下にはないもので、触ることも匂いを嗅ぐことも口に入れて味わうこともできません。

ヌ(人間)が見て、意味を理解することが出来、他の生物に出来ないものがあります。「字」です。これは抽象です。文化とは字の集合体である文の持つ情報保存機能を積み重ねて出来上がるものです。「文が化して」出来たと書いてあります。

さて、重力下でそれぞれが制限された状態で(舟や飛行機で世界中巡ってて暮らす人はほとんどいませんので)生育して行く人間は、それぞれが生まれ育った文化の中での制限され、多くの場合統治者の意図によって管理された情報を得て、偏った概念を育てて成長します。字には責任はありません。それを使って情報管理をしている人たちの責任です。でも誤った情報を字から得てしまうので、誤字と言えます。

字の本当の意味を探る方法は一つしかありません。漢字とカタカナという形とそれに付いている音それぞれの意味を探って行くというものです。その時に本当の「字」に合えるのです。五次元という重力を超越した次元、言い換えれば抽象の運び手という「字」の展開する世界に入ったのです。

何の為の「字」なのか?

それは人が真理を学ぶ為の道具として創造されたものだったのです。真の力は誤字(概念)からは出てきません。その真の力が発揮されないと人類は大量死し、多くの場合は苦しみと、解けない謎、「何故私たちはこんな酷い目に合わなければならないのか。自分はよしとしても、罪もない子供たちまでが何故?」という恨みを持ちながら苦しんで死ぬことになります。納得出来たら安らかに死ねるのですが、出来ないので恨みのエネルギーは残ります。これは目には見えない渦巻のように不幸が不幸を呼ぶという現象を生み出します。

この悪循環という状態を完全に払しょくしなければ天という大自然の叡智が「ヌ」を生み出した意図が成就されません。

「ヌ」は全知全能の創造のエネルギーを理解する能力を授けられて現象されてきた存在なのです。大自然の現象体である自分というものは何かを悟り(悟自)それを理解した時に初めて、人類社会をせん滅させまじき勢いで広がっている、致死的ウイルスを変換させる力を発揮できるのです。ウイルスはどんどん変異し、殺すことも、防御することも出来ない能力を持っています。その殺傷力に輪をかけているものが5Gなのです。二つが合わさって、より強く賢くなっています。

でもこの二つが悪者ではないのです。誤字の文化の害毒は、人間のエゴ、「我意=害」が生み出した、人間以外の生き物をすべて犠牲にして成り立った社会なのです。真のコトバ(光透波)の力は最小単位のエネルギー粒子に働きかけ、その集団の配列構造をも変化させる影響力を持っていると私は確信しています。フォトン(最小のエネルギー粒子)が人間の感情に反応して変化するという実験結果だって出ているのですから。

もうどうしようもない切羽詰まった状況に直面しないと人類は変われません。それがウイルスと5Gの存在理由だと私は思ってこの文を書いております。

捻挫もお告げ

二十年ほど前になりますが、”Signs”(邦題:サイン)という映画[1]がありました。署名という意味もありますが、宗教的には「お告げ」という訳語が一番妥当と思います。英語国民の大多数は至高の叡智の存在をGod(神)と呼んでいますが、その神からの啓示という意味に於いてのサインです。映画の主人公は牧師で、ある時人類にとっては前代未聞の大事件が起きました。ミステリーサークルの出現です。この超常現象は事実で映画の虚構ではありません。出現当時私も夢中になって画像を保存したものです。そして数年前に、サークルが一番多く出現した英国のエイブべリー[2]に行ってきました。ストーンサークルもある所で、石は消えないので実際に見ることができますが、穀物畑に現れたサークルはもうありませんでした。目前に明らかに突きつけられた「サイン」だったにも関わらず、人類全体としては「???」、「えー何これ?」程度の反応で、ひとしきり話題になってもその意味を追求し続けた人たちはあまりいませんでしたし、出現が止まった後しばらくしたらもう「そんなことあったっけ」くらいになってしまいました。映画も賛否両論で、セックスとバイオレンス満載の映画のような大きな興行収入はなかったようです。

何が言いたいのかと言いますと、せっかくの「お告げ」も真摯に受けとめる人がいなければ役には立たない、つまりサインを出す側の徒労ではないかということです。ストーンヘンジもストーンサークルも起重機や電力機動の重機がない大昔にあったのに別に大騒ぎで、不思議だから人間が作ったのではないのではないか、では誰が作ったのか、という疑問を追求し続けた人たちはほんのごく一部の人間だけでした。個人個人とその家族あるいは民族の生存に直接関係のない現象に本格的に取り組む人が少ないということだと思います。

