気づきへの導き

11月20日の朝9:07分、右のコメカミに鋭い痛みが走った。電気的な感じの走り方で、「あ、電気→雷にL」と思い、メモしました。遠隔ヒーリングの時刻になっていたので、後で字分けすることにして、痛みの来た時刻もメモ。

他の人にはせっせとヒーリングしているのに、セルフヒーリングをさぼるので、今日はきちんとしようと思い、感覚を研ぎ澄ませて痛みの原因を探索。電気的刺激と感じたことから、

電を字分けすることから始めました。電を二つに分けると雷とL(開くという意味の形)になるので、神がなんと言っているのかを考えました。コメカミは米、そして神と当て、神経かと問うと、そうだと出ました。神経は、大自然の法則に即した正しい経/道と取れますので、何か道に外れたことをしていると言われたのだと解釈。それが体のどの部位に不具合が出ているのかを探ることで分かることが多いので、診断を始めました。

一番気になった箇所は胃の重さでしたので、その原因を調べたところ、真っ先に「迷走神経[i]」と出ました。「わあ~来た来た」と合点。米(コメ→光命)が走っている(シンニュウの意味)という意味の上に更に、走っているのは迷い走っていると重ねて教えてくださっているというご丁寧さで、無視できるはずもない。自律神経のバランスがとれていなくて、副交感神経の一部である迷走神経の機能不全で胃の消化不良が起きていると診断。

二番目に「食べ方」と出ました。これはすぐに思い当たりました。一緒に暮らしていた家族が亡くなってから家で独りで食事する時にゆっくり時間をかけて食べないことが多いからです。まるで仕事のように、さっさと片づけて次の仕事にかかろうとして、食べ物を味わい、美味しいなあと自然の恵みに感謝することもない食べ方になりがちでした。

次なる原因は膵臓の外分泌機能の不全。これも必要な消化酵素が出ていない為に消化不良のみならず、脂質異常や胃酸過多も起きていると出ました。

胃の診断が終わって、次に出たのは視神経でした。眼精疲労のみでなく、他も探したところ、またまた「来ました」。視交差の異状と三叉神経の不具合。

交差と三叉で二重に交差と示されたので、何が交差しているのかと考えると、「父と母と子である自分との三者の関わり」と答が来ました。三叉神経の不調には感情的要因が大きく関わっています。翌日は母の命日ですので母との関りで解消していない感情的なしこりを取る必要性を感じました。心の断捨離もこのところさぼっていましたので、「迷って走って」いたわけです。眼精疲労は常時ありますので、その治療もしました。多くの静脈の流れが悪く、未分解の老廃物が滞っているので、これを分解排出する治療をしました。肝臓さんに協力して頂く為に十分にねぎらい、黙って働き続けてくださっていることに感謝します。前回のセルフヒーリングで肝臓の門脈の不具合と総胆管の狭窄と言う、肝臓に必要な胆汁を補給する機能の不全を改善してあったので、肝臓さんは文句なく作業に協力してくれます。普段のお付き合いがいざという時の大きな頼みになるのは人間関係と同じ原理です。

米神から迷走神経、三叉神経と続けての「お告げ」でしたので、様々な気づきを頂けました。

こめかみを英語でTemple(寺、神の社)というのも面白いですね。米を噛むと動く筋肉のある場所というのが語源のようです。米はしっかり噛みましょう。

2020.11.21
母の命日の朝

[i] 12対ある脳神経の一つであり、第X脳神経とも呼ばれる。副交感神経の代表的な神経。複雑な走行を示し、頸部胸部内臓、さらには腹部内臓にまで分布する。脳神経中最大の分布領域を持ち、主として副交感神経繊維からなるが、交感神経とも拮抗し、声帯心臓胃腸消化腺の運動、分泌を支配する。多数に枝分れしてきわめて複雑な経路を示すのでこの名がある。

出典:ウィキペディア

 

雑草から学んだこと

一緒に暮らしていた家族が亡くなって約二年になります。亡くなる半年前くらいから庭仕事を少し手伝いうようになって、通算二年半、主に草取りをしました。

草を取りながら、その生命力に直に触れ、学んだことがあります。草は一応人間が「雑草」と分類したもので、きれいな花が咲く植物ではないものです。きれいな花が咲けば「園芸種」として販売され、珍重されます。それはさておき、雑草取りをしたことがある人ならすぐに分かることですが、「取っても取ってもすぐに又生えてくる」のです。とても良い環境とは思えないところにも生えるのです。もっと良い場所があるのに、踏み石の隙間の、狭くて、土の少ないところ、セメントの隙間などです。それを放っておくと石が持ち上がるほど大きく成長し、根がはって非常に取り除き難くなります。何という力強さでしょうか。

感心しながら根を残さないように気をつけてゆっくりと揺らしながら細かい根がつながっているものを抜くことに自己満足しながら、その反面、「何故こんなことをする必要があるのだろうか」とも思います。草は人間と共存できないのだろうか。考え出すと疑問は山のようにあることに気が付きます。

生態系全体の循環に関わる視点からなら、不要な草は無い筈ですが、「これが私の庭」という個人の所有地で、しかもあるガーデンデザインに沿って、要るもの、要らないものと分類すると、不要なものが雑草ということになります。人間社会はそうは行きませんよね。不要な人間は刑務所や精神病院、老人ホームなどに隔離しても、抜き取って捨ててしまうことはしません。ある意味では残酷なことかもしれません。自由を奪われて生きることを強制されているわけですから。草は自由に好きなところに生えます。それを私の勝手で、たい肥にして他の形で有効利用するなら草も役目を果たしているのだから抜き取っても良いと自分に言いながら抜きとります。

何故生え難いところにも生えるのか。「どこが良い場所、どこが悪い場所ということで決めていないのかもしれない」。要するに居心地だけで決めないらしい。では、何故か。一つには、居心地の悪いところを良い場所に変える結果を生むことです。自然界にとってセメントで固めた地面は異質な場所です。生命の育ち難い場所です。これを良い場所に変えるには、先ず生えることです。小さな草が根をはり、水を吸収し、土を集め、徐々に場所を広げ、石垣や舗装道路に亀裂を入れ、最後にそれらを崩し、ひっくり返し、粉みじんにして行きます。そうすると、あたり一面が草地になり、「居心地の良い」場に変わるのです。私の場合は「私の家」の敷地が崩れてしまうと困る事情があるので、対応策として雑草取りをしますが。

では誰がそれを指導指示しているのか。これは「自然」という文字を見ると分かります。

「自ずからに然らしめられている」という意味です。「そのような道理になっている」のに従って、大自然は運行しているのだと分かります。人間以外の生物の大多数、とりわけ植物と小さな生物である昆虫類や微生物には共通点があります。個体としてでなく、集団として共同作業をする点です。共同作業には全体を生かす為に常に個体が無料奉仕しています。個体は比較的には短命です。「生きているうちに成し遂げたいこと」などという時間的制限を持ちませんので、結果的には「倦まず弛まず」の作業ができます。何年かかろうと何十年かかろうとお構いなしに、次の世代が引き続き作業しますので、「人類滅亡後」何十年、何百年か経ると、地球上から人口の建造物は全部崩壊して無くなってしまいます。何千年も崩壊していないピラミッドやスフィンクスは人間が劣化を防ぐために補修をしているから保たれていますが、人間がいなくなればやはり、消えてしまいます。画像を見るとかなり劣化しているのが分かります。

草から学んだことは、当たり前のことが人間にとってはもはや当たり前でないことです。それは、

生物(人間もそうです)には自らの力で生きる能力が自然に備わっているという厳然たる事実です。これが多くの人間にはもうすでに当たり前ではなくなっているのです。自然から大きく離れた生活を始めてしまったからです。

何が自然で、何が不自然かという感覚の麻痺が起きてしまっていて、「あれ、何か変だ、怪しいぞ」と思わないで誰かに「これは良いものですよ」、「こうしないと死にますよ」などと押し付けられたり、脅かされたりすると言うなりになって、生殺与奪権を他者にゆずって、所謂「丸投げ」をして生きています。生きているとは言い難い状態ですが、ともかく脳死していないし、心臓が動いている限りは生きているとみなされます。でも自分で生きてはいないのです。

人としての役割は他の生物にはない能力を駆使して、大自然の営みを損なうことなくこの地上に生きる物全てと共存共栄し、更に他の生物には出来ないことを加えることで、天国のような美しい場所を作り、和気あいあいと交流して、互いの智慧を分かち合い、分かち合う喜びの音楽を奏でることだと思います。それを代弁している詩があり、初めてその歌を聴いた時に、私はそれに大きな感動と感銘を受けました。

 天のお舟に乗り込んで つま弾く指を携えて
 銀河に響くメロディーを 奏でるために旅立った
 時代は来世 人々は 琴に玉水はじかせて
 七色橋より滴り落ちる 光し羽衣、胸宿す
 忘れ去られて那由他 不可思議 幾年過ぎた
 物語を始めよう 再び始まる物語
 お伽話とみまごうほどの美しき
 天地をつなぐ物語 それはあなたの物語

余計かもしれない付け足し。

天界にいて光だったら体が無いので指は無い。つま弾けないとメロディーは銀河に響かせられない。琴(コト→言→光透)に玉水(玉のような音→母音・マントラ、美しい思いの響き)、虹のような美しい光の架け橋から舞い降りてくる光の羽衣を胸に宿す。羽衣は天に還る乗り物。この為に地上に降りて来たのに、人間として体を持ったが故に、すっかり奏でることを忘れて長い長い年月(那由多、不可思議は巨大数の単位)が経ってしまった。でも今からその物語を再び始めよう。

巨大数は面白いので抜粋して書いておきます。

一、十10、百102―――億108、兆1012、京1016―――那由他1060、不可思議1064

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

 

 

ハッチ 小さな守護天使 

以前他のホームページに掲載されたお話ですが、五話全部をここで一気読みできます。お閑な折にどうぞ。

第一話

わたしの名前はハッチです。
わたしは天使です。

 天使の世界には人間の世界のような時計がないので、いつ生れたのかよくわかりません。
 ともかく最初の記憶としては、ふと気がついたら前に大きな羽をつけた存在が立っていてその周りにいろいろな色の光がありました。光の中心はまた他の存在のようなのですが、形といえる形はありません。
 
