現世を何故ウツシヨと読むのか

現世と書いて「ウツシヨ」と読みます。何故そう読むのか不思議ではありませんか。何を映していると教えられているのでしょうか。
何かを反映しているのなら反映する元があるということになります。現世に対する言葉は「あの世」です。あの世は姿形のないエネルギーの世界で、そこに行くためには死んで体をこの世に置いて行かなければならないことになっています。
姿形がないあの世を映しているのなら何も見えないはずですが、見えるように、感じるように設定されているようで、そのおかげでいろいろと惑いも起きてきます。まず体があるせいで、空腹や渇きがあり、寒暖にも対応できるように衣服や住居も必要になります。脳下垂体や消化器官、生殖器官からホルモンが分泌されるので感情や欲望が刺激されます。いわゆる煩悩と呼ばれる欲望が108もあると言われるのはそれだけ多くの欲が生まれてきてしまうということです。あの世にはそんなに多くはないでしょうね。
エネルギーだけが渦巻いて、スパイラルを描きながら動いているだけの現世なら煩悩も関係ないでしょうが、肉体に備えられた五感がしっかり味、音、匂い、触感、形や色を認識して、快不快を毎日経験して生きることになります。煩わしいといえば煩わしいです。でも面倒だから死んでエネルギーだけになって自由になりたいと思っても、どっこい、生命維持本能が働いてしまいます。苦しいのや痛いのは嫌だと感じるようにセットされているのが感情なので、なかなか死ねないのです。でなかったら地球に人類はもういないでしょう。

ある時非常に体が病んで、息をする度に肺が焼けるように痛く、その度に全身を波状に痛みが襲いました。息をしなければ痛くはないので、止めれば良いのですが、酸素が無くなってくるとどうしても息を吸いたくなるのです。苦しみながら少し息を吸い、小さく肺を使い、次の呼吸のタイミングを遅らせるようにしながら一晩中縮かんでいました。それでも少しずつは楽になってきたのですが、その時に動物としての人間の生命維持本能の強さに驚嘆したことを覚えています。

五感を持って、快不快の感情を体験しながら生きることが現世に在ることの意義なのだと思います。不便ですが、仕方ないのです。せっかく不便を凌いで生きている間に映すのは何かと言うと、それは自分です。鏡に映った姿形を虚像と言います。嘘のすがたという意味です。本物は実像ですが、現世にある姿形は虚像なのです。仮のすがたとも言えます。仮ですから死ねば無くなります。そういう意味です。神社の奥の院には本尊の代わりに鏡が祀られています。象徴的ですね。

誕生という言葉があります。誕という字の意味は「仮の」という意味です。仮に生まれたのだと教えられているのです。現世に仮に生まれて、鏡に映る自分を見るチャンスを頂き、感情の体験を通して何を学ぶというのでしょうか。いや私が別に何も学ばなくとも良いのかもしれないと思うようになりました。体験そのものが、体験の認識そのものが宇宙意識というか、純粋意識という実在実像が体験しているので、個人が何を学んだかに拘ることはないのではないかと思えるようになりました。体験というエネルギーの動きが「在る」ので「体験者」とは虚像なのではないでしょうか。それだから現世を「マコトヨ」と読まないで虚像を指し示す読み方をさせているのだと受け止めました。

体験者ではなく、体験だけが在るのだと思うのです。私の体、私の感情、私の学び、私の財産、私の名前から私の、を取り去ったら、後に何が残りますか?
ゼロです。ゼロが唯一の実在。それが納得できたら悟りなのだと推察します。自我意識は自分があるという感覚から生まれてきます。その間ずっと悩むわけです。また納得の結果がある気づきであっても、定着性は保証の限りではありません。私は経験済みです。まるで肉体の重力に引き戻されるような感じです。

「私は悟っています」と自分でいう人に何人か会いましたが、その人たちには共通性がありました。嘘つきでした。あるいはそう思い込みむ病気だったのかもしれません。ともかく溢れるような愛は感じませんでした。弟子をほとんど無給で酷使したり、より優れた(と思っているだけだったかもしれない)人をそれとなくけなしたり、浄財を喜捨しなさいと言って財産を取り上げたりでした。家財産を全部寄付させられた人も二人知っていますが、途中で少し返してもらおうとしても絶対に返してもらえなかった上、一人は命の危険さえ感じたそうです。その相手は今は刑務所に入っています。
ある時いわゆる神秘体験というものをして、通常では得られないような洞察が得られ、普通人から見たら霊能力が発揮できるようになると、偉い人、悟った人というふうに思われ、弟子や取り巻きがついてきて尊敬されます。そうなっても常に謙虚で、人に優しく、威張らないでいたら大丈夫ですが、多くの場合は周囲に持ち上げられるとちょっと高慢になります。そうなるとかつての深い洞察力や霊能力が鈍るということにもなります。すると嘘をつかなければならなくなるのです。怖い落とし穴です。私が逢った中で非常に深い洞察と真理の理解をしていらっしゃる方たちは決して自分が悟っているようなことはおっしゃりませんでした。悟りや至福はお金では買えません。

少し言いにくいことでしたが、この頃考えていることを書きたくなりました。2017年は周囲の人の何人かが様々な病気にかかり、悲しい思いをしました。私もアレルギー性の疾患で体が重苦しくうっとうしくて、体に対する拘りを離れて物事を見直したかったからかもしれません。体は大切な容器ですが、宿っている意識が明哲性を欠くと濁りが病を引き起こします。今年はお掃除を心がけるようにします。

