『仏眼(ぶつげん)』が発刊されました

 表題の『仏眼』は菊池霊鷲が著した最後の書です。この本には前編ともいうべき書があります。今から60数年前に発表され、その後英訳され、1967年に、世界各国の元首および要人に百数十名に向けて、全人類への警鐘「第一のメッセージとして送られました。『舟を岸につなぎなさい』がそれです。

 当時はまだ環境問題など一般に取りざたされていない時代ではありましたが、反響は大きく、多数の要人からメッセージが届きました。中でも当時の国連事務総長からの手紙に、「メッセージの趣旨には賛同しますが、何分にも時期尚早にて、すぐには実践できない事情が多々あり、心に留めては置きます」というものがありましたが、この返信に代表されるのが当時の要人の多くが同じ懸念を持ちながらも、一般的常識外の内容である為実際には何も出来ないという内容のものでした。 

 さて、今はもう時期尚早などとは言えない状況となって来ています。世界中で起きている環境汚染や、生態系の崩壊、異常気象、原因不明の多くの疾病疾患等の問題は六十数年前とは異なり、誰にも否定できない明白さで、人類につきつけられています。
 こういう時にこそこの書を発表することはいろいろな意味において、人類とその宿主である地球環境の保全に貢献することが出来るのではないかと思い、当書の発刊を決意した次第です。

 このメッセージ文の中に十六の議題というものが挙げられてあり、その回答として書かれたのがこの『仏眼』です。
 議題の回答だけ教示して欲しいとのことで、当時のローマ法王庁から特使が二回来られた事もありました。私も一回同席しましたが、霊鷲太母は、回答は、一国、一組織に対しては出来ない、万国・万教関与の上でなければ、と断り、その代わりに次の様なことを話していました。

 環境問題を引き起こす根本原因となっているものは、人間の「根本無明(こんぽんむみょう:単なる無知ではなく学問をしても解決できない愚昧・迷妄)」である、という趣旨と、「開眼(かいげん:悟りを開くこと)」ということの意義です。
 今や、地球の住民である全人類は国境、宗派を超えて同じ問題に直面している訳ですから、万国関与とも言えます。そこで、議題を先に提示し、その後にこの著書を発表するという編集で、この本を作りました。

 第一部が、『舟を岸につなぎなさい』
 第二部が、『仏眼』
となります。

ご購入希望申し受けます。

本 単価:1,000円 送料別途。10冊以上送料無料
『仏眼』朗読CD 単価:500円 送料別途
講演ビデオ(2枚組120分)3,000円 送料別途

お問合せページからご注文できます。

追記。「無明からの脱却」という現象について生前太母さんはこうも言っていました。一人の人が目を開き、無明を脱するのではなく、「全人類」が目を開くことが地球とその全ての住民の蘇生の要となるということを知ってもらいたい。私が打ち立てた本願(自分や家族の為、ある特定のグループや民族の為でなく、全ての存在を対象にした願い。つまり神仏の立てる願)は「全人類開眼、万物皆安堵」だったのだから。「一人一人が開眼すると言うと膨大な数だから無理」と思うかもしれないが、そうではない。ごく少数の人たちが先に目を開くと、その影響が次から次へと波及して行くから、ある時一挙に可能になるのだ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

 

肉体が亡びる時離れて行くものは何か

前の投稿で、肉体が無くなっても意識は不滅ですというお話をしました。これについて、面白い説明を画像で見せている動画サイトがありました。

真空、生命、知性の実態、実質は何か、という疑問に対し、量子力学的な説明をしている方があります。マックス・プランクという人です。プランクさんの解釈による、人の本質(体ではなく潜在意識の方)であるエネルギーがどのような形態で存在しているかをCGで作成して見せてくださっています。トーラスと呼ばれる形で、きれいな画像です。字幕を付けておきました。トーラスは正と負のエネルギーが同時に関わり合いながら不断に動いている形です。象徴的にはメビウスの輪、八の字等とも表現されてきましたが、今は立体で見ることができます。

21世紀という今の時代にはこのようなテクノロジーで私たちが目で見、音で聞ける媒体ができていて、楽しみながら学ぶことができます。そして、理解の幅も広がり、その理解の振動が他の理解の振動と繋がり、共鳴し合いながら人類の集合意識が成長して行くという訳です。
2019.7.5

光透波理論改訂版発刊のご案内

ダウジングと診断と対処法と残る課題

ダウジングについて、誤解のないようにお伝えしておくべきなので、他のことと共にこの記事を書いております。一般のダウジングは振り子やロッドを使います。どちらの場合も動きは時計回りと反時計回りというのが一般的です。私は違う規定をして始めていたのです。今は一般的な方法を使っています。他にも道具を使わないダウジングもしています。これは全く別の動きをするものです。

