豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

前回の記事の末尾に、豚に羽が生える可能性に触れました。これは少し捕捉説明が必要と思い、この記事を書いております。

スティーブさんは単にpossibility(可能性、実現性、今はなくとも将来は可能かもしれないという意味を含んでいる)とpotential(開発したものではなく、潜在的な能力)の違いについて、豚の羽という比喩をお使いになったのですが、せっかくですので羽というものについて他の観点からの考察をしてみたいと思います。

鳥は飛べるというpotentialを備えられて生まれてきています。羽があるということの他に体の構造が筋肉と骨とで出来ていて脂肪はあまりありません。余分な体重がつかいないように飛びながらでも排便ができます。こういう構造を持っているから飛べるのだろうと、飛べない我々人間は解釈しています。これはこれでそうとしておきましょう。

これに対して芋虫は飛べません。でも成長の過程において羽化という現象を通過して構造的変容をして飛べるようになります。

では、ダンボという比喩は何を意味しているのでしょうか。象は豚に劣らず体重が大きい生き物です。いくら耳が大きくても飛べるような身体的構造は持っていないと、見た人たちがその可能性をすぐに否定するような条件を備えています。おそらくクリエイターのディズニー氏はそれを意図して象を選んだのでしょう。しかし、その一般的通念をくつがえして、ご存知のように、ダンボはおまじないの羽をもらって飛びました。象のpotentialでは飛べない、しかし羽というおまじないの奇跡的効果で飛べたという経験をしました。Possibilityを信じるに足る基礎的条件は整ったのです。おまじないの羽は無くとも、可能性を信じる固い信念があれば既成概念を打ち壊して、奇跡は起こせるというのがこの物語のテーマでした。

 

では人間が飛べるpossibilityはどうでしょうか。物理的には無理な形態をもっているので、他に何かしなければ飛べるようにはなりません。重力場をコントロールできるような能力を開発すれば可能性はあるかもしれません。

ここで、人間と言う生物のpotentialとpossibilityという二つの能力について考えて見ましょう。人間には抽象的観念を把握する能力があります。可能性という言葉も生来の能力という言葉も重力場という言葉も理解できます。

私たちが存在しているこの宇宙という場は電気と磁気が交差するグリッドのような構造が見えないところで基盤になって機能しています。このグリッドの交点がゼロポイントと呼ばれる「場」だという人たちが大勢出てきています。21世紀の科学です。ゼロポイントは重力の作用を受けない場です。では重力場の制御と言うことはどのようにしたら可能なのでしょうか。ダンボの例ですと、自分は飛べるのだという信念です。誰がなんと反対しようと自分はそれにつられることなくやってのけました。友達の声援も力に加わっていたようです。増幅された信念のパワーです。

では信念とは何でしょうか。見たところどうやら既成概念を上書きし、それをくつがえす力を持ったエネルギーのようです。信念の力の源泉は不退転の心です。迷っていては出てきません。

もう一つは「そんなことは無理だ、不可能だ」と思ったことがない人(例えば無心な幼児)が持っているものです。否定のエネルギーの影響力は絶大なものですので、ほんの少しでも自分を疑う気持ちがあるとエネルギーダウンしてしまいます。

人間が飛べるはずがないという既成概念を打ち壊すような例がときおり現れても打消しの力のほうがはるかに大きいので、いつの間にかうやむやのうちに立ち消えになってしまうようです。

今から十年くらい前にYou Tubeで放映されていたロシアの森で犬を散歩させていた男性が空に浮かんでいる少女をビデオに撮って話題になりました。今でも見られます。最新のアップロードではコマごとに見ては隠れたワイヤーがないか画像が合成されていないかを検証し、そういう痕跡は見られないと書かれていました。

人間の意識は抽象を把握できることから、いったん人としてのpotentialに気づいたら、possibilityは大幅に拡がるのではないでしょうか。21世紀に生きる人間が自らの絶大なる潜在能力に目覚めたら、それが羽化です。人類史の紆余曲折の失敗と挫折から学び、意識を練りあげ、真理を理解する力を培い、最後に熟して羽化すると、芋虫が飛べるようになるように人間も飛べるようになるのではないでしょうか。スティーブ・アールさんの本の末尾に、人類全体の進化とは特定の一個人が超越することでは起きないとありました。全人類の集合意識が熟れて羽化することが、人間をこの宇宙に出現させた天の意図なのかもしれません。集合意識が熟れるということは不可能という思い込みの呪縛が外れるということですから。

絶対の孤独の体験記

絶対の孤独の体験記

新年のご挨拶文にありました、小田野先生が言われるところの「絶対の孤独」とはどういうものなのかを考えるに当たり、おそらくその意味での絶対性、あるいは唯一無二、というものを体験した人と言えるのではないかと思われるのが久司典夫さんです。スティーブ・アールさんの書かれた本に描写されていた久司典夫さんの体験を一例としてご紹介します。

以下は逐次的翻訳文ではなく、私の読後感も交えた抜粋文です。

典夫はある時例によって運転中に何かを考えている時、様々な考えが起きては去って行くのを見ていた。考えが湧いてきて去った後、次の考えが湧いてくるまでにほんのわずかだが、何もない静寂があるということに気づいた。考えが湧いてくる前にも後にも間隙があったのだ。あたかも静寂と言う生地があってその上に思考が乗っているような感じだった。思考の間隙はほんのわずかの時間だったが、非常に興味を引かれた典夫は間隙の方に注意を向けた。その体験があった後のこと。

