ご挨拶2017年版

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔

 

 

友達が恋人になる時

今恋人いますか?
恋人欲しいですか?(欲しいですよねえ)
それとも面倒くさいから要らない?要らなくても読んでみてください。気が変わるかも。

私の場合恋人候補は男性です。これからのお話は彼という代名詞を使いますから適宜置き換えてください。それではご一緒に恋人を見つけてみましょう。

まず友達を見つけましょう。いろいろな方法があると思いますが代表的なものを。

1 大勢の人が集まる場所に行かないとなかなか見つからないので何か自分がそれをすると楽しいことの中から集まる場所を選びます。同性ばかりのサークルはだめですよ。まず少し観察をしてみましょう。ルックスだけで飛びつかないで、一緒にいて楽しいとか、息が苦しくならないような人も見て見ましょう。等身大の自分でいましょうね。リラックスしていることが大事なので、気張らないように気をつけましょう。気張っている人もかわいいですけれどね。好みは人それぞれかも。

2 大勢の人を知っている人に紹介をたのむ(今はプロもいます。有料ですが)。プロでない場合も等身大の自分を知ってもらいましょう。まるで合いそうもない人に紹介される可能性が低くなります。プロの紹介機関は婚活ですので、始めに良く知り合いたいからゆっくり進みたいというら希望を伝えないと1、2回会っただけですぐに断ってくるかもしれないので気を付けて。この場合も等身大の自分でいることは勿論です。共通の趣味だけでなく、自分の趣味を伝えて新たな体験をしてもらう。相手の趣味にも付き合って新たな体験をさせてもらう。意外性は楽しいと思います。知らない世界を案内してくれる相手はお互いにより魅力的です。褒めやすいしね。無理に褒めるのは不自然ですので。そうして次の段階に進む準備をして行きます。

3 偶然の出会いを待つ。これはともかく外出をしないとありません。旅をする、美術館やコンサート、ライブショウ(少人数なので話しかけやすい)、スポーツ観戦など自分の趣味に合わせて出かけて行きます。知らない人に話かけるのですから勇気が要りますが、突破口は「笑顔」です。強力な助っ人です。まずリラックスしてから自然な笑顔が出るように鏡の前で練習をしましょう。鏡の中の自分に向かって声に出して「あなたって素敵ねえ。大好きよ」など他の人にそう言ってもらいたい誉め言葉を自分に向かって言いましょう。声に出していった方がより効果的です。また会う機会を持てるかどうかは運命も関わっているのではないかと思いますので無理はしない方が良いのですが、また会いたいという意思表示は必要です。昔は撮った写真の送り先を聞く方法が良くありましたね。「今度私の知っているどこそこにご案内したい」というのもありましたね。「このままさようならは惜しい気がするのですが、私だけでしょうか」、というのもありました。創意と工夫を凝らしてみてください。練習もしてね(鏡の前もいいですよ)。

友達ができた!
これからどうするか。

恋人になる前の準備編

友達が恋人になったら最高です。もともと気が合っていたのですから例えば人生のパートナーになって一緒に生活を共にする場合も楽です。人生に荒波は不可避ですから困難を乗り越えて行くときに一人で立ち向かうのではなく二人で助け合いながらやれます。友達なので相手の無能を責め合ってケンカをする可能性より協力して解決することができます。結婚した場合は離婚の可能性も低くなるので子供を作っても被害が子供に及びません。いがみ合っている両親を見て育った子供は、たいてい不幸な人になります。不幸な人をなるべく作らないことは社会貢献です。世界平和は幸せな家庭が基盤となって実現すると私は固く信じております。

では友達時代にすることから考えて見ましょう。

1 呼吸合わせ

「あうんの呼吸」と言いますね。気が合っているということです。私の友人に散歩の達人がいます。数年前に一緒に森を歩いていた時のことです。少し上り坂の森を歩いたのですが、運動があまり好きでない私にとって散歩は30分からせいぜい1時間で十分なのですがその日は3時間歩きました。彼とは15センチほどの身長差がある上脚が長い人なのでコンパスの差は非常に大きいです。相手が歩調を合わせてくれていなかったら息切れしたでしょう。まず彼は私と同じ呼吸をします。歩調も私に合わせます。鳥や昆虫や珍しい花を見つけるのも速いので教えてくれます。虫は手に取ってそっとなでたりしながら説明をしてくれます。野いちごなど食べられるものはつまんで手のひらに乗せてくれます。気がついたら3時間たっていたわけです。飽きっぽい私なので様子を見て途中でいろいろなブレイク(気分転換)をとっていたわけです。おかげで翌日は実に体調が良くなっていました。この人とはよく一緒に瞑想をするのでその際には呼吸法を先に一緒にしました。相手の様子を察知するためには呼吸を合わせることはとても重要だと思います。相手の呼吸が荒い場合は初めに合わせた呼吸を少しずつ自分がゆっくりと呼吸して行くことで調整できます。

2 観察力を強化する

顔色、姿勢、声音、表情、機嫌などをよく観察していれば今何をしては邪魔か、何をしてあげたらよいかが相当分かると思います。特に、余計なことを言ったりしたりされるのは何もされないよりはるかに辛いものです。気をつけましょう。