さて、体の不具合に関してだいぶいろいろと書いてきました。自分を実験台にすると誰からもクレームが来ませんので、例にとっておりますが、何をもって体に良いか悪いかを決める前に、日本人全体に共通の項目があることを申し上げておきたいと思います。

日本人は被爆しているのです。これが先にあって、その後に起きた様々な不具合にどのように対応するかという問題がでてきているのが現状です。自分の周囲を見て、どれほど多くの人たちが癌をはじめ、アレルギー、体の痛みに耐えて生きているでしょうか。私のような高齢者になりますと、回復力も遅いですし、何か作業をすると疲れも早く出ます。ただ、これは別に苦にしてはおりません。

何故かと言いますと、「死」と言うものが比較的近いので、当然のことと思っているからです。しかし、私よりもはるかに若い方たちが苦しんでいらっしゃるのを見ると、「何故だ、何でこんなに辛い思いをして生きなければならないのか」と疑問が解けずにいる間は辛いだろうと思います。疑問が解けない間は痛みよりも「訳がからない」という辛さに苛まれます。訳さえ分かれば立ち向かえるし、持っている不具合が治らなくてもそれを受け入れるという選択肢があることに気づいて気持ちはずいぶんと楽になると思います。私の友人の治療家の最近の著書に「病むことも生きること」と書いてありました。病は敵ではないという見方があるのを教えておられるのです。そうすると「悪あがき」はしなくなるでしょう。病んでいる内臓の大半を切り取って、最後にはやはり死を迎えた人の言葉が、「やり直せるものなら決して手術などしない」だったそうです。

環境の汚染を踏まえながらの診断ですから、まともな内臓などないかもしれないと、内臓の一つ一つがどのくらい機能不全になっているかも問いながらのダウジングもしてみました。左の腎は100%機能していますか、90%?80%?、60でYESだったので、逆進行して65と聞いたらNOでした。全く無傷の内臓などほとんどなかったのですが、それでも気持ちは元気に生活を続けております。有難いことに少しも怖くないのです。最近の大きな収穫は3歳の時のある記憶を思い出したことです。それが断捨離のおかげでついに見つかったのです。恐怖の最後の尻尾につながっていたのです。

病んでいる箇所の対応には優先順位があります。それを体は知っているので、信号を発して下さっています。母は非常に健康な人でしたが、よくこのように教えていました。

体の中には「医王様」がおられて、治るには何をしてはいけないか、何をすれば良いかちゃんと教えて下さっているのに、その声を聞きもせずに邪魔ばかりするのが人間と言うものじゃ。ちゃんと治ろうとしておるのに薬を入れて治るのを止めておる。獣を見ていると、ちゃんとするべきことをしておるよ。自然に逆らわんことじゃ。心配せんこと。ちゃあんとなるようになってゆくものだから。

心臓がどこにあるのかもよく知らない人でした。でも体の声を聞いて、対処していました。多くの場合治るまで何も食べず、水を飲んで、草むしりなどしていました。時々草を食べてもいました。自然治癒力にまかせて安心して生きていただけです。妊婦が苦いものや酸っぱいものなど食べたい時には食べているのを見ると、お腹の中にいる赤ちゃんが体に必要なものを教えてくれているのだと言っていました。同様に不要なものは吐き出すのが「つわり」だとも、「医王様は遠慮深い方なので邪魔するとすぐに引っ込んでしまわれる」とも言っていました。

小田野先生は「生の目的は死である」と言い切っておられました。生きているものは生まれた時から刻々と死に向かって進んでいるというのが当たり前の理で、逃げ隠れできないし、反対方向へ行く手立ても全くないのです。そこで、「死とは何ぞや」と、答を得る探求を始められたのです。答を探求する旅は喜びと興奮に満ちていて、不具合などほとんど気にもならないご様子をよく知っております。ある時先生の首が曲がったまま元に戻らず、首につながっている背中の骨と腰も曲がっておられるのを見た人が、すぐ隣に仙骨を治療する専門家が住んでいるのに、何故診てもらわないのかと尋ねたところ、「私の首が曲がってしまった訳を理解しない内に治すようなことをしてどうする」と答えられたそうです。その後何か月してから首はまっすぐになっていました。自然に治ったのであって、仙骨治療を受けたわけではありません。解答を得るために様々な疑問を持ち、解いて行くことが生きがいの方でした。痛みなど全くと言って良いほど苦にしておられなかったこの方の最後は、襲い来る激痛に耐えて息をすることさえままならない状態でした。それをじっと見ていた私にやっと途切れ途切れに、「良く見ていなさいよ。私は天鏡図の最後のところまで今見届けているのですからね」と。それが私の聞いた最後のお言葉でした。でもその時にはその意味は分かりませんでした。