 その大きな羽をつけた存在は大天使というらしくて、大天使は新しく生れた小さなわたしにいろいろなことを教える係りのようです。

 大天使は体長とほぼ同じ位の大きな長い羽を持っています。それにくらべて生れたての小さい天使の羽は手の平くらいの大きさしかありません。まあ飛ぶのに別に羽は必要ないのでいいのですが。

 すぐに何人かの大天使が各カリキュラムを但当して、わたしと他にも生れたてらしい小さな天使たちの教育が行われます。それぞれに名前もついていてだれがだれか判るようになっているようです。私はハチスケルというのが正式な名前なのですが、クラスメイトからはハッチと呼ばれるようになりました。なんかそんな名前の虫が地上というもうひとつの世界にいてわたしのようにやはり小さな体で小さな羽をつけているのだそうです。大天使はみな正式名で呼ばれていますが、小さい天使はたいてい愛称で呼ばれます。わたしと対照的に体長が長いチョウスケルというクラスメイトはチョウスケという愛称で呼ばれ、長短コンビでよく一緒に遊びました。

 天使の教育過程を終え、天使三原則を守る誓いを立て、今後の行動の指針となる天使マニュアルをもらってみなそれぞれの持ち場へと出発です。

 私は人間の守護をする係りとなって、見習い天使として先輩の天使の監督のもとに地上世界に新しく生れた人間付きになりました。

 地上世界というのは形のあるものがだいたいいつも同じ形を続けているところで、有るものがすぐに違う形になったり透明になったりするもうひとつの世界にくらべると随分混み合っている感じがします。

 初めて守護天使の仕事をする場合はマニュアルだけではこころもとないので監督をする天使がついてきます。まあそれで助かりました。なにせ失敗の連続で、監督がいなかったらどうなっていたかわかりません。人間の平均からいっても寿命が比較的短い人だったので終始監督がついていてくれました。

 初めての守護天使業を終えると上級教育過程を受けることになります。実地研修から学んだことをしっかり把握するためのいろいろな補習研修があり、その後シミュレーションを受けて、合格すると見習いから正守護天使となって、監督なしで派遣されることになります。

 短い休暇をとった後、わたしは今度は単身で、前回と同じ日本という国の、生れる直前の女という性別の方の人間が出てくることになっている病院という所につきます。人間は女性の方の胎内で単細胞から数十兆の細胞をもった成熟体を小さくしたような形態になるまで育てられてから胎外に出ます。

 胎内のその子は私を見てニッコリとした感じに輝きました。胎児の間と生れてからしばらくは人間は天使が見えるのです。天使はこういう時に同じように輝きます。人間でいうなら歓びという情緒です。

 無事に生れてきたその子には真理奈(マ・リ・ナ)という名前がつけられます。両親は相川(アイカワ)という苗字をもっているので相川真理奈です。

 戦争というのがあった前回と違って人間界は平和時らしく、真理奈さんの周囲の大人たちは比較的情緒的に穏やかに感じます。小さな真理奈さんはあまり病気もせず育っていきます。元気があって大きな声で泣くので周りの大人は右往左往させられています。二度目なのであまりマニュアルと首っ引きせずに見守りができます。

 守っている相手が幼い間はその兒の母親同様天使もけっこう忙しいものです。尖ったものを口に入れようとしたり、高い位置から落ちそうになったり、熱いものに触れようとしたり、狭い場所に無理矢理入り込んで出れなくなったり・・・

 天使は人間の親の方が気をつけていることについては手出しせず、どうしても危ない時で、しかもその兒が運命的に怪我をすることになっている条件が無い場合で学びのための体験の範疇でもない時に細小の関与で守護します。

 初めての研修の時はこれでよく失敗します。このままだとみすみす怪我をするとわかっているのでつい先走りして助けてしまうのです。それで視ている相手が自分で学ぶ機会を先送りにされ、結局また同じようなことをして今度はもっと深刻な怪我をするということになるとひどくつらい思いをすることになります。

 根が親切な性質を持っているうえに守護をする役割なのに手を出してはいけないことが沢山あるのでけっこうストレスがたまります。
 こういう時はストレスを解消するためにレクリエーションをします。レクリエーション施設に行くのには友だちのチョウスケをよく誘います。

 クラスメイトだったチョウスケは今のところ守護の仕事が無いので工場で働いています。工場のまん中には大きな炉があって、透き通った明るいグリーンの光が中にあって、そこから虹色の光が出ています。チョウスケたちは次々と手にもった金平糖のようなデコボコのかたまりをその光の炉に入れていきます。かたまりは溶けて下の溝から外に流れ出ていくようになっています。わたしたちはそれを涙の川と呼んでいます。

 金平糖のようなかたまりは「悲しみ」で出来ていて、人間の眼には見えないけれど天使にはよく見えます。あんまりあちこちにゴロゴロあると邪魔な上に、固まり同士がくっつくとどんどん大きくなっていっておまけに増えるのです。それで、あまり増え過ぎないうちに片付けるのも天使の仕事なのです。

 工場からチョウスケと一緒に遊びに出かけます。

 施設に着いてまず目に入るのは沢山の天使が大形テレビのようなビュースクリーンをのぞきこんでいる所です。スクリーンは9分割とか16分割画面になっていてリアルタイムで救助が必要な状況が映し出されています。だれかが救助に出ると決めたら画面番号に対応するボタンを押します。すると画面に処理中のサインが点滅し、処理が済むと新画面に変わるしかけになっています。

 葉っぱの先っぽまで行ってしまって戻れないかたつむりやひっくり返ってばたばたしているカメや日なたのアスファルトの上に出てしまってもと来た道がわからないミミズのような人間以外の生き物のケースが一番多いのはしかたのないなりゆきでしょう。人間の場合は自由選択で生まれるという前提条件があるので自由をさまたげないかたちで見守らなければならないから『救助オーケー』のケース数が比較的少なくなるわけです。

 一度に4件づつのパック救助セットを2つもこなしてようやくスッとしたので仕事に戻ります

真里奈

わたしの名前は相川真理奈です。小学校の五年生です。

 いつもの時刻に家を出て門のかげで少し待っていると雅彦さんが通るのが見えた。
少し間をおいて外に出ていって「おはよう」って言いながら追いついた。雅彦さんも「おはよう」って言っているのにどんどん追いこして走ってしまう。
学校の門のところでふり向いたけど彼はまだ見えない。

 『今日もまた走ってしまった。並んで話をしながら歩こうって昨日決めたのにダメな真理奈』

 門のところでぐずぐずしてると彼が角を曲がって現れた。典子ちゃんが並んでいて何か楽しそうに話しながら歩いてくる。胸がズキッと痛んだ。二人に見つからないうちに急いで校舎に入ってしまう。

 一時間目は苦手の算数だ。さっぱり解らないのにじっと座っているのは嫌だけど、でも彼を見ていればすぐ終わるみたいな気がする。

 雅彦さんは算数ができてかっこいい。先生も他の生徒が解らないといつも彼をあてる。そしていつも黒板のところへ行ってスラスラ答を書く。書いている時も落ち着いていて歩き方も姿勢がよくてかっこいい。算数だけでなくて他の科目もみんなできる。学級委員だし、背も高いし、おとなっぽくて、とにかくズバぬけている。

 わたしの成績は中の中くらい。雅彦さんはたいてい48人中の1、2番みたい。私もとても5番以内は無理としてもせめて10番以内にはなりたいと思うけどいつも20番がせいぜい。

 頭も悪いし典子ちゃんみたいに美人じゃないし、淳子ちゃんみたいにスポーツ万能でハキハキしててめちゃくちゃ明るくないしとても雅彦さんみたいに完璧な人にふさわしくはないと思っているのに夢は彼にボーイフレンドになってもらいたいということ。彼は典子ちゃんか淳子ちゃんのどっちかが好きなんじゃないかと思う。どっちかとよく話をしている。そのたんびに胸がズキッとなっていたたまれなくなる。そういう時はいつもなるべく見えないところへ行ってしまうことにしている。

「相川さん」

 アッと思って見上げると彼が私の机の前に立っていた。

「このポスターなんだけど、この辺とこの辺に絵を描いてもらえないかと思って」

 私は絵は得意だ。習字はいまひとつだけど絵はいつも貼り出しになる。雅彦さんに頼まれた。いつもと違う胸のドキドキ。嬉しくって顔がくずれないように奥歯をかみしめて引き受ける。

 午後は頼まれた絵のことで授業がどうなっていたのか覚えていない。放課後残って彼と二人でポスターをつくるのだ。ホームルームの後みんながぞろぞろ教室を出ていくのを待っている間も気分はウキウキ。でも典子ちゃんがいる。

 『もしかして・・・』

 そのもしかしてだった。ガッカリしたと同時に少し雅彦さんがうらめしかった。

 『何で典子ちゃんが?』

 典子ちゃんは何でか知っているらしく、生徒がみんないなくなるとテキパキ机を並べ変えて、作業場を作っていく。雅彦さんが手にいっぱい絵の道具を持って教室に入ってきた。

「あれ、池内さん一人で用意しちゃったの?ごめん」

 一人でって、私は何するか聞いてなかったから、それで手伝おうと思ったらもう出来てしまっていたんだもの。何だかやる気が急にしぼんでしまった。二人は作業中もとっても楽しそうに話しをしている。真理奈も何か言わなければと思うのに何を言っていいのかちっともアイデアが浮かばない。

 『典子ちゃんって大っ嫌い。』

 真理奈さんは少し悲しいことがあって泣きながら眠ってしまいました。胸が痛んでいるのです。そっと胸に光を当てていたのですが、まだまだ痛みは退きません。
天使はこういう時のためにちょっとした小道具も用意しています。

春の朝の森の匂いと若葉の柔らかい黄緑の光と野生の黄水仙の香りの混ぜ合わせ。

冬の朝の白梅の上の雪と花びらの匂い。

夏の海の潮の香りとバニラアイスクリームの香りをほんのちょっぴり。

秋の午後の草原のコスモスと枯れ草の黄金色の匂い。

 こういう香りと光を混ぜ合わせてそれを小さなビンに詰めてとっておくのです。そして眠っている真理奈さんののどのあたりでビンの栓をぬきます。

 その夜真理奈は夏の海岸で麦ワラ帽子をかぶってバニラアイスクリームを食べ食べお父さんと手をつないで歩いている夢を見ました。お父さんの大きな手の中で真理奈の手はこちょこちょ動いて手の平をくすぐりました。そうするとお父さんは『こらっ』と言って抱き上げてくれるのです。