やはり運転中、陽光と空の美しい自然の驚異に満ちた風景の中を走っていたのだが、景色よりももっと気をとられていたことは思考というものと、あの静寂の瞬間の発見と言うことだった。そして静寂というものの不可思議さについて夢中になって思索していた時のこと。静寂の間隙がほんの一瞬の長さから何分の一秒、そして一秒、二秒、数秒となり、しまいに十秒、十五秒の長さになっていったのだった。その静寂の時にあらゆる思考は消え去り、彼のマインドは完全に静かになった。それにも関わらず周囲の状況は把握できていたし、運転は完璧に制御できていて道路の状況や他の自動車も見えていた。何も考えていない時のほうがかえって周囲の状況がクリアに把握できていることから、思考はむしろ邪魔なのだと思えた。典夫という人物が運転の主導権を握っているのではなく、典夫は単なる代行者なのだと思い、自然に動いて行く流れに楽について行くだけにして、思索作業に戻った。思考と静寂の二つは正反対の現象であり、静寂という間が無かったら思考は出てくることはできないという意味で補完関係にあるのではないか。しかし、思考は時間的に有限であり、消えてゆくのに対し、静寂は永遠で時間を超越しているものなのだと考えていた。

今や静寂は分単位になり、思考にとって代わった。静寂の支配する中は空白でありながら、同時に何かが充満していて、形はなく、内容物はないのにも関わらず、そこに満ちている存在はそれが何であるか説明不能のものだった。神の恩寵と呼ぶか、絶対平等性と呼ぶか、無償の愛と呼ぶか、他にもいろいろの表現はあると思うがどれもそれを表現するには十分ではなかった。そして、今までにそこに行ったという記憶はないのに、まるで故郷か自分の家に帰ったような感じがした。

サービスエリアに車を停め、食堂のカウンターに座り、お茶を飲みながら周囲の人々を見渡すと、キッチンで働く人、カウンターの中の人、何か食べている客がいて、彼も別にその人たちとどこも変わらない普通の人だ。彼にとっての家庭は彼らにとっても家庭だし、彼にとってそうであるものはどの人にとってもそうなのだと思った。誰かが誰かより教養があるとか高学歴だとか能力的に優れているとかは全く関係なく、皆が平等だということに気づいた。全人類共有の場であるパラダイスの真っただ中にあるサービスエリアに、存在の一表象である典夫が座っているのだ。

このことからさらに典夫は運転席から見える風景の中のあらゆる物が、エネルギーの所産であって、それらが生きていることに気づく。生物だけではなく、石や岩までが生きていて、全ては一つなのだと気づいて、最後に角棒で脳天を殴られたかのような衝撃で全身を震わせながら響き渡った声が言ったことは、

ああ、何てこった!僕ってものは本当はいないんだ
僕ってものは存在していないんだ

まだそれは大雑把な気づきだったが、衝撃的な認識であり、粉みじんに打ち砕かれながらも躍り上がるような刺激で、その上非常に滑稽でもあった。

注。このことを The Cosmic Two-by-Four(天からの角棒というような意味)と著者は表現しています。

注。典夫さんは今、自分という個人は幻影であって、実はすべては一つであって、一つしかないのが実在であるという気づきから、個人という幻想を、Phantom Selfと表現しています。

著者は、典夫さんの体験はひとつの体験であって、誰もが同じことをしなさい、それが「気づきへの道」ですとは言っていません。トラックを運転しながら同じような手法を使えという意味ではありません。命とそして宇宙という場を成立、維持、機能させている叡智はただで答を提供してはくれないのです。答は問いに応じて現れてくるものなのです。深遠なる叡智による答を得るには正しい問を持つことなのです。従来のいわゆる人類の智慧の集積が十分ではないばかりかむしろ有害であることは現在の人類社会がどういう状態になっているかを見れば分かることです。人類は今まで種全体としての進化を推進するどころか、何くれとなく策を弄して阻んできたのです。典夫さんの体験はとても面白いものですが、それは典夫さんの物語なのです。それは人というものが本来持っている能力を我々に見せてくれてはいます。喩えとして、豚に羽が生えて飛べるようになるかどうかは可能性としては(絶対ないとは言えない)あっても、豚が本来持っている能力ではないのと同じです。目指すべきものは特殊な例外的個人の気づきではなく、全人類の集合意識の進化なのです。

久司典夫さんの気づき

困った時の文字頼み

 

 

続・心の断捨離

以前「心の断捨離」というテーマでお話をしたことがあります。今日は更に心を対象に見つめて行くことをしようと思います。

最近になって家族のTがこの世での生を終えて淡々と去って行きました。悲しみで胸が張り裂けるのではないかと思っていたのが、案に相違して悲嘆に暮れるほどの辛さもなく、受けとめることが出来ました。この世で最も深く信頼し、敬愛していた人でしたので、意外なことでした。哀しくないわけでもないのですが、苦しくはないのです。まるでそこに居るかのような温もりが家の中に残っていて、いつものように何か相談事をすると、懐かしい声で答が聞こえてくるのです。49日間だけなのかしら、とも思いましたが、違うという気がします。