今は不具合も痛みも苦しみも全部真っ直ぐ見据えて、びくともせずに残りの人生を送りたいと思っております。体の声を聞きながら。

明晰性が確答をもらう絶対条件

 

 

明晰性が確答をもらう絶対条件

自分の意識が明晰でなくて、何を問い、何を答えてもらえるだろうか。
質問が詳細で、明確であればあるほど頂ける答も端的で、すぐに応用が出来ます。

ダウジングを例にとりますと、「はい」なら振れる、「いいえ」なら動かないと設定。
鼻炎の他に皮膚トラブルがある私を例にとります。

「私が敏感肌で発疹が出るのには根本原因がありますか」
「はい」
「原因は一つ以上ありますか」
「はい」
「二つですか」
「はい」
「三つ以上ですか」
「はい」
「二つだけ答えてください。食べ物が原因ですか」
「はい」
「砂糖を使った甘いものですか」
「はい」
「甘い果物少しは良いですか」
「はい」
「他にもありますか」
「はい」
「乳製品ですか」
「はい」
「小麦製品ですか」
「はい」
「三点に注意すれば、症状は緩和しますか」
「はい」
「もう一つは人間関係のトラブルですか」
「いいえ」
「自分自身が原因ですか」
「はい」

 以上の要領で自分の中にある原因についても聞いて行きます。答が端的なだけにすぐに処置できます。人生の途上で降りかかるあらゆるトラブルを解決して行く方法で最上のものは「自力」で「問と答」を引き出して行くことだと思います。答が分かったら後は必要に応じて友達なり、専門家の助けも求めて行けます。後回しになった三つ目以降の原因の電磁波に関しては専門家に助けてもらいました。アルコール飲料に関しては摂取制限をしています。自分自身の問題は継続して心の断捨離をしています。あまりに一時に全部の原因を処理したくないので、選択は自分でしました。

『小田野早秧の光透波理論』よりの抜粋

 もし吾々に「ことば」がなくて「耳にきく」音感のすべてが、一様に何の意味にも感覚されず、「目に見る」すべてが「無名詞」の実在の世界であったとすれば、吾々は何事をも何物をも「知る」という実感を得ることは不可能であろう。こうして「知」の性能が空白になれば「考える」という事実も成立し得ない。体験体得といえども「感能力」から「ことば」をはずして何が成り立つだろう。
 実に吾々が「感知」する事実の成立は、吾々が感覚する限りの実在現象が総て名詞(動詞も働きに対する名詞を成している)になって、吾々の生命に感置されて「思考力」や「理解力」という知性能に活用されているからである。
 「ことば」こそが、人類に理解する理性を成立進展せしめて、無形に有形に人を動かしているのである。

 少し難しい表現かもしれませんが、人間に「ことば」を使う能力がなかったら、いかなる問も作れないし、答もいただけないということです。答えは問が明晰なほど明確であるということも当然の理ですから、明晰であろうとする意志が大切だと認識することがスタートラインです。

2019.4.23
困った時の文字頼み

負の連鎖―情報過多の落とし穴

先日電車に乗っていて気がついたのですが(車中でスマホをしないので、閑です)、高校生らしい男子が5人乗りこんできました。中で一人を除いて全員口で呼吸をしていました。治療師の端くれとして、長年の間に眼で診断する訓練も受けたので、観察はていねいに行うことにしています。3人はかなり重度の蓄膿症のようですぐにそれと分かるほどの顔面腫脹による盛り上がりが鼻の両脇にありました。もう一人はマスクをしていましたが、鼻を覆わず口だけ覆ってありました。やはり鼻で呼吸はしていません。一人だけ鼻で呼吸していましたので、5人に一人鼻炎ではないという確率です。10代の青年が元気はつらつどころか病気なのです。この人たちは将来どうなってしまうのでしょうか。