絶体絶命の崖っぷち
幽霊と直談判
幽霊は在るのか無いのか
光透波という実体

 

春の小川のように

母が好きだった歌で、少し音痴気味に歌っていました。

春の小川は、さらさら行くよ
岸のすみれや、れんげの花に
すがたやさしく、色美しく
咲けよ咲けよと、ささやきながら

静流という名前は母が書いた小説の主人公の名前ですが、その本の冒頭にあります。

静かな流れとは、
善にも悪にも、清にも濁にも、美にも醜にも、かかずらうことなしに、心身ともにひたすらに流れゆく一生の姿になぞらえたのです。

なかなか善悪や美醜に拘ることなくは生きられませんでしたが、それでも母の願いはいつも心の中に大きな位置を占めてはいました。今年のあいさつ文の中で、カウンセラーの仕事は裁くことではないと書きましたが、この戒めは大切にしています。
人生の荒波に否応もなくもまれる中、悲しみや怖れに捕らわれて心が乱れた時に、拘りを捨て、さらさらと流れて行くのは難しいのですが、役に立つことはいくつかあります。
その一つとして、瞑想と言うほどおおげさなものではないのですが、しずかに座って、目を閉じてイメージする風景の中でもよく出てくるものは、穏やかに流れる川なのです。何を投げ込まれても放り返しはできない受け身の人生は川に似ています。でもさらさらとただ流れて行くのなら、ただそれだけのことです。良いも悪いもありません。嫌でも何でも受け身なのですから。それを苦にするかしないかだけが自分にできることです。

最近、末期癌の患者の「緩和ケア」という仕事を主にしている医師の講演を聞きました。ホスピスとは違って投薬や医療の他に代替治療も含め様々な処置をするクリニックです。彼によれば癌の70%は酷い痛みを伴うそうです。その痛みの緩和ケアをするにあたって、有効ないくつかのポイントがあるそうです。痛みの対処の方法はいろいろありますが、どれでもその人に合えばそれが有効ということで、手段は選びません。しかしどの場合も常に共通なのはその人の心の状態で、それが否定的か肯定的かで痛み苦しみが違ってくるそうです。

後半年か一年くらいの命と言われている。怖い、苦しい、理不尽だ、まだ死にたくない。半年しかない、が半年もあるというふうに、気持ちが肯定的に変わるきっかけとして有効なことばは、「人間は100%死にます」だそうです。自分だけが理不尽にも死ぬのではなく、誰でも死ぬのです。これで視点が変わるそうです。後は死ぬまでどう生きるかを選択すれば良いのだそうで、これは一つの目標になります。嘆いていても意味がないのは分かります。

へえ~、そうなのか。誰でも死ぬとは知っていても、自分が死ぬということをしっかりわきまえてはいない人が大勢いるということです。

この医師が、どのような処置をする場合もお勧めは、瞑想や座禅などの心のケアだと言います。痛み止めの薬の量が違ってくるというのです。ほとんどの場合大幅な違いが出てくるそうです。心が静まっていて穏やかなら痛み苦しみは少ないという実例を見てきた人の証言です。

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

嫌い!の効用

子供が道に座り込んで、「嫌だ、嫌だ、嫌だ~」と泣きわめきながら、手を引っ張って起こそうとやっきになっている母親に抵抗している。何がそんなに嫌なのかは分からないが、「嫌」という感情の爆発によるエネルギー放射の影響は家の窓から外を見ていた私にも伝わってきた。窓は閉まっていて、ペアガラスの防音効果もかなり高いのに、それでも聞こえるほどの大きな泣き声なのだから肺のキャパいっぱいの、それこそ全エネルギーを使っての抗議デモだ。

同じような経験が私にもある。あれは私が6歳くらいの時のこと。静かな山岳地の緑深い、水のきれいな川の近くの家から海辺の町に引っ越した。人々の気質がかなり荒っぽい漁師町の道筋から一本奥に入ったところにある、都会の人たちが疎開していた別荘地区にある家だった。門にも塀にも落書きがしてあり、汚物もなすりつけられてある。洗い落としてもしばらくするとまた汚される。塀越しに汚物が放り込まれることもあった。
「よそ者で金持(実際は違ったが)の奴ら」とみなされ、土地者とは馴染まないのが別荘地区の人たちの生き方なのに、家族はそれをしなかった。業者に厳しく接するという金持ちの姿勢をとらなかったという意味である。要するにバカにされたのである。買い物をすると高い値をつけられ、品物は二級品を渡される。土地者価格とよそ者価格とがあったのである。
ともかく居心地は悪かった。穏やかな気質の人々に囲まれていた、のんびりとした田舎の畑の間にある家からいきなり粗々しい人たちの間に放り込まれたショックは大きかった。仲間外れなど当然のことだった。今でも人との交際には相当気を遣っている。