3 時間をかけて熟成発酵させる

何十年も別々の人生を歩いてきて、経験したことも、関わってきた人々(特に両親や兄弟)も異なる相手といきなり恋人になる危険は避けて、しばらくは友達でいながら共有の思い出を培って行き、自然に期が熟するのを待つ忍耐心を持つことは大変大切なことです。ひと頃「成田離婚」というのがありましたが典型的な失敗例です。

失敗しないための判別法には次のようなものが効果的だと思います。

  • 一緒に笑う。笑えないのは今後の一生の相性にかかわるのでしっかり確認すること。
  • 一緒に美を鑑賞する。感動を共有する。無感動で美が理解できない人は愛や思いやりが薄い場合が多いのでそれでも良いかどうかを考えるチャンスとなる。
  • 何かに対する自分の考えを述べ合う。批判はしないがチャレンジ(デベート)はちゃんとする。負けず嫌いで怒りっぽいか、理不尽なところがあるかどうかが確認できるという大きなメリットがある。勝敗のあるゲームをするのも同じメリットがあります。

4 不必要に体に触れない。

好きな相手なので触りたいのはやまやですが、熟成する前に不味いものを飲むことになるかもしれないと思って慎重にしてください。妊娠したり、されたりしてから「この人じゃない!どうしよう。大失敗」となって不幸な結婚をスタートさせたら一生後悔ですよね。結婚しない場合でもストーカーになられたり、自殺されたりしたら大変です。手をつなぐ場合はTPOと動機は何かを考えてからしてください。ハグも同じです。

5 若い人の場合はドツボにはまらないように気をつける

  • 金銭の貸し借りをする。チョイ借り・貸しもやめた方が無難です。お金にだらしがないのに長い関係を築くのは難しいです。
  • 適量を超えてお酒をたくさん飲む。判断力が鈍るので危ない。他の目的があって近寄ってくる偽の友人はわざと酔わせるということもします。
  • 独りでいる自分の家あるいは部屋の中に入れる、独りでいる相手の家あるいは部屋に入る。気心が知れるまでは避けた方が無難です。

バカみたい、時代遅れのオバハンだねえ。と思うかもしれませんが、これらは失敗の元になる場合が多いです。他にも気をつけなければならないのは、魅力的な容姿で近づいてきて金品をだまし取ろうとする職業の人たちが男女ともにいるということです。こういう人たちは相手の顔色、声音、機嫌なども把握しています。だから慎重に相手を見極める時間が必要なのです。

まず友達になってから時間をかけて相手との信頼関係が成立したのちにその相手と恋人同士になるというのはすてきな関係です。たとえ途中で恋人としてはうまく行かなくなって別れた後もまた友人として付き合えるし、相談相手にもなってもらえます。一緒にお食事をしたり旅行したりもできます。もうややこしい関係になる心配はないし。一生ものの人間関係ができるのです。
人生を良きパートナーと分かち合う幸せをどれだけの人が知っているでしょうか。見つけることは勿論持続させることも案外に難しいものだと思います。もし見つかったら知恵を絞って確保し、丁寧に熟成発酵させ、無くさないように継続的に発酵させ大切にしましょう。

すでにパートナーを見つけて幸せな人はどうぞいろいろなアイデアやヒントをコメントしてください。私はオバハンなのでもっと若い人の知恵をお借りしたいです。
2016.10.2

縁は異なもの味なもの

ハッチ 小さな守護天使 

悪行の温床―心の穴

先日物置の奥にあった古い花瓶を年長の家族のTが私に見せてどういう品物かを話してくれた。Tは母の姪で私が生まれる前の父を知っている人だ。それによると二人が東京に住んでいたころ商店街を散歩中に骨董店をのぞいてこれを見つけ二人で相談して買ったという。子供の頃に家にあって時々花が活けてあったのを思い出すと同時に若かった頃の両親の姿が目に浮かんできた。父は母のことを「かあさん」と呼んでいて非常にていねいで美しい言葉で話す人だった。父の声音には尊敬と愛情の両方がこもっていた。両親は互いに対し美しい言葉で話をする人たちだった。物心ついた頃から何年かは疎開先の奥多摩に住んでいたのだが、当時は家族の団欒には祖母とTも加わって楽しそうに笑いながら話をしていたのをよく覚えている。和やかで美しい声音が快く、その場を離れたくなくていつも茶の間の片隅に座布団を敷いてそこに寝そべっていた。途中で眠ってしまうと誰かが抱き上げて布団まで運んでくれたものだ。ふんわり柔らかいのが母の腕で、大きくて骨っぽいのが父の腕だった。父の腕の感触と匂いをまざまざと思い出すと同時に懐かしさがこみあげてきた。後年父に対し腹が立つことがあって心が離れてしまいがちになったが今ではただ懐かしい。

父に対し怒っていたあの頃何がそんなに腹立たしかったのだろうか、怒りの原因はなんだったのだろうかと内観を続けていた時にまるでヘドロのような汚濁の池にはまって溺れ死にしそうになった経験があった。その時に大きな気づきがあった。汚濁は個人のものではなく人類全体の怒りの集積だったのだと。この時に「一蓮托生」という言葉の意味が初めて実感できた。

天の父母である至高の叡智である創造の源とは異なり、人間である両親は決して完ぺきではないが、足りない点も含めて受け入れ、愛することができたら心に空白の穴は出来ないだろうと思う。人間が犯すあらゆる理不尽で残虐で破壊的な行為は心に穴があるせいだと言った賢い人がいる。その通りだと思う。