副鼻腔炎というとショックが少ないように思えますが、蓄膿症という言葉には不気味な響きがあります。その通り、怖い病気です。耳に膿が入ると中耳炎、慢性化すると難聴が加速されます。眼も悪くなりますし、頭もぼーっとして働きが鈍くなり、注意力が散漫になることから様々な事故が起きやすくなります。膿が喉から体の中にも入って行きますので、様々な疾患の原因にもなります。それより何より苦しいし鬱陶しいです。動物としての人間は自己防御のメカニズムからそれに対応するために感覚を鈍くして苦しさがあまり精神を疲弊させないように防御しますが、解決にはなりません。多くの場合どんどん重篤化して行く傾向にあるからです。動物としての「感」は生き延びる為に備えられた重要な機能です。これが鈍ってくるのですから大問題です。嗅覚が鈍ると腐敗しているなどの体に良くない食べ物を食べてしまいます。聴覚も触覚も危険が近づくと警戒信号を出して、「何かおかしい」と気づかせてくれますが、この機能も衰えます。雨の日に川の中洲でキャンプをして死んでしまった人たちもいました。十分な支度をしないで登山をする人たちも多いです。プラットホームの端近くでスマホをしていて誰かにぶつかって線路に落ちた人もいます。危険は直感的に感じ取るもので、~~だから~~しないという判断力や知識はそれほど無くともほぼ無意識に避けるのが動物的直感です。動物は判断や予備知識を使わずに生き延びています。

さて、またまた私ごとになりますが、蓄膿が原因の難聴になってしまいました。長年の花粉症によるアレルギー性鼻炎が中耳炎を引き起こし、難聴度は片耳が軽度、片耳が中度の難聴という検査結果でした。それが直接間接に関係した症状もいろいろあります。粘膜も含めての皮膚のかゆみ、発疹、頭痛、頭痛が原因の閃輝暗転という視野の一部が暗くなって見えなくなる症状が出る。耳下腺の痛み、明け方に出る咳が何十分も止まらない為に疲労と睡眠不足になる。まだまだありますが、これだけでも相当鬱陶しいですし、楽しく明るく生きるのには努力が必要になります。幸せなら努力など要らないので疲れはしません。疲労があると余病併発、急激な老化現象が起きます。負の連鎖です。

知人に鼻の治療の上手い(当然体全体のケアも含まれます)鍼灸師がいることをすっかり忘れていたのを他の友人に教えてもらったのが今年の始めでした。本当にすっかり忘れていたのです。これが年をとるとよく起きる現象です。ともかく、正月三週目に治療を始めて数回で鼻のつまりが無くなりました。頭痛は軽くなり、閃輝暗転は一度起きただけで、もう1か月起きていません。明け方の咳も止まりました。粘膜のかゆみも半減して、花粉の季節にもかかわらず、くしゃみもあまり出なくなりました。難聴に関しては先週の聴力検査で両耳とも正常範囲で、大体40歳代の人の平均値になっているとのことでした。加齢性難聴だとこうは行かないことが多いそうで、中耳炎が主原因だったからだろうと言われました。耳のケアに関しては自分が行っている温熱治療の器具を使って毎日内臓や耳下腺などを温めていました。耳が聞こえなくなって来たという状況にはかなりの恐れがあったため、本腰を入れて何とかしようと決意できたのだと思います。
結果的に5週間で負の連鎖が止まったのです。もう一つ付け加えなければならないことは、ほぼ毎日飲んでいたお酒も週に1回にしたことです。今は2回のこともあります(ちょっとあぶないかな)。でも自分でケアをすることはこれからも続けて行くつもりです。

心の断捨離では体に向き合っていなかったので、それだけでは十分ではないということをここで皆様にお伝えしたかったのです。今はインターネットのおかげで体の不調があると原因や治療法などいろいろ調べることができるのですが、あまりにも多くの情報が飛び交っていて、何かを調べているとそれに関連した物品の売り込みの広告がどっと入って来ます。一日おきくらいに閲覧履歴を削除してもどんどん入ってくる情報であふれかえります。まるで真反対の情報もあります。これとあれをしたら、結果は相克するかもしれないものあります。過剰になるのは足りないよりも危険です。素人が言っているのかプロが言っているのか、プロが言っていても半分宣伝なのか。混乱しないためには慎重に比較検討するという作業が必要になります。基本的には「何も要らない、何も買わない」という姿勢でのぞみ、必要最低限度の処置を何回も考え、比較検討した後に試験的にやってみるということをしています。効き目がありそうなものを足すのではなく、悪いものを取り去るというのが原因治療、未病ケアであると教えて下さった治療家たちに賛同しています。

二年ほど前に家の中の電磁波対策と言うのをいろいろやったのですが、十分ではなかったのでしょう、アレルギー反応はあまり軽減しませんでした。サプリなどを足して行くのではなく、不具合の根本原因の一つと考えられる帯電をしないための対策も必要と思ったのです。しかし素人考えの処置では十分ではなかったかもしれないことが二年間の実験で分かってきたので、現在プロに調査と対策の提案を依頼しています。これでさらにアレルギー反応が軽減すれば蓄膿の原因である鼻炎とはお別れすることができるかもしれません。医師や治療家に丸投げしないで、本人参加型の根本的な未病対策が大切だと思います。そしてもし可能なら家族の為の未病対策も大切だと思います。家族の病気は辛いものです。