ある日母が、元住んでいた地域の近くの知人を訪ねるのに私を連れて行ってくれた。物心ついた時から可愛がってくれていた夫婦の家で、私たちを歓迎してくれた。食事もいただき、お土産も頂いて、他に少し用足しもしてから駅に向かう母に、帰りたくないと言った。当然それは聞き入れられない要求だったが、私の知ったことではない。先ほどの子供と同じように道にしゃがみこんで泣き叫んで抗議した。今までこれほど激高したことは一度もなかった。自分で言いうのも何だが、聞き分けの良い子供だったのに、この悲嘆と怒りの混じった抗議には母も困り果てていた。声も枯れて力も尽きてぐったりとなるまで母は道に立ち往生していた。一生忘れられない思い出である。

その後二回激高したことがあるが、最初の一回ほどの激しさではなかった。それでも70年余り生きてきて、命の限りの力を尽くした激高は三回だったのだから、それがどれほどの「嫌!」だったのかは想像がつくのではないかと思う。

数年前のこと、従妹のY子が旅行先に、指に包帯を巻き、手首にサポーターをして来たので、どうしたのか尋ねたところ、指を包丁で切ったという。そして怪我するまでの経緯を話してくれた。

正月に大人数の食事の支度をしていた。息子とその連れ合い(一度も料理と後片付けを手伝ったことがない。実家の母親が料理の下手な人なので、毎年彼女の家の方に一家全員で来る。お産の時も三回とも実家には行かずに彼女の家に来てそれぞれ二か月以上いた)と、子供三人、結婚しないで家にいるもう一人の息子、家事を全くしない夫の全員の食事の支度を独りでしながら、心の中で、「もう嫌!嫌、つくづくとことん嫌、うんざりだ」と喚いていたそう。そして力任せに何かを切った時に左手の親指を切り落としてしまった。皮一枚でつながっているのみの切断状態。皮が離れないように指をきっちりと定位置にくっつけて、救急箱に向かう。ずれないように気をつけながら、口で包帯の端を咥えてぎりぎりと巻き、腕の方に紐を巻いて止血をする。それから血が流れ出ないようにゴムの指サックをはめ、その上にまた包帯を巻き、さらにゴム手袋をして料理を続けた。食事はしないで、気分がすぐれないからと自室に行って倒れた。激痛が襲ってくるが大きな声を出さないで歯を食いしばってこらえた。病気をすると酷く機嫌が悪くなり、家事をさぼることが許されない舅と息子の家に嫁に行き、いつも弱みを見せて負けてたまるか、と自分に言い聞かせて生きて来た癖はもう治らないと笑って言っていた。ちなみに彼女が指を切断したことには夫も息子も気づかなかったそう。誰も彼女の顔色など見ないからである。

そのY子が指の怪我で学んだことは、「嫌!」という感情の起きる原因はいくつかあるが、それを無くすことは実際的ではないので、他の解決法を探るしかない。嫌はそのまま認めて、原因となった不都合は受け入れ、嫌を上回る楽しみを見つけ、断固決行する。その為には嘘もつくし、うまいやり方をいろいろと考えだす。

そして今彼女は、好きなことをいくつかやりながら、料理をし、他の家事をし、息子と嫁の面倒を見、お気に入りの従妹(私、へへ)と姉と妹と一緒に食事会や温泉旅行を楽しんでいる。大きな声でよく笑うようになった。あまりにも大きな声なのでフレンチレストランには行けないほど。昔は姉に「ふくれのY子」と呼ばれていたくらいの人だったのに。三叉神経痛で風が吹いても痛む時があり、能面のように表情の無い時期があった。

さて、説教タイム。「嫌!」はまず認める。そして向き合う。原因は処理できるものは処理。できないものは受け入れる。そして楽しいことで埋め合わせる。幸せであったら「嫌」の辛さはそれほど酷くはないうえに、自分を知ることの手掛かりにもなる。ちなみに勝負事が好きなY子は好きだった将棋と碁の練習に励み、碁で段を取り、今では同時に数人を相手に教えながら「独り悦に入っている」そう。負けず嫌いで頑張り屋の性分は小さな時からで、それは変わらないが、仏頂面は無くなり、持病の三叉神経痛と偏頭痛は完全に治り、明るく元気に生きている。

2017.10.15

水が燃える? 燃えると何が起きる?

水は実は燃えます。ただし、温度が問題で、水素と酸素が分離して両方燃えるには摂氏1200度の熱が必要だそうです。
他の方法としては、水を電気分解して水素ガスと酸素ガスにして燃やすことができます。普通の水を電気分解[i]しますと陽極側(+:プラス極)から酸素ガスが発生し、陰極側(−:マイナス極)より水素ガスが発生します。

福島原発で爆発したのは水素ガスで、その際に起こった反応は上記の酸素と水素の結合、すなわち水素の燃焼です。 水素と酸素を単に混ぜただけでは何も起きませんが、火元(火・電気火花・加熱・・・etc)があれば爆発的に水素が燃えてしまいます。非常に強烈な爆発です。
どのくらい強烈かというと、宇宙で星が生まれる時、水素ガスが約3/4、ヘリウムが約1/4、残りの2%がより重い元素という比率で大爆発が起きるそうです。つまり太陽のような恒星が出来るような爆発だということです。

現在放映中の「シカゴファイアー」というアメリカのテレビ番組があります。消防士達の活躍を非常にリアルに専門家的な知識を踏まえて見せています。それで信ぴょう性を確認するためにいろいろと調べて、火というもののことが少し分かって来ました。