さて、話はグーンと私的なものになりますが、最近の「お告げ」について皆様にもお伝えしたく思います。先週捻挫をしました。かなりひどい状態になり、足首から足の指先までが青紫色に腫れ上がりました。すぐに湿布をしてなるべく歩かないようにしながら、血行を促進する治療もしましたが、足を床につけると無視できないような痛みがあり、家事に支障をきたしました。独り暮らしになってから身動きが取れない状態が如何に不便かも実感しました。こういう出来事だと無視はできません。病もそうですが、痛みがないものは本人が気がつかないので深く静かに進行して行き、ある時に回復不可能な状態で現れます。最近未病ケアという事がさかんに言われるようになりましたが、なかなか真面目に受け止めてもらえない社会的事情があります。明らかに発病しないと保険治療が受けられないからです。

今年に入ってから同年配(高齢)の友人が3人急病で倒れ、入院しました。内臓の多くが疲弊していて、今までのような生活(飲み食い、働きすぎを指す)はもう出来ないと医師に勧告されました。少し疲れた、体が重い、食欲が無い等の自覚症状があっても未病ケアはしないでいたので大ごとになったのです。私が前兆に気づいていても代替治療を勧め難いのは保険が利かないということがネックになっていたからです。結局は入院、手術、投薬治療で費用はかかるのですが、それは認めたくないという人間心理も分かります。実は出費が困るのではなく、怖いから認められないことも多いのです。

それに対し、捻挫と言うお告げは実にありがたいものです。痛いのと不便なのとで無視できないからです。そこですぐさま字分けをしました(いえ~い、お告げが理解できちゃうもんね)。

 

今・此処という命の場に存在している私という者の体の一部で足という部分が挫けているよと言うことを、それに向き合わざるを得ない痛みという形で告げられた意味を解いてみました。空と言う無限にして絶対の天の、文字通り完璧な計らいは文字で明確に示されているのにも関わらず、しばらく真剣に字分けをしていませんでした。音は見えないが、字に写すことでその意味が留められているのだから、それを読み解き続けなさい。それを怠ると不自由な現象が起きますよ。天は親切なので、捻挫という形で明確に告げて下さったのです。なにしろ立つにも歩くにも足が使えなければ自立して生活できません。誰かの手を煩わしてその人の時間を奪って生きなければなりません。いずれは老齢で動けなくなるにしてもそれまでは極力自立して生きていたいと思っているので、身に染みてありがたいお告げでした。

肉体は狂いのない精緻な数の法則に則って全ての細胞、細胞を構成している分子や原子、細胞内の染色体とDNAという青写真等が、調和的で健全な状態であれば、気分爽やか、心は楽しく、意欲は満々で生活できるという理があります。「何かおかしい、変だぞ」という違和感を無視すると緊急入院という騒ぎになって、医師に元には戻らないと宣告されてしまいます。

くれぐれも「サイン」には敏感でいてください。

[1] 『シックス・センス』『アンブレイカブル』などのヒット作で知られるM・ナイト・シャマラン監督による2002年の作品。謎のミステリーサークルの出現から始まる全世界規模の異変を背景にしつつ、片田舎に住む主人公の魂の救済をテーマにした異色作。その特殊な作劇によって賛否両論を呼んだが、ミステリーサークルなどの意味深なモチーフを多用した宣伝が話題となり、全世界で大ヒットを記録した。

[2] イングランド南西部ウィルトシャーのエーヴベリー村近郊にある、3つのストーンサークルを含んだ新石器時代のヘンジである。大ブリテン島で最も著名な先史時代の遺跡の1つであり、 ヨーロッパ最大のストーンサークルが存在する。観光名所であるとともに、ネオペイガニズム(復興異教主義。キリスト教以前にあった宗教の新たな多種多様な現代の宗教的な運動)にとって重要な宗教空間である。 新石器時代の紀元前2600年頃に作られたこの遺跡は、周縁部に大きなストーンサークルを持つ大規模なヘンジ(土手と溝のこと)と、遺跡の中心部に位置する2つの独立した小さなストーンサークルで構成されている。この遺跡が作られた本来の目的はわかっていないが、おそらく何らかの儀式や祭典に使われていたのだろうと考古学者たちは考えている。