 『お母さんが泣いている。』

 夜中にお手洗いに起きた真理奈は母がまた泣いているのを聞いてしまった。
去年両親が離婚してからお母さんは夜よく泣く。真理奈にはよくわからないがお父さんが会社の女の人とウワキをしてその女の人がお母さんに会いに来たらしい。お母さんはものすごいショックを受けて、おばあちゃんが止めるのもきかずに断固離婚してしまったのだ。

 「おまえは許すということができないのかい?」おばあちゃんがお母さんに言っているのを真理奈は茶の間の外で立ち聞きしてしまったことがある。お母さんはケッペキ性で困るともおばあちゃんは言っていた。真理奈はお父さんもお母さんも好きなのでどっちの味方も出来ないでどうすることもできずただ悲しくてたまらなかった。

 朝いつものように雅彦さんが家の前を通るのを待っていないで学校に出かける。

 『もう知らない。雅彦のバカ』

 プンプンして石ころけとばしながら歩いていると後ろからワッと背中を叩かれた。

 「何怒ってんの?」

典子ちゃんだった。ぎくっとして、
「ちょっと家で・・・」としどろもどろ。彼女に弱味は見せられない。典子ちゃんは妙に人の気持ちに敏感で気をつけないと心を読まれてしまう。

 「あれ、雅彦さんは?」

 「さあね」言いながら典子ちゃんは真理奈と並んで歩いている。「別に彼の番人じゃないもん」

 いいなあ典子ちゃんは。真理奈もそういうふうに余裕があるといいのに。典子ちゃんておとなだな。くやしいけどうらやましかった。

 今日は写生に行く日。担任の大泉先生は体育の先生で二組の担任の井上先生が図画の先生なので写生は二組一緒に行うことになっている。

 元気一杯の大泉先生はいつもの白いブラウスに紺のキュロットスカートで先頭を行く。のんびりやの井上先生はしんがり。土手に白いのや青いのや小さな花をつけた草の生えている小川沿いに小高い丘に向かってゾロゾロ歩いていく。

 めだたないように横目で彼を見ながら、典子ちゃんも淳子ちゃんも一緒じゃないのでホッとして歩く。
 並ぼうかな。どうしようか迷っているうちに目的地に着いてしまう。われながら優柔不断なのに嫌気がさす。優柔不断なんてことばを知っているのは本を読むのが好きなせいらしい。おばあちゃんはことば使いに厳格な人で真理奈が間違うといつもきちんと訂正する。お父さんもことばはきちんとしている。すごく教養のあるところをおばあちゃんが気に入ってお母さんとお見合いさせたそうだ。

 でもお父さんは学校の成績は優秀だったけど家のまわりの仕事はからきしだっておばあちゃんは言っていた。お父さんに大工仕事を頼むとああでもないこうでもないって半日考えてその割りに大した仕上がりでもないなんて言っているのを聞いたことがある。家ではおばあちゃんが一番強い。

 写生はとても楽しい。畑のすみに古い小屋があるところを入れて描いていく。小屋の木の色あいがとても良いねって井上先生がほめてくれた。あっという間に時間がたってしまう。描いている間は雅彦さんのことも忘れてしまっていた。

第二話

青空に白い雲が浮いている下で真理奈さんがシャセイというのをしています。白い紙の上に様々な色のつけられる道具を使って形を描いたりそれに色をつけたりして絵というのを造るのです。真理奈さんは絵を描いているときはうんと輝いていてそれに専念するので守護天使としてはのんびりできる時です。それで雲を材料にいろいろ好きな形をつくって 空に浮かべて遊ぶことにしました。

 海に住んでいるイルカを2 頭つくりそれより少し小さいのを1頭尻尾の方に浮かべます。イルカは泳ぐように流れながら形を今度は鷲の形に変えていきます。他の子供の守護天使たちもだいたいのんびりとそれぞれの遊びをしています。仕事中なので天使同士は必要ないかぎり接触はしません。みなそれぞれの相手を守護する責任を最優先にするからです。シャセイが終わって子供たちが道具を片付けてまた列をつくり歩き始めました。転んだり薮の鋭い草木で怪我をしないように子供が慎重に行動できるように見守りながら天使たちもついていきます。

今日は早く下校して夕食をつくる日だ。お母さんが働くようになってから平日の料理はおばあちゃんの係りになった。真理奈もよく手伝う。得意のタマゴカレーをつくることにした。おばあちゃんは真理奈の好きな蒸しパンを作っている。

 「お嫁に行ってから恥をかかないようにちゃんと家事ができなければいけない」っていうのが口癖のおばあちゃんの家事教育はけっこう厳しい。でも裏庭の菜園の手入れや掃除は真理奈がさぼっても大抵大目にみてくれる。

 カレーができて食卓に食器をならべるとお母さんが帰ってくるまでは自由時間だ。部屋にいって絵を描くことにした。イラスト集を入れる紙挟みから白いのを1 枚取り出す。紙挟みに入っている最近のイラストは雅彦さん入りが多い。真理奈はたいていウェデイングドレスを着ている。外国の雑誌や写真のきれいな庭や教会の切り抜きもとっておいてそれを参考に背景もきちんと描く。雅彦さんは白いモーニングも似合いそうだけど紋付と袴も似合いそう。でも真理奈が打ち掛けはいやなので今日の絵もやっぱりドレスにする。教会は小さいのにする。馬車は馬が難しいので省いた。花束のデザインを考えているとお母さんの呼ぶ声が聞こえてきたので階下に行く。食事時は家族がちゃんとそろってその日のできごとを話し合う大切な時間なのですぐに行かないといけないことになっている。

 『お母さん何だか元気がない』

 今日のカレーは我ながらうまくできたと思うのにお母さんはあんまり食べないし、おばあちゃんの話もよく聞いてないみたいだ。こういう時は早めに食事をすませておばあちゃんとお母さんを二人にすることにしている。お母さんが沈んでいると真理奈の胸も少し痛くなる。お父さんがいなくなってからよくこういうことがある。ごちそうさまを言ってからそっと自分の部屋に行く。

『お母さんが元気になりますように、それからおばあちゃんが元気で長生きしますように』ってお祈りしてから本を読むことにする。お願いが二つもあるので今日は雅彦さんのことを頼むのは遠慮した。雅彦さん関係のことを頼む時はおばあちゃんを省く。おばあちゃんは元気なのでよく省く。まだ読んでない本が一冊もなかったので前に読んだのでよく覚えてなさそうなのを探してふとんに入ってスタンドを点ける。

 真理奈さんの胸の辺の光がもやもやと少し不透明だったのが本を読んでいるうちに澄んできたので見張り番を小さい妖精に頼んでチョウスケのところに行きます。チョウスケがこの頃よく参加しているワークショップにつき合うことにします。チョウスケはどうやら守護天使ではない方面に行くことにしたらしいのですが、勉強は楽しいので進路は違ってもよく同じ会にでます。
 会場にはもう沢山の天使たちが来ています。羽の小さい見習い天使の列に連なります。天使には階級があって何層にもなっていますが、こういう勉強会に参加するのは見習い天使と平の天使です。たいてい大天使が教官を務めます。大天使たちはそのまた上層部の天使から指示を受けるのですが、わたしたちはめったに大天使より上層の天使と直接会うことはありません。

 テーマは暗くてよく見えない人間たちがよく聞こえない話を被守護者にしている場合に見聞きできるようになる方法と介入の限度についてです。暗くてよく見えない人間は天使には聞こえない話をよくするのですが、そういう話が被守護者に深い打撃を与える場合が多いのでその対策を学ぶのです。大天使級になるとどんな人間のことばも聞こえるようになっているそうですが小さい天使は嘘と呼ばれている人間のことばが全部聞こえるようになるためには訓練が必要なのです。なにしろ天使界にはそういうことばがないのですから。被守護者の成長を妨げるおそれのある介入は非常に慎重に行わなければならないので小さい天使の判断でできない場合はうんと上級の天使のそのまた上の方にお願いすることが勧められています。その方法というのも習います。何でもうんと上の方は人間の頭に電気を落としたりすることもあるらしいです。それは天使の役ではありません。

第三話

 図画の授業の後井上先生に残るように言われる。何かと思ったら、県の児童絵画コンクールに出品する気があるかどうかという話だった。これから描いたものでもいいし、既に描いてあったものでもいいという。後で決めることにした。

 放課後図書館で本を借りて帰る。帰ってから動物画の描き方を手本に馬を描いてみる。白馬に乗った雅彦さんが、木馬に乗った雅彦さんじゃ困る。動物を描くのは難しい。何頭も描いているうちに少しまともなのが描けた。百科事典の馬具の項から鞍や、足を乗せる器具の形を調べて、やっと彼がまともに馬に乗っている格好になった。かなり満足して、コンクールに出す絵の主題を何にしようか考えることにした。海の絵を描きたいと思った。お父さんと一緒に貝を拾ったり、アイスクリームを食べたりした海の絵だ。貝や浜辺に干してある魚とりの網も描こう。写生した海辺の風景を集めてあるのを出して見る。あまり上手でない。やっぱり写生に行かなければ。台所からお母さんが晩御飯を知らせる声が聞こえた。今日は元気のいい声だ。お母さんは機嫌がすぐ声に出る。元気な声だと私も気分が明るくなる。

 食卓にいつもより三品くらいおかずの皿が多い。杯も出ている。お客さんなのか。女所帯になってからお客さんが食事に来ることはめったになくなった。お父さんが居たころはよくお客さんが来て、おばあちゃんとお母さんはてんてこ舞いでご馳走を作ったものだ。私はお父さん用に別に作ってあったお酒の肴がどれも大抵大好きで、うらやましそうに見ていると、お父さんは「真理奈も食べるか?」と言って小さなお皿に少し分けてくれものだ。「この子は酒飲みになりそうだ」と言うのがお父さんの口癖だった。

 今日のお客さんはお母さんの弟だった。叔父さんはまだ独身で出版社に勤めている。本が大好きで、それが嵩じて出版社に勤めることになったらしい。真理奈の誕生日にはよく本を贈ってくれる。家ではとても買えないような立派な本で、百科全書も叔父さんのプレゼントだ。叔父さんは「注ぎ上手」なのだそうで、お母さんも何倍もおかわりしてお酒を飲んで、楽しそうに叔父さんの話を聞いている。叔父さんは物知りで話もとても面白い。お父さんとも仲が良かった。わいわい話をしながら食事をしていると楽しかった頃のことを思い出す。何故お父さんは出て行ってしまったのだろう?