私たちが知っている日常使っている水は物を冷やしますが、たとえば大火事になって、その中の温度が1200°C以上になっている(現代の建物は化学物質を使っているので、高温になる要素が多々あります)ときにホースの水をかけたらどうなるか?
一気に水素と酸素に分裂して、また結合することから大爆発が起きるのです。だから火事になったとき、温度が高い状態のところに水を入れると、爆発して危ないのです。それが起こらないように消火器はつくられているのだそうです。

だいぶ話が横道にそれてしまいました。水が銀河にある恒星たちを作っている原材料とも言えるということをお話ししたかったのです。そして、水は温度や、電気などが加えられることで、様々に変化し、大は星雲から小は私たちの細胞という小さな生き物までを構成する要素なのです。

さて、コトバと水との関係のお話の第二の段階となりました。その前にエネルギーについて少し学んでみたいと思います。

宇宙にあるあらゆる存在は全て元はと言えばエネルギーが形を変えているものです。熱いという意味では一番わかりやすいのが火というエネルギーですが、氷も、木も、石や、動物もエネルギーで出来ています。物理で習いましたよね。インターネットで「エネルギーとは何か」と検索するとまずでてくるのが「仕事をする能力[ii]」とあります。これだけでは何のことか分かり難いですね。以下にさらに細かい説明がありました。

物理系が他に対して仕事をする能力をもつとき,これを系のエネルギーという。保存力場内の物体は位置エネルギーをもつ。運動する物体がもつ運動エネルギーはさらに回転エネルギー,振動エネルギーなどに分類されることもある。以上を力学的エネルギーと総称する。熱はエネルギーの一種であって,熱エネルギーと呼ばれるが,その実体は系を構成する微粒子の力学的エネルギーの総和である。電磁現象には電磁エネルギー,光には光エネルギー,化学物質には化学エネルギー,原子核現象では核エネルギーなどが考えられる。あらゆる物理変化,化学変化において,これらのエネルギーの総和が保存されることを広義のエネルギー保存則という。この保存則に基づき,自然現象を各種のエネルギーの相互転換によって理解しようという巨視的立場が 19世紀のエネルギー一元論 (エネルゲティク) である。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

分かったような、分からないような説明ですね。かいつまんで言うと、宇宙にあるあらゆる存在の原料であり、それらが動くために必要な推進力であり、変化を起こさせる影響力であり、どういう形に変化しようと決して無くなることがない、不滅の存在だということが言えるでしょう。ただしこれは物理的なエネルギーの説明です。言い換えると、物理的エネルギーが何を原料にして、どう働いて(仕事をする能力)、森羅万象を造り上げているかと言うと、「水」が関与していたということなのです。水が無かったら物質宇宙は存在し得ないのです

次回は光透波というエネルギーについて考えて見ましょう。人間が使っているあらゆる言語の大元であるというのが光透波理論の根幹を成す考え方です。物理的な説明にあるエネルギーとは根本的に質的に異なるエネルギーだということが第一の性質。二番目に、そのエネルギーが生命のエネルギーの正体であるということについてお話して行きます。

NGC 3982は、おおぐま座にある渦巻銀河で、地球からの距離は6800万光年。この銀河は、ウイリアム・ハーシェルによって、1789年に発見された。 この銀河の大きさは3万光年であり、天の川銀河の3分の1の大きさである。中心には巨大なブラックホールが存在すると考えら得ている。また、腕の部分には、青白く輝く明るく新しい星と、星を作る物質である水素ガスが赤色に輝いて見える。1998年には、超新星が観測されている。

注。
i 電気分解とは、分解したい対象物質を溶解させた溶液に電圧をかけて電流を流すことで、化合物に対して正極側で酸化反応、負極側で還元反応を引き起こし、それによって電気化学的に分解する方法のことです。 装置は主に電極、電源、電解槽の3つで構成されています。電気分解|研究用語辞典|研究.netwww.kenq.net/dic/77.html

ii(物理学仕事をすることのできる能力のこと[1][2][3]。物体や系が持っている仕事をする能力の総称[4]

言葉の葉っぱの意味

言を分解すると天地創造の仕組みが分かる

言葉の葉っぱの意味

言葉という熟語の「葉」の意味について「昔からそうだった」と済ませないで、追及をして行かれたのが小田野早秧という人の持って生まれた性分でした。

以下は私が何回かに分けて小田野先生からお聞きしたものと、先生の書かれた文章の内容を簡略にまとめたものです。

私は子供の頃から疑問符が服着て歩いているような人間でね、因果な性分で、何だ、何だと、疑問を持ったらとことん追求しなければ気が済まないのよ。それで、「言」だけだって事足りるものを、何で葉っぱをくっつけたのかと不思議に思ったわけ。周りの大人に訊いたって、「昔からそうなっとる。それが何だ」と言われるのが落ちだから、自分で考えるしかないじゃない。ずいぶんいろいろと、ああかな、こうかな、って考えた挙句に気がついたのは、葉っぱが出来るのには枝が要る、枝は幹についている。幹は根が無ければ育たない。

その時に閃いたのよ。「榊」ってね、逆さの木と同じ音じゃない。神様の木が何で逆さの木なのだろう。それからは面白くて、夢中で逆さの木を描いたのよ。その絵があったからこそ日本語が世界中の言語の中で一番古くて、しかも親みたいな者だという結論が出せたわけ。