心に穴があると、寒くて、孤独で、腹が立ってイラつき、誰かを攻撃したくなる。または何かの依存症になって穴があることを忘れてしまおうとする。それでも穴は埋まらないのでいつまでたっても破壊行為は止まらない。多くの人が同じように破壊的になると地球は大きな被害を受ける。愛と他者に対する尊敬の心のない人々の犯す行為が積もり積もって今は地球上の生命は瀕死の状態になってきている。どれだけの種が絶滅したろうか。絶滅危惧種になっているだろうか。海も土も水も汚染されてしまった。それでも破壊行為は止まない。乾いた心の飢えに浸食されて心身ともにボロボロになって行きつく果てが「病」という愛の鞭で、「気づきなさい」と教えてもらっているのだ。

「自分は何も悪いことはしていないのに何故こんなひどい目にあうのか」と言う人は多いが、悪いこととは他の人間に対してという意味が多い。全生命にとってという点から見てもそう言い切れるだろうか。これが「一蓮托生」ということなのだ。これに気づかないと自己破壊する。そういう順序と筋道を明確に認識する理性がある人たちが破壊の反対のエネルギーの振動を発信することで悪行の根源にある破壊のエネルギーの振動を打ち消す効果をもたらすことができるのだと私は考えている。

たとえ講演会をして回らなくても、本を書かなくても、誰にも知られない無名の人であっても、今いる処で触れ合っている人たちや生き物に愛と尊敬のこもった美しい言葉で話しかけ、感謝と友愛を表現するという日常の行為が地球に平和をもたらすすごい影響力を持っていると私は信じています。

2016.8.3

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

フィクションもノンフィクション

前回の話のタイトルと同じじゃないの、と思った方へ。違います。前後が入れ替わっています。

この数年よく見る悪夢は道に迷って約束の場所に行けないというものと、ある集まりに出かけると全く場違いの場所で知っている人もいないし孤立して居心地の悪い思いをする上に、そこで何か話をすることになっているのに全く用意していないので立ち往生というもの。細かいことはさておき生理的には胸はドキドキ、頭はカッカとして考えがまとめられない、手のひらに汗で喉はカラカラ。

夢なのだから当然現実ではない、つまりフィクションの世界のようなものだけれど生理的反応は現実と全く変わらない。そういう意味ではフィクションもノンフィクションの世界と同じに心理的反応をしていることになる。脳は現実と非現実とを区別していないそうで、起きた事件がふとんの中で体は動いていなくとも脳としてはあたかも実際に起きているかのように反応するそうです。そして私の体験でも実際にそうです。

生理的に同じように反応できるなら悪夢の反対に楽しい夢を見れば幸せに感じる上に幸せな時にでるホルモンも分泌されるはずです。そういうときに出るホルモンは体を元気にし、若返らせてくれる効果もあります。脳の働きも活発になり、老化防止になることにつながって行くという理屈になります。どこにも行かなくて、従って費用もかからず、混雑もなく一石二鳥いや三鳥にもなるかもしれません。

良い夢を見るには体がリラックスしていると良いそうです。そのためには今日起きた好ましくない出来事を繰り返し追体験する癖を止めると良い睡眠がとりやすくなると思います。繰り返しとは「あの時こうすればよかった。何故しなかったのだろう。私は優柔不断な人間だ。まったく嫌になってしまう」、「あの時ああ言えばよかったのにすっかり誤解されてしまった。何故いつもこうなるのだろう」というように、すでに起きてしまって戻れない過去に縛られている癖は誰にでもよくあることだと思います。頭を一振りするときれいさっぱり忘れてしまって、さて寝ようと枕に頭がついたらすぐ眠れる人になりたいですね。それにいくつか良い方法があるようで、リラクゼーションの方法についてはは色々なハウツー本が出ていますし、幸せそうな人をお手本に秘訣を聞いてみても良いと思います。