下はストーンヘンジ、私の後ろ姿です。

こちらはストーンサークルで、一つの石の大きさが分かる写真です。

2020/2/15

2020年のご挨拶

ご訪問者の皆々様新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

昨年は大荒れの気候が原因で多くの災害が起きた年でしたね。災害の原因を作る能力のある人間ですが、反面その対応に際しての無力さもつくづく実感させられました。ふと、おもちゃを毀した子供は嘆くだけで直すことが出来ないのに似ていると思いました。子供は後先も行動の結果も考えずに突っ走りがちですが、それが今の大多数の人類の成長の段階なのでしょうか。まだ幼稚で大きな視点で物事を考えることが出来ないのだということを自覚できたら多くの災害が未然に防げるのではないかというふうに考えます。人間の中には賢い人たちもいるのですからその知恵をお借りして国の政策を決めたら良いのにと思います。決め手は経済優先主義を見直して、地球の健康回復を優先させることだと思います。たった一つ優先順位を変えるだけです。はなはだ単純ですが、単純が根幹にあり、枝葉の複雑な機構、構造はその根幹から出てきているということに気がつくと今までと違った結論が出てくると思います。

政財界のトップの人たちが勝手に決めていることをひっくり返すのは無理だから何もしないでいるという気持ちは分かりますが、出来ることはあります。地球を汚染する結果につながることをしないようにするという選択肢があります。何が出来るか、どういううまい方法があるかを調べてみると色々とあります。消費者が使わないものはだんだんに製造しなくなりますので、消極的に変化をもたらすことが出来ます。他にもいろいろと出来ることを考えて見てください。誰が、何を目的としてこういう政策が実施されてしまったのかを考える人たちが増えると変化が起きてくるものなのです。人の心と心はあるレベルで繋がっているからなのです。私達はみんな潜在的影響力を人類全体に及ぼすことができる能力を授けられて生まれて来ているのだということを知ってください。自分が持っている潜在能力を花開かせる方法は自然を味方につけることだと教えて下さった人がいます。その人は地球の代弁者として一生を地球蘇生に捧げた人でした。『仏眼』の著者です。影響力が大きな人というのはまず、幸せな人なのだということも知って欲しいです。大自然のバックアップがあると人生に支障がでなくなり、楽しく幸せになるとも教えて頂きました。少しずつでも出来ることをしていると何故か自分が好きになり、幸せ感が出てきます。ぜひ実験して見てください。

今年の干支は庚子(かのえね)ですね。
ネといってもネズミではなく、子と書きますので、子の正体は一体何かというお話をします。
四つの読み音を持っている字ですので、それぞれに字を当てると、ネ(音)コ(光)シ(詞)ス(数)となることは以前にもお話ししたかと思います。この四文字が宇宙のありとあらゆる存在と現象を生み出し、維持、管理しています。その字がたった二画の小さな字なのには驚くばかりです。複雑形[i]ではなく単純形が単純系どころか複雑系の最たる宇宙の全現象の根本要素を含み持っているのです。
考えて見ますと、人間の心の働きもそれと同様だと思います。単純に、食べる、子孫を作るという動物としての面と生命維持以外の面とが絡み合って複雑な行動パターンを作り出しています。例えば疑問の答を求める、遊ぶ、社会の称賛を求める、他者を支配する、傷つける、競争をする、芸術的創造活動をする、奉仕活動をする、などです。何が一番大切で、何が枝葉末節かをそれぞれ見直して行く年にしたいですね。

下の図は逆さの木、(サカキ・榊)、あるいは吊木(ツルキ・剣に通ず)という、光透波理論における宇宙の構造図です。上に根っこ(ネ・)があり、それを束ねた位置にがあります。これが母音で出来ている日本語で、完と幹は同音です。それから母が生んだ子供の音を主にした枝葉の言語があります。言と書きます。

 

2020年は人類にとっての二十歳(ハタチ)の成人式でなく波田智の誠人[ii](言+成)式の年になるように願っております。そろそろおもちゃを毀してばかりの幼児性から脱却しないとまたまた災害の年になってしまいそうです。

[i] 複雑系とは、相互に関連する複数の要因が合わさって全体としてなんらかの性質を見せる系であって、しかしその全体としての挙動は個々の要因や部分からは明らかでないようなものをいう。 これらは狭い範囲かつ短期の予測は経験的要素から不可能ではないが、その予測の裏付けをより基本的な法則に還元して理解するのは困難である。 ウィキペディア

