生きるために生きる人たち

最近全身がアトピー性皮膚炎の若い女性が家にヒーリングを受けに来るようになった。初めて来たときにはアラブ人の女性のように目の周り以外の全身を布や衣服で覆っていた。顔はマスクで、首は衣服で、手は指先だけ出して手袋で覆ってある。一番状態が酷い脚は三重に覆われていた、脱いでゆくごとに皮膚が表れてくると痛ましさに胸をつかれる。
こちらは慣れていないのでショックを受けたが、本人はケロッとしている。冗談を言うとケラケラ笑う。自分も冗談を言って返す。
とにかく明るい。ここまで辛い状態なのに、とこちらは思う。薬で抑えていた症状が、薬疹で使えなくなってから十年経つそうだ。痒さと痛さに十年耐えながら生きてきたのだ。そして良くなろうとする意欲がすごい。毎日でも来たいと言われたがこちらはそうは出来ないので週二回ということにした。仕事を終えてから夜飛んでくる。笑顔でドアを入ってくる。息が弾んでいる。「今日はこんな状態」と報告しながらベッドに入る。

今日ニュースで、拳銃で自殺しようとした若い男性が倒れていたのが見つかったと言っていたのを聞いて、この前の高見順の話の続きを書いている。
何があって死のうとするのか分からないが、それぞれ辛い事情があるからに違いないが、死のうとする人と決して諦めない人とがいる。

高見順という人が時々現れるバーで働いていたTの話では、実に人に好かれる人だったそうだ。肺結核と他のもろもろの病で入退院を繰り返しながら、死を見つめて詩と絵を書いていた人だ。死を見つめていても死のうとしているわけではない。むしろ生きようという意欲は大きかったと思う。


「今日高見が来るそうだ」。誰かが言うと店の客がワッと沸いたそうだ。ニヒルな作家も、厭世的な作家も皆同じように期待の色を顔に浮かべる。そして皆がソワソワと胸を躍らせながら待っているところへ、背の高い痩せた姿が入ってくると店の空気が変わったとTが言う。「あんなに人に好かれる人はあんまりいない。まあ面倒見はとてもよかった人だけれど、他にも面倒見が良かった人はいたから、それだけが原因ではないしね」とTが言う。そのT がまた実に人に好かれる人なのだ。医者から見れば不治の病に罹っていても実に明るい。毎日冗談(かなり辛口)を言っては私を笑わせる。
「毎日ただ凡々と生きているだけよ。いつ死ぬかなんて別に大事なことじゃない。生きている間は生きているだけ」と一日一日を楽しんでいる。できる限り家事も手伝う。嫌な仕事や辛い仕事という仕分けをしない人なのだ。やれることを黙ってやってきた。高見順もそうだが第二次大戦を生き抜いた人だ。当然めったなことでめげる人たちではない。最後にもう一つ、「見えてくる」という詩を。

お前の眼を
手でもって覆うがいい
するとすべてが見えてくる
時間も見えてくる
暗いおもかげのなかで
いきいきと育って行くもの
それも見える
さんさんとそそぐ春の光の中で
おまへの野心が
腐って行くのも見える

2017.4.8

何気なく…

ふと何気なく手に取った詩集の中の一つが目に飛び込んできた。いつもそうなのだが、「ふと何気なくという何か」が、心の深いところにある琴線に触れて美しい音を出す。

 

母は歩くのが好きな人で日本中テクテク歩いた。木のポックリを履いて。
海岸では貝を拾い、道や川では小石を拾って帰ってきた。「石はみな光っている。宝石だけじゃないの」。その母の思い出がどっとよみがえってきたきっかけを作ってくれた詩の一篇は、

 歩いていると
小石がピカリと光ったので
ふところに抱いて帰った
小さな石の方から私を
友だちに選んでくれたのは
うれしいことだ

高見順という人の「小さな石」という詩で、家族のTが好きな詩人だったので家に詩集があり、今朝ふと私に見せてくれたのだ。
パッと開いたページにこの詩があり、パラパラと見ているといくつかが目にとまり、心が音楽を奏でる。

暗い雑木林のなかを
小さな花を手にして
憎しみを胸に秘めて歩いてゐたら
頭上の木の間から一条の光がさして
私にそっとささやいた
わかりましたと私は答へた

愛や憎しみは
感じても見られない
愛のうちに憎しみを感じても
それを目で見ることはできない
私が手にしていた花の
言葉を聞くことができないやうに

光もこの目には見えても
光の言葉は聞かれないのに
聞けた私は仕合せだった
憎しみを花にゆだねて
落葉の下に静かに埋めて
私は暗い道から歩み出た

素晴らしい朝だ。
2017.4.8

生きるために生きる人たち

 

4番目の問題

前回の記事で提示した16の問題の一つを考えて見ましょう。4番目の問題です。

医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?

まず医学が「進歩しているにも関わらず」と言わずに「歩調を合わせて」と言っていることに注目してください。これはどういう意味でしょうか?
文字通りに解釈すれば、進歩と歩調を合わせるとは一方が他方の原因を作っているという意味です。ここまで言い切らないとしたら、進歩が必ずしも病を治癒させることがない上に進歩の途上で予測していなかった他の要因が加わり、かえって患者が増える結果をもたらしている、いうふうにも取れませんか?