幸せな人の例を一つ挙げます。私ごとですが母です。太母(たも)さんと呼ばれていました。自分のことを極楽とんぼと評していました。

  • その時その時で一番したいことを真っ先にする。場所をかまわず大きな声で歌を唄う(止められたらやめるだけ)。来客があるのに横になって昼寝をする。この場合は相手も誘う(若い女性の場合は相手が誰かを見て気をつけてください)。夜中に起きて片付け物をする(隣の部屋で寝ている私には大いに迷惑ですが気にもしていない)。食事の時間になっても草むしりをしている。夕方に昼食を食べている。好きな時にしたいことをしているので海外旅行に行っても全く時差ぼけしない人でした。これは一考の価値がある現象です。
  • 人の思惑を意に介さない(上記のことが出来る人なら当然ですが。相手が怒ると、「あなたは私、私はあなた。人間はみなひとつなの。人がどう思うかなどとくよくよするようなつまらないことはもうやめなさい」などと言って煙に巻く。それでもカンカンに怒っていると大きな声で歌を唄ってから何処かに消えてしまいます。怒っている人に理屈は通らないと分かっているみたいでした。
  • 「思い出して不愉快なことは忘れれば良い。忘れること神のごとしと言うじゃろう?何、忘れられない?困ったね。練習せんといかんね。不愉快になりたいという欲求を持っとるのかな?そうでないなら忘れなさい」と理路整然(?)と説く。相手は自分の盲点をつかれ驚いて反省する場合もあって、これは役に立つ。説いている人が幸せそうで健康で屈託がないので説得力があります。「復讐心は自分を痛める猛毒で相手には効かないという道理がある」とも説いていました。
  • 風邪をひくと大喜びで「お焚き上げじゃ。風邪は万病を払う玉ホウキ。ありがたい、ありがたい」と言って、よけい涼しい恰好をし、水を飲んで何も食べずに寝てしまう。熱も痛みも大体ありがたがって体さんにお礼を言っていました。「私が馬鹿者でも体は違う。細胞の一つ一つが智慧光の化身で自治の完成体。その賢い働きを妨げないことが肝要じゃ」と言っていました。つまり食欲が無ければ食べない。動きたくなければ寝ているということです。自然の法則に逆らわない生き方を知っていて実行していたわけです。
  • 人は生まれながらに幸せに輝いて生きたいという欲求を持たされて来ている。それなのに好んで不幸せになっている。その原因を突き止めることじゃ。それは心の奥底のそのまた底の潜在意識と呼ばれているものが自分は幸せになる資格がない、と思っていることが原因。何故そう思うようになったかというと自分は悪い子だと思っているからじゃ。良い子悪い子と区別するのは自分が他と離れて孤立しているように錯覚しておるからで、本当は人間は一人しかいないのだということが分かればそれで解決。

他にもいろいろあるのですが、今日はこの辺でやめておきます。

では何故人は好んで不幸せでいるのでしょうか。一つには現実と夢の世界という二つの世界にまたがって生きているという体験を二つの分離した現象と思っていることあるのではないかと思います。冒頭にフィクションもノンフィクションと書いたように、脳は体験によって生理的反応を起こします。感情的反応は夢であっても起こります。夢の世界とは「物理的には無い世界」です。この無い世界にもし本当の自分が住んでいて、物理的な世界には体の中に閉じ込められた「自分という存在、つまり自我意識」がいて、それだけが現実で、従って個別の存在で、多くの場合は理解もされていないし、愛されてもいないし、正当に評価されてもいない、感謝もされていない。とこのような孤独感を感じているのではないでしょうか。

意識は物理的境界の外にいつでも飛翔できます。限界を決定しているのはそれぞれの人のそれまでに受けてきた教育(まず親の考え方です)やそれまでの生活体験に対する反応行為の集積から引き出された偏った結論です。一人の人がその人生で体験することは限定されています。親の考え、教育制度を制定した国の方針、肉体的特徴(性別、容貌、運動機能、頭脳の働き等)にも制限がかかっています。これをいったん外側から見る、俯瞰するような視点を持つことが自由になるための第一歩だと思います。以前誰かの言いなりにならない、私たちは偽の情報の上に成り立っている人間社会に生きていると書きました。そのことをしっかりと踏まえてその上での視点の持ち方を考えて見ると今まで見えなかったものが見えてくると思います。

2016.6.1 記

ノンフィクションもフィクション

ノンフィクションもフィクション

本屋さんで書籍の販売コーナーを見るとノンフィクションとフィクションと二つにセクションが分かれて展示されています。フィクションとは虚構、作り事のことで小説はフィクションです。ウィキペディアを見ると「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味しているとも書いてあります。これに対してノンフィクションは史実や記録に基づいた文章や映像などの創作作品。また、その形態。ドキュメンタリーやインタビューなど多肢にわたる。製作上の綿密な調査や取捨選択など作成者の独自色が出る、と書かれています。

ノンフィクション

ここで間違ってしまいがちなことは、ノンフィクションは事実あるいは真実だと思ってしまうことです。史実や記録が間違っていてもねつ造されていてもそれに基づいて書かれた文章はノンフィクションというジャンルになっているのです。

最近健康に関連したセミナーをいくつか受講していて思ったことがあります。講師はそれぞれ体のことを専門に学んで学位をもっていらっしゃる医師や科学者で本も書いています。

セミナーではプロジェクターを使って様々なチャートやグラフを提示してそれぞれの主張するところを発表されます。統計学的な数値を次々に提示されると「なるほどそうだったのか、知らなかったなあ」と感心しますし、それが事実あるいは真実だとつい思ってしまいます。例をあげましょう。体に関する専門家で医師である人が、「牛乳は北欧の白色人種は消化できる人が多いが日本人も含むアジア人やイヌイットやアボリジニなど先住民と呼ばれる人たちには消化吸収できない」という説明でチャートには主な人種と消化力の有無とその程度が提示されていました。私も牛乳の消化力は低いし、知人で全く受け付けない人たちもいることからなるほどと納得しました。この専門家はまたワクチンなどの予防接種は効果がないばかりでなく、人体には有害なものが多いということ、薬も副作用を考慮するとあまり飲まないほうが良いという考えの持ち主でした。それからほどなくしてワクチンや薬に関しては同じような見解を表明している医師の本を読んでいたら、多くの点で先の専門家の意見と同じようなことが書いてあったのですが、牛乳と乳製品に関しては、どんどん食べなさい。安価である上に栄養価が高く、非常に優れた食品であると勧めてありました。どちらが正しいかどうかではなくそれぞれの意見なのです。それを踏まえて自分が選択をし、結果は自分が摘み取るということになるわけです。言われた通りにやったのにかえって元気がなくなった、責任をとれと言っても通用しません。