[ii] 人間の本質は実は言(コトバ)によって成っているもので、言とは電磁場である宇宙の英智(波田智)そのものである。それに気づき、言の本質である公明正大で嘘偽りのない人として誠実に生きることを始めた人が誠人であると光透波理論は提唱している。

続・小さな字

前に「小さな字」について書きましたが、それより小さな字を研究会の藤田さんが「字分け」して見せてくださったのに大いに刺激され、私も同じ字を相手にそこに含まれている意味を展開して見ました。字が運んでいる音(読み音)の大部分は藤田さんと重複していることをお断りしておきます。

「下」という字です。たった三画の字ですが、それについている音がすごい!

下に対し、上という字にはここまでの読み方のバラエティーはありません。人は体を持って生活をしています。肉体という物質は重力場においては何もしなくても下には下がります。上に上がろうとすると力が要ります。飛行機やエレベーター等の機械や、階段やハシゴのような道具が要ります。

努力の努は奴(人間という意味)の力と書きます。何かを持ち上げるにも筋力を使って努力しなければなりません。生きている限り肉体を動かしながら、ほっておけば下がるものを上げ続けているわけです。

重い体は四六時中ケアが必要です。病、老化、肥満、運動不足、汚染物質の滞留、疲労、精神的な悩み等々原因は様々ですが、とてもスッキリ、爽やかという状態でいる方は少ないと思います。

人間には生きている限り苦しみと悩みが付きまとうものだが、それを受け入れて、それをバネに何かを生み出すものが芸術家であるとピカソその他の偉人賢人が言っています。天才も同じく苦悩がつきもので、一般の人とは物の見方が異なるために、小さな時から孤立して孤独な思いを抱えて生きて行く運命を担わされています。それを受け入れることが出来なければ社会に貢献するような実績を上げることなく挫折して精神異常をきたしたり、早死にしたりするようです。

芸術や天才は苦悩から生まれ、花開くと言われています。物体である体は上がりませんが、精神はいくらでも上がれます。重さがないのですから。思いが重いを左右するのです。昇華という言葉がありますが、上がって華開くわけです。

音が運んでいる天の意味を見ると、「下」という字の読み音のどこにも「重くて上がれない」という意味の文字が付いてはいません。「思い」次第で「重い」は澄んで、朗らかで、どこまでも宇宙をつらぬいて一瞬も停滞することなく解けて流れて、生々流転をしています。そこには個の死というものはありません。病気もありません。整然とした法則に則って運行されています。

生まれて来たことで、不自由な体を持ったが故に、苦悩して、体験して、「何故だ」と問い、考えて、理解して、納得して、美を生み出し、満足して体から抜け出て行くプロセスを、下という字が教え示していることに気が付きました。

この他にもUP(天通父)とDOWN(兌云)の読み音や、上下がくっついた図(ト+下)や下という字の一部であるという字の縦棒に斜線(能き=働きを意味する形)が接している位置が下がっている(赤い点)ことから、下降する方向性を示していることにも着目していらっしゃいました。

以上のようにたった三画の文字の各部分の意味を追求するという謎解きゲームを楽しみながら、頭の体操をするのが「字分け」の楽しみなのです。ご自分でも字の形を見ながらあれこれと思いを巡らして見ませんか?ミクロの世界では点一つの位置や大きさがすべて重要な意味を持っています。その小さな小さな点が全ての原点であることは量子学誕生以降の人類の集合意識にすでに入っています。

自らの身細胞一つ一つが認識できるほどにまでに意識を研ぎ澄ませ、感覚を磨き続けなくて、どうして天の実親の意図など測り知ることができるでしょうか。
小田野早秧

2019.11.27記

小さな字

門に桟がかかっていると全ての答がある中に入れない

モンサント社がグリホサートで癌になった夫婦の訴訟に負けた!

これは現代史に於ける大きな転機だと思います。このような最悪の事態を引き起こす人たちは勿論のこと、それを見過ごしてきた無関心な人達も大勢いたことが原因で、次から次へと人類社会を襲う災害が発生しています。もう誰にも否定できないほどのひどさになってしまいました。

最近発刊した『仏眼の』第一部の「舟を岸につなぎなさい」では、人類はどうしようもない流れで滝つぼに向かって行く笹舟に乗っている蟻のようなものだという比喩が使われていました。舟の上で喧嘩しようが、仲よくしようが一切お構いなく滝つぼに向かっているという点では私たちは一連托生(いちれんたくしょう)、つまり誰が善で誰が悪かなど互いに指差しあっても意味がないと言っているのです。

ではどうすれば良いのか?