では、まず医学とは何をするものかから明確にしましょう。

医学とは、生体(人体)の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。
ウィキペディアより

診断と治療は分かります。疫病に罹ったら医師を訪ね、検査を受けて診断してもらい、治療を受けます。現代の医学の主流である西洋医学の場合ですと、各種の手術、処置、投薬を受けます。病院や診療所ではこれが主な活動内容です。また、予防する方法としては、健康増進や維持に役立つような食事、運動の勧め、休息や睡眠を必要なだけとることを勧められるでしょう。普通はこれで終わりです。そしてこれが功を奏しているとは言えない現実を皆様もよくご存じと思います。多くの疾病は完全に治癒することはありません。症状が和らぐが、病は治らないままに寿命が尽きて亡くなることが大半のケースです。また、一つの疾病から解放されても他の疾病が出てくる。薬は、しばらくは効いていてもそのうち効かなくなる、長く使用すると副作用やそれ以前の処置の影響による余病併発、副作用による種々の不具合が表面化するというケースもあります。つまり医学療法とは根本的解決法とは言えないということです。

体は生きている細胞の集合体です。各細胞はそれぞれ異なる役割を分担して決して他の細胞の仕事を妨げたり、横から口を出して指図して全体の調和を乱したりはしません。他の集団が機能障害を起こした場合のみ助っ人となって仕事の分担を軽減してあげるということはありますが、通常は己の分をわきまえてコツコツと仕事をしています。

この生命の営みを妨げる、横から口を出す、一つの集団ばかりに都合の良い処遇をして、他にとっては迷惑なことをする、というような全体のバランスが崩れるようなことをするのが人間の行う治療です。何故なら人間は人体を作れるほどの知恵をまだ持っていないからです。どの細胞が何の役割を果たしているかを100%は知らない(一体何%くらい分かっているのでしょうね)のに様々な薬を投与したり、生体の部分を切り取ったり、他の生体から取ってきたものを移植したり、注入したりしているのです。効を奏する場合もありますが、奏さない場合は「できる限りの手はつくしましたが残念ながらご臨終です」となります。

日常生活に支障をきたさない病に罹った場合は治す効果のある措置として様々な方法がありますが、軽度の疾患で生活のスタイルを変える人がどれくらいいるでしょうか。あまりいないと思います。歳をとってゆくのですからだんだんに悪くなる方に向かって行きます。その結果重篤な病に罹ったらどうするか。びっくりしてやっと本腰を入れて良くなる処理をし始めます。でも多くの場合はもう手遅れです。

早い内に手当できたのにそれをしないで手遅れになってしまった原因は根本にあるその人の心の持ち方に関わっているのです。一個の細胞といえどもおろそかにはしない、何故なら自分のものではないのだから。お作りになったのは大自然の叡智という、別名を創造の源という存在です。したがって大切に思う、尊敬して接する気持ちが必要なのです。

もう一つ忘れてならないのは、人間は孤立した存在ではないということです。地球という環境に依存して、地球と一蓮托生の存在なのです。地球の大気を吸って、大地が育てた食物を食べ、水を飲み、太陽の光を浴びて生きています。この環境がどんどん汚染されているのに100%の健康体など期待できるはずがないのです。医薬品を作る過程でどのくらいの水が汚れ、空気が汚れ、実験台の動物が虐待されるかを知っていますか。

自分独りが完璧に健康にはなれません。何故なら全ての人の行動の原動力なっている潜在意識が許さないからです。潜在意識を100%コントロールできる人はいません。何故なら潜在意識を見ることもそれと対話することできないからです。
薬や各種の延命処置や、文明の利器である機械の導入による過重な労働からの解放や、住環境の快適化などで寿命は延びても、潜在意識の影響から逃れることは出来ません。人間本位で他の生物も含めて地球環境を汚染し、傷つけているのに自分だけが幸せになることなどできないと思ってしまっているからです。そしてそう思っていることにさえ気づいていないので、改善しようもないのです。

霊鷲太母は端的にこう言っています

喜びとは、孤立の一滴にはなく、
通い合うところに始めて生ずるなり
されば、万物と通う心を
極楽と知るべし

著書『仏眼』より

気持ちの処理法の一つとして私は、病は避けられないと受け入れる(ある意味で自業自得だから)。そして病からの解放とは病を気に病む感情からの解放というものであると思っています。病によって不幸になるわけではないのです。不幸だと病みがちということは言えると思いますが。
2017.2.13

https://37kotoha.net/10/覚者と凡人はどこが違う/

太母についてはこちらもどうぞ。

http://www.iii.ne.jp/kikuchi/tamo-backno.htm

病が治る人、治らない人

 

 

 

酉年にちなんで

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

下記に提示されている項目は『舟を岸につなぎなさい』と題されたメッセージ文の抜粋です。

この本で提示されている15項目の問題は今から60年も前に書かれたものです。日本は高度成長期の始まりにありました。環境汚染という言葉など誰も知らなかった頃です。今この問題を見て、あなたは何問答えられるでしょうか?そして16番目に、すべてを統括する答があることを示唆している項目が提示されています。