父が亡くなった後、今まで知らなかった情報が入って来たことを思い出しました。知恵の量が増えたという感じで驚いたことでした。詩が好きだった父の感性が乗り移ったかのように、急に詩心が備わったのか、大学の詩の授業で感想文を提出したら、講師が他の生徒にも分かち合いたいと、読み上げてくれたこともありました。哲学書を読むとチンプンカンプンだった箇所が何故か理解できるようになったこともありました。母が亡くなった後も同様で、新しい観点、新しい感性が加わったことを感じたものです。また、それまで好きではなかった、母の好物の食べ物が急に美味しく感じられて、今では大好物になっているのも不思議な現象のひとつです。それらを口にすると、母が一緒に味わっているという感じがするのです。「美味しいね」という懐かしい声と共に。
無形の遺産というものなのでしょうか。有難いことだと思います。この話を二人の友人にしたら、二人とも同じような経験をしたと言っていました。

悲しみという字を使った熟語は悲惨、悲嘆のように、字を見ただけでも辛く苦しい感じがしますが、哀憐という方の哀しみは切なくて、懐かしくて、胸が大きく反応します。

悲は「心に非ず」、と書きます。哀は「アイ」と読むのですねえ。愛があって胸がいっぱいの状態の哀しみです。不幸とは違うのです。

断捨離の際に感情的な動きを観察したように、今回も哀しみを見つめました。それで悲嘆ではなく、哀憐だということが体感できました。愛は不滅にして永遠なので、温もりという感触で残っているのだと思いました。心とは此処(ココ)という存在の場に露(ロ)われているもの、此処に永遠不滅に存在している、即ち愛のエネルギーであると解しますと、悲しみという字は何故そのように書くのかが納得できます。

愛する者の喪失という、本来は非常に辛い出来事と感情的反応が分離して、それを観察している自分を見つめ続けていたら、心がどんどん自由になっていって、苦しみから解放されたと言う経験を久司典夫さんがなさったプロセスがスティーブ・アールさんの本に書かれていました。哀しみあるいは悲しみ(原文でsorrow)はそれを観察することで自然に過去に起きた辛い出来事から離れて行くと典夫さんは言っているのですが、プロセスは非常に長期間で、後から後から湧いてきたそうです。人は40年も50年も生きていると実に大量の悲哀と対になった出来事の記憶をため込んでいるとのことです。私は70年分ため込んでいるのですから、プロセスは非常に長いと思います。でもその途上でどのように心が解放されて行くのかを見るのが楽しみです。

断捨離とは切って分離させることで、その呪縛から離れることだと、文字通り字が教え示して下さっていたのです。固執していた感情は捨てようと思って捨てられるものではなく、木から熟した果実が自然に落ちて離れて行くまで待つしかないのです。
2018.12.5

夢が誘う心の断捨離

 

縁は異なもの味なもの

云音表の一行目、アイウエオのイには三つの字が入っています。意と爲(旧字の為)と異です。意思あるいは意図があって、行為がそれに続くということは分かりますから同じ音のくくりの中にあることは納得できます。口を開いて出るアの発音は楽ですが、イになると口を横に開くという筋肉活動が加わり、エネルギー消費も増えます。つまり努力が要るわけです。そこに意思、意図、行為という能動的活動が必要な文字が入っているのかなと、当初は推察しました(今ではもっともっと広大な意味があることを発見していますが)。ですが何故ここに異が入っているのだろうと不思議に思ったことを憶えています。

世の中のご夫婦や仲の良い友達同士を見て、あの人とこの人が何故?と不思議に思ったことはありませんか。これをことわざでは、「縁は異なもの味なもの」と言います。男女の巡り合い、結びつきというものは不可思議なものだという意味だそうです。

不可思議に挑戦してみることにしました。それで異を分けて見ました。

なんだか電磁場が共鳴している感じがビンビンします。天空は言(コトバ)が共鳴している命のエネルギーが充満しているところで、目には見えないネットワーク、天網が張り巡らされている。それぞれの網の交差点がある周波数をもった個々の命と他の命との結び目なのでは、と受け止められます。それぞれはまた個々の意識を持っていて、結びついている他の命と交流して生命活動(爲)を行っています。縁でつながった相手との交流が共鳴なのでしょう。響きが美しいハーモニーを奏でているのか、はたまた不協和音を放っているのか、いずれにしても体験して味わっていることが生きているという意味なのだと思います。喧嘩ばかりしている夫婦が別れないのも、一見仲が良さそうな夫婦が離婚するのも何を味わって、それが口に快いのか、苦くて吐き出したいのかは当事者のみの知るところなのでしょう。

人間以外の生き物はもっと寛容なようです。

昔アフリカのサバンナに行ったことがあります。当時は今よりはるかに多くの動物が生息していました。絶滅危惧種という言葉も一般的ではなかった時代でした(いつのこっちゃ)。イギリス領だったため、密猟者も厳重に監視されていて、捕食者と捕食される者も見たところのんびりしている感じでした。野生のままの動物生息地ですから、捕食動物にも餌は与えませんが、動物の移動を妨げるような障害物(自動車道路やフェンスなど)が無い広大な地域が確保されていましたから餌を得るのは比較的楽だったようです。

宿泊していた樹上のホテルの窓からは水を湛えた大きな池を見ることができました。そこには多くの動物が水を飲みに来ていたのですが、捕食動物も他の動物もみな一緒に水を飲んでいました。ライオンや豹も空腹でない時はのんびりしているので、草食動物も平気ですぐそばで水を飲んでいました。敵同士というくくりはないので、その時々で命の危険がある時だけ、即時対応しながら生きているのが人間以外の生き物のようです。天敵と言う言葉は人間だけが使っているのです。不協和音は人間同士の関係においてのみ発生するものなのだと思います。