答が第二部の「仏眼」にあります。読んですぐに理解できる人もあれば、なかなか分からない人もあるかと思いますが、暗中模索ではなく、文章で提示されているのです。本気で真剣に読んで行けば、何回目かで少しわかってくると言ってくれた読者の男性がありました。永年お付き合いしながらその方が今回の出版を契機に今まで考えなかったことを考え、その結果を報告してくださったことをきっかけに今回の記事を書いています。

もう一つ大きなきっかけは、小田野先生から直接講義を受けておられたアメリカ人のスティーブさんという方がつい最近癌で亡くなられたことです。オーガニック食品を販売している会社の経営をなさっていましたし、合気道という心身ともに鍛える運動も続けておられた有段者で、精神的にも安定性の高い人柄だったにも関わらず、癌にかかってしまったのです。これが同じ笹舟に乗った、一連托生ということの意味を如実に示しています。善い人でも健全な意識を持ち、健康にも十分に注意して生きていても、誰彼構わずに災害は襲ってくるのです。

モンサント社という例を見ることで、人間性の一部分である度し難い側面と、「幸せに輝いて生きたい」という本音の部分について考えて見ました。モンサントを字分けしました。

 

私達が人間という形態で生を受け、生命活動をしているその産みの親は人間ではありません。人間の親は肉体に備えて頂いている機能を使って、受精卵から一人の人間として生まれてくるまでを「お任せ」で全部やって頂いているのですが、自分では「親」だと思っています。これが本当の親ではないということを真に認識するには、字を見ると分かります。親を分解する、つまり「切り分ける」と分かると教えて下さっている言葉があります。「親切」です。

親を切り分けると「立、木、見」と三文字になります。立(立証)つまり存在している、木(モク-網空)つまり空という目に見えない世界の透明な網、これを見る(観察する)、というふうに取れます。実の親とは透明真空の網である母(同時に父も一体で支え、機能している)なのです。父という縦軸と母という横軸が交叉(点-回転軸)しているエネルギーが常に絶え間なく云(運)んでいるのが生命のエネルギーであり、知恵であり、食べ物を生産する地球のような生産地なのです。人間の体は勿論のこと、空気も、水も、太陽光も、微生物も何一つ人間に作れるものはありません。人間に出来ることは壊すことだけです。そして毎日せっせとそれを行っています。「自然にお任せ」をほぼ完全に忘れ反って生きてきた結果を今、癌や、精神病や、戦争という形で受け取っていることになります。

答を見ることができる、いわば図書館のような情報源は門の中にあります。その門に桟がかかっているのを開けて中に入らないと真理は見ることができないのだとモンサントが教えてくれました。

注。
グリホサートは発がん性はもちろん、植物を枯れ死させてしまうが、同様に土壌細菌や腸内細菌も損なう。腸内環境を破壊することでアレルギーなど自己免疫疾患などの原因になったり、神経毒として自閉症や認知症を誘発する可能性が指摘されている。また、生殖に与える影響も懸念されている。精子の数の激減、胎児の発育に影響を与える可能性だけでなく、世代をこえて影響する危険を指摘する研究結果も発表されている。ベトナム戦争で撒かれた枯れ葉剤によってつくられたダイオキシンは三代にわたって影響を与えるといわれるが、グリホサートにも同様に世代をこえた影響が出る可能性も指摘されている。
以下のサイトにモンサント関連記事がのっています。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11791

2019.11.02

肉体が亡びる時離れて行くものは何か

前の投稿で、肉体が無くなっても意識は不滅ですというお話をしました。これについて、面白い説明を画像で見せている動画サイトがありました。

真空、生命、知性の実態、実質は何か、という疑問に対し、量子力学的な説明をしている方があります。マックス・プランクという人です。プランクさんの解釈による、人の本質(体ではなく潜在意識の方)であるエネルギーがどのような形態で存在しているかをCGで作成して見せてくださっています。トーラスと呼ばれる形で、きれいな画像です。字幕を付けておきました。トーラスは正と負のエネルギーが同時に関わり合いながら不断に動いている形です。象徴的にはメビウスの輪、八の字等とも表現されてきましたが、今は立体で見ることができます。