 真理奈さんの家族がそろって、食物が乗った台を囲んでいる部屋全体は明るい黄色い光に満ちています。どの人もやはり輝いています。こういう時人間は楽しい幸せな気持ちを経験しているのだそうです。私たち天使もこういう光に包まれた人間を見るとやはり嬉しくて光が強く輝くのです。人間が沢山集まっている地域を全体的に見ると、このような光の強く輝いている部分と暗く翳った部分とがまだらになっています。球体のこの星全体を見ても、やはりまだらに光と影が交錯しています。影の部分からは金平糖のようにでこぼこした塊が沢山出てきます。例の、チョウスケが臨時に働いていた工場の緑色の光の炉で溶かすと涙になるものです。真理奈さんが輝いているので横目で見ているだけにして、チョウスケと声だけで話をします。チョウスケは今大天使ミカエルの助手になるべく見習中です。なんでも今世紀の後半はミカエルの仕事の分担が非常に多くなるために、その助手を多数養成する必要があるらしいのです。

 真理奈さんは今日は楽しそうな顔で眠っています。胸の辺りが一際強く虹色に輝いています。私もすっかりリラックスしてしまい、なんだか音楽を奏でたくなりました。好みの小さなハープをひとつ注文し、ついでに楽譜も頼みました。即興も楽しいですが、時にはクラシックを弾きたくなることもあります。腕の中にハープが現れ、目の前の空中に五本の線が出てきました。お玉じゃくしがダンスしながら行列で出てきてその五本線を通り抜けていきます。お玉じゃくしに沿って奏でていきますと、音は金色の珠の形になってはまたすぐに砕けて、細かな光の粒になって消えていきます。珠は様々な色の光を放って踊るように渦巻き流れていきます。音楽と共に様々な光の渦巻く模様が現出し、一時も停止することなくその形を変えていきます。音の描く光の絵を観ながら演奏していると他の天使が加わってきます。今日は始めに二種類の笛の音が、それからシンバルが加わりました。ジャムセッションは夜明け近くまで続き、終わり頃には楽器が十数種類にもなっていました。リラックスしている天使が多い日なのでしょう。

第四話

 体操の時間はドッジボール。こういう時は淳子ちゃんが断然かっこいい。真理奈はのろまなのでよくボールの直撃をくらう。今日は調子よくてうまくとれたので友子ちゃんにぶつける。友子ちゃんはお雛さまってあだ名がついている。何もかもが小さいからだ。小さい卵形の顔に小さい手、ぽっちゃりした手の甲にエクボがあるのがうらやましい。真理奈の手は大きくてゴツゴツしていて男みたいで好きじゃない。

 友子ちゃんがお腹を抱えてうずくまってしまった。ボールが命中してしまったのだ。真理奈のバカ力のボールをかわしそこねたのだ。みんなが友子ちゃんに駆けよる。大泉先生がまん中にいた。ひざをついて友子ちゃんの脇に手を入れて抱えるようにして校舎に向かって歩いていく。友子ちゃんは顔色がまっ蒼だった。小さくて華奢な体なのでよけい痛々しい感じがする。真理奈もおろおろしてついていく。保健室の前で先生はみんなに「もういいから校庭に戻りなさい。堀内さん監督になってドッジボール続けて」と言ってから真理奈の顔を見て、「よかったら一緒に入って」と言ってくれた。

 早くあやまりたかったけれど、友子ちゃんがあんまり苦しそうでそれどころではないみたいなので、なるべく他の人の邪魔にならないように部屋のすみっこで小さくなっていた。胸がドキドキして頭の中で『どうしよう、どうしよう』って言っている自分の声がコダマしている。

 真理奈さんが緊急に援護を要する事態になっています。人間は自分がしたことが原因で他者に被害が及ぶと、後悔とか罪悪感と呼ばれている強い感情的反応をする場合がよくあります。こういう時によく起きる現象として、通常は身体全体を包んでいる光の繭(まゆ)が一部破れて、そこに黒い影のような光と反対の物が侵入し始めるのです。守護天使の役目はその繭の破れ目を光の絆創膏でふさぐことです。一箇所ふさいでもすぐに他の場所に穴が開くようなことが多く、真理奈さんを包んでいる繭も何度もふさぎました。次々に穴が開かないようにするためには胸の中心辺にグリーンないし金色の光を照射しながら作業します。

 やっと友子ちゃんの顔色が少し良くなって縮こまっていた体が伸びて仰向けに寝たので近くに寄って、「ごめんね」とあやまると、友子ちゃんが「ボールのせいじゃないの」って養護の先生の顔を見た。「そういう時は体操休んでもいいのよ」って言っているので解った。「じゃあここで気分がよくなるまで寝んでいらっしゃい」と大泉先生は立ち上がり、真理奈と校庭にもどる。やっとホッとしたけれどドッジボールする気にはなれない。体育の時間が終わって着替えをして教室に入っていくと先に教室に帰っていた生徒たちが友子ちゃんのことを話していた。男子生徒も友子ちゃんのことを聞いたらしくて中の一人が、「真理奈、気にすんなよ」って言ってくれた。

 友成(ともなり)健一君という子で家が近所なのでお母さん同士もつき合いがある。三年生の時に転校してきた健一君にまだ友達がいないので真理奈に友達になって欲しいと言ってお母さんに家に招待されたのが始まりで、健一君は時々家に遊びに来る。男子生徒は一人であまり女子の家に来たりしないものなのに健一君は平気で来る。それからこっちはそう思っていないのに向こうは勝手にこっちを友達第一号と思っているらしく、他の男子みたいに相川さんって呼ばないで気安そうに真理奈って呼ぶので困る。雅彦さんに健一君と一番仲良しだと誤解されたくない。でも健一君は一緒にいても緊張しないから時々遊んでいて楽しいと思うこともある。凧揚げや木登りや栗拾いに誘ってくれるとつい行ってしまう。

 ホームルームの時間に友子ちゃんが戻ってきた。先生が帰りにだれか送っていってあげて下さいと言うと真理奈より速く淳子ちゃんが手をあげてしまった。友子ちゃんの席に淳子ちゃんが行くと雅彦さんもサッとそこに行って、「荷物は僕が持つよ」とさっさとカバンや体操着や運動靴の入った袋を持ってしまう。真理奈の出る幕がない感じになっている。三人が行ってしまうのをぼーっとして立って見ていると、「真理奈ちゃん帰ろ」と典子ちゃんが背中にポンと手を当てて言った。どうしてか解らないけれど涙が出そうになった。

 帰る道で、真理奈が黙りこくって歩いていると、「友子ちゃんのことまだ気にしてるの?」って典子ちゃんが聞く。

 「えっ。ううん。あ~っと、うん。私が送って行きたかったのに。だって...」と、何て言っていいか解らないのでもごもご言っていると、典子ちゃんは下を向いたままで、

 「あのね。秘密教えてあげようか」って言う。

 「何?どんな秘密?」

 典子ちゃんは立ち止まって真理奈の顔を見て、「絶対に秘密よ。指切りよ」って言うので、指切りゲンマンする。典子ちゃんは顔を近寄せてきて耳元で小さな声で言った。

 「あのネ。田村(雅彦)君はネ。友子ちゃんが好きなのよ」

 「嘘!そんな。淳子ちゃんじゃないの。どうして知ってるの。違うでしょ。淳子ちゃんでも典子ちゃんでもないの?」

 ビックリ仰天してそう言いながら、真理奈もだんだん気がついてきた。そうかもしれない。いろいろと思い当たることがある。友子ちゃんがあんまり目立たない子なので、そういう様子を見ていてもつながらなかったのだ。そうか、そうだったのか。でもどうして? 今まではライバル意識を持っていた淳子ちゃんや、典子ちゃんが急に遠ざかって、代わりに背景にいたボッチみたいに小さい友子ちゃんがクローズアップされてきた。でも納得がいかない。クローズアップされてもやっぱりどこといって取り得のない友子ちゃんのイメージは変わらないからだ。何でなのだ。淳子ちゃんなら諦めがつくのに。友子ちゃんなんて、とすごく口惜しかった。

 真理奈さんの周囲の光が縞模様に渦巻いています。こういう時人間は重要な試練や苦悩に直面しているのですが、天使はすぐには介入できないのです。縞模様の渦が非常に激しく、しかも長期に渡っている場合で光の繭が大きく破れて修繕が間に合わないほどになる危険性がある際には最小限度での介入が許されています。この場合はそれほどではないので、ただ注意して見守るだけにしています。前回はこういう際に早期に介入し過ぎて監督に注意されました。

 学校から帰ってすぐに部屋に行って戸を閉めてしまう。何かに当たり散らしたい気分の時はおばあちゃんに会いたくない。 「やだ、やだ、やだあ。やだやだやだやだ」とおばあちゃんに聞こえないように小さい声で言いながら、ゲンコでクッションを叩いて足をバタバタ座布団に打ちつけた。しばらくして疲れてしまったので泣くことにした。階下へ夕食の手伝いに行くまであと一時間以上あるので四十分位泣いて、それから冷たい水で顔を冷やせばバレないと思う。天井を見ながら友子ちゃんの荷物を持った雅彦さんの姿を思い浮かべていたら涙がじわ~っと出てきた。目覚ましは四十分後にセットしてあるので大丈夫だ。

 真理奈さんの周囲の縞模様が消えたので、光の繭についた幾つかの小さな傷を野生の水仙の香りのする琥珀色をした光の薄布でふんわりと撫でます。小さな傷はすぐに消えましたが、繭全体光が弱々しいので薄布を掛けたままにしておきます。真理奈さんは眠ってしまいました。

第五話

 目覚ましの音でビックリして目が覚めた。朝かと思ったらまだ夕方だ。さっき泣いている間に眠ってしまったのだった。洗面所の鏡で顔を見たらそんなに赤くなっていない。ともかく顔を洗って台所へ行く。おばあちゃんが鍋の中のソースをかき回しているので、交替する。弱火で焦げつかないように煮詰めるような仕事は真理奈の役目だ。退屈なので片手に本を持って読みながらかき回してもいいと思うのに、おばあちゃんは不味くなるから駄目だと言う。食べるものはのの様のお恵みだから大事に感謝して扱わなければバチが当たる。本を読みながら片手間に扱っては失礼だと言うのだ。おばあちゃんは神さまのことをのの様と言う。ご飯粒一つでも捨てたら恐い目をして怒る。でも真理奈が嫌いな食べ物を残しても怒らないで自分で食べてくれ、代わりに好物をくれる。