2018.10.5

嫌い!の効用

友達が恋人になる時

 

久司典夫さんの気づき

前回の記事でも他の記事でもたびたび触れたことですが、大多数の人間が持っている誤った認識、について以前「静流の部屋」の記事として翻訳した文がとても役に立つのではないかと思い、掲載します。

作者はアメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。

以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う? 
ノリオ:世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ
ノリオ:だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う~ん。分かったような分からないような...
ノリオ:変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。
答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ:本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった
ノリオ:ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。
もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)
僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かにぶつかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:そうじゃない。~のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ:「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。
人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。(中略)最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の
“SpiritualEnlightenment, The Damndest Thing”という本。

アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大規模な目覚めの時期を迎えているように思うよ。(後略)
2005/12/30 翻訳:静流

後記。この翻訳をした当時にジェドさんの本も読んでみましたが、抱腹絶倒の面白さでした。当然まるで傲慢なところはなく、自分は悟っているなんて幻想を持っている人たちがいかに勘違いしているかもよく分かりました。この本を読んだ後私はずいぶん物の見方が変わったと思います。久司典夫さんの本は本人ではなく、光透波を学ぶ仲間のスティーブ・アールさんが最近書かれました。

2018.9.18 記

shizuru’s friends アーカイブ – シーちゃん的心と頭のステップアップ

愛が不在の場

今の世界情勢を見ながら感じた印象を表すのに出てきた言葉です。「愛が不在の場」とはどういう世界でしょうか。

虚無という言葉がありますが、完全にはその意味を推し量ることはできません。「愛が不在の場」に付けられた名称はまだありません。何故なら愛は普遍的でかつ遍在すると考えられているからです。そうだとすると不在にはなれないのです。
愛の別名は「神」、「至高の叡智」、「創造の源」、などです。まだまだたくさんあります。何故なら「それ」は誰にとっても心の中心にあって自分を見守ってくれている「何か偉大なもの(Something Great)」だからです。そして誰もが「それ」を何らかの名称で思い起こしたい欲求をもっているからそれぞれの人にとって特別な名称があるのだと思います。小田野先生は「真空様」または「空母様」と呼んでいらっしゃいました。それを口にするときのお顔と目はうっとりと幸せそうに輝いていました。名称が感情の引き金になっていることがよく分かります。子供のころ私は「のの様」と呼んでいましたが、それを口にすると何故か安心してそれまでざわついていた気持ちが収まったものです。
説明しがたい種類のある「状態」あるいは「それにつけられた名称」を理解するために効果的な手法があります。それは「そうではないもの」を列挙することです。

そうではないもの

  • 悪あるいは邪:ちょっと意外かもしれませんが、愛が不在の場とは思いません。大局的に見ると悪や邪が愛のある側面を意味する場合もある。これは少し複雑ですがいわゆる「善」なるものが必ずしも全体の和合と調和を保証するわけではないということに気がついたら分かるかもしれない。何故なら「愛は差別しない、裁かない」から、正邪、善悪は一体となってまる飲み込みされているはずなのです。
    良い例は、もう誰の目にも明らかな地球環境の劣悪化と絶え間ない戦争の原因を作っている人間も、汚染反対、戦争反対派の人間も同じように母なる地球に生かされていることに変わりはありません。地球あっての私たちです、なければどんな人でも平等に死んでしまいます。ただ、今は地球様もだいぶ荒れ狂っていますから、あちこちで大勢の人が死んでいます。日本などは今現在災害列島の態を呈しています。
  • 闇:闇の反対は光ではないのです。宇宙空間は真っ暗闇だが愛は遍在しています。ただしこれは物理的に見た闇の話。物理的に見た闇とは人間の視覚が認識している「光」の不在という意味での闇のことです。この闇というものに対する感情的反応は多くの場合、不安、恐怖、忌み嫌うものとして避けたいもの等々あまり快い感情とは結びついていないと思います。これに対し「光」は肯定的感情を呼び起こします。愛は闇ではなく光としてのイメージと結びついています。しかしどちらも不安そのものでもなければ愛そのものでもありません。あくまでも感情とセットになってしまっているイメージだと思います。違う言い方をすると、闇とか光という名称に対してそれぞれの人が持っている意味合い、含蓄です。ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、一つの例があります。
    「そう言われてもあなたの頭の中にある絵は私には見えませんので、もっと具体的に説明してください」とある人に言われたことがあります。賢い人で、そのおかげで私もコミュニケーションの難しさと言うものを再認識させてもらえました。
    元に戻ります。含蓄とは概念なのです。真理でもなければ事実でもありません。人間はこれに踊らされて互いに誤解し合って、自分の方が正しい、相手が悪いのだと思い込んで戦っています。
  • 憎悪、妬み、羨望、怒り等の否定的感情:感情が発動する原因には「愛されたい」という欲求があり、その欲求の源泉には「愛を認めている」という前提条件があるのだと言えます。全くの虚無であるなら感情は発動しません。感情の動きがあるということが、そこにエネルギーが発生して周囲に影響の波動を発信しているということなのです。
    これを端的に示している言葉があります。
    EMOTIONです。字分けをしますと、EとMOTION、エネルギーの動き、とも読み解けます。イモオションと発音しますので、意網王思陽云が当てられます。思いという動きが展開している4次元の形の無い場に飛び交っている感情のエネルギーが互いに影響し合って織りなしている網(ネットワーク)が地上のインターネットという網も含めて今と言う時(陽/日/時)の人類社会の状態を現出、維持、発展させ続けているのです。活動の原動力が感情だと字が教えてくださっているのです。良い意味でも悪い意味でも交流という活動がネットワークを形成していると受け止めています。ここまで見てくると出てくるものは、最も「愛が不在の場」に近いものは、
  • 無関心だと思います。何故なら感情がほぼ不在だから。感情的死と言えます。体は動いていて話もしているのでまるで生き物のように見えるのが厄介です。市民権を持っていて、生活しているので汚染もしているのに何ら積極的に場を形成するプロセスに関与していないわけです。こういう人たちばかりの世界になるとロボットの社会のようになります。作業はしていますが、感情が無いのですから。そこには笑いがなく、涙もなく、感激も感動も、怒りや憎しみさえありません。まさしく虚無ですね。生きている意味がないのではないでしょうか。味わい、感動し、発見し、学ぶという人生の味がないのです。