21世紀という今の時代にはこのようなテクノロジーで私たちが目で見、音で聞ける媒体ができていて、楽しみながら学ぶことができます。そして、理解の幅も広がり、その理解の振動が他の理解の振動と繋がり、共鳴し合いながら人類の集合意識が成長して行くという訳です。
2019.7.5

光透波理論改訂版発刊のご案内

光透波理論改訂版発刊のご案内

長らくお待たせしました。『小田野早秧の光透波理論 改訂版』が発刊されました。
この書は何百万年か前に人類が地球に誕生して以来、様々な成長の過程を経て、ついに、21世紀というこの時に、丁度熟れた果実が樹から離れるように、人間とは何であるのかを自覚し、誠の成人として自立し、自由を獲得する用意が出来た時に初めて紐解くべく天意によって用意されたものです。それ以前には信じがたいような前代未聞の真理の数々が書き連ねられた珠玉の名編であると思います。そこで、巻頭には、こう書きました。

万物を創造し、全生命を生かし続けている至高の叡智力の正体が、
ここに細大漏らさず明らかにされている人類の至宝の書

「人は考える葦である」と言った思想家がいましたが、人以外の生物は考えるということはしません。そこで、考えるということを少ししてみましょう。

先ず「真空」について考えるとします。人それぞれがそれなりの意味考えて文章にしてみますと、多くの場合、何やら掴みどころのない熟語だと思われるのではないでしょうか。

例えば「真空とは何も無いところ」、とします。無いとは何か?何かが有るのなら簡単ですが、無いということを想像するのは難しいと思います。次に「知性」とは何かと考えて見ましょう。最後に「生命」とは何かを考えて見ましょう。

これらの実質、実態を極めようとすると、如何に情報不足かということが分かると思います。一体自分には何が分かっているのだろう。どうもよく分かっていないようだということを発見できるかと思います。「考える」ということをすると、自分が如何に何も知らないかが分かるのです。以下のように整理して考えて行くと明確な認識が構築されて行くと思います。収録されている4冊の本の一冊目『生命の原理』から、

現代では吾々の肉眼視野は、顕微鏡、望遠鏡の視力に電子力をも併用して、自然の現象する森羅万象を細大漏らさず検討し尽くそうとしてはいるが、未だ最後に余りにも根本的な大きな見落としが眼前にあるという問題を残している。吾々が知り又知りつつある様々な現象実在を、現に抱容している基盤であるところの、宇宙大空間の「真空=何もない最後のもの即ち無」の実質と、吾々人間自体がこの宇宙の様々な現象実在を知り、又知ろうとする力「知性」そのものの実質と、この知性を以て今現在に生きつつある吾々の「生命」の実質、この三つの実質の理解だけが現実の吾々の知生活に未だに全くの空白を残しているということにある。誰であれ「もの」の本質を正しく知り、完(まった)き理解を遂げれば、その「もの」をよく活用できることは必然である。正しく活用できないのは、その「もの」を知らないという実証である。

二冊目の『考える力』からもう一節ご紹介します。

そこで私がくりかえし確信するのは、知性は意識(詞基)内を回転する詞の組み合せで人間自己の内部に成立し、この抽象の資料を提供しつつある虚空は「光透波」の回転によって、空間の基本実質として、不断に「透明」の姿で現成充実しているということである。
つまり透明質である「虚空」というものは、物質現象を差し引いた空間性の基本質であり、この虚空状態に気体原子を充満させている空間中で、吾々は呼吸を続けているのである。だから吾々が呼吸を続けている空間から、気体原子を取り去って、そこに不断に働く地球引力や太陽斥力を差し引けば虚空の生地が残存する。しかもこの虚空の生地は、太陽斥力、地球引力、気体原子に浸透して、同時にこれ等を無条件に抱容し且つ保持し且つ進化させている。
一方人間が仮死状態に陥り、気体原子の呼吸を一時停止しても、甦って来た人の記憶を調べれば、呼吸とは無関係にその人は、夢中と似た意識活動を続けていた場合が多い。

肉体は亡びても『詞を元素とした意識』は不滅だということなのです。この名著に初めて出会ってから二十数年が経ちます。読むほどに深まる理解が意識をより明晰に、透明にして行く過程を実体験することができる本であると私は実感しています。
菊池静流

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