  1. 文明が大車輪で発展すれば、災害も大車輪で大発展することに目を留めなさい。 なぜか?
  2. 災害の七割までは人間が引き起すものであります。ということは、災害の七割までは人間 が防止できます。どのようにして?
  3. 今、他の天体への究明と試みが大掛かりになされていますが、距離における「より遠く」 とか、面積における「より広く」とか、速度における「より速く」とかいうものと、我々の幸 福の要素、安全とか愛情とか信頼とかいうものとは、あまり関係のあるものではありません。 天体究明も大切に違いないが、足元にもっと大切な問題があることを忘れてはいませんか?
  4. 医学の進歩と歩調を合わせて患者が増加し、病院と医薬が氾濫するのはなぜか?また、 寿命が延びたという一方、内部よりの崩壊が加速しているのはなぜか?
  5. 和合調和を招くのが宗教であるのに、宗教と名乗りつつ、世界に排他反目の巨大な壁を造 らせた矛盾と罪に留意し、反省して、教義の欠陥を正し、信仰の誤りを直しなさい。直すには?
  6. 文明生活と人口問題についてと、衣食住についての心構え
  7. 精神的美風(美しいならわし)が急速にうすれつつある今日において、それらの美風が再び 人類の上によみがえってくる処方箋について
  8. 常に善い悪いと言い続けてきながら、未だに善悪邪正の判定をする明確なより所を持たな いのはなぜか? ということとそのより所
  9. 人類の苦しみの第一因は、要不要の算定を無視した物品乱造であり、悩みの最大因は、乱造せざるを得ない経済機構にある。ということについてと、その重苦から脱する方法について
  10. 物品乱造の結果、乱費となり、これが人類と他の万物との関係をどのようにしているかに ついて
  11. 空気の生態と、その果たしている三大役割について
  12. 科学界に対する要望と、その研究目的についての示唆
  13. 原子力はその使用目的が何であれ、取り扱うこと自体が災害のもとであるという理由に ついて
  14. 既に蓄蔵されている原子力開放にあたっての諸条件について
  15. 教育は学校に始まってはもう手遅れで、出生と同時に始まらねばならないということと、その始まりにおける諸注意について
  16. 以上15項目の解答がすべて帰着する終点において発生してくる諸問題について

以上16項目中、最も重要なのは、最終の第16項です。 前記15項目は、あなた方がよく検討なされば、容易に解明するものであり、もうとっくに解明してもいます。 しかし、その解明を基調にしたさまざまな具体策を「どのようにして最もスムーズに、かつ急速に、現在の社会機構上に適合させていくか」が問題の重点であり、この重点を取り扱うの が第16項だからであります。
前記15項目にはすべて帰着する一点があります。今日まであなた方が何を求め、何を得ても満足できないで、幸福とは永続性のないものだとあきらめかかっていたのは、この一点を見 落としていたからであります。15項目の帰着する一点こそ、ついにそれが何であったかを明示するものです。

以上の問題点に関し、それぞれの方が、「ああ、60年前の予測がまったくその通りになってきている」と思われたのなら、それがこの本の信ぴょう性を証明するものではないでしょうか。この回答を聞くために40年ほど前にローマ法王庁からお使いの方が二度見えたのですが、「どこか一か国、あるいは一団体や一宗教に対して回答はできない」と言って、著者は回答を控えていたのです。
そこで私からの質問です。どうすればすべての問題が解決すると思われますか?まず、初めの質問である、「どれとどれの解決法が分かるでしょうか」がある意味でヒントとなります。どれかを解決しても他が影響を受けて余計問題が大きくなるようならそれは解決法ではありません。どうぞ頭をしぼってみてください。いえ、心を澄ませて、母なる地球に、そして生きとし生けるものに心を同調させ、自然の声を聞いてみてください。

https://37kotoha.net/10/4番目の問題/

ご挨拶2017年版

今年は酉年です。光透波理論的に解釈をしますと、音はトリ、「云音表」に当てますと、「透理」、あるいは「答裏」と取れます。
透理とは絶対透明という超光速の光のエネルギーという至高の叡智による矛盾のない理という意味に取りました。人間の理屈は矛盾や不平等を生じます。それは政治や経済や法律を見てもすぐに分かることだと思います。これに対し透理は誤りなく維持運行されている全宇宙の森羅万象の裏で働いている法則です。
それは表には表れていない、つまり裏面で働いている方の答、「答裏」で、うっかりしていると見逃してしまう法則です。何故なら見逃しても殺されたり投獄されたりバカにされたりしないからです。平等にいただいている命なのですから矛盾も偏りもないわけです。
2016年は何とも波乱の多い年でした。地震、洪水、干ばつなどの災害や経済破綻、益々エスカレートする貧富の格差から生じてくる不満から引き起こされる暴動や暴力的犯罪、テロ行為なども多発しました。さて、今年はどうなりますやら。