 夕食後図書館で借りてきた本を読むことにした。アンデルセンの童話集で前に読んだのと違い、絵がほとんどない高学年向きの本だ。字が小さくてぎっしりいっぱいの本は読みでがあって好きだ。目次を見ると十二話収録されている。一話目の「みにくいあひるの子」を読む。次は「マッチ売りの少女」だが、前に絵本で読んだ時この話があんまりかわいそうで辛かったので読みとばすことにする。次の人魚姫の話もかわいそうだった記憶があるがよく憶えていないので読み始める。

 子供だったころから大分年月が過ぎて、もうお忘れになった人もあるでしょうから人魚姫のお話をかいつまんで申しますと、こういう内容です。

海の底にある王国の王様には六人のお姫様があって、そのうち六番目の姫はとりわけ聡明で、またこの上なく美しい声で歌をうたうことができました。姫たちはそれぞれ年が一歳ずつ離れていて、十五歳になると海の上に出ることが許されていました。姉たちが次々に海の上に出て帰ってきては異国の美しい風物の話をしてくれるのを聞いてはその日を待ち焦がれていた末の姫もとうとう十五歳になり、海の上に出てみると、船がいてその上にとても美しい若者がいました。ところが急に嵐になり、船が難破してしまいます。美しい若者は波に飲まれて溺れてしまいます。人魚姫は気を失っている若者を抱いて浜辺まで泳いでいき、そこに横たわらせると岩陰に隠れて見ています。浜辺に数人の娘が出て来て、そのうちでもとりわけ美しい若い娘が若者を見つけます。目を覚ました若者が最初に見たのは人魚姫ではなく、その娘だったのです。

 その若者が忘れられない姫はついに魔女の洞窟に行って、美しい声と引き換えに二本の脚をもらいます。一足歩く毎にナイフを突き刺されるほど痛い上、声もない人魚姫は若者、実は王子様だったのですが、その宮殿の浜辺で発見されて王子の傍近くで仕えることになります。王子は姫を妹のように可愛がってくれたのですが、恋をしていたのは浜辺で倒れていた時に命を助けてくれたと思っている美しい人間の娘だったのです。王子と結婚できれば人魚姫は本当の人間になることができるのです。でも行方も判らないその娘と結婚できない限りは独身でいると王子が言いますので、その間は人魚姫も傍いられます。王子が他の娘と結婚しない限り人魚姫は生きていられるのです。人魚姫は声がないので、海で王子を助けたのはその娘ではなく自分だと言うことができないのです。そのうちに王子は隣国の姫がその娘だったことを知ります。

 二人の婚礼の前夜、まだ陽が昇らないうちに王子の胸をナイフで刺して、その血を脚につけないと、人魚の姫は海の泡となって消え去ってしまうのです。人魚は人間と違って魂がないので、死んだら何も残らず、神様の御許に行くことすらできないのです。どうしても王子を殺すことができなかった人魚姫はせっかく五人の姉姫たちが美しい髪と引き換えに魔女からもらったナイフを海に捨ててしまい、夜明けの光とともに溶けた体が空気の泡となって、空に上っていきます。


 真理奈は読んでいる中においおいと泣いてしまいました。人魚姫がかわいそうだったからではありません。友子ちゃんに腹を立てて怒っていた自分の醜さが悲しくて、恥ずかしくて泣いてしまったのです。真理奈はもう決して今日の午後のように誰かを嫉んだり憎んだりするのはやめようと思いました。そして人魚姫のように、自分が泡のように消えてしまってもいいから愛する人の幸福を先に思うことができるような人になれるように努力しようと思いました。今すぐには無理だとしても。

 今日は真理奈さんにとってとても有意義な日でした。ひとりひとりの人間の一生という流れの作る円環には節目のような場所があって、そこでは事件が多発するのです。節目においての守護天使の役目は重大です。保護し過ぎては学習と成長の妨げになりますし、後々まで残る非常に深い傷になるような裂け目の修繕が上手くいかないとその人間の一生という円環の形全体がいびつになってしまうのです。円環の形がいびつになってしまうと、節目節目での学習がバランス良く行われず、ある方向にばかり偏ってしまいます。こういうゆがみがあまりにひどいとその人間は円環自体を壊してしまおうとしたりします。自分で自分を殺してしまうのです。いきなり崖から飛び降りて短期間に壊してしまう場合や、肉体の健全さを損なうようなことばかりして病気になって早死にしたりと、方法はいろいろあります。時には守護天使はそれを見ていなければなりません。円環が壊れるのを何もしないで見ていなければならない天使の多くはとても深い衝撃を受けます。天使には涙腺がないので涙を流して泣くことができませんが、それはそれは悲しい経験で、人間のように涙腺があったらさぞさめざめと泣くだろうと思います。

あとがき

 ずいぶん昔に「静流の部屋」というホームページに書いたものなのですが、あまり気負っていない文も気楽で良いかと思い、ブログに掲載することにしました。イラストは当時ホームページを作成してくださっていた鈴木敦子さんという方が自分で描いて挿入してくださっていて、素敵なので入れたままにしておきました。  
 今のこの混乱と天災続きの時世で読み返すと、のんびりした時代だったのだなあと思います。

2020.9.22
あれからかれこれ二十年も歳とった静流

人生は絶対に辛い

私たちはみな例外なくどこかに生まれさせられた来ました。どこの国のどの人種で男が女か決めて生まれてきたわけではないわけです。経済的の豊かで、教養があって、愛情深い親か、酒飲みで子供をなぐる親か、貧乏でも温かく優しい親か、つまり出たとこ勝負です。

今誰かに「幸福ですか」と訊かれたらどう答えますか。「おおむね幸せだと思うが、日による」、「寂しくて、悲しくて、心配で仕方がない」、「病気で苦しい、痛い、何故生きていかなくてはいけないのか分からない、死んだ方が楽なのに」、「大好きな人と愛し合って結婚できて、とても幸せ」等々。

さて、以上の答には共通点があります。幸不幸が条件付きだという点です。永年生きて来て、大勢の人と巡り合って観察してきましたが、無条件に幸せな人にはほとんど会ったことはありません。条件が変わればすぐに幸福から不幸のどん底へと落ちる可能性を持って人はその日その日を生きています。また、不幸なのは人間だけです。他の動物は感情はありますが、その時々を生きているだけなので、将来を心配したり、現況を嘆いて何故不運なのか、どうして自分はこんな目にばかり会うのだろうかとは考えません。神様を恨んだりもしません。そういう言葉を持たないせいだからですが、人間は言葉を持っているので、やっかいです。そこで質問。

問:何故不幸なのか

不幸でなければ幸福なのかだろうか?多分違います、やはり不幸になる潜在性があるからです。たとえば、去年の今頃誰が「コロナウイルス禍」を予測していたでしょうか。

答:快楽を求めるから

この事実に気づいている人は少ないです。快楽と苦悩とを二つに分けて一方を求め、もう一方を避けるからなのですが、何の意味かすぐには分かりにくいかもしれません。どんなに恵まれた環境に生まれた人でも苦悩は決して避けられないという現実的体験をいくらしてもそれから学べないからです。

苦悩と快楽の二つに一つの間で囚われの身となっているのが、

地  獄

地(土と也)なのです。答は十と一(トヒ→問)也と書いてあります。土はヒジとも読むので、秘字、字に隠されているとも教えてくれています。

実は、問えば答が来るという法則があるのです。答は問と一対でコインの裏表の関係にあります。非常に信じがたいことでしょうが、私の経験からそう言えるのです。

獄という字を見ると、獣と犬の間に言が挟まっていて身動きができない形をしています。言を使わないと問えないので答も得られないと字が教えているのです。犬は動物でなく、大の一点、つまり大宇宙の一点(自己も点)という存在。ワンネスの一部という意味です。これは長くなるのでここでは触れません。

問えば必ず答が得られることをほとんどの人は知りません。大自然の法則なのに。

答は来るのに、それが答えだと気がつかないからです。自分にとって都合が悪い、関係ない、当てはまらない等の理由で無意識的にあるいは意識的に無視するからです。

秘(旧字は祕)は分解すると、示すと必ずとなる。字の教えでは、何事も隠されてはいない、問えば必ずそこに示されているのだ、となっています。

字分けでなくとも、ダウジングにはいろいろな手法がありますが、訊けば答が来るので、これによっても、なるほどと納得できます。チャネリングも同じです。訊けば答えてもらえます。喩えていえば、意識という共通の海のような、図書館のような情報の場から必要な情報を取り出せるのです。

始めに快と不快があった。生まれたては二種類の感覚しかない

 赤ちゃんは快いなら、笑顔。ご機嫌さん。

 快眠、快便、痛み無し。不安無し。

不愉快なら、泣き叫ぶ。

 この時は生理的にも辛い状態。力いっぱい叫びながら息むとヘルニアにもなる。汗をどっとかき、心臓もドキドキ。どうして良いか分からないのでフラストレーションがたまり、対処してくれない親に怒りが生まれる。続くと不安感が出る。パニック症状。

 こうして快・不快を基準に、日々体験した様々な刺激に伴う感情を無意識に分類し、最初の二つに加えてどんどん項目が増えて行く。成長の過程を見ましょう。

第一段階、非言語期:悲しい、寂しい、不安、怖い、嬉しい、ひもじい、痛い、冷たい、温かい、美味しい、不味い等、生命を脅かすかそうでないかの分類。自己防衛本能の発達。言葉にして表現して解消できないためにトラウマになる。

第二段階、発語期~言語力獲得期:第一段階では漠然としていた感情に名前がついてくる。悲しみ、苦しみ、怒り、苛立ち、不安、喜び、期待、失望、恨み、満足、不満。感情を表現する対象(親や周囲の人々)の反応によって、様々な感情に善悪の区別が出来る。良い子ね。悪い子。静かにしなさい、うるさいわね。まあおとなしい子ね。

 ここで分離化が出来上がる。環境による価値観の形成期
 これがこの後一生ついて回る!!!