まず、根っこの根は発音が「ネ」で、「音」に通じる。その音がただの音じゃなくて、宇宙創造の原因のエネルギーを持った音だとして、その性質をまとめると、C∞乗という絶対至高の速度を持って絶対電磁場を成立させている、絶対中温の36°のたった76しかない音だと私は結論した。その根から幹が出てきた。「ミキ」は「カン」とも読むので、完全の完だと教え示して下さっていると受け止めた。何しろ神の木だと教え示されているのだから。

この完全なる76音を使った幹に条件が合う言(コトバ)は日本語しかない。他の言語は皆76の母音と「ン」だけでない音も使っているから。

そこで、日本語が大元の原因の言語としたら、他の言語がどうして出来ていったのかを考えた。言語を使わせている元の精神というものは「セイシン」と読むので、まず閃いたのが「西進」という二文字。西といえば日本からなら中国、インドよね。大昔に日本から東に行こうと思ったはずはないでしょ。海以外には何も見えない太平洋だもの。西なら九州からはるか遠くにぼんやりと陸地が見えるから、あそこには何があるだろうと思って、最初に好奇心と冒険心のある輩が渡っていったかもしれない。実際に行ったのよ。いつかは分からないけれど。そうして少しずつ人が行く先先に子孫を残しながら何十万年も何百万年もかけて進んで行った結果、各地に地域言語が出来ていった。最後に一周したら今度は東から日本に精神が戻ってきた。答えとしてね。「答えはこうですよと申す、東申」というのはそういう意味。

ざっとまとめましたが、オリジナルの逆さの木の図はもっと複雑で、説明ももっと微に入り細にわたっています。ここでは光透波理論による「言葉」という熟語の底に秘められている宇宙的意味の一部をご紹介しました。

2017,9,17

言を分解すると天地創造の仕組みが分かる

光透波という実体

水はコトバです

 

 

 

言を分解すると天地創造の仕組みが分かる

水はコトバです。などといきなりそう言われてもねえ。そこで何から先に説明を展開して行こうかといろいろ考えました。

まず「コトバ」を定義して行きましょう。文字では、言、言葉、詞、というものがあります。どれも「コトバ」と読みますが、意味合いは違います。

「言」一文字でコトバと読みますが、「言行一致」、「言を左右にする」など、葉っぱ無しで通用しています。まず一番シンプルなこれを分解して展開して見ます。光透波学の字分けでは文字の書体の飾りを無くし、幾何図形として見ます。そして、点(・)と直線(縦線と横線と斜線)のみに分解します。円と曲線は扱いません。従って、平仮名やアルファベットは一部の例外を除き分解しません。

ですから言はこのようになります。

・(点)、一、二、口となります。点という音に通じる文字の中から「転、展、天」に着目し、特に重要として互いの関連付けをしたのが小田野早秧です。

宇宙の全ての物は極小の点が基本で出来ている。その点が回転して展開している場が天である。

では、次の一を見ましょう。数字級数で一番目の数字で、「ハジメ(始)」とも読みます。一番目なのですからそうでしょうね。一つしかないと取りますと、比べる対象がないことから「絶対」も意味します。始めが一つで次に出てくる数は「二」です。相対が出来たわけです。例えば縦線があっても一つだけでは回転ができません。回転する線、鉛筆や棒を使ってみるとよく分かりますが。一か所に動かない支点を作らないと回転しません。二本の線が交差すれば回転が出来ます。交差点という回転軸ができたからです。二は相対である他に、回転という動きを可能にする数であると言えます。これを更に展開して解釈してゆきますと。宇宙という電磁場の電気と磁気という二つの基本要素も意味すると言えます。更に展開してゆくと、陰陽、男女、求心性と遠心性という二種類の動き、その動きを更に展開して行くと、呼吸、拡大と縮小という動きにつながってゆきます。宇宙の基本構造と基本の動きをほぼ網羅したことになります。

次に言葉です。言と葉っぱって何の関係があるのでしょうか。

それには詞の説明が要ります。言と司、言を司っている、コントロールしているものが詞であると書かれているのです。シです。シは数字の四でもあります。では五(ゴ)のつく言はある?ありますね、語です。言語の語です。順番からいうと先に四(詞)があって五(語)が出てきました(冗談でもこじつけでもなくマジで順番なのです)。司っている方の詞から様々な言語が派生してきた、元は一つの言だったのが、様々な地域と人種とが長い間に多くの語を作ってきたとしたらその道理と筋道を明らかにして行かなければ納得できませんよね。

まず、始めの点から一と二が出てきて、軸が出来たことで回転し、展開してできた天という場(ろ/□)が露(あらわ)れた。どうしてそうかと言いますと、・、一、二の次の□はカタカナのロの形で、文字としては「露―表れるという意味」が当てられますが、また「口」というものは言を発声するときに使う身体器官でもあります。

たった一文字の「言」を解いて云(運んでいる)光透波に内在している叡智のエネルギーは図のように分解することで天地創造の仕組みを指示しているのです。またアルファベットで表現して見ると、GENを頭に次のように重要な単語が出来ていることが示されています。このように読み解けるということに気づくとコトバというものが人知を超えた叡智の働きが加わって出来ているのではないかと推測できます。

「言葉の葉」に続く

言葉の葉っぱの意味

2017.8.31

光透波という実体

究極のコトバは光透波、それは実体であって作用ではありません

小田野早秧先生に師事し始めた頃に、光透波理論(当時は命波理論と呼ばれていた)という学問は、古今東西誰も研究したことがないものを研究対象にしていると説明されました。

今まで誰も?インドでもギリシャでも?お釈迦さまも孟子も、プラトンもアリストテレスも、ソクラテスも研究しなかったの?本当に?