酉年にちなんで

鳥:羽があって空中を飛行できる存在。飛行能力のある生物としては他に昆虫がある。
地面にへばりついて這うか歩くか走るかしなければ移動できない生物に比べてはるかに自由に移動ができるうらやましい存在。方向性としては二次元的移動しかできないものに対し三次元的に移動できるだけでなく、上方から下方の状況を俯瞰できるという視力で非常に広い範囲を見渡すことができる。これで言葉をつかって思考できるのなら視野が広いので思考もさぞかし自由自在になれるのではないかと思われる。しかし言葉を使って思考できる能力をいただいている人間の方は長い間飛行ができなかった。
人間がどれだけ長い間飛行ができない状態で地球上で生きて来たのかについては諸説あって定かではないが、少なくとも数十万年は地面に縛られて生きて来たと思われる。その間どれほど大勢の人々が空の鳥をみて羨ましいと思っただろうか。有史以後をとっても見ても二十世紀という近代になるまでは圧倒的大多数の人間は封建制という社会組織の中で長い間奴隷としてあるいは召使や農奴として自由を奪われてどこかへ逃げることもできずに生きていた。人間の思考は縛られた近視眼的な視野で制限を受けてきた。近代になって飛行機が出来たとはいっても、いつでも好きな時に飛べるわけでもなければ好きな場所に行けるわけでもなく、しかも費用もかかる。一部の人にだけ与えられた自由といえる。
しかしこれは肉体的拘束であって意識はいつだって自由に羽ばたけたはず。だが残念ながら多くの場合、人間の意識は肉体に閉じ込められたままで、自由な思考などあまりできずに来たと思う。誰か偉い人、賢い人、力のある人の言うことが自分の思考に勝っていると思い込んで、それらの人たちの言葉を鵜呑みにしてきたことは歴史が物語っている。
命の危険があるのにも関わらず戦争に行かされ、妻子が飢えているのにも関わらず年貢を納め、ボロを身にまとって、あるいはネクタイで首を絞められ、一日の大半を楽しくもない労働に費やして、疲れてボロボロになってやっと死ぬことで自由になる。しかし本当に自由になれるのだろうか。もしあの世があるならそこでは自由に思考できるようになるのだろうか。肉体は無くなっても意識はそのままか少ししか変わらないのではないだろうか。私にもそう思える。全く自己意識が「無」となって「自我の死」を苦にしない状態になってしまった人以外は死んでも残念が残って地縛霊や怨霊となってどこか少し異なる存在の次元をさまよっているのではないだろうか。
ここで大切な考え方は、肉体に羽はなくとも意識はいつでもどこへでも自由に羽ばたいて行くことができるということです。「自由になりたいのならいつでもなれるのだ」。そのためには心が肉体という牢獄から解放されなければならない。肉体について回る様々な拘りや恐怖(死や病への恐怖、飢える恐怖など)が牢獄です。鳥は「透理」ではないことを明確に認識し飛ぶのに羽は要らないことを知り、目には見えない、耳には聞こえない「答裏」を学び、人間の言うことを決して鵜呑みにしない、それが自由になることだと知って欲しい。

今年は透理(鳥)になって羽ばたきましょう。目的は「羽化登仙」です。毛虫が羽化して蝶になり、空を飛行できるようになるという奇跡のような不思議な例を私たちに見せてくださっている大自然の叡智から学んで、今こそ変容しましょう。私たちはもう十分すぎるほど地を這いまわる地虫の時代を生きてきました。その間の学びも貴重ですが、もうその上の次元に上がってもいいのではないでしょうか。何故ならもう行き止まりに来てしまっているからです。行き止まりは飛び越えるしかないのです。
2017.1.1

白頭鷲の飛翔

 

 

友達が恋人になる時

今恋人いますか?
恋人欲しいですか?(欲しいですよねえ)
それとも面倒くさいから要らない?要らなくても読んでみてください。気が変わるかも。

私の場合恋人候補は男性です。これからのお話は彼という代名詞を使いますから適宜置き換えてください。それではご一緒に恋人を見つけてみましょう。

まず友達を見つけましょう。いろいろな方法があると思いますが代表的なものを。

1 大勢の人が集まる場所に行かないとなかなか見つからないので何か自分がそれをすると楽しいことの中から集まる場所を選びます。同性ばかりのサークルはだめですよ。まず少し観察をしてみましょう。ルックスだけで飛びつかないで、一緒にいて楽しいとか、息が苦しくならないような人も見て見ましょう。等身大の自分でいましょうね。リラックスしていることが大事なので、気張らないように気をつけましょう。気張っている人もかわいいですけれどね。好みは人それぞれかも。

2 大勢の人を知っている人に紹介をたのむ(今はプロもいます。有料ですが)。プロでない場合も等身大の自分を知ってもらいましょう。まるで合いそうもない人に紹介される可能性が低くなります。プロの紹介機関は婚活ですので、始めに良く知り合いたいからゆっくり進みたいというら希望を伝えないと1、2回会っただけですぐに断ってくるかもしれないので気を付けて。この場合も等身大の自分でいることは勿論です。共通の趣味だけでなく、自分の趣味を伝えて新たな体験をしてもらう。相手の趣味にも付き合って新たな体験をさせてもらう。意外性は楽しいと思います。知らない世界を案内してくれる相手はお互いにより魅力的です。褒めやすいしね。無理に褒めるのは不自然ですので。そうして次の段階に進む準備をして行きます。