こうして快・不快を基準に、日々体験した様々な刺激に伴う感情を無意識に分類し、最初の二つに加えてどんどん項目が増えて行く。そうしてあなたという成人が出来上がってきたわけです。受け身の現象体なのですから、今のあなたがそういう人なのは仕方がなかったと言えますが、人生街道を歩む途上で多くの選択をしてきたと思います。そして失敗や挫折や、「やったー!」うまくいった心躍る体験もしたでしょう。でも長くは続かなかったはずです。次々にやってくる不都合な問題があるので、また選択・対処が必要です。去年の今頃「コロナウイルス禍」を誰が予測していたでしょうか。

ひとつの実際に役立つ方法があります。

1 カッコに入っている枕詞を外に出してみる

(私にとって)不都合、良い人、悪い人、損、等々
カッコ内を取ると、いろいろなことが見えてくる

大転換!

ゼロサムゲームが人間社会の構造。快楽というパイを大勢が求め、奪い合い、闘い、傷つき、絶望し、それでも気づかない。

2 (私)という主語を外してみる

例:私の家→家 私の子供→子供等
すると途端にベクトルが変わります。私の子供なら一番の成績、競争で一番強い→自慢の種→ここで、主語無しの単なる子供なら誰が勝っても気分は変わらない。

    •  全体の中における自分の立ち位置が見えてくる
    •  自己中心から他者への思い遣りへと二つの視点ができる
    •  ベクトルが「取り込み」から「分かち合い」へと変わる
    •  つまり、エネルギーの求心性から遠心性へのベクトル変換(開放的・発展的)

どうしたら幸せになれるのか?から、どうしたら周囲の人たちが、社会が、地球が少しでも楽しく、美しく、平和になるお役に立てるのかに変換。

この時快楽は問題外。一生懸命何かの作業をしていると楽か辛いかは二の次になるから。視点が変わったら重要ではないことが分かって、地獄から解放される。退屈という苦痛からも解放される。少し満足というものの解釈が変わってくる。

3 不快感を観察する → 偏桃体活動が優先の状態から前頭葉の活動に切り替わる

先ほど不幸なのは人間だけといいましたが、人間社会にだけ見られる苦悩の原因は持てる者とそうでない者との格差だと思います。集団になると革命や戦争が引き起こされます。支配の構造というものを考えて見ましょう。満ち足りて満足な人以外は何かが欲しいのにそれが無いという欲求不満状態を不幸だと思ってしまいます。これは実は、欲望の創出によって不要なものを貴重と思わされるという手法が何万年間も使われ、ピラミッド型の社会構造が確立、維持されてきたのです。ダイアモンドシンジケートの例をとりますと、年間放出量を制限して高価格を維持するということをしています。貴重品というものの多くは生死に関係ないもので、他の動物にとっては意味のないものです。品物だけではなく、名誉や名声もそうです。

支配の構造は、何かが足りないので不満、不公平、不幸せな人々を作り、わずかな「ご褒美」で人々の自由を奪い、時間を奪い、ごく少数の人だけが贅沢をするというもの。それに気づけばすぐに満ち足りて心が清々しくなる。

身無一物福寿無尽蔵:最小限度の消費によって最大限の幸福が得られる(太母)

それ自体が褒賞なので、他者の称賛は二義的になるので他人の目が苦にならなくなります。肩の荷がドサッと落ちて清々しい状態を味わえると思います。ベクトルは一瞬にして変わるのです。これは体験してみる価値があります。

もう一つ、聞いてみるとびっくりする考え方があります。私の師、小田野先生は「人として生まれて来たので、その使命を果たすために一生懸命苦労を稼いで生きている」とおっしゃっていました。「はあ?」と最初は何のことかさっぱり分かりませんでした。

絶対の愛の光に包まれて至福の体験をした人たちを何人か知っていますが、比類なきものという表現をしていました。それを知るまでは「必ず苦悩はついてまわる」ということなのだそうです。

2020.9.17

悪夢が教えてくれたこと

今から二十数年ほど前になりますが、ひどい悪夢を見ました。子供の頃から熱を出すことがよくあり、そういう時には悪夢を見ました。崖から落ちる、周囲に誰もいなくなってひとりぼっちで怖くて必死に人を探す、道に迷って自分がどこにいるのか皆目見当がつかず、ぐるぐる回って挙句は元の場所に舞い戻る等の夢です。汗びっしょりになり、心臓が縮かんで息が苦しいような状態で眼が覚めるというパターンでした。
大人になってからはあまり、悪夢は見なくなり、久しぶりの体験でした。

夢のシーン

どこかの崖の端に空中に乗り出すような形で樹の枝伸びていて、その枝に掴まっている自分。体の重みを細腕二本で支えている。腕が伸び切って枝の上に体を持ちあげることが出来ない。元々懸垂が苦手で逆上がりで鉄棒に脚をひっかけることが出来ない私でした。だんだん腕の力が抜けてきて、痛みが酷くなって行く。それでも下を見れば断崖絶壁。どのくらい高いところなのか地面が見えない。極度の近視なので、下はぼんやりと霞んでいる。状況が見えないことも苦しいものです。

身体能力の無さ、近視、方向音痴、寂しがりやと全部が悪夢につながっているのです。そういう自分が情けなく悲しかった子供時代でした。

さて、腕の力も限界にきて、どうするか決断しなければならない状況になっていました。高所恐怖症で「落ちる」というイメージはそれだけでも恐怖の極みです。でも腕の痛さはもう耐え難い。

仕方がないことは仕方がない。解決法は一つしかない。

ただ手を放すだけ

簡単です。離すだけなのだから。すると、あら不思議!落ちて行かないのです。たとえ落ちて行ってもいつまで続くか分からない腕の痛みに耐えるよりは楽だと思います。

怖がっている時に理屈は通用しませんが、落ちるしかない時にはもう怖がっても間に合わないわけです。

なるようにしかならないのです

「良い夢を見ましたね。忘れないようにね。貴重な体験なのですよ」と小田野先生に言われました。

コロナウイルスも同じです。感染するかしないか。したら生き延びるか死ぬか。なるようにしかならないのです。枝にぶら下がっている時のように、怖がっていると体が硬くなり、息も短く、胃や臓器が収縮し、苦しいです。生にしがみついて必死になっていると苦しいだけです。

悪夢が教えてくれた貴重な気づきでした。今は何も怖いことはありません。貯金があまりないことも、家族がなく天涯孤独なことも、物忘れも含め、様々な老化現象が進行していても、な~んにも心配ではないのです。これは大きな解放感です。自分にかまけることなく、大自然の営み、生態系全体が滞りなく機能していること、生き物すべてが完全循環して、個々の存在が「他を生かし、全体の調和のためには喜んで死ぬ」ということを人間はやっていません。身体細胞たちや微生物たちは当たり前のこととしてそれをやっています。感謝もされなければ、勲章ももらえません。誰もそれをしているということに気づいてもいないのにやっているからです。

それらの名もなき小さな存在たちに対しては感謝あるのみです。私も見習って生きている間は生きていようと思っています。ウイルス達と心が通じ合っているので、必要な情報はちゃんといただけます。直感的に他言は出来ない情報だと気づいていますのでここには書きませんが、何も心配することなどないのだということだけは断言できます。一日一日を大切に、楽しみながら、淡々と生きているだけです。安心立命とはこのことだと思います。

2020.04.20

ウイルスと通じ合っているってどういうこと?チャネリングとも言います。
その一例を添付します。多くの点で私の聞いたことと一致していますのでお読み頂きたいと思います。
チャネリングリーチ

体にウイルスや細菌が入ったら殺すのではなく、引っ越してもらうという考えで光透波の影響力を使って除去する方法も以前に書きました。ご参考まで。

ミクロの決死圏―体の中を旅して見ました

 

捻挫もお告げ

二十年ほど前になりますが、”Signs”(邦題:サイン)という映画[1]がありました。署名という意味もありますが、宗教的には「お告げ」という訳語が一番妥当と思います。英語国民の大多数は至高の叡智の存在をGod(神)と呼んでいますが、その神からの啓示という意味に於いてのサインです。映画の主人公は牧師で、ある時人類にとっては前代未聞の大事件が起きました。ミステリーサークルの出現です。この超常現象は事実で映画の虚構ではありません。出現当時私も夢中になって画像を保存したものです。そして数年前に、サークルが一番多く出現した英国のエイブべリー[2]に行ってきました。ストーンサークルもある所で、石は消えないので実際に見ることができますが、穀物畑に現れたサークルはもうありませんでした。目前に明らかに突きつけられた「サイン」だったにも関わらず、人類全体としては「???」、「えー何これ?」程度の反応で、ひとしきり話題になってもその意味を追求し続けた人たちはあまりいませんでしたし、出現が止まった後しばらくしたらもう「そんなことあったっけ」くらいになってしまいました。映画も賛否両論で、セックスとバイオレンス満載の映画のような大きな興行収入はなかったようです。

何が言いたいのかと言いますと、せっかくの「お告げ」も真摯に受けとめる人がいなければ役には立たない、つまりサインを出す側の徒労ではないかということです。ストーンヘンジもストーンサークルも起重機や電力機動の重機がない大昔にあったのに別に大騒ぎで、不思議だから人間が作ったのではないのではないか、では誰が作ったのか、という疑問を追求し続けた人たちはほんのごく一部の人間だけでした。個人個人とその家族あるいは民族の生存に直接関係のない現象に本格的に取り組む人が少ないということだと思います。

さて、話はグーンと私的なものになりますが、最近の「お告げ」について皆様にもお伝えしたく思います。先週捻挫をしました。かなりひどい状態になり、足首から足の指先までが青紫色に腫れ上がりました。すぐに湿布をしてなるべく歩かないようにしながら、血行を促進する治療もしましたが、足を床につけると無視できないような痛みがあり、家事に支障をきたしました。独り暮らしになってから身動きが取れない状態が如何に不便かも実感しました。こういう出来事だと無視はできません。病もそうですが、痛みがないものは本人が気がつかないので深く静かに進行して行き、ある時に回復不可能な状態で現れます。最近未病ケアという事がさかんに言われるようになりましたが、なかなか真面目に受け止めてもらえない社会的事情があります。明らかに発病しないと保険治療が受けられないからです。