人間が毎日の生活でごく当たり前のものとして使っているコトバというものを研究対象にしている学術分野はいろいろあるのではないかと思っていましたので、変なことを言う人だと思ったのを覚えています。

人が使っているコトバ(言語/言葉/ことば)を研究対象にした分野はずばり言語学です。またそこから派生した、言語の使い方、活用や影響力などを研究対象とする分野として心理学、教育学、脳科学などがありますが、あくまでも言語学が基本分野です。

つまり、言語というものの種類やその作用についての研究はされてきたのですが、「言語そのものが何であるか」の研究ではないのです。きっと誰かが既に研究していたのに違いないと思っていたのでこれは全く予想外であり、新発見であり、大きな驚きでした。

では何故これまでコトバそのものが何であるかを体系的に研究した人がいなかったのでしょうか。

学問においては、「〇〇は存在する」ということを証明する際には、どういう形式と構造で、何を材料に、何時できたのか、誰が作ったのか、何処にあるのか等々を調べて行きます。言い換えると存在している「もの」そのもの(それが抽象であれ、具象であれ)を実体[i]とし、その作用[ii]や属性や性質を調べるということになります。

例えば、「愛は存在する」と仮定した場合は愛の作用を調べ、効能や、弊害などの影響力を調べ、影響があったのだから存在すると結論付けるわけです。何故なら愛そのものは触ることも匂いを嗅ぐことも重さを計ることもできないからです。同様に神も悪魔も計測はできません。

先ほどインドでもギリシャでもと言いましたが、今回はギリシャを取り上げて見ましょう。紀元前数百年にギリシャで、プラトンとアリストテレスという二人の賢い人が万物の始原(アルケー[iii])は何であるかを研究しました。

プラトンは、存在する「万物」は先に「イデア[iv]」があって存在する万物はその影であると説きました。

プラトンが『国家』第七巻で記述した洞窟の比喩

地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。つまり、洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考えました。

これに対しアリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。イデアこそが本質的存在であり、地上に存在する物理的実体はその影にすぎないというのがイデア論の考え方ですが、このイデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであるという点にアリストテレスは納得がいきません。むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎないというのが自然な考え方である」というのがアリストテレスの考え方です。
出典:ウイキペディアからの抜粋

さて、両者それぞれのどちらが正しいかはそれぞれの人の根本的なもののとらえ方で決まるだけで正誤の決定要因にはなりません。この前後にも他の学者たちがそれぞれの理論を打ち立ててきました。デモクリトスは、「アルケーはアトム(これ以上小さくできないもの)」である」と言い、ピタゴラスは、「アルケーは数(調和的音階を構成する数)である」と言ったそうです。タレスは「水である」と言い、エンペドクレスは四元素(火、水、土、空気)、ヘラクレイトスは「火」であると言いました。

あなたは「誰派」ですか?

光透波理論的見地から見ると、どの人も「万物の始原」の一側面ないしいくつかの側面を見ていたのです。全部が一部は正解であり、どれもが完全なる説明とはなっていなかったのです。

光透波理論では、「万物の始原」は「光透波」というエネルギーの中でも至高の速度を持つ、唯一の実体、実在であるとしています。そしてそのエネルギーを基本材料として、完全にして狂い無き数の法則に則った構造を持つ形が現象する。それぞれの形が水であり、その水が燃えて現れる火(薪や石油を燃やしてできる火のことではない)であり、冷えた固体である土であり、形を成さないが何もないところを満たして生物を生かしている栄養素・生命エネルギー/プラナを持った空気でもあるのです。空気が含んでいる酸素によって生物は生かされていると多くの科学者が思っていますが、酸素は生命エネルギーそのものではありません。

重要な点として着目して頂きたいことは、ここに列記した「水、火、アトム、数、土、空気」はコトバだということなのです。イデアとはズバリ言ってコトバです。コトバはイメージを持っています。そしてイメージを保有する主体は人間なのです。コトバはまた音を持っています。音は音階を構成します。調和的であれ、なかれ、振動しながら不可視の形を構築しています。想像を絶するスピードで生成されては崩壊し、流転してさまざまな波を起こして周囲に影響をあたえ、干渉し、ある時は同調し、ある時は反発し合って動き続けています。

今までコトバは言語だと思われてきました。言語でもありますが、エネルギーそのもので、究極的には存在(有無)を超越した真空というエネルギーで、万物は真空が核となって回転という動きを可能ならしめられているのです。真空は何もない空白のことではありません。真空が理解できないと万物の始原は分からないのです。小田野早秧が若いころに「真空とは何か」という疑問を持って追及していった結果生まれたのが光透波理論なのです。その真空が核となって回転することで、生み出される波のつくるスパイラルが宇宙本来の美しい形と動きです。その形を調和的な振動で作っているのも歪めているのも人間という存在なのです。コトバを使っている存在を人間と定義した場合という意味においてですが。私は明らかに地球人以外の人と分かる人たちと交流がないので(地球外知的生命体ではないかと思える人には何人か出会いましたが、姿が人間と同じなので確かとは言えません)口幅ったいことは言えませんが、地球外にも人間は存在していると思っています。