ともかくアレルギーの症状が軽減したので、点眼薬やかゆみ止めは止められました。食べ物は外食を避け、出来合いのものを買わず自分で作っています。アルコール飲料と乳製品もアレルゲンなのですが、ワインを飲むとチーズが欲しくなります。ワインを飲むのを止めたら別にチーズは要らないので一石二鳥でした。一日平均4、5千歩あるき、軽い運動(主に掃除と庭の手入れ)を毎日するという簡単なことはしていますが、後は気楽にしています。気持ちの持ちようも健康維持の大切な要因です。心の断捨離も続けて行くつもりです。

高校生の男子を電車の中で見て、日本の将来を憂慮したのがきっかけで、この文を書きました。
2019.2.25

覚者と凡人はどこが違う

4番目の問題

 

 

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

前回の記事の末尾に、豚に羽が生える可能性に触れました。これは少し捕捉説明が必要と思い、この記事を書いております。

スティーブさんは単にpossibility(可能性、実現性、今はなくとも将来は可能かもしれないという意味を含んでいる)とpotential(開発したものではなく、潜在的な能力)の違いについて、豚の羽という比喩をお使いになったのですが、せっかくですので羽というものについて他の観点からの考察をしてみたいと思います。

鳥は飛べるというpotentialを備えられて生まれてきています。羽があるということの他に体の構造が筋肉と骨とで出来ていて脂肪はあまりありません。余分な体重がつかいないように飛びながらでも排便ができます。こういう構造を持っているから飛べるのだろうと、飛べない我々人間は解釈しています。これはこれでそうとしておきましょう。

これに対して芋虫は飛べません。でも成長の過程において羽化という現象を通過して構造的変容をして飛べるようになります。

では、ダンボという比喩は何を意味しているのでしょうか。象は豚に劣らず体重が大きい生き物です。いくら耳が大きくても飛べるような身体的構造は持っていないと、見た人たちがその可能性をすぐに否定するような条件を備えています。おそらくクリエイターのディズニー氏はそれを意図して象を選んだのでしょう。しかし、その一般的通念をくつがえして、ご存知のように、ダンボはおまじないの羽をもらって飛びました。象のpotentialでは飛べない、しかし羽というおまじないの奇跡的効果で飛べたという経験をしました。Possibilityを信じるに足る基礎的条件は整ったのです。おまじないの羽は無くとも、可能性を信じる固い信念があれば既成概念を打ち壊して、奇跡は起こせるというのがこの物語のテーマでした。

 

では人間が飛べるpossibilityはどうでしょうか。物理的には無理な形態をもっているので、他に何かしなければ飛べるようにはなりません。重力場をコントロールできるような能力を開発すれば可能性はあるかもしれません。

ここで、人間と言う生物のpotentialとpossibilityという二つの能力について考えて見ましょう。人間には抽象的観念を把握する能力があります。可能性という言葉も生来の能力という言葉も重力場という言葉も理解できます。

私たちが存在しているこの宇宙という場は電気と磁気が交差するグリッドのような構造が見えないところで基盤になって機能しています。このグリッドの交点がゼロポイントと呼ばれる「場」だという人たちが大勢出てきています。21世紀の科学です。ゼロポイントは重力の作用を受けない場です。では重力場の制御と言うことはどのようにしたら可能なのでしょうか。ダンボの例ですと、自分は飛べるのだという信念です。誰がなんと反対しようと自分はそれにつられることなくやってのけました。友達の声援も力に加わっていたようです。増幅された信念のパワーです。

では信念とは何でしょうか。見たところどうやら既成概念を上書きし、それをくつがえす力を持ったエネルギーのようです。信念の力の源泉は不退転の心です。迷っていては出てきません。

もう一つは「そんなことは無理だ、不可能だ」と思ったことがない人(例えば無心な幼児)が持っているものです。否定のエネルギーの影響力は絶大なものですので、ほんの少しでも自分を疑う気持ちがあるとエネルギーダウンしてしまいます。

人間が飛べるはずがないという既成概念を打ち壊すような例がときおり現れても打消しの力のほうがはるかに大きいので、いつの間にかうやむやのうちに立ち消えになってしまうようです。

今から十年くらい前にYou Tubeで放映されていたロシアの森で犬を散歩させていた男性が空に浮かんでいる少女をビデオに撮って話題になりました。今でも見られます。最新のアップロードではコマごとに見ては隠れたワイヤーがないか画像が合成されていないかを検証し、そういう痕跡は見られないと書かれていました。