今はインターネットいう情報源があるために体の健康維持のことや食品の栄養価、病気のことを即座に調べることができます。人類にとって未曽有の情報源が無料あるいはほぼ無料で提供されています。調べる気さえあればいくらでも情報収集ができます。便利ではありますが、フィクションとノンフィクションが入り混じっていて混乱させられます。同じことに関し全く反対の意見があるために常に選択をしながら生きなければならないわけです。何かを調べる際には多くの情報源から複数の意見や調査結果を見て比較検討し、誰の意見も決して鵜呑みにせずに最後は自分で判断することが肝要かと思います。その時に大切なのは、

大自然の法則とそれに則して成り立っている完全循環型の生物圏の中で自分のとろうとする行為がはみ出していないかどうか。もしかして人間だけに都合の良い考えなのではないだろうかという問いを持つことだと思います。よく言われていることですが、「胸に手を当てて考えて見なさい」という言葉です。この場合の胸とはハートセンターと呼ばれる感情の状態が肉体に直に表れている場所だと私は思っています。「何かおかしい、変な胸さわぎがする、しっくりこない、気分が良くない」という感覚です。この感覚がいかに鋭いかどうかで人生が決まります。すぐに騙される人とほとんど騙されることがない人との違いが出てきます。覚者と凡人との差とも言えます。

誰それの意見はそれをすることでその人とその人の属している社会(企業、国家、職業分野等々)にとってのみ有利なのではないか。それによって困る人たち(他の生物も全部含め)がありはしないだろうか。そう考えながら物事を見て行くと感覚は鋭くなって行くと思います。

フィクションである小説は「事実らしい」ということが重要なポイントになります。事実らしくないとあまり売れません。多分ワクワクドキドキしないからでしょう。これはノンフィクションにもそっくりあてはまることなのです。「事実らしいだけで事実ではないかもしれない」と思って賢く情報処理をして行きましょう。

2016.5.8
フィクションもノンフィクション

 

 

見る喜び、美の形

 

桜
桜が散ってしまい急に淋しくなった周囲の景色が他の花々によって新たに埋められてきました。我が家の庭は白い花が多く、それはそれで華やかなものです。こでまり、ジューンベリー、ドウダンそしてシャクナゲと大中小の白い花が次々に開花。それらを見ると胸がときめきます。人は普通美しいものを見ると喜びという感情が湧き起こるようにできています。ただしそのような感情があまりない人たちもいるそうです。

2009年に発表された二つの調査の結果を見てみると次のことが分かったそうです。

まず精神病質者ではないと鑑定された一般の人と犯罪者として投獄されている人の内反社会的人格障害者(注1)と診断された21名の人の脳の違いを調査した結果、脳の前頭葉の二つの部分に関して大きな違いがあることが分かったのだそうです。一つは中前頭回(注2)という場所、そして眼窩前頭回(注3)という場所、どちらも嬉しいとか楽しいとかの豊かな感情を起こさせる場所だそうです。中前頭回の働きを促進するような軽い電気的刺激を与える実験で笑いを引き起こせることが分かっています。反社会的人格障害者において中前頭回が平均18%、眼窩前頭回が平均9%も小さかったそうです。

次に精神病質者27名を普通の人32名と比較した調査でも違いはでたと発表されています。この場合は感情のセンターと呼ばれている大脳偏桃体が平均18%小さかったそうです。
https://m.livescience.com/13083-criminals-brain-neuroscience-ethics.html

豊かな感情は子供の頃にその元が養われるそうです。凶悪犯罪者の多くがそうである社会病質者、精神病質者は憎しみや強い怒りのような感情はあっても喜びや幸福感のような感情の方は枯渇したような人が多いと言うことなのです。美しいものを見て美しいと感じることは当たり前と思うでしょうが、そうではない人たちも大勢いるのです。惨たらしいものを見ると面白がるという感情は美しいものを見ても感動しないということにつながっているかもしれません。また、人工的なものは美しくとも自然の美という完ぺきなバランスをもった形に比べると不完全なものも多々あるかと思います。美に対する感動は美しいものを見れば見るほど養われて行くと思います。そして美しいものを見る喜びの体験が多ければ多いほど偏桃体その他の脳の分野は発達すると思います。

こでまり3 (800x800)

ドウダン

シャクナゲ美のバランスに関しては黄金比というトピックでまたお話しして行きます。

注1.法律といった規範や他者の権利や感情を軽視して、人に対しては不誠実で、欺瞞に満ちた言動を行い、暴力を伴いやすい傾向があるパーソナリティ障害

注2.中前頭回はヒト前頭葉の、上側約 1/3 の領域を占める脳回」笑いが引き起こされる領域 刺激電流のレベルが上がるにつれ、笑いの持続時間や強度が増加した。 例えば、弱い電流は微笑みのみが生み出されるのに対して、強い電流では大笑いが引き起こされた。笑いの起きている間は言語や手の動きなどの全ての活動は停止した。