万物の始原は光透波であるという仮説を一応立ててから、宇宙の構造を示している幾何図形としてのコトバ、即ち文字というものを様々な角度から検証して行きたいと思います。
以前質問を受けた「水はコトバです」という意味も含めて検証して行こうと思っています。
2017.8.21

[i] 実体=実際にそのものとして存在するもの、本質=永遠に変化せず在り続けるもの。そのものの本当の姿。実質。正体。

[ii] 他のものに力を及ぼして影響を与えること。また、その働き。「太陽熱は植物の生育に作用する」「薬の副作用」「相乗作用」。 二つの物体の間で、一方が他方に加えた力。

[iii] 万物の始原、元となるもの、根源的原理。

[iv] 古代ギリシャ語の動詞「idein」(見る)に由来する。感覚を超えた真実在としての意で用いた概念。英語の「idea」の語源ともなった。

水はコトバです

水はコトバです

宇宙空間にはあまり水がないといわれてきましたが、実はいっぱあるのだという新しい説が出てきました。本流の科学ではありませんが、そもそも水とは何であるかという解釈によっても意見が違ってくるのだと思います。今回は水に関する研究の中でも非常に面白いものを紹介しつつ、水というものを光透波理論的にも見て行きましょう。
まず、水を意味する文字で最もシンプルな形は「シ」です。小田野早秧の作成した「云音(ハコブネ)表」を参照すると、シという音には重要な4つの文字が入っています。自、思、詞、茲です。ここでは思と詞をとりあげます。シはまた漢字の部首ではサンズイと言い、水を意味します。詞はコトバのことです。コトバがなければ思考はできないので、思いは詞とも言えます。

科学的には水分子はH2O、水素原子(H)2個、酸素原子(O)1個で出来ています。構造を表す一つの形としては、下図があります。

Hはアルファベット8番目の文字です。そしてエイチと読みます。エイチという発音には叡智という字も当てはまります。二つの叡智を男性原理と女性原理、あるいは陰陽、あるいはエネルギー的には求心性と遠心性、電気的にはプラスとマイナスとも見ることができます。その二つのHにOが結びつくことで水という分子ができています。8という字の形も覚えておいてください。酸素を表す記号のOはアルファベットの文字であると同時に数字のゼロも意味します。二つの叡智が合わさった交点(プラスとマイナスの交点)がゼロという意味にもなるのです。交点とは点です。時空の軸でもあります。そして空間的広がりがないことから時間も発生しないゼロという一点です。ゼロポイントということを形でも表しているのが H2Oであり、それが水なのです。
本題に入る前にこの話題を取り上げたきっかけについてお話します。
フランスの話です。2007年に脚が痛いと言って病院に来た男性がいました。44歳の公務員で妻と二人の子供がいます。それまで何の問題もなく普通に暮らしていました。MRI検査で分かったことは、その男性の脳の状態でした。

写真でも見えるように脳の中に神経細胞がほとんど無いのです。90%は水だったのです。水頭症という病名で知られていますが、その男性は自分が病気だとは知らなかったのです。では何故彼が普通に暮らして来られたのか医学的には説明がつかず、かれこれ10年が過ぎ、昨年アメリカの医学誌に掲載されました。それで世界的に有名な例となったわけです。
ある種の水は情報を伝達する能力があることは近年だんだんに分かって来ました。おそらくこの男性は水からの情報をキャッチできる能力を自然に持っているのでしょう。脳細胞の90%どころか20%が死んでも認知症になっている人もいるのです。
光透波理論的には水が思いであり、詞でもあるというわけです。詞と語の違いは、言葉は詞が基本になって出来ている地域的言語、つまり語で、宇宙共通の情報を記録しているコトバではないというのが光透波理論です。
水の図を先に一つ見ました。もう一つの模型を見ましょう。

ちょっと専門的になりますが、酸素原子には外殻と内殻と二つの軌道があり、外側に6個の電子(青い球)があります。水素原子は軌道が一つで電子は1個(水色の球)しかありません。水素は電子が1個しかないので不安定な状態ですからもう一つの電子と結合して安定したいという性質を持っています。酸素原子があったら大喜びでくっつきます。水素原子同士もくっつきたがります。
次の図を見てください。

安定的な水素2個は8の字形になります。互いに離れることなくそれぞれが回転するのです。お互いが一緒にあることが自然な状態とも言えます。結合軸の周りで軌道回転すると、半回転したときに符号が逆になるという動きをします。8の字運動とも言えます。
模型で見た共有結合とは独り者が相手を探している状態で相手がいたらすぐさま対になる状態です。結合を作る時は対になるので、電子対は4個あります。これら電子対は互いに反発しています(電子の電荷が皆同じ負なで)。そこでこれら4つの電子対間の反発が最も小さくなるような配置を考えると、それは正四面体の各頂点に電子対を置いた配置で正四面体の各頂点間の角度は109.47°であり、OとHの結合は4つの電子対中の2つを使っているので、H-O-Hは基本的に109.47°となるのですが、実際には孤立電子同士が反発するため、結合角は5°くらいずれています。これが氷を作る時に重要な役を果たします。