人間の意識は抽象を把握できることから、いったん人としてのpotentialに気づいたら、possibilityは大幅に拡がるのではないでしょうか。21世紀に生きる人間が自らの絶大なる潜在能力に目覚めたら、それが羽化です。人類史の紆余曲折の失敗と挫折から学び、意識を練りあげ、真理を理解する力を培い、最後に熟して羽化すると、芋虫が飛べるようになるように人間も飛べるようになるのではないでしょうか。スティーブ・アールさんの本の末尾に、人類全体の進化とは特定の一個人が超越することでは起きないとありました。全人類の集合意識が熟れて羽化することが、人間をこの宇宙に出現させた天の意図なのかもしれません。集合意識が熟れるということは不可能という思い込みの呪縛が外れるということですから。

絶対の孤独の体験記

絶対の孤独の体験記

新年のご挨拶文にありました、小田野先生が言われるところの「絶対の孤独」とはどういうものなのかを考えるに当たり、おそらくその意味での絶対性、あるいは唯一無二、というものを体験した人と言えるのではないかと思われるのが久司典夫さんです。スティーブ・アールさんの書かれた本に描写されていた久司典夫さんの体験を一例としてご紹介します。

以下は逐次的翻訳文ではなく、私の読後感も交えた抜粋文です。

典夫はある時例によって運転中に何かを考えている時、様々な考えが起きては去って行くのを見ていた。考えが湧いてきて去った後、次の考えが湧いてくるまでにほんのわずかだが、何もない静寂があるということに気づいた。考えが湧いてくる前にも後にも間隙があったのだ。あたかも静寂と言う生地があってその上に思考が乗っているような感じだった。思考の間隙はほんのわずかの時間だったが、非常に興味を引かれた典夫は間隙の方に注意を向けた。その体験があった後のこと。

やはり運転中、陽光と空の美しい自然の驚異に満ちた風景の中を走っていたのだが、景色よりももっと気をとられていたことは思考というものと、あの静寂の瞬間の発見と言うことだった。そして静寂というものの不可思議さについて夢中になって思索していた時のこと。静寂の間隙がほんの一瞬の長さから何分の一秒、そして一秒、二秒、数秒となり、しまいに十秒、十五秒の長さになっていったのだった。その静寂の時にあらゆる思考は消え去り、彼のマインドは完全に静かになった。それにも関わらず周囲の状況は把握できていたし、運転は完璧に制御できていて道路の状況や他の自動車も見えていた。何も考えていない時のほうがかえって周囲の状況がクリアに把握できていることから、思考はむしろ邪魔なのだと思えた。典夫という人物が運転の主導権を握っているのではなく、典夫は単なる代行者なのだと思い、自然に動いて行く流れに楽について行くだけにして、思索作業に戻った。思考と静寂の二つは正反対の現象であり、静寂という間が無かったら思考は出てくることはできないという意味で補完関係にあるのではないか。しかし、思考は時間的に有限であり、消えてゆくのに対し、静寂は永遠で時間を超越しているものなのだと考えていた。

今や静寂は分単位になり、思考にとって代わった。静寂の支配する中は空白でありながら、同時に何かが充満していて、形はなく、内容物はないのにも関わらず、そこに満ちている存在はそれが何であるか説明不能のものだった。神の恩寵と呼ぶか、絶対平等性と呼ぶか、無償の愛と呼ぶか、他にもいろいろの表現はあると思うがどれもそれを表現するには十分ではなかった。そして、今までにそこに行ったという記憶はないのに、まるで故郷か自分の家に帰ったような感じがした。

サービスエリアに車を停め、食堂のカウンターに座り、お茶を飲みながら周囲の人々を見渡すと、キッチンで働く人、カウンターの中の人、何か食べている客がいて、彼も別にその人たちとどこも変わらない普通の人だ。彼にとっての家庭は彼らにとっても家庭だし、彼にとってそうであるものはどの人にとってもそうなのだと思った。誰かが誰かより教養があるとか高学歴だとか能力的に優れているとかは全く関係なく、皆が平等だということに気づいた。全人類共有の場であるパラダイスの真っただ中にあるサービスエリアに、存在の一表象である典夫が座っているのだ。

このことからさらに典夫は運転席から見える風景の中のあらゆる物が、エネルギーの所産であって、それらが生きていることに気づく。生物だけではなく、石や岩までが生きていて、全ては一つなのだと気づいて、最後に角棒で脳天を殴られたかのような衝撃で全身を震わせながら響き渡った声が言ったことは、