注3.網膜の裏側にある眼窩前頭野は、脳の前頭前野皮質と皮質下が出会う重要な位置を占めています。そして、情動脳である大脳辺縁系と、知性の脳である前頭前野をつなぐ働きをしています。つまり、情動の源である大脳辺縁系の偏桃体が喚起した情動を制御し、偏桃体からの要求を抑制する働きをするのです。周囲の状況を的確に解釈し、内的及び外的経験に照らし合わせて、意思決定を行なうためには、大切な部位です。この部位の機能が低下すると、共感する力が損なわれます。
多くの精神疾患、あるいは人格障害、発達障害は、前頭前野や帯状回、眼窩前頭野などの機能障害に原因がありますが、この眼窩前頭野の障害では、辺縁系の活動の調整、統合に支障が生じます。すなわち、抑制力の低下が起き、衝動をおさえられないといった、いわゆる強迫性を生じるのです。

バイリンガルって本当にいいの

覚者と凡人はどこが違う

私たちは自己というものを通常どのように認識しているのでしょうか。大方の人は自分が中心にいて周囲に自分を取り巻く環境がある。環境に家族、友人、その他の人々がいて人間社会が成り立っている。その他に動植物を含む自然環境がある、というふうに認識していると思います。つまり自分と自分以外のすべてという関係性においての自己認識だと思います。生まれてからずっとそのように教育されてきたのですから当然だと思います。

しかしこの認識の基盤に成り立ったあらゆる物の見方とその見方によって生活している間に体験を通じて確認され、定着した「固定観念という記憶」が病と不幸せという感覚の根本の原因になっているのです。つまり私という人は「固定観念が服を着ている」ごとき存在だと言えます。

固定観念は一部あるいは大きな部分覆されるか書き換えられることは時々あります。そのような体験をした人々を私は何人か知っています。ただ完全に固定観念が無くなった、あるいは元々ほとんど無かった人という人たちはあまりいません。この人たちは「覚者」と呼ばれています。

どうしたら固定観念から解放され。真に自由な思考ができ、不安と恐れと心配と欲求不満と病から解き放たれるのだろうか。その手法は古今東西の賢者や導師やトレーナーなど自薦他薦で提供されてきました。どれがどのくらい効果があったのかをここでは問いません。言えることは、「覚者はそう多くは出来なかった」ということです。命波の創始者である小田野早秧先生は「字分け」という手法を考案されて、私はそれを実践しています。字分けの目的は「自分とは何か、命とは何か、死とは何か」を明確に把握し、結果的にあらゆる偽物の情報から解放されることです。偽物の情報というのは現代社会という怪物を構成している要素のことです。覚者とは真理を知る者で、偽情報に騙されない人のことです。

字というものは実はそれを分解すれば真理が分かるように作られてあった教科書のようなものなのだということを発見された初めての人類が小田野早秧という人だったのです。発見に至るまでの様々な啓示現象はまさに奇跡そのものです。これからもこのブログでは小田野早秧という人とその生きざま、何故字分けが効果的な手法なのかということと、心身の健康との関係などについてもお話しして行こうと思います。
2016.4.7 記

フィクションもノンフィ

フィクションもノンフィクション

光透波とは何か

 

 

幽霊と直談判

今から10年ほど前のことですが、 それ以前から時々訪ねて来ていたある女性が折り入って相談したいことがあると言って来られました。どういう相談かと訊きますと、自分には死んだ人が見える。母親も三人の姉もやはり見えるのだと言いながら私の様子をうかがって、大丈夫そうだと分かったようで続けました。幽霊なんていないと一喝されたら話にならないから心配だったのでしょう。
相談の内容は、今オフィスビルの掃除の仕事をしているのだがそのビルに幽霊が出て気分が良くない。体が冷えるし暗いし嫌な場所でやめたいのだが、自宅の近くの職場で給料も良いのでできれば続けたいとのこと。それでお祓いをしてくれということと、幽霊にはどう対処したら良いかというものでした。
お祓いはさておき、幽霊の対処は生きている人と変わらない、何が言いたいのか訊いて、出来ることと出来ないことがあるのでしっかり交渉するようにと。また交渉の時に気をつけるべき注意事項も付け加えておきました。

2、3か月後にニコニコして現れた彼女の報告です。

幽霊はそのビルの建築中に足場から落ちて死んだ男性で、その家族が全くお供えをしないし、お盆も命日も全く何もしないというのだそうです。それでいつも腹が空いていてのども乾いているので何か欲しいと言うのだそうです。
「何が欲しいのか」と尋ねた途端に頭の中に、天丼、カツ丼、うな重その他の食べ物と飲み物が飛び込んで来た(声でなくビジュアルで入ってきた)ので手を振ってさえぎって、早速習ってきたセリフで「出来ることなら手伝ってあげても良いが限度があるし何時までもは出来ない」としっかりした声で断固断ると、急に弱腰になって、「じゃあオニギリでもいい。それと何か飲み物を」というので「水なら」と答えるとそれでもいいと言ったそうです。それで期間の交渉に入り、一月というのを一週間にまで下げさせて交渉成立。