3 偶然の出会いを待つ。これはともかく外出をしないとありません。旅をする、美術館やコンサート、ライブショウ(少人数なので話しかけやすい)、スポーツ観戦など自分の趣味に合わせて出かけて行きます。知らない人に話かけるのですから勇気が要りますが、突破口は「笑顔」です。強力な助っ人です。まずリラックスしてから自然な笑顔が出るように鏡の前で練習をしましょう。鏡の中の自分に向かって声に出して「あなたって素敵ねえ。大好きよ」など他の人にそう言ってもらいたい誉め言葉を自分に向かって言いましょう。声に出していった方がより効果的です。また会う機会を持てるかどうかは運命も関わっているのではないかと思いますので無理はしない方が良いのですが、また会いたいという意思表示は必要です。昔は撮った写真の送り先を聞く方法が良くありましたね。「今度私の知っているどこそこにご案内したい」というのもありましたね。「このままさようならは惜しい気がするのですが、私だけでしょうか」、というのもありました。創意と工夫を凝らしてみてください。練習もしてね(鏡の前もいいですよ)。

友達ができた!
これからどうするか。

恋人になる前の準備編

友達が恋人になったら最高です。もともと気が合っていたのですから例えば人生のパートナーになって一緒に生活を共にする場合も楽です。人生に荒波は不可避ですから困難を乗り越えて行くときに一人で立ち向かうのではなく二人で助け合いながらやれます。友達なので相手の無能を責め合ってケンカをする可能性より協力して解決することができます。結婚した場合は離婚の可能性も低くなるので子供を作っても被害が子供に及びません。いがみ合っている両親を見て育った子供は、たいてい不幸な人になります。不幸な人をなるべく作らないことは社会貢献です。世界平和は幸せな家庭が基盤となって実現すると私は固く信じております。

では友達時代にすることから考えて見ましょう。

1 呼吸合わせ

「あうんの呼吸」と言いますね。気が合っているということです。私の友人に散歩の達人がいます。数年前に一緒に森を歩いていた時のことです。少し上り坂の森を歩いたのですが、運動があまり好きでない私にとって散歩は30分からせいぜい1時間で十分なのですがその日は3時間歩きました。彼とは15センチほどの身長差がある上脚が長い人なのでコンパスの差は非常に大きいです。相手が歩調を合わせてくれていなかったら息切れしたでしょう。まず彼は私と同じ呼吸をします。歩調も私に合わせます。鳥や昆虫や珍しい花を見つけるのも速いので教えてくれます。虫は手に取ってそっとなでたりしながら説明をしてくれます。野いちごなど食べられるものはつまんで手のひらに乗せてくれます。気がついたら3時間たっていたわけです。飽きっぽい私なので様子を見て途中でいろいろなブレイク(気分転換)をとっていたわけです。おかげで翌日は実に体調が良くなっていました。この人とはよく一緒に瞑想をするのでその際には呼吸法を先に一緒にしました。相手の様子を察知するためには呼吸を合わせることはとても重要だと思います。相手の呼吸が荒い場合は初めに合わせた呼吸を少しずつ自分がゆっくりと呼吸して行くことで調整できます。

2 観察力を強化する

顔色、姿勢、声音、表情、機嫌などをよく観察していれば今何をしては邪魔か、何をしてあげたらよいかが相当分かると思います。特に、余計なことを言ったりしたりされるのは何もされないよりはるかに辛いものです。気をつけましょう。

3 時間をかけて熟成発酵させる

何十年も別々の人生を歩いてきて、経験したことも、関わってきた人々(特に両親や兄弟)も異なる相手といきなり恋人になる危険は避けて、しばらくは友達でいながら共有の思い出を培って行き、自然に期が熟するのを待つ忍耐心を持つことは大変大切なことです。ひと頃「成田離婚」というのがありましたが典型的な失敗例です。

失敗しないための判別法には次のようなものが効果的だと思います。

  • 一緒に笑う。笑えないのは今後の一生の相性にかかわるのでしっかり確認すること。
  • 一緒に美を鑑賞する。感動を共有する。無感動で美が理解できない人は愛や思いやりが薄い場合が多いのでそれでも良いかどうかを考えるチャンスとなる。
  • 何かに対する自分の考えを述べ合う。批判はしないがチャレンジ(デベート)はちゃんとする。負けず嫌いで怒りっぽいか、理不尽なところがあるかどうかが確認できるという大きなメリットがある。勝敗のあるゲームをするのも同じメリットがあります。

4 不必要に体に触れない。

好きな相手なので触りたいのはやまやですが、熟成する前に不味いものを飲むことになるかもしれないと思って慎重にしてください。妊娠したり、されたりしてから「この人じゃない!どうしよう。大失敗」となって不幸な結婚をスタートさせたら一生後悔ですよね。結婚しない場合でもストーカーになられたり、自殺されたりしたら大変です。手をつなぐ場合はTPOと動機は何かを考えてからしてください。ハグも同じです。

5 若い人の場合はドツボにはまらないように気をつける

  • 金銭の貸し借りをする。チョイ借り・貸しもやめた方が無難です。お金にだらしがないのに長い関係を築くのは難しいです。
  • 適量を超えてお酒をたくさん飲む。判断力が鈍るので危ない。他の目的があって近寄ってくる偽の友人はわざと酔わせるということもします。
  • 独りでいる自分の家あるいは部屋の中に入れる、独りでいる相手の家あるいは部屋に入る。気心が知れるまでは避けた方が無難です。

バカみたい、時代遅れのオバハンだねえ。と思うかもしれませんが、これらは失敗の元になる場合が多いです。他にも気をつけなければならないのは、魅力的な容姿で近づいてきて金品をだまし取ろうとする職業の人たちが男女ともにいるということです。こういう人たちは相手の顔色、声音、機嫌なども把握しています。だから慎重に相手を見極める時間が必要なのです。