母が亡くなった後、予想よりはるかに強い空白感に見舞われ、まだ心が痛む状態にさえなっていない時、一緒に看護してくれていた家族のTが夜私の寝室に来て、「しばらく一緒に寝ましょう」と言って脇に自分の布団を敷き、黙って連れ添ってくれました。別に何か言わなくとも、傍に誰かの気配があると空白感が消えるのを実感しました。一緒の部屋で寝ていた一か月ほどの間に号泣も肉体的胸の痛みも含めて様々な喪のプロセスが続きました。
「もう一人で寝られるわね、親を亡くした悲しみは13か月って言われているからあと一年よ」と言われましたが、確かに強烈な痛みはしだいに和らぎ、一年後にはほぼ常態にもどっていたと記憶しています。

黙って寄り添うという行動が愛から出てきている場合のエネルギーは大きな影響力を持っていて、痛み、苦しみを和らげます。この時に発散しているエネルギーはとても快い波動の網を形成していると私は感じます。ただ、逆に触れると傷つくような網も出来ていますので、賢く見極めて気をつけて生きていただきたいと思います。直感的に危ないと感じる感性を磨くことがとても重要だと思います。
私事ですが、今その家族がまた私を離れて行ってしまう時が目前に迫ってきていますが、今度の喪失感をどのように乗り越えるかが私の次の課題となっています。何年か前に「独りに強い人になって行ってね」と言われてからずっとその方針で対策を講じながらいろいろと準備かつ練習をしておりますが、その時になったらどうなりますか。ともかく私の一番楽しい時間は、課題を決め、思考を巡らせ、ある種の理解と納得に行き着く作業をしている時で、これの良い点は費用がかからないことです。娯楽があれば独りでも楽しいという字があります。「独楽」です。小田野先生はこの言葉がお好きでした。

独楽ってねえ、英語でTOPって言うんですって。最高ってことよね。英語もよく出来ているわね。コマって言うんだから、光間じゃない。間は全部光ってことなのよ。独りだからって淋しいわけないのよ。空母さまに抱かれているんだから。私も独りでくるくる回って楽しんでいるのよ。気持ちは三昧ってことよ。字分け三昧。

2018.9.17

濁りはOKだった

少し前に「人間は嘘つきである」というお話をしました。今回はまた人間性と言うものについて更に考えて行くことにしました。

自然界の生き物たちは大きな循環の中でそれぞれの持ち分の役割を、それとは自覚せずに果たしながら生きています。自覚がないのは勿論人間のように考える機能を持たされていないからです。これに対して考えることのできる人間はやっかいな重荷を背負わされて生きることを余儀なくされています。中でも大きな重荷は後悔と罪悪感だと思います。やってしまったことは過去に戻って取り返しができないのに、「あの時ああしなければ良かったのに」、と後悔してもどうにもなりません。自分のしたことで他の生命が被害にあったり、辛い思いをしたりしても謝って済まない場合が多々あります。済まないという気持ちと自分を責める気持ちはなかなか吹っ切り難いものです。人間と言うものは罪悪感を超越できないと言い切る哲学者たち(サルトルと実存主義哲学者等)もいました。顕在意識で吹っ切ったと思っていても、潜在意識は制御し難いものだからだそうです。

では人間性と言うものの話に戻って考えて見ましょう。まず「性分」というものの意味を考えて見ましょう。
有名な亀とサソリの喩えでは、泳げないサソリが川を渡るのに亀に助けを求めます。亀はサソリに毒針で刺されることを恐れて断ります。サソリは、「俺がお前を刺したら一緒に溺れてしまうのだから刺すわけがない」と言う。それで承知した亀でしたが、川を渡っている途中でやはり刺されてしまいます。水に沈みながら「どうしてそんなことをするのか」と亀に聞かれ、サソリは答えます。「それが俺の性分だから」と。
いけないことだと理屈では分かっていてもどうにもならない、抑制できないものが性分というものだという教えです。ここには善悪正邪の別はありません。何しろ性分なのですから責めても変わるわけではないのだということなのです。
人間は嘘をつく、自分にも他者にも。その結果様々な不幸な事態を招きます。その自分の中にあるどうしようもない愚かさや理不尽さを抱えながら生きて行く人生を、「濁り」と表現しているのが云音表の六行目です。