翌朝家族の弁当を作るついでにオニギリを二個握って、沢庵も少し添え(優しい人なのです)、ペットボトルに水を入れ仕事に出かけた。その途上にある家の塀越しに小さなビワの実が沢山ついている木が目に入った。その日はそのまま急いで仕事場に行き、ロッカールームの棚の一番上の人目につかない場所に食べ物を置いた。翌朝は少し早く家をでて例のビワの木のある家の玄関のチャイムを鳴らし、出てきた人にビワを分けてもらえないかと尋ね、ちょっとした手土産を渡そうとしたら(すごく律儀な人なのです)、手を振っていらないと断られ、ビワの実を小さな枝ごと二本も切ってくれた(この人も親切ですねえ)そうです。例の場所に食べ物を置いて掃除を始め、終わったらその幽霊が出てきてお礼を言った時にビワが大好きだったので嬉しかったと言われたそうです。翌日は寝坊してオニギリを作っている時間がなくコンビニで買ったのを置いた。その日には「二個じゃ足りない。三個は要る」と文句を言われたそうです(前日のビワは棚においてるのねえ)。そのコンビニでオニギリを一個買って家に帰って計ったところ彼女が握ったオニギリ二個分が三個分に相当する量だったそうで、ちょっとすまないと思い、翌日はビールのマメ缶をつけた(全く律儀だねえ)。

一週間が経ち、最後の日にその幽霊が「ありがとう。俺はもうこれで行くから(きっと良いところに行けるでしょうね)、でも頼みがあるんだが」とおずおずと切り出した。何かというと、友達がいて(どこに?)やはり腹を空かせているのでと。これでようやく役目がすんだと思ってほっとしていた矢先だったので腹が立って、ちょっとつっけんどんに断ったら「一週間じゃなくて、三日でもいいから」と頼まれた。まあ三日ならと承知したがオニギリ二個なの?と訊くと一個でもいいとのこと、さすがにでもかわいそうで翌日から二個を三日間供えた。最後の日にもう一人の幽霊が来て、やはりお礼を言って、これで行くからと言ったそうです(どちらも気のいい幽霊だったのですねえ)。
それからほどなくして掃除係りの担当の会社の上の人に呼ばれ、突然給料を上げると言われたそうです。何故なのか不思議に思っていたらその男性が、前からこのビルには幽霊が住みついていて、暗くて嫌な感じがしていたのが、急に明るくなった。お供えをしていたのには気がついていた、ありがとう、と言ったそうです。
はい、めでたし、めでたし。

追記。これは余談ですが、お供えは仕事の帰りに下げて近くの川に流すか自分で食べたそうです。それからその女性の姉二人も訪ねて見えて、幽霊との交渉の話のお礼を言われました。年かさの姉の方は非常に鋭敏な人で、子供の頃から死んだ人に悩まされた人生だったそうです。妹の場合は良い霊で良かったが悪い幽霊との対応は非常に気骨が折れることなのだと言っていました。お祓いや相談事にも乗ってきたがもう疲れてしまったのでどんなに脅されても相手にしないようになったとのこと。その時から約二年後にその方は亡くなられました。まだ60歳前だったそうです。そういう血統のようなものがあるのですねえ。ちなみに小田野先生も私の母も見えた人です。
2016.3.5

幽霊は在るのか無いのか

 

 

幽霊は在るのか無いのか

幽霊を見たことはありますか。見たという人を知っていますか。

私がこの質問をした相手の半分くらいの人はどちらかの経験があると言っていました。要するに思ったより多かったということです。ただしこれは私の知人や友人が「類は類を呼ぶ」の喩えにあるように少し変わった人たちであるからかもしれません。でも誓って言いますが精神病の人はいません。

直接見たと答えた人の多くはその幽霊は亡くなった家族や友人だったとのことです。他には泊まった家やホテルなどで見た知らない人。変わった例は大勢の人が集まる公共の施設、葬儀場、競技場、会社のビル等でした。「見たと言う人を知っている」と答えた人より直接見たと答えた人の方が多かったのです。全員が嘘をついているか勘違いしていない限りはすでに死んでいるのにその姿が目に見えるという何かが在るわけです。

では目に見える何かということを考えてみましょう。肉体の目は道具としての役目を果たしています。いわばカメラのようなものです。肉眼というカメラのレンズの奥に網膜があり、それが視神経に接続されていて、その神経が脳の視角野につながっていて、「何を見たか」の認識をしているわけです。過去に見たものが何という名前かを記憶していると何を見たかという認識がすぐに出来るそうです。それはさておいて、視覚野や名前を記憶する脳の分野が損傷を受けると「目というカメラが捉えたもの」が何かは分からなくなってしまいます。脳溢血で多くの分野を損傷した脳神経科学者のジル・ボルト・テーラーさんや脳の損傷を受けた人たちの多くを実際に診察した脳神経学者のオリバー・サックスさんによれば、その人たちにとって形というものは何もなくて、
ぐちゃぐちゃの色の氾濫」が目に飛び込んでくるので苦痛であるそうです。

また見る機能にも個人差があります。私の知っている染色家によれば繊維や染料の色を二万色以上認識できるそうです。例えばグリーンという色に三千種類あるとして、それぞれの色を識別できるということです。また「オーラが見える」と言っている人を私は何人も知っています。見えるか見えないかの個人差があるとしたら幽霊が見えるかどうかも個人差があるのではないかと思います。
染色家の場合を例にとると、彼女は二万種類の色の名前を知っているのです。名前が識別を可能にさせているわけです。これは誰にでもうなずけることだと思います。

さて、オーラはどうでしょう?これは先に「在ると思っている」という信念があって、鍛錬すれば見えるようになると思っていると「見えるようになる」という場合と、子供の頃から見えたという場合があります。私は両方のケースを知っています。幽霊の場合も同じです。その人たちの場合は、