今年に入ってから同年配(高齢)の友人が3人急病で倒れ、入院しました。内臓の多くが疲弊していて、今までのような生活(飲み食い、働きすぎを指す)はもう出来ないと医師に勧告されました。少し疲れた、体が重い、食欲が無い等の自覚症状があっても未病ケアはしないでいたので大ごとになったのです。私が前兆に気づいていても代替治療を勧め難いのは保険が利かないということがネックになっていたからです。結局は入院、手術、投薬治療で費用はかかるのですが、それは認めたくないという人間心理も分かります。実は出費が困るのではなく、怖いから認められないことも多いのです。

それに対し、捻挫と言うお告げは実にありがたいものです。痛いのと不便なのとで無視できないからです。そこですぐさま字分けをしました(いえ~い、お告げが理解できちゃうもんね)。

 

今・此処という命の場に存在している私という者の体の一部で足という部分が挫けているよと言うことを、それに向き合わざるを得ない痛みという形で告げられた意味を解いてみました。空と言う無限にして絶対の天の、文字通り完璧な計らいは文字で明確に示されているのにも関わらず、しばらく真剣に字分けをしていませんでした。音は見えないが、字に写すことでその意味が留められているのだから、それを読み解き続けなさい。それを怠ると不自由な現象が起きますよ。天は親切なので、捻挫という形で明確に告げて下さったのです。なにしろ立つにも歩くにも足が使えなければ自立して生活できません。誰かの手を煩わしてその人の時間を奪って生きなければなりません。いずれは老齢で動けなくなるにしてもそれまでは極力自立して生きていたいと思っているので、身に染みてありがたいお告げでした。

肉体は狂いのない精緻な数の法則に則って全ての細胞、細胞を構成している分子や原子、細胞内の染色体とDNAという青写真等が、調和的で健全な状態であれば、気分爽やか、心は楽しく、意欲は満々で生活できるという理があります。「何かおかしい、変だぞ」という違和感を無視すると緊急入院という騒ぎになって、医師に元には戻らないと宣告されてしまいます。

くれぐれも「サイン」には敏感でいてください。

[1] 『シックス・センス』『アンブレイカブル』などのヒット作で知られるM・ナイト・シャマラン監督による2002年の作品。謎のミステリーサークルの出現から始まる全世界規模の異変を背景にしつつ、片田舎に住む主人公の魂の救済をテーマにした異色作。その特殊な作劇によって賛否両論を呼んだが、ミステリーサークルなどの意味深なモチーフを多用した宣伝が話題となり、全世界で大ヒットを記録した。

[2] イングランド南西部ウィルトシャーのエーヴベリー村近郊にある、3つのストーンサークルを含んだ新石器時代のヘンジである。大ブリテン島で最も著名な先史時代の遺跡の1つであり、 ヨーロッパ最大のストーンサークルが存在する。観光名所であるとともに、ネオペイガニズム(復興異教主義。キリスト教以前にあった宗教の新たな多種多様な現代の宗教的な運動)にとって重要な宗教空間である。 新石器時代の紀元前2600年頃に作られたこの遺跡は、周縁部に大きなストーンサークルを持つ大規模なヘンジ(土手と溝のこと)と、遺跡の中心部に位置する2つの独立した小さなストーンサークルで構成されている。この遺跡が作られた本来の目的はわかっていないが、おそらく何らかの儀式や祭典に使われていたのだろうと考古学者たちは考えている。

下はストーンヘンジ、私の後ろ姿です。

こちらはストーンサークルで、一つの石の大きさが分かる写真です。

2020/2/15

続・脳は全自動にしてはいけない

最近になって所謂「物忘れ」、うっかりミスの現象が激しくなりました。
人と会う約束を忘れたのは、カレンダーを確認しなかったから。
眼鏡と携帯電話が見つからないのはしょっちゅうのことで、置き場所を決めないから。また、決めてもそこに置かないで、他の場所に、「無意識に」置いてしまうから。
銀行に記帳に行ったのに通帳がバッグに入っていない。買い物に行ったら財布に十分お金がはいっていない。出かける前に確認しなかったから。
切手の値段が上がり、追加の切手を買いに行った郵便局で、封書を投函し忘れた(何の為に行ったのさ)。
鍋でお湯を沸かしている最中に何かしていて鍋が空になって火が止まった(安全装置様々です)。
コートやズボンんのポケットにお金は勿論のこと、時計やスイカやホゴ紙が入ったまま(洗濯機にいれると紙屑だらけになる)。洗濯が終わったのに衣類がそのままで干してない。

落ち込んでいる場合ではない。対策を講じないと。
まず、その日にすることを朝全部書き出す。リストになる用事が片付き次第に消し込む。
片づけたものをリストアップする。どんなに些細なものでもちゃんと書く。ただ書くだけでなく、声に出して言う。

これはいい訳ではなく、説明の一つですが、一緒に暮らしていた家族が亡くなって一年が過ぎました。私より十数年年上でしたが、うっかりミスをしない人でした。その人にいかに頼りきりだったかを今更ながらに身に染みて感じています。独り暮らしという状況を実感しきれていなかったのだと思います。

昨年始めから数か月間、小田野早秧先生の『考える力』をはじめ、残りの三冊を再入力しながらさんざん読んだのに、把握していないということに気づきました。
いや、把握していたのに、定着していなかったのです。定着は繰り返しをしないと、加齢と共に脳細胞は劣化し続けていますので指の間から砂がこぼれ落ちるように記憶力は衰えて行きます。

ただし、ここが大事ですぞ!「自分は頭の働きが鈍化してきてるからしっかりしなければならない」と緊張していれば良いというものではないのだと八十歳の男性に教えられました。八十数歳で、完璧に近いほど頭の回転の速い、八方に気のつく友人が最近急に記憶があいまいになった現象を話したところ、そのことについての意見でした。

しっかりした性格で、気を抜かないから八方に気の回る人というものは急激にボケることがある。糸が切れたようなものだ。大事なことは緩急のつけ方だ。長年人を見てきたから言えるが、ぼーっとして抜けているようで、必要な時にだけ引き締まって行動するタイプの人のほうがむしろボケにくいようだ、と。「あんたは大丈夫だ」とつけ足されました。先ほどの家族の話ですが、窓際に座って外を眺めていることが多い人でした。「何を考えているの?」と聞くと、決まって、「何~んにも」と答えたものでした。「何も考えないなんてことがどうして出来るの?」と聞くと、「だって、簡単。何にも考えないだけだから」と。頭がちゃんと休息しているわけです。ちなみに先ほどの男性はその人の弟です。

確かに考える力は脳を活性化させますが、それだけではなかったのです。このことを、私と似た状態になっている方々にぜひお伝えしておきたいと思いこの記事を書いております。下の文はこの記事の内容に直接関係はないかもしれませんが、人間の頭脳の働きと、それを培う誠実さと、底に流れる人間愛とが社会構造を機能させているのだと思います。

南アフリカのある大学の門に貼ってあったメッセージです。

国家を滅ぼすのに原爆や長距離ミサイルは要らない。
教育の質を下げ、試験でカンニングを見過ごせば良いだけ。
そのようにして資格をとった; 
 医者によって患者は死んでしまう
 エンジニア等によって建物は倒壊する
 経済学者や会計士等によってお金はどこかに消えてしまう
 宗教家や哲学者によって人間愛は失われてしまう
 裁判官等によって正義を守る司法制度は無効となる

教育制度の崩壊とは国家の崩壊である

日本でも起きていますね。消えた年金記録事件や、何とか言う建築家が建てた高層ビルやマンションの倒壊事件を憶えていますか。

脳は全自動にしてはいけない

2020.1.7

門に桟がかかっていると全ての答がある中に入れない

モンサント社がグリホサートで癌になった夫婦の訴訟に負けた!

これは現代史に於ける大きな転機だと思います。このような最悪の事態を引き起こす人たちは勿論のこと、それを見過ごしてきた無関心な人達も大勢いたことが原因で、次から次へと人類社会を襲う災害が発生しています。もう誰にも否定できないほどのひどさになってしまいました。

最近発刊した『仏眼の』第一部の「舟を岸につなぎなさい」では、人類はどうしようもない流れで滝つぼに向かって行く笹舟に乗っている蟻のようなものだという比喩が使われていました。舟の上で喧嘩しようが、仲よくしようが一切お構いなく滝つぼに向かっているという点では私たちは一連托生(いちれんたくしょう)、つまり誰が善で誰が悪かなど互いに指差しあっても意味がないと言っているのです。

ではどうすれば良いのか?

答が第二部の「仏眼」にあります。読んですぐに理解できる人もあれば、なかなか分からない人もあるかと思いますが、暗中模索ではなく、文章で提示されているのです。本気で真剣に読んで行けば、何回目かで少しわかってくると言ってくれた読者の男性がありました。永年お付き合いしながらその方が今回の出版を契機に今まで考えなかったことを考え、その結果を報告してくださったことをきっかけに今回の記事を書いています。

もう一つ大きなきっかけは、小田野先生から直接講義を受けておられたアメリカ人のスティーブさんという方がつい最近癌で亡くなられたことです。オーガニック食品を販売している会社の経営をなさっていましたし、合気道という心身ともに鍛える運動も続けておられた有段者で、精神的にも安定性の高い人柄だったにも関わらず、癌にかかってしまったのです。これが同じ笹舟に乗った、一連托生ということの意味を如実に示しています。善い人でも健全な意識を持ち、健康にも十分に注意して生きていても、誰彼構わずに災害は襲ってくるのです。

モンサント社という例を見ることで、人間性の一部分である度し難い側面と、「幸せに輝いて生きたい」という本音の部分について考えて見ました。モンサントを字分けしました。

 

私達が人間という形態で生を受け、生命活動をしているその産みの親は人間ではありません。人間の親は肉体に備えて頂いている機能を使って、受精卵から一人の人間として生まれてくるまでを「お任せ」で全部やって頂いているのですが、自分では「親」だと思っています。これが本当の親ではないということを真に認識するには、字を見ると分かります。親を分解する、つまり「切り分ける」と分かると教えて下さっている言葉があります。「親切」です。

親を切り分けると「立、木、見」と三文字になります。立(立証)つまり存在している、木(モク-網空)つまり空という目に見えない世界の透明な網、これを見る(観察する)、というふうに取れます。実の親とは透明真空の網である母(同時に父も一体で支え、機能している)なのです。父という縦軸と母という横軸が交叉(点-回転軸)しているエネルギーが常に絶え間なく云(運)んでいるのが生命のエネルギーであり、知恵であり、食べ物を生産する地球のような生産地なのです。人間の体は勿論のこと、空気も、水も、太陽光も、微生物も何一つ人間に作れるものはありません。人間に出来ることは壊すことだけです。そして毎日せっせとそれを行っています。「自然にお任せ」をほぼ完全に忘れ反って生きてきた結果を今、癌や、精神病や、戦争という形で受け取っていることになります。