氷だけではなく、この四面体構造が水のクラスター(分子集団)を作るにあたって重要な意味を持ってきます。自然界で普通水分子は単体では存在しません。クラスターを形成して様々な役割を果たしています。この中で特にあるクラスターが重要な役を果たしているということを発見した人たちがいます。ここでは触れませんがジェラルド・ポラック博士の研究をまたご紹介します。

情報を伝達する能力のある水の形の一つに非常に美しく均整のとれた形があります。六角形をしています。正四面体の構造を組み合わせた形です。

酸素が黄色の球、水素が水色の球

下図はハチの巣の写真ですが、六角形をしています。蜂の巣を日本語ではハチ(8)の巣(数)というから面白いですね。


水の写真を撮るとこうなります。

江本勝さんの撮影した水

水が情報(詞)を運んで思いが成り立つのであって、脳細胞が考えているのはないということなのです。脳細胞は処理装置(ハードウエア)なのです。

2017.6.10.

参照。
2007年のフランスの“The Lancet”(世界で5本の指に入る医学雑誌)の記事。
https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(07)61127-1/fulltext
2016年7月の“Science Alert”の記事。
https://www.sciencealert.com/a-man-who-lives-without-90-of-his-brain-is-challenging-our-understanding-of-consciousness

 

ある納得

 以下は霊鷲太母のことばで私が何度も耳にしたものです。他にも同じことを聞いた方たちが多数いらっしゃると思います。

身心に浸透して寝た間も休むことなき思いを「念」と言う。この念に付きっぱなしに付いているものが「仏」である。私らは仏の懐(ふところ)に住んで居るのに、皆知らない。その大いなる智慧の光である仏に赤子のように自らを委ねる以外に安心立命などない。
不可思議なる体験中に宇宙の成り立ちはもとより人間というものの本質、生けるもの全てと人とのつながりを覚(さと)った。そして全生命が一連にして不可分の大生命体であることを私は全身で納得した。これを、「身心(しんしん)毛穴(もうく)皆(かい)得(とく)悟(ご)」という。開眼とはこのような納得をした状態を言う。

『仏眼』より

この体験を22歳の時にしたのだと聞いていますが、その時のことを更にご紹介します。

本願寺の控えの間で何かを待っていた時のこと、目の前に掛けてあった軸に「見真」とあった。親鸞聖人の別名の一つでもある。何も思わずにただその文字を見ていたら、突然その文字が金色に光り始め、文字が崩れて金色の粒子になった。その粒子が渦巻きながら私の胸に入ってきた。あれれと思っていると私もまた金色の粒子になって四方八方に広がっていった。自分がどんどん拡大して行くにつれ、部屋の外へ、地球の外へ、はるか彼方へと拡がる星へと広がり、気がつくと自分の中に宇宙があった。それらが渦巻きながらすごい速さで動いている。渦の中から様々なものが生まれてくるのが見えた。花のような美しい形の中にある芯から生まれて来た物々もまた渦巻きながら回転している。そうしているうちにその渦巻の中に入ってしまい、今度は自分が小さく小さくなって行くのが感じられた。どんどんどんどん周りが拡大して行き、自分がどんどん小さくなって行く。その小さな自分と周囲のつながりが同時に見えた。どこまでも小さくなりながらあらゆるものと一緒に動いていて、それがぜんぶ一繋がりなの。それはめまぐるしいほどの速さの渦なのに少しもうるさくはなく、ただ美しく妙なる音楽のようにも聞こえた。他にも多くの物を見たのだが、一時には何を見たかが掴めなくて、その後一週間以上も見たことを少しずつ反芻していった。その時に覚ったことは全部が一繋がりであることさえ納得できたら世界はあっという間に平和になるということ。生きるものの全てが幸せに生きることを享受できるということだった。それからはその納得をどうしたら言葉で人間に伝えて行けるかということに没頭して、最初に本を書いた。でも学校に行ってなかったのでなかなか文章がうまく書けなくて困った。何年もかかってやっと一冊が書けたが、皆感動はしてもそれで大きな納得が出来たかというとそうでもなかった。これをどうするかと考えてもう一つ書いた。それでもなかなか分かってはもらえん。「心ここに在らざれば、見れども見えず。聞けども聞こえず」とはこのことじゃな。

注。最初の書は『慧日』、次は『舟を岸につなぎなさい』

この拡大と縮小の体験をした方々のことは文献にも見受けられますが、現代になってこういう体験を明晰に一般の人に分かるような平易な言語(内容は難しいので、すぐに分かるという意味ではありません)で語っておられる覚者があり、ありがたいことに一部の講義をYouTubeで見ることができます。またその方のことを日本語で紹介しておられる方の講座も動画で見られますので、こちらを先に、それからもし、もっと詳しくその体験を知りたいと思う方は二番目のサイトを訪れてみてください。とくに最初のサイトはとても素晴らしいお教室で、外国の方が日本語で話しをされています。

https://youtu.be/91oY6Rw3M7M?t=2316

二番目のサイト https://www.youtube.com/watch?v=XqxvoheJQtY

これに関連した記事で以前にご紹介したことは「量子」の世界と「物理」の世界とはそれを司っている法則が全く反対だということなのです。主流現代物理学ではまだ「統一場」と「ゼロポイント・フィールド」のことは認めてはいません。時空は軸が中心にあって回転が可能ならしめられているということが光透波理論では実にシンプルかつ明確に説明されていることも心にとどめ置いていてください。

労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

2017.5.3

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