「久司典夫さんの気づき」を読んでパート2

「久司典夫さんの気づき」を大変興味深く読ませていただきました。福岡在住の八田と申します。

僕も一度20年ほど前に典夫さんとお会いしました。その時はまだ典夫さんもこのような体験をされていなかったのですが、とても純粋な方でお会いした時に「あっ!ここにも同志がいた!」と思いました。
典夫さんは概念思考停止体験を経験した際に、「今まであると思っていたもの」は自分が対立的意識、概念思考で作り出した産物だったと気づかれたのだと思います。宇宙の本質に偽りはありませんから、本質に出会った時に始めて、周りのすべての人為的なものは自然には本来存在しないものであって、「今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった」と気づかれたのだと思います。

「ジャッジメントを伴わない観察」とあります。以前友人が教えてくれた「クルシュナムルティー」という方が「観察するものと観察されるものとの統合こそ、あるがままに見る」ということ、「瞬時の理解」こそ「ジャッジメントを伴わない観察」ということについて読んだことがありました。一切の批判をせずに見るということだと思いましたが明確に理解したわけではありませんでした。

世界は私たちの意識、思考で作られているのですが、意識や思考がコトバでありそのコトバが人為的な意味で使われてきたので、対立的感情を生みます。対立的感情によって他の人と自分とは違っているとしか思えないような考えになるのだと思います。そのことを典夫さんはファントム(幻想)・セルフと名付け、いつも何かをジャッジしている自分、ファントム・セルフが自分自身の本質だと思っているのです。ファントム・セルフとは私たち人が作ってきたコトバの意味なのです。日本語の表意文字で書くと人が為す書いて偽りとなります。

人+為→偽(イツワリ)

光透波を学び始めてどのようなことかやっと理解できました。それは観察する者と観察される者、両者ともコトバなのです。しかも今まではコトバを人為的にしか使うことしかできなかったので、いつまでも典夫さんの言うPERCEPTIONによって相対的に判断することしかできませんでした。

例えば私とあなたの命のエネルギーは全く同じですし肉体も同じなのですが、何が違うのか、それぞれの自我が違うのです。「あるがままに見る」良い方法としては音として捉えることです。すると両者とも「ワ」「タ」「シ」、「ア」「ナ」「タ」となり、概念無しになるためにある意味で同次元と言えます。

しかし意味を持つ表意文字で表すと、「私」という文字は自分を表し、「貴方」という文字は自分とは違う他の人と、明確な違いがあります。「私」、「貴方」は今まで私たちが学んできた言葉の意味、言語の意味です。ところが小田野早秧先生は様々な啓示による誘導、徹底した分析癖によって宇宙の本質である絶対無限エネルギーが発している音には音本来の意實が有ることを突き止められました。

そしてその日本語の音の図を「天鏡図」として纏められました。その図から音の意味を索引すると、

「ワタシ」とは「和やかな田(絶対電磁場)の詞(コトバ)」と読むことができます。また「アナタ」とは「空(宇宙)の大を示す田(絶対電磁場)」と読むことができます。読み替えてみると、「私」と「貴方」に対しそれまで持っていた意味とは全く違った意味になります。「私」という「語ゴ5」)は自分、個人という意味ですが、読み替えた「和田詞」)は、絶対電磁場の和やかな「詞シ4…光透波」という、光が透明になったエネルギー、光透波を表す意實になります。このように読み替えることを小田野先生は「字分け」と言われていました。

天鏡図の索引による意味の読み替えによって、言語として使ってきた意味を、宇宙を表している詞(光透波)の意實に読み替えることが可能になります。典夫さんが言われているファントム・セルフは言語(コトバ)で作られていて、その意味は人が為してきた…偽りの意味で使ってきたので、対立的、差別的にしか働きません。しかし読み替え後は宇宙の本質の意實に転換できるのです。

今まで輪廻も含めて長い間蓄積してきた自意識の言語情報である語を、詞の意實に読み替え続けると、もちろん個人差はありますが、自意識の変化を自覚できるようになります。徐々にですが「私」と「貴方」の違いが薄れていくのです。

典夫さんの体験は、私の知る限りの他の多くの覚醒体験のように、自我意識…概念思考停止経験によって起こっているように思います。しかしこのような体験はあくまでも自我意識ファントム・セルフと宇宙の本来のエネルギーとの違いを体験的に味わうことだと思います。しかしこの体験で終わりではないと思います。

宇宙の音の意實においては「和田詞」と「空奈田」に違いはありません。全てのコトバは宇宙の本来の意實を表しているのだと思いますが、それまでは言語の意味しか知らなかったので、偽りとしてしか捉えることができなかったのです。読み替え…字分けによってさらなる文字の意實の普遍性を学ぶことができます。ファントム・セルフを客観できる新たな視点、軸が備わるように思います。この軸を宇宙軸(天軸)と私は呼んでいます。ファントム・セルフをいつも客観視しているもう一つの軸ができてくると、感情を客観する「観情」が生まれます。客観性が増した意識はファントム・セルフを客観でき、ファントム・セルフのみの意識の時よりも自意識のセルフコントロールが可能になります。また存在している自然生物の本来の意味や自然現象を通じて宇宙の理(言÷)を理解できるようになります。