まず友達になってから時間をかけて相手との信頼関係が成立したのちにその相手と恋人同士になるというのはすてきな関係です。たとえ途中で恋人としてはうまく行かなくなって別れた後もまた友人として付き合えるし、相談相手にもなってもらえます。一緒にお食事をしたり旅行したりもできます。もうややこしい関係になる心配はないし。一生ものの人間関係ができるのです。
人生を良きパートナーと分かち合う幸せをどれだけの人が知っているでしょうか。見つけることは勿論持続させることも案外に難しいものだと思います。もし見つかったら知恵を絞って確保し、丁寧に熟成発酵させ、無くさないように継続的に発酵させ大切にしましょう。

すでにパートナーを見つけて幸せな人はどうぞいろいろなアイデアやヒントをコメントしてください。私はオバハンなのでもっと若い人の知恵をお借りしたいです。
2016.10.2

縁は異なもの味なもの

 

 

 

悪行の温床―心の穴

先日物置の奥にあった古い花瓶を年長の家族のTが私に見せてどういう品物かを話してくれた。Tは母の姪で私が生まれる前の父を知っている人だ。それによると二人が東京に住んでいたころ商店街を散歩中に骨董店をのぞいてこれを見つけ二人で相談して買ったという。子供の頃に家にあって時々花が活けてあったのを思い出すと同時に若かった頃の両親の姿が目に浮かんできた。父は母のことを「かあさん」と呼んでいて非常にていねいで美しい言葉で話す人だった。父の声音には尊敬と愛情の両方がこもっていた。両親は互いに対し美しい言葉で話をする人たちだった。物心ついた頃から何年かは疎開先の奥多摩に住んでいたのだが、当時は家族の団欒には祖母とTも加わって楽しそうに笑いながら話をしていたのをよく覚えている。和やかで美しい声音が快く、その場を離れたくなくていつも茶の間の片隅に座布団を敷いてそこに寝そべっていた。途中で眠ってしまうと誰かが抱き上げて布団まで運んでくれたものだ。ふんわり柔らかいのが母の腕で、大きくて骨っぽいのが父の腕だった。父の腕の感触と匂いをまざまざと思い出すと同時に懐かしさがこみあげてきた。後年父に対し腹が立つことがあって心が離れてしまいがちになったが今ではただ懐かしい。

父に対し怒っていたあの頃何がそんなに腹立たしかったのだろうか、怒りの原因はなんだったのだろうかと内観を続けていた時にまるでヘドロのような汚濁の池にはまって溺れ死にしそうになった経験があった。その時に大きな気づきがあった。汚濁は個人のものではなく人類全体の怒りの集積だったのだと。この時に「一蓮托生」という言葉の意味が初めて実感できた。

天の父母である至高の叡智である創造の源とは異なり、人間である両親は決して完ぺきではないが、足りない点も含めて受け入れ、愛することができたら心に空白の穴は出来ないだろうと思う。人間が犯すあらゆる理不尽で残虐で破壊的な行為は心に穴があるせいだと言った賢い人がいる。その通りだと思う。

心に穴があると、寒くて、孤独で、腹が立ってイラつき、誰かを攻撃したくなる。または何かの依存症になって穴があることを忘れてしまおうとする。それでも穴は埋まらないのでいつまでたっても破壊行為は止まらない。多くの人が同じように破壊的になると地球は大きな被害を受ける。愛と他者に対する尊敬の心のない人々の犯す行為が積もり積もって今は地球上の生命は瀕死の状態になってきている。どれだけの種が絶滅したろうか。絶滅危惧種になっているだろうか。海も土も水も汚染されてしまった。それでも破壊行為は止まない。乾いた心の飢えに浸食されて心身ともにボロボロになって行きつく果てが「病」という愛の鞭で、「気づきなさい」と教えてもらっているのだ。

「自分は何も悪いことはしていないのに何故こんなひどい目にあうのか」と言う人は多いが、悪いこととは他の人間に対してという意味が多い。全生命にとってという点から見てもそう言い切れるだろうか。これが「一蓮托生」ということなのだ。これに気づかないと自己破壊する。そういう順序と筋道を明確に認識する理性がある人たちが破壊の反対のエネルギーの振動を発信することで悪行の根源にある破壊のエネルギーの振動を打ち消す効果をもたらすことができるのだと私は考えている。

たとえ講演会をして回らなくても、本を書かなくても、誰にも知られない無名の人であっても、今いる処で触れ合っている人たちや生き物に愛と尊敬のこもった美しい言葉で話しかけ、感謝と友愛を表現するという日常の行為が地球に平和をもたらすすごい影響力を持っていると私は信じています。

2016.8.3

世界が抱える15の問題とその全てが帰着する一点

フィクションもノンフィクション

前回の話のタイトルと同じじゃないの、と思った方へ。違います。前後が入れ替わっています。

この数年よく見る悪夢は道に迷って約束の場所に行けないというものと、ある集まりに出かけると全く場違いの場所で知っている人もいないし孤立して居心地の悪い思いをする上に、そこで何か話をすることになっているのに全く用意していないので立ち往生というもの。細かいことはさておき生理的には胸はドキドキ、頭はカッカとして考えがまとめられない、手のひらに汗で喉はカラカラ。