ああ、何てこった!僕ってものは本当はいないんだ
僕ってものは存在していないんだ

まだそれは大雑把な気づきだったが、衝撃的な認識であり、粉みじんに打ち砕かれながらも躍り上がるような刺激で、その上非常に滑稽でもあった。

注。このことを The Cosmic Two-by-Four(天からの角棒というような意味)と著者は表現しています。

注。典夫さんは今、自分という個人は幻影であって、実はすべては一つであって、一つしかないのが実在であるという気づきから、個人という幻想を、Phantom Selfと表現しています。

著者は、典夫さんの体験はひとつの体験であって、誰もが同じことをしなさい、それが「気づきへの道」ですとは言っていません。トラックを運転しながら同じような手法を使えという意味ではありません。命とそして宇宙という場を成立、維持、機能させている叡智はただで答を提供してはくれないのです。答は問いに応じて現れてくるものなのです。深遠なる叡智による答を得るには正しい問を持つことなのです。従来のいわゆる人類の智慧の集積が十分ではないばかりかむしろ有害であることは現在の人類社会がどういう状態になっているかを見れば分かることです。人類は今まで種全体としての進化を推進するどころか、何くれとなく策を弄して阻んできたのです。典夫さんの体験はとても面白いものですが、それは典夫さんの物語なのです。それは人というものが本来持っている能力を我々に見せてくれてはいます。喩えとして、豚に羽が生えて飛べるようになるかどうかは可能性としては(絶対ないとは言えない)あっても、豚が本来持っている能力ではないのと同じです。目指すべきものは特殊な例外的個人の気づきではなく、全人類の集合意識の進化なのです。

久司典夫さんの気づき

困った時の文字頼み

 

 

続・心の断捨離

以前「心の断捨離」というテーマでお話をしたことがあります。今日は更に心を対象に見つめて行くことをしようと思います。

最近になって家族のTがこの世での生を終えて淡々と去って行きました。悲しみで胸が張り裂けるのではないかと思っていたのが、案に相違して悲嘆に暮れるほどの辛さもなく、受けとめることが出来ました。この世で最も深く信頼し、敬愛していた人でしたので、意外なことでした。哀しくないわけでもないのですが、苦しくはないのです。まるでそこに居るかのような温もりが家の中に残っていて、いつものように何か相談事をすると、懐かしい声で答が聞こえてくるのです。49日間だけなのかしら、とも思いましたが、違うという気がします。

父が亡くなった後、今まで知らなかった情報が入って来たことを思い出しました。知恵の量が増えたという感じで驚いたことでした。詩が好きだった父の感性が乗り移ったかのように、急に詩心が備わったのか、大学の詩の授業で感想文を提出したら、講師が他の生徒にも分かち合いたいと、読み上げてくれたこともありました。哲学書を読むとチンプンカンプンだった箇所が何故か理解できるようになったこともありました。母が亡くなった後も同様で、新しい観点、新しい感性が加わったことを感じたものです。また、それまで好きではなかった、母の好物の食べ物が急に美味しく感じられて、今では大好物になっているのも不思議な現象のひとつです。それらを口にすると、母が一緒に味わっているという感じがするのです。「美味しいね」という懐かしい声と共に。
無形の遺産というものなのでしょうか。有難いことだと思います。この話を二人の友人にしたら、二人とも同じような経験をしたと言っていました。

悲しみという字を使った熟語は悲惨、悲嘆のように、字を見ただけでも辛く苦しい感じがしますが、哀憐という方の哀しみは切なくて、懐かしくて、胸が大きく反応します。

悲は「心に非ず」、と書きます。哀は「アイ」と読むのですねえ。愛があって胸がいっぱいの状態の哀しみです。不幸とは違うのです。

断捨離の際に感情的な動きを観察したように、今回も哀しみを見つめました。それで悲嘆ではなく、哀憐だということが体感できました。愛は不滅にして永遠なので、温もりという感触で残っているのだと思いました。心とは此処(ココ)という存在の場に露(ロ)われているもの、此処に永遠不滅に存在している、即ち愛のエネルギーであると解しますと、悲しみという字は何故そのように書くのかが納得できます。

愛する者の喪失という、本来は非常に辛い出来事と感情的反応が分離して、それを観察している自分を見つめ続けていたら、心がどんどん自由になっていって、苦しみから解放されたと言う経験を久司典夫さんがなさったプロセスがスティーブ・アールさんの本に書かれていました。哀しみあるいは悲しみ(原文でsorrow)はそれを観察することで自然に過去に起きた辛い出来事から離れて行くと典夫さんは言っているのですが、プロセスは非常に長期間で、後から後から湧いてきたそうです。人は40年も50年も生きていると実に大量の悲哀と対になった出来事の記憶をため込んでいるとのことです。私は70年分ため込んでいるのですから、プロセスは非常に長いと思います。でもその途上でどのように心が解放されて行くのかを見るのが楽しみです。