目というカメラが捉えた「形あるいは様々な色という振動」を何であるかと認識するプロセスにおいてすでに名称が記憶庫にあって、しかも「それは存在する」と思っていることが存在しているという認識を可能にしているということだと思います。
ややこしい言い方ですみません。でも見たからといって気体や光の色も含めて実体として在るかどうかはそれぞれの人にとって「何であるか」を認識するプロセスの違いによって異なるのではないでしょうか。プロセスには信念、期待、他者(親兄弟も含め)の体験談が大きく関わっているようです。

幽霊は在るのかどうかという題でこの話は始まりましたが、ユニコーンは在るのか、天使は在るのかという問いも提起したいですし、続きが必要な話題です。
次回は「精霊あるいはエレメンタル」についても触れて行きたいと思います。
2016.3.4 記

幽霊と直談判

困ったさん

以前勤めていた会社の上司のOさんは海外から帰国した私が日本社会に馴染めるように厳しくしかし温かく教育をしてくれました。その時の私の呼び名が「困ったさん」でした。
お辞儀の仕方、ミスをした時の謝り方、エレベータへの乗り込み方、何人かで歩く時の身の置き場、挨拶の仕方等、実に細かく丁寧に指導をしてくださいました。ユーモアのある方で、私が誰かにお辞儀をしているのを見て、
「君、腰が悪いの?」と訊くのです。
「はあ、若い時にぎっくり腰をしてから云々」とトンマな返事をし始めたのに対しては手を振って止めて、
「あのね、お辞儀をするときには体を二つに曲げるものなんだ。首だけコックリじゃだめ。頭を深くさげて、両手の平を膝につけて、ゆっくりと、一、二、三と数を数えるの。相手が誰かで数は変える。分かった?腰は治しなさいね」、という風でした。
かなり強く叱られたのは見積書の桁を間違った時です。通常かかる費用から計算して十分の一の金額で仕事を受けてしまったら会社は大損するわけです。しっかり意見されてから一緒に謝りに行ってくれましたが、担当者が変に思って稟議をあげていなかったので事なきを得ましたがこれは本当に落ち込みました。
「かわいい子には旅をさせろ」ということわざがあります。親元でぬくぬくと甘やかされて育つと世間に出てから通用しない人になるからあえて世間の波風にさらして子供を鍛えてもらうという意味だそうです。私の母は小さいときから私を他家に預けては何日も何週間もどこかへ行ってしまう人でした。まあ、それでも家にいる時には甘やかされていましたが。ともかく二十歳からよく海外へ一人旅をしました。二十歳後半からはアメリカで生活をしました。そして帰国後にOさんに出会った次第です。何をかくそうバイリンガルのお話の中に出てくるセミリンガルにより近い私でした。

私は生涯を通じて良い師に恵まれたと思います。小田野先生もそうでしたが良い師とは智恵と知識があるというだけではなく、愛がある人だと思います。今でもOさんを思い出す度に「困ったさん」という声音の中に込められている情愛を胸に沁みるように感じます。亡くなられて十年ほどになりますが、その人の愛は人の心にまだ生き続けているのです。まさに「愛は永遠なり」ですね。

情愛はエネルギーそのもので、強い伝播力を持っています。愛ある人の周囲には大勢の人が集まってきます。人は無意識のうちに自分にとって心地よいものをしっかり選び分けているのです。もちろん動物も、そして今は多くの人たちも認め始めていますが、植物さえも情愛に反応します。毎日大酒を飲む、覚せい剤を飲む、大食する、家事の手伝いを全く分担せず用事を頼むと怒って切れる、鬱になって引きこもる等の行為は情愛というエネルギー不足が原因です。こう言いますと、子供がこれらの行為をしている親御さんは怒るかもしれませんね。子供にはたっぷり愛を降り注いていると思って疑わないでしょうから。でもその愛にも種類があることを考えてみませんか。

厳島瀬戸内海に厳島という島があります。「イツクシマ」と読みます。大きな神社(神のやしろ)があり、世界遺産になっていますね。音が運んでいる他の文字でまず頭に浮かぶのが「慈しみ」です。厳しいのが慈しみと教えていただいていると受け止めています。厳しさが情愛なのかどうかの判別法のひとつは親が子供に対して、

「怒る」のか「叱る」のかどちらなのかだと言えます。怒る場合は怒りという感情が混じっていますが、叱るのは諭すという行為です。諭すとは「目下の者(子供は目下)にことの道理を理解できるように言い聞かせる」という意味です。ことの道理を理解できるように言い聞かせるためにはカッカと頭に血が上って怒っている時にはできません。怒りという感情は主として大脳の偏桃体という感情のセンターが優位で活動している状態で起きています。「道理を理解させるために考える」時には前頭葉の前野が優位に活動しています。前頭前野と偏桃体の働きは拮抗します。つまりどちらか一方しか働かないという意味です。

怒っている時には叱れないのです

Oさんの諭しにこもっていた愛情は今でも私の胸を温かく潤しているのですから、子供にとって親に叱られた記憶は一生を通じて胸を温かく潤し、自己破壊的な行為をしないような歯止めになるのではないでしょうか。

2016.2.2 記

バイリンガルって本当にいいの