夢なのだから当然現実ではない、つまりフィクションの世界のようなものだけれど生理的反応は現実と全く変わらない。そういう意味ではフィクションもノンフィクションの世界と同じに心理的反応をしていることになる。脳は現実と非現実とを区別していないそうで、起きた事件がふとんの中で体は動いていなくとも脳としてはあたかも実際に起きているかのように反応するそうです。そして私の体験でも実際にそうです。

生理的に同じように反応できるなら悪夢の反対に楽しい夢を見れば幸せに感じる上に幸せな時にでるホルモンも分泌されるはずです。そういうときに出るホルモンは体を元気にし、若返らせてくれる効果もあります。脳の働きも活発になり、老化防止になることにつながって行くという理屈になります。どこにも行かなくて、従って費用もかからず、混雑もなく一石二鳥いや三鳥にもなるかもしれません。

良い夢を見るには体がリラックスしていると良いそうです。そのためには今日起きた好ましくない出来事を繰り返し追体験する癖を止めると良い睡眠がとりやすくなると思います。繰り返しとは「あの時こうすればよかった。何故しなかったのだろう。私は優柔不断な人間だ。まったく嫌になってしまう」、「あの時ああ言えばよかったのにすっかり誤解されてしまった。何故いつもこうなるのだろう」というように、すでに起きてしまって戻れない過去に縛られている癖は誰にでもよくあることだと思います。頭を一振りするときれいさっぱり忘れてしまって、さて寝ようと枕に頭がついたらすぐ眠れる人になりたいですね。それにいくつか良い方法があるようで、リラクゼーションの方法についてはは色々なハウツー本が出ていますし、幸せそうな人をお手本に秘訣を聞いてみても良いと思います。

幸せな人の例を一つ挙げます。私ごとですが母です。太母(たも)さんと呼ばれていました。自分のことを極楽とんぼと評していました。

  • その時その時で一番したいことを真っ先にする。場所をかまわず大きな声で歌を唄う(止められたらやめるだけ)。来客があるのに横になって昼寝をする。この場合は相手も誘う(若い女性の場合は相手が誰かを見て気をつけてください)。夜中に起きて片付け物をする(隣の部屋で寝ている私には大いに迷惑ですが気にもしていない)。食事の時間になっても草むしりをしている。夕方に昼食を食べている。好きな時にしたいことをしているので海外旅行に行っても全く時差ぼけしない人でした。これは一考の価値がある現象です。
  • 人の思惑を意に介さない(上記のことが出来る人なら当然ですが。相手が怒ると、「あなたは私、私はあなた。人間はみなひとつなの。人がどう思うかなどとくよくよするようなつまらないことはもうやめなさい」などと言って煙に巻く。それでもカンカンに怒っていると大きな声で歌を唄ってから何処かに消えてしまいます。怒っている人に理屈は通らないと分かっているみたいでした。
  • 「思い出して不愉快なことは忘れれば良い。忘れること神のごとしと言うじゃろう?何、忘れられない?困ったね。練習せんといかんね。不愉快になりたいという欲求を持っとるのかな?そうでないなら忘れなさい」と理路整然(?)と説く。相手は自分の盲点をつかれ驚いて反省する場合もあって、これは役に立つ。説いている人が幸せそうで健康で屈託がないので説得力があります。「復讐心は自分を痛める猛毒で相手には効かないという道理がある」とも説いていました。
  • 風邪をひくと大喜びで「お焚き上げじゃ。風邪は万病を払う玉ホウキ。ありがたい、ありがたい」と言って、よけい涼しい恰好をし、水を飲んで何も食べずに寝てしまう。熱も痛みも大体ありがたがって体さんにお礼を言っていました。「私が馬鹿者でも体は違う。細胞の一つ一つが智慧光の化身で自治の完成体。その賢い働きを妨げないことが肝要じゃ」と言っていました。つまり食欲が無ければ食べない。動きたくなければ寝ているということです。自然の法則に逆らわない生き方を知っていて実行していたわけです。
  • 人は生まれながらに幸せに輝いて生きたいという欲求を持たされて来ている。それなのに好んで不幸せになっている。その原因を突き止めることじゃ。それは心の奥底のそのまた底の潜在意識と呼ばれているものが自分は幸せになる資格がない、と思っていることが原因。何故そう思うようになったかというと自分は悪い子だと思っているからじゃ。良い子悪い子と区別するのは自分が他と離れて孤立しているように錯覚しておるからで、本当は人間は一人しかいないのだということが分かればそれで解決。

他にもいろいろあるのですが、今日はこの辺でやめておきます。

では何故人は好んで不幸せでいるのでしょうか。一つには現実と夢の世界という二つの世界にまたがって生きているという体験を二つの分離した現象と思っていることあるのではないかと思います。冒頭にフィクションもノンフィクションと書いたように、脳は体験によって生理的反応を起こします。感情的反応は夢であっても起こります。夢の世界とは「物理的には無い世界」です。この無い世界にもし本当の自分が住んでいて、物理的な世界には体の中に閉じ込められた「自分という存在、つまり自我意識」がいて、それだけが現実で、従って個別の存在で、多くの場合は理解もされていないし、愛されてもいないし、正当に評価されてもいない、感謝もされていない。とこのような孤独感を感じているのではないでしょうか。