答を見ることができる、いわば図書館のような情報源は門の中にあります。その門に桟がかかっているのを開けて中に入らないと真理は見ることができないのだとモンサントが教えてくれました。

注。
グリホサートは発がん性はもちろん、植物を枯れ死させてしまうが、同様に土壌細菌や腸内細菌も損なう。腸内環境を破壊することでアレルギーなど自己免疫疾患などの原因になったり、神経毒として自閉症や認知症を誘発する可能性が指摘されている。また、生殖に与える影響も懸念されている。精子の数の激減、胎児の発育に影響を与える可能性だけでなく、世代をこえて影響する危険を指摘する研究結果も発表されている。ベトナム戦争で撒かれた枯れ葉剤によってつくられたダイオキシンは三代にわたって影響を与えるといわれるが、グリホサートにも同様に世代をこえた影響が出る可能性も指摘されている。
以下のサイトにモンサント関連記事がのっています。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11791

2019.11.02

ミクロの決死圏―体の中を旅して見ました

前回「バカの壁」についてお話をしました際、光透波理論を病の治療に応用できる手法があることに少し触れました。治療資格を得るために受講して良かったと思っています。おそらく受講者の中では最高齢者だったかもしれません。覚えることが非常に多く、記憶力の低下を防止する為にもなりました。

一番回数の多い練習台は自分です。鼻が悪い、耳が悪い、胃腸が弱い、腎臓が弱い、アレルギー体質、心臓が弱っている、細菌感染していた。ウイルス感染していた等々盛りだくさんで調査と治療の実施と結果の判定には事欠きません。

まず「バカの壁」を取り(一時的です)、賢い方の自分との通信回線を開きます。それから調査対象を絞って検査。

腎臓の糸球体濾過機能を調べます。右が45%、左が60%働いているという情報をもらいました。かなり低いですが、尿毒症にはなっていませんでした。

この美しい精緻な構造を眺めて、機能低下を認識して、自己治癒力を発動する手法を適用します。(注。体の内部は実際にはほとんど色はついていません。ここで使用されている画像は細胞構造を見やすくするために人工的に色をつけてあります)右と左を別々に行いました。右が60%、左が75%に回復。更に機能をあげるのは又の機会にして、心臓を調査。

右心室、右心房、左心室、左心房、心筋と見て、循環システムも調査。寄生虫感染が見つかった箇所で、除去して良いとのことで、除去しました。炎症がある箇所の炎症を鎮め、毛細血管のつまりも少し融かせました。右心室に三尖弁という弁をコントロールしている筋肉の中の一本が動いていないということで、治療。呼吸に意識を向けて、横隔膜と呼吸筋群をコントロールしている脳の司令塔にアクセスして肺を一杯にするように呼吸を整えました。呼吸が楽で息切れもない快適な感じです。

別の日。胃腸の調子が悪く、調べたらやはり寄生虫がいました。ランブル鞭毛虫という名前です。画像を見ると可愛いですが、断固撤去してもらいます。


寄生虫や細菌、ウイルスに関する部門を担当した講師の方に言わせると全ての生き物には生まれてきた何かの意味があるのだと言います。嫌な奴と思って無理やり除去するとか殺すという気持ちで処置するとダイオフという死に方をして、後に毒素を残して行く場合があるので、それが無い時のみ除去するように注意されています。ともかく自分勝手を謝って、出て行っていただきました。

耳の炎症は腸の循環システムとメンタルな原因が主原因とのことで、寄生虫はすでにいなくなったので、小腸の問題を起こしている原因らしいメンタルな問題を処理することにしました。今までも「心の断捨離」で行ってきましたが、全く触れていなかった過去のある数日間のトラウマが見つかりました。大喜びです。ずっと隠れていたのです。それだけ根が深い問題だったのかもしれません。耳だれはその後一度も出ていません。先月の耳鼻咽喉科の検診で、もう来年まで来なくて良いと言われました。鼻の通りも良いので、睡眠時に口を閉じて眠れるようなりました。薬も全く飲んでいません。

又別の日。このところ睡眠が不規則になって来たので、リラクセーションにつながる様々な治療をしてから、ふと睡眠に関与しているセロトニンの分泌状態を調べたら必要量の半分も出ていないことが分かり、夜更かしとパソコンのし過ぎを反省。制作所の松果体の治療をしました。

勿論自分だけでなく、友達の体内旅行もしていますが、とても楽しく、半分遊び気分で行っています。又いろいろな発見があったら書くつもりです。何しろ日本は半病人が多い国です。単に健康なだけでなく、楽しく、有意義な人生を送っていただきたいです。病気の時には人の役に立つことなどする余裕がなかなか出ないので人間関係もギスギスしがちです。

出典:美しい人体図巻 ポプラ社
   人体解剖図 成美堂出版

ミクロの決死圏の動画の一部を載せますね。
(注。私がこういう風に旅をしたわけではありません。誤解無きようにお願いします。あくまで様々な解剖図を眺めながら、賢い方の自分に質問しながら情報を得て、この映画で旅をしている人達のようなイメージで行っていただけです)

「バカの壁」を越えて見つけたこと

4番目の問題

病が治る人、治らない人

2019.09.29

「バカの壁」を越えて見つけたこと

以前光透波理論を学ぶ仲間の女性に、「あんたに今必要な本」と言われてプレゼントされたのが養老孟司[1]さんの書かれた「バカの壁」という本です。読んでいて抱腹絶倒であったと共に膝を打って、「そうだ、そうだ、本当にそうだ。私はバカだ」と目からウロコが落ちました。

あれから十数年、バカ度はどのくらい下がったのかと自己客観視。どのあたりがバカでどのあたりが進歩したかを調べました。分かったことの一つは、「どんな理論を学んでも、現象を起こせなければ説得力はないね」と教えてくださった飯島秀行[2]さんの言葉の意味です。要するに具体的に何かの役に立つ行為に繋がらなけばそれを学んでいる人の貢献度はあまりないと言われたのだと解しました。飯島さんはフリーエネルギーを開発され、成功されました。現象を起こし、貢献したのです。

二十世紀という時に地球という星に生まれ出てきて、100年足らずの間に私という、詞の大海原の一滴に何か意味あることが出来るのか。光透波理論の真髄をどう応用して行けば「生きがいの発見」という素晴らしいプレゼントを頂けるのか。そしてそれを実践して「世界の平和と地球の蘇生」を実現させる原動力である「人類の覚醒」につながる行動の一端を担えるのか。

私は人間が好きです。バカでも怠惰でも自分勝手でも好きです。人間を相手の仕事をしたいです。それは分かっていました。人間の心理や本性について学んでも来ました。そして様々な手法も学んできました。でも、本当に効果のある、自分に向いた手法はまだ見つけられないでいました。今は「これかも」という手法に出会ったと思っています。

教えて下さった方とのお約束で具体的な手法をお教えはできませんし、光透波理論をご存じない方なので、自分の解釈による理論を織り込んでのお話となるため、お名前を出すことは控えるべきと思います。いつかその方にも光透波理論のことをご紹介してご承諾を得られたらもっと詳しいことをお話しできるかもしれません。

養老孟司さんによれば、世界とは複雑なもので、「わかる」ことはできない。「客観的事実」や「本質的真実」は信仰の領域である。この世に絶対的な「正しさ」や「正義」なるものは存在しない。「これが正しい」「これがあたりまえだ」と思い込むことは思考停止である。社会や自分の属する集団の意見を盲目的に正しいと思い込み、それを鵜呑みにするのはバカのすることだ。常識を知っているということは「人間なら普通はこうだ」という判断ができるということだ。推測を真理と取り違えたり、科学や宗教を妄信したり、わかっているつもりになること、それが健全な思考の広がりを妨げる「バカの壁」だ。

バカの壁とは「自我の壁」とも言えると思います。この自我の壁を乗越えて、人類(実は地球人だけではないと私は解しています)発生以来のあらゆる感情的・知的体験がもたらす知恵と発見が細大漏らさず記録されている謂わば「図書館」のようなものがあるとしている人たちがいます。私もその一人です。これは「アカシックレコード」とも「人類の集合意識」とも呼ばれています。情報の源で、ここから私たちは自分に興味のある情報を必要に応じて取り込んで、それが「自分の思考・発見」というように思っています。

さて、今私が学び、実践している治療法とはこの源から得た情報を活用して、精神的・肉体的に病んでいる(多くの場合両方病んでいます)人やケガなどによって苦しんでいる人が最も効率的に速やかに常態に戻れるような自己治癒力の発動をうながすという手法です。術者は自我の介入を避ける非常に効果的な準備をしてから、被術者から直接情報を得る源とのいうなれば「通信回線」を開きます。被術者の自我の壁のかなたにある情報源ですので、ご本人は自分の病の原因は知りません。そして、「知った時が回復のプロセスの始まり」となります。

太母さんが言うところの、「医王さま」が誰の中にもいらして、それが働く邪魔をしなければ「病気は勝手に治って行く」と聞いてはいたのですが、発動を促す条件があまりにも実現不可能なことが多く、実際にはできなかったのです。

誰もが大宇宙の分身同士で敵も味方もない、従って戦いも競争も不要、生きとし生けるものもまた分身同士で互いに助け合ってこの世界は成り立っている。それぞれを敬い、感謝して生きるのが幸せな世界を作る条件。要不要を無視して濫造する物品とそうせざるを得ない経済機構がもたらすあらゆる汚染を止め、必要最低限の物だけ持ち、「身無一物福寿無尽蔵[3]」を悟り、真の幸せを確立すれば病も死も一如であると分かり、恐怖も心配ともおさらば。

私は70歳を過ぎてもまだこの心境に達していなかったのです。でも自我の壁の向こうで発見した、人間本来の英知との通信回線を通し、少し「バカ度」が下がって来ているように思っている今日この頃です。

[1] ようろう たけし
日本の医学博士、解剖学者。東京大学名誉教授

[2] いいじま ひでゆき
フリーエネルギー研究家。一般財団法人テネモス国際環境研究会理事長

[3] 何もかも捨て去り、拘りも恨みもつらみもすべて手放せばその時にあらゆる福寿が降り注ぐ。