最近この行の濁音に当てられた文字を一つずつ分けて見たところ今まで気づかずに来たある発見をしました。どの音に当てられたどの文字を見ても濁りという否定的な含蓄を持った文字が無いのです。ちなみに二行目のガギグゲゴにはあります。この濁音は五行目の「奴/人」がでて来る前の行の音です。このことには後に触れます。
ともかく人の務めの行の濁音には罪科につながるような意味を持った字が無いということだけ覚えておいてください。
自己保存の為に嘘をつかざるを得ないような人間社会の構造にあえて挑戦して真実を追求し、それを貫き、さらに無知な人々を啓蒙しようと試みた過去の偉人たちの大多数は処刑あるいは暗殺されました。殺したのは人間たちであってその人間たちも嘘つきなのです。

これに対し、「罪を犯しても誰も咎めていませんよ」と天の声は言っているのではないでしょうか。批判するのは仲間の人間たちなのです。いやもっと怖いのは自己批判の声です。罪悪感を超越した後にどのような自由な思考が展開されるかを実体験したいと思いませんか。

初めに父なる閉音があってそれが開いて展開すると出来たのが母なるアイウエオでしたね。このままでは開きっぱなし。そこに二行目のカキクケコという子音が展開されました。その時すぐに濁音のガギグゲゴが出てきたのです。清濁が相まって天地創造の作業が始まったという訳です。ちょっと飛躍していますが、ここでは筋道を説明はしません。
ともかく言いたかったことは濁がなければ今の天地創造は完結しなかったと云音表が教え示しているのだと私は受け止めています。
濁音は高い次元においては必要不可欠であっても低い次元においては毒であり、危険な武器でもあります。六行目の人間の務めの中に反濁音があってこそ人類の次元上昇の可能性が既に初めから備えられていたと言えると思います。

天地と言う「場」に元々「備」えられていた人としての天分、思考力(至高の力→刀=SWORD→S+WORD)という能力を発揮して、清濁や正邪の正しい意味とその役割を理解把握して人間同士の戦いを上から見ることのできる位置に上昇することが進化ではないでしょうか。それが人類の究極望むことで、権力や莫大な財産という、肉体を持って生きている間だけしか持てないものとは違うのだと思います。永遠の生命というものの中で個人は成立しないので、個人財産は意味がないものだと気づいた人たちが我欲の呪縛から解放されることが出来たのです。

バビブベボ 場備分辺望

2018.7.18

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

 

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

自然界に存在している全てのものが、人間が何もしなければ本来あるべき形であるのは自然にそうなっているからです。つまり何かがそういう状態であることが必然的であるのだということに改めて気がつきました。誰がそうしたのかは分かりません。創造主と言う人もあれば、神様と言う人もありますが、それは表現法の違いで、実体が何かは明確に証明されてはいません。私は文字通り、「自(おの)ずからに然(しか)らしめられている」という表現が、一番偏りがないと思っています。天然、自然は必然で偶然ではないという考えの下に今回のお話を進めて行きます。
さて、自ずからに然らしめられている通りに完全に機能している場合の自然の循環では、ゴミと言うものは出ません。あらゆる物が生物分解性です。まあ石や岩は風化するのに長い時間がかかりますが、やはりゴミにはなりません。人間や動物も含め、有機体は微生物のおかげで皆循環しています。
季節による気候の変化、その変化に応じて誕生、成長から死までのライフサイクルを自然的にそして必然的に営んでいる生き物たち。その生き物たちが互いに影響し合い、関係しあって大きなサイクルを成立させています。天体の運行、潮流の動き、食物連鎖等々、無駄なく滞りなく機能して、誕生、生命活動、死、再生と循環の環を成立させているわけです。

何が言いたいのかと言いますと、完全循環型の自然のサイクルという本来あるべき姿を阻害すると必ずその副作用として不都合が生じるという道理があるということなのです。これは今までにも多くの知恵ある人たちが指摘し、憂慮し、警鐘を発してこられたことです。それだけなら別にここで改めてくりかえすことはありません。

また、自然というものが何かを様々な視点から説明している学術分野がすでにあるので、それは各自がお調べになるとよろしいかと思います。ここではもう一つの視点に焦点を当てて行きたいと思います。

自然界の全生命の相関関係からはみ出している生命体についてです。その生命体が無ければ完全循環型の地球と言う大生命体の生の営みは「自ずからに然らしめられるままに」滞りなく安泰です。その生命体とはお察しのように人間です。
『人類滅亡後の地球』というテーマでコンピューターグラフィックスを使ったシミュレーションの動画を見たことがありますか。人類滅亡後何年でどうなるか、何十年でどうなるか。そして一万年後には?