意識は物理的境界の外にいつでも飛翔できます。限界を決定しているのはそれぞれの人のそれまでに受けてきた教育(まず親の考え方です)やそれまでの生活体験に対する反応行為の集積から引き出された偏った結論です。一人の人がその人生で体験することは限定されています。親の考え、教育制度を制定した国の方針、肉体的特徴(性別、容貌、運動機能、頭脳の働き等)にも制限がかかっています。これをいったん外側から見る、俯瞰するような視点を持つことが自由になるための第一歩だと思います。以前誰かの言いなりにならない、私たちは偽の情報の上に成り立っている人間社会に生きていると書きました。そのことをしっかりと踏まえてその上での視点の持ち方を考えて見ると今まで見えなかったものが見えてくると思います。

2016.6.1 記

ノンフィクションもフィクション

ノンフィクションもフィクション

本屋さんで書籍の販売コーナーを見るとノンフィクションとフィクションと二つにセクションが分かれて展示されています。フィクションとは虚構、作り事のことで小説はフィクションです。ウィキペディアを見ると「事実でないことを事実らしく作り上げること」を意味しているとも書いてあります。これに対してノンフィクションは史実や記録に基づいた文章や映像などの創作作品。また、その形態。ドキュメンタリーやインタビューなど多肢にわたる。製作上の綿密な調査や取捨選択など作成者の独自色が出る、と書かれています。

ノンフィクション

ここで間違ってしまいがちなことは、ノンフィクションは事実あるいは真実だと思ってしまうことです。史実や記録が間違っていてもねつ造されていてもそれに基づいて書かれた文章はノンフィクションというジャンルになっているのです。

最近健康に関連したセミナーをいくつか受講していて思ったことがあります。講師はそれぞれ体のことを専門に学んで学位をもっていらっしゃる医師や科学者で本も書いています。

セミナーではプロジェクターを使って様々なチャートやグラフを提示してそれぞれの主張するところを発表されます。統計学的な数値を次々に提示されると「なるほどそうだったのか、知らなかったなあ」と感心しますし、それが事実あるいは真実だとつい思ってしまいます。例をあげましょう。体に関する専門家で医師である人が、「牛乳は北欧の白色人種は消化できる人が多いが日本人も含むアジア人やイヌイットやアボリジニなど先住民と呼ばれる人たちには消化吸収できない」という説明でチャートには主な人種と消化力の有無とその程度が提示されていました。私も牛乳の消化力は低いし、知人で全く受け付けない人たちもいることからなるほどと納得しました。この専門家はまたワクチンなどの予防接種は効果がないばかりでなく、人体には有害なものが多いということ、薬も副作用を考慮するとあまり飲まないほうが良いという考えの持ち主でした。それからほどなくしてワクチンや薬に関しては同じような見解を表明している医師の本を読んでいたら、多くの点で先の専門家の意見と同じようなことが書いてあったのですが、牛乳と乳製品に関しては、どんどん食べなさい。安価である上に栄養価が高く、非常に優れた食品であると勧めてありました。どちらが正しいかどうかではなくそれぞれの意見なのです。それを踏まえて自分が選択をし、結果は自分が摘み取るということになるわけです。言われた通りにやったのにかえって元気がなくなった、責任をとれと言っても通用しません。

今はインターネットいう情報源があるために体の健康維持のことや食品の栄養価、病気のことを即座に調べることができます。人類にとって未曽有の情報源が無料あるいはほぼ無料で提供されています。調べる気さえあればいくらでも情報収集ができます。便利ではありますが、フィクションとノンフィクションが入り混じっていて混乱させられます。同じことに関し全く反対の意見があるために常に選択をしながら生きなければならないわけです。何かを調べる際には多くの情報源から複数の意見や調査結果を見て比較検討し、誰の意見も決して鵜呑みにせずに最後は自分で判断することが肝要かと思います。その時に大切なのは、

大自然の法則とそれに則して成り立っている完全循環型の生物圏の中で自分のとろうとする行為がはみ出していないかどうか。もしかして人間だけに都合の良い考えなのではないだろうかという問いを持つことだと思います。よく言われていることですが、「胸に手を当てて考えて見なさい」という言葉です。この場合の胸とはハートセンターと呼ばれる感情の状態が肉体に直に表れている場所だと私は思っています。「何かおかしい、変な胸さわぎがする、しっくりこない、気分が良くない」という感覚です。この感覚がいかに鋭いかどうかで人生が決まります。すぐに騙される人とほとんど騙されることがない人との違いが出てきます。覚者と凡人との差とも言えます。

誰それの意見はそれをすることでその人とその人の属している社会(企業、国家、職業分野等々)にとってのみ有利なのではないか。それによって困る人たち(他の生物も全部含め)がありはしないだろうか。そう考えながら物事を見て行くと感覚は鋭くなって行くと思います。

フィクションである小説は「事実らしい」ということが重要なポイントになります。事実らしくないとあまり売れません。多分ワクワクドキドキしないからでしょう。これはノンフィクションにもそっくりあてはまることなのです。「事実らしいだけで事実ではないかもしれない」と思って賢く情報処理をして行きましょう。

2016.5.8
フィクションもノンフィクション