断捨離とは切って分離させることで、その呪縛から離れることだと、文字通り字が教え示して下さっていたのです。固執していた感情は捨てようと思って捨てられるものではなく、木から熟した果実が自然に落ちて離れて行くまで待つしかないのです。
2018.12.5

夢が誘う心の断捨離

 

縁は異なもの味なもの

云音表の一行目、アイウエオのイには三つの字が入っています。意と爲(旧字の為)と異です。意思あるいは意図があって、行為がそれに続くということは分かりますから同じ音のくくりの中にあることは納得できます。口を開いて出るアの発音は楽ですが、イになると口を横に開くという筋肉活動が加わり、エネルギー消費も増えます。つまり努力が要るわけです。そこに意思、意図、行為という能動的活動が必要な文字が入っているのかなと、当初は推察しました(今ではもっともっと広大な意味があることを発見していますが)。ですが何故ここに異が入っているのだろうと不思議に思ったことを憶えています。

世の中のご夫婦や仲の良い友達同士を見て、あの人とこの人が何故?と不思議に思ったことはありませんか。これをことわざでは、「縁は異なもの味なもの」と言います。男女の巡り合い、結びつきというものは不可思議なものだという意味だそうです。

不可思議に挑戦してみることにしました。それで異を分けて見ました。

なんだか電磁場が共鳴している感じがビンビンします。天空は言(コトバ)が共鳴している命のエネルギーが充満しているところで、目には見えないネットワーク、天網が張り巡らされている。それぞれの網の交差点がある周波数をもった個々の命と他の命との結び目なのでは、と受け止められます。それぞれはまた個々の意識を持っていて、結びついている他の命と交流して生命活動(爲)を行っています。縁でつながった相手との交流が共鳴なのでしょう。響きが美しいハーモニーを奏でているのか、はたまた不協和音を放っているのか、いずれにしても体験して味わっていることが生きているという意味なのだと思います。喧嘩ばかりしている夫婦が別れないのも、一見仲が良さそうな夫婦が離婚するのも何を味わって、それが口に快いのか、苦くて吐き出したいのかは当事者のみの知るところなのでしょう。

人間以外の生き物はもっと寛容なようです。

昔アフリカのサバンナに行ったことがあります。当時は今よりはるかに多くの動物が生息していました。絶滅危惧種という言葉も一般的ではなかった時代でした(いつのこっちゃ)。イギリス領だったため、密猟者も厳重に監視されていて、捕食者と捕食される者も見たところのんびりしている感じでした。野生のままの動物生息地ですから、捕食動物にも餌は与えませんが、動物の移動を妨げるような障害物(自動車道路やフェンスなど)が無い広大な地域が確保されていましたから餌を得るのは比較的楽だったようです。

宿泊していた樹上のホテルの窓からは水を湛えた大きな池を見ることができました。そこには多くの動物が水を飲みに来ていたのですが、捕食動物も他の動物もみな一緒に水を飲んでいました。ライオンや豹も空腹でない時はのんびりしているので、草食動物も平気ですぐそばで水を飲んでいました。敵同士というくくりはないので、その時々で命の危険がある時だけ、即時対応しながら生きているのが人間以外の生き物のようです。天敵と言う言葉は人間だけが使っているのです。不協和音は人間同士の関係においてのみ発生するものなのだと思います。

2018.10.5

嫌い!の効用

友達が恋人になる時

 

久司典夫さんの気づき

前回の記事でも他の記事でもたびたび触れたことですが、大多数の人間が持っている誤った認識、について以前「静流の部屋」の記事として翻訳した文がとても役に立つのではないかと思い、掲載します。

作者はアメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。

以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う? 
ノリオ:世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ
ノリオ:だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う~ん。分かったような分からないような...
ノリオ:変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。
答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ:本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった
ノリオ:ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。
もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)
僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かにぶつかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:そうじゃない。~のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ:「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。
人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。(中略)最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の
“SpiritualEnlightenment, The Damndest Thing”という本。

アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大規模な目覚めの時期を迎えているように思うよ。(後略)
2005/12/30 翻訳:静流

後記。この翻訳をした当時にジェドさんの本も読んでみましたが、抱腹絶倒の面白さでした。当然まるで傲慢なところはなく、自分は悟っているなんて幻想を持っている人たちがいかに勘違いしているかもよく分かりました。この本を読んだ後私はずいぶん物の見方が変わったと思います。久司典夫さんの本は本人ではなく、光透波を学ぶ仲間のスティーブ・アールさんが最近書かれました。

2018.9.18 記

shizuru’s friends アーカイブ – シーちゃん的心と頭のステップアップ