人工の建造物や製造物が無くなるとすぐに自然は本来のあるべき様相に回復する活動を猛然と開始して行きます。人間は何かのプロジェクトに取り組む際、経済効率や所要時間、技術的に可能かどうかなどを勘案して実行するかどうかを決定しますが、人間以外の生物にとってお金や時間は意味がないものです。それらの概念が無いのでプロジェクトは出来るところから始まってどんどん推進されて行きます。微生物たちは何十年かかろうと何百年かかろうと全く気にせずにせっせと鉄を腐食させ、セメントを砂のように砕き、あらゆる建造物を倒壊させます。植物はどんなわずかな隙間にも入り込み繁殖し、領土を拡大して行きます。動物たちも冷蔵庫もオーブンもスーパーマーケットも無しで、食べられるものを食べ、それぞれ生き伸びて行きます。チームワークや住み分けなどという概念もないので適者生存が自然的に起き、あらゆる生物の生息圏が収まるところに収まって行きます。自然的に必然的に。

では人類は何の為に存在しているのでしょうか。おそらく自然の循環を阻害する為などではないでしょう。阻害による環境破壊は無知による行為の結果であって意図的にされたわけではないでしょう。誰が好んで自分の住処を居心地の悪いものにするでしょうか。でももし失敗から学ぶことも人類にあって他の生物にはあまり無い能力ならば、進化という過程がたとえ遅々たる歩みであっても進行して行き、いつの未来の日か、地球上の全生命と共存して行けるようになるでしょう。もし滅亡しなければの話ですが。

「人は問う」というお話(ナニヌネノのナ)を前回しましたが、「問」という行為の仕組みは「答」と一対に、あるいは表裏になっていて、問が答を得る必要不可欠の条件なのだということなのです。疑問を持ち、答を探求する行為は他の生物がしないことです。ではこの行為にどういう意義があるのでしょうか。考えて見ましょう。

疑問は具体的には「コトバ」を使って組み立てられています。例えば「リンゴは何故木から離れると地面に落ちるのだろう」という問いは全部コトバの組み合わせです。何の為にそれを知らなければならないのか、すきっ腹がくちくなるわけでもなければ、雨露をふせぐ場所が確保できるわけでもないのに。でもそれをしないではいられない衝動というか促しがあるからしているのです。本能といってもいいでしょう。本能なら自然なものです。生存に必要な能力を本能として自然は生物に備え付けて生み出してきています。人類の生存には「問」が必要なので、その能力を備え付けて生み出してきたのではないかと考えて見てください。「タチツテト」で天という場が完成してヌ(奴/人間)が生まれてきてから何が起きたかはその次の行を見ると多くのことが分かります。

ナニヌネノの行の次にあるハヒフヘホの行は三つの展開をしています。このお話は次回に

ナニヌネノのナ

夢が誘う心の断捨離

この数年間あまり愉快でない夢を見るようになり、特に最近の二年間に頻度が増してきた。夢の中で悔しかった、悲しかったり、腹が立ったりという感情的体験をしてから目覚めると後まで尾を引く。楽しい夢はすぐに忘れてしまうのに対し、不愉快な夢は忘れないという特徴がある。

引き金となっているかもしれない日常生活上の変化としては、そろそろこの世を去る時期に入って来た高齢の家族が毎日一緒の食事の際に思い出話をすることだった。楽しかった思い出も多いが、悲しかったこと、悔しかったことも話す。特に悲しかったことと悔しかった思い出に関しては何回も同じ話が出てくる。それだけ強い思いが残っているのだろう。残念という訳である。
これが自分の人生の思い出につながって来るとやはり不愉快な思い出が忘れられない強い影響力を持っていることが実感される。夢で何回も追体験する辛さや悲しさや悔しさがその日の何十分かを波立たせる。早く気持ちを切り替えるように何かをせっせとする。主にするのが掃除である。ついでに家の中が清潔になり、整頓されるので良い面もあるが、ここでひとつ心の中も掃除をして見ようと思い立った。

まず血圧を測っておく。それから整理するためには書き出すことが必要なので、思いついた順に書き出して行く。
出来事、それを引き起こした人物の名前、感情の種類を書く。順番で自分に与えている影響力の強さが分かる。真っ先に出た人物の名前にともなう感情的反応が一番強い。
何人か、あるいは人物の名前は分からなくとも出来事が三番目以降になるとどんどん感情的反応が弱まってくる。ここでまた血圧を測っておく。
リストを見て以外に少ないのに驚いた。自分の一生を左右してきた感情的反応の傾向を形成した事件が五本の指よりは多いが十本より少ないとは思わなかった。眺めながらじっくりと追体験する。

人物の影響力が強かったのは二人。二人に関係した事件がいくつもあった。これが他者に対し批判的になる原因となっていると思うので、しっかりと追体験しながら記録をする。
その二人が迷惑をかけた人たちがするべき対応をしなかったために処理済みにならない宙ぶらりんの憤りが残っていた。自分が受けた損害は二の次だと分かった。こちらのほうは処理できるからだ。
次に、人物の名前は忘れたが損害を受けた事件の掘り起こしはとても有意義だった。じぶんが不注意あるいは浅慮だったのが原因の大半で、これは今後気をつける他はない。まったく呆れるばかりのバカぶりだった。今もその傾向はあるが、はるかに賢くなってきていることにも気がついて嬉しい。
追体験中に思い出されて加わった事件は系統が似通っているところに書き加えた。忘れていたくらいなので、大した感情的反応は起きないのが分かった。

終わって血圧を測った。書き出す前と書いている最中との差は約15%の上昇率。終わった時との差は18%の下降率だった。始める前よりさらに下がったということになる。
翌日同じくらいの時刻に計ったところ三回目の計測値とほぼ同じ(2%高い)。この文を書き終えた後の計測値は6%高かった。多少興奮しているかも。

既に終わった事件に関してはたいして悔しくも、辛くもなかったのに、感情的しこりは独立してしっかりと私の人間関係に影響を与え続けていたのである。掘り起こして見れば、たいしたことではなかったという訳である。一番あほらしいことは、被害を受けた人たちが気にもしていなかった(と本人たちは言っていた)ことを私が気にしていて、憤りが独り歩きしていたことだった。
一日置いて少し整理をして書き出した事柄。これでファイルを完成し、処理済みの印をつけられれば断捨離完了。

作業の手順

● 事件の書き出し

1 事件の種類と概要。例:中傷、誹謗、裏切り、盗難、詐欺等
2 首謀者
3 受けた被害の内容と直接被害を受けた人物(自分でない場合も多々あった)

● 実際的処理

1 感情的反応の種類。怒り、憤怒、失望、羞恥等
2 それから何か学んだか、または否定的感情を持ち続けているか
3 似た人物や似た事件に嫌悪感や怒りを喚起され続けているか
4 何回も繰り返し後悔(あの時ああしておけば良かった等)、あるいは追体験しているかどうか
5 自分でも同じようなことをしたことは無かったか。あったらそれをした理由(あったし、理由も分かった。反省の材料を頂けた)。分かったことは何らかの理由で嫌いと感じた人には冷たい仕打ちをしたことだった。

以上のことをできるだけ冷静に主観を交えず映画を見るように観察して、感情的反応が静まるまで見届けた。所要時間一時間弱。

これでお終い

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

続・心の断捨離

2018.2.14

2018年のご挨拶

2018 年明けましておめでとうございます
戊戌 元旦

このブログも三年目に入りました。相変わらずの筆不精ですが、本年も諦めず時々はお訪ねくださいませ。よろしくお願いいたします。
2018年は干支では戌(いぬ)の年だそうで、音にちなんで動物の犬が関係してきますので、日本のように犬好きの多い社会ではかわいい動画や画像が氾濫しそうですね。見るだけで癒されるような姿をしていますよね。
ほとんどの人にとって人生で一番大事なものは家族と友達だと思いますが、犬はその両方ではないでしょうか。心さびしい時に寄り添ってくれる温もりの存在がどれだけ大勢の人たちを救ってくれているか、有難い存在だと思います。でも人間同士はもう少し寄り添い合って欲しいとも思います。ペットとの仲とは異なり、人間同士はいがみ合っている場合が多いようです。親子や夫婦や職場での人間関係がうまく行かない悩みを抱えて、病み、苦しんでいる人々をどこでも見かけていらっしゃることでしょう。人間とペットとの関係の大きな違いは信頼感の有無ではないかと思います。犬にかぎらず動物は嘘をつきません、裏切ったり、意図的に傷つけたりもしません。
私が心理学を学んでいた時に、ある教授が初めての授業の冒頭に驚くようなことを言いました。ずいぶん昔のことなので細かいことは覚えていませんが、概ね次のようなことを言われました。
あなた方の多くはこれから心理学というものを学んで、その知識を使って他の人々の悩みや苦しみを軽くする職業に就こうとしていると思います。どれだけ優秀な心理学者になるかで結果的に助かる人たちの数が違ってきます。そこで優秀なカウンセラーになる為に最初に心得ておいてもらいたいことがあります。
人間は嘘つきです。他のあらゆる生物とは違って嘘をつく動物なのです。私は嘘をつかない人を見たことがありません。親も友達も、もちろん自分も嘘つきです。嘘にもいろいろありますが、良い悪いは別として嘘は嘘です。しかし良し悪しで裁くことは他の職業の人たちがします。裁判官や検事です。あなた方はカウンセラーになる道を歩んで行くので裁く仕事はしません。何をするかと言うと、嘘をつく理由を探ることなのです。叱られたくないから、嫌われたくないから、儲かるから、得だから、騙されて悔しがるのを見るのが面白いから等々です。そしてこれを理解することが対処する方法を見つける糸口になるのです。人間性というものに対する洞察力を身に着けるのが心理学を学ぶ目的なのです。理解して、寄り添い、味方としての信頼を勝ち得てからがセラピーの始まりです。時には信頼関係を築けない相手に会うことがあります。気質的に合わない人というものがあります。その場合は他のカウンセラーないし、助けになる機関を紹介してください。無駄な努力をしても双方の為になりません。3つのR、rapport(信頼と絆の構築)、 referral(適切な助けの紹介)、 result(結果を出す)が良いカウンセラーになる必要条件です。結果が出ないのにクライアントを抱えこんで離さない人がいますが、それはしないでください。この業界全体の評判を落とすことになります。今ライセンス規制が緩んで、あまり質の良くないカウンセラーが増えています。お金もうけをしたいのなら他の道があります。ずっと効率よくもうけられます。でも人を助けたいなら結果を出してください。
以上の話は一人ではなく他の教師の話も加えてまとめたものですがこの後の一生を通じて人間性を理解するにあたって非常に役に立ちました。
良い人間関係を築くことを諦めてペットに頼る気持ちは分かります。でも人間はどうせ嘘つきなのですから、裁くかわりに理解して、絆を築くことを先決にして、いろいろと工夫を凝らして(腕の見せどころですね)。ゲームなら夢中になれるのに肝心の人間関係を良くする挑戦にはなかなか取り組めないのはどうしてでしょうかね。でももし取り組めたら、そしてその結果を見てみたらどうでしょう。収穫は大きいと思います。

次のお話
春の小川のように

絶体絶命の崖っぷち

現世を何故ウツシヨと読むのか