小田野先生が天(宇宙實親)から学ばれた宇宙の本質、絶対、無限エネルギーの音は母音がすべての音に添う母音系言語…日本語の読み替え(字分け)によって、語意識であるファントム・セルフを少しずつ読み替えることができます。読み替えの先に現れてくるのは「宇宙との血縁」、宇宙の子としての自覚なのです。ですから宇宙の子と書いて

ウ(宇宙)+子→字

その「字」を「分ける」と書いて

字分=自分

「字分け」こそが、ファントム・セルフから自分の本質に読み替える→甦りの法、再生の法なのです。

小田野先生は「天に直通ケーブルかけちゃったのよ!」とよく言われていました。ですから字割り、字割り(ジワリ、ジワリ)と字道に読み替えを重ねることが実は最高の近道!なのです。

2018年10月1日 20時19分 八田光典

付記。
八田光典さんは小田野早秧先生に17年間も師事された方で、私にとっては先輩です。基礎講座も長らく続けてこられ、多くの貴重な資料も作成されています。ブログサイトは以下です。
http://www.kotoha-a-f.org/

菊池静流

「久司典夫さんの気づき」を読んで

光透波を学ぶ仲間の藤田知江さんから長いコメントが届きましたが、これはコメントより投稿記事にしたほうが良いように思い、掲載します。今までは私一人で記事を書いていましたが、これからは他の方たちにも書いていただき、他の視点、別の考え方も読者の方々にご紹介して行きたいと思い、新しいカテゴリーを作ることにしました。
藤田さんは私が光透波の講座を始めたばかりの頃からの受講生で、20年間月一回の研究会にほとんど欠席したことがないという熱心な人です。今では私が思いもしなかった斬新な切り口の字分けを見せてくださいますので毎月の会を楽しみにしております。

以下は藤田さんの文です。

久司さんのお話をお聞かせいただき有難うございました。光透波理論を習い始めたばかりの時にクラスが始まってしばらくすると頭痛がし、それからウトウトと眠くなり、しまいには意識がどこかへ行ってしまう、というような思考遮断による自己防衛がよく働きました。久司さんのお話を読むときに久しぶりに同じような抵抗がありました。その抵抗感を懐かしく幸せに感じながら読ませていただきました。私は小田野早秧先生の光透波理論を菊池静流先生から学ばせていただくようになり、今では光透波理論が自分にとって考えの土台となりました。
久司典夫さん、半田公宣さん、飯島秀行さんも唯一の真理を皆さまそれぞれの位置から伝えてくださっています。久司さんのお話を読みながら、半田公宣さんの「自己と他者」、飯島秀行さんの「原因と結果」、小田野早秧先生の「詞と語」のお話を重ねて考えていました。

?            「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」
?            変化を起こす原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるもの
?            変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということ
?            人間は一人残らず目覚めているんだけど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ
(久司典夫さんの気づきより)

判断という漢字は、刀で半分に断つと書きます。切ってしまって半分ですから半分の理です。つまり自分の側からだけ物事を見ている状態です。判断する、とは目の前に結果として現れている現象について語っている私です。
PERCEPTION(認識)の中にはRECEPTION(受け入れる)とPがあります。Pはアルファベット16番でありピィと発音します。ピィに天鏡圖から文字をあてると日意となります。日は時のことであり、意はおもいです。認識は過ごしてきた日々の思いの積み重ねでつくられ、それを受け入れているということです。
私にとって衝撃だったことがあります。それは「人間は言語を周囲から学習しないと言語能力を使うことが出来ない」という事実でした。私の内面空間という思いの場は言葉で出来ていて(映像も言葉がないと結びつかない)、それは誰かから教えられたものですからつまり他者の集まりです。私はたくさんの他者であり、様々な結果であり、それは言語であるということになります。そしてそれが私のパーセプションなのです。

「変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけ」ですから私の個人的意識である内面空間が変わるべきところです。どう変わるというのでしょう?
人間は生きている間中考えています。考える力は命の力から発しているので目覚めていない人はいないのです。他者、結果、語といった遠心性の現象に対して、自己、原因、詞へ向かう圧をかけます。圧は負荷であり、一時的な求心性を起こします。宇宙呼吸(光透波理論p.259)により必ず爆発反転しエネルギーが生まれるためです。これが「在るものをそのまま観る」ことによって出てくる変化を起こす原動力です。
「それを知っている」というのはその場に今、居るということだと思います。

このように考えましたがよろしいでしょうか。
私は目覚めていないので実際はわかりませんが、光透波理論と字に向かうことにより理解を進められる方法を学ばせていただきましたおかげで、伝えてくださっている方々の座っている位置を頭の中で整理し感覚的に察するようになりました。それは暗闇の目標ではなくなって夜空の星のような指標と感じています。

久司典夫さんの気づき

前回の記事でも他の記事でもたびたび触れたことですが、大多数の人間が持っている誤った認識、について以前「静流の部屋」の記事として翻訳した文がとても役に立つのではないかと思い、掲載します。

作者はアメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。

以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う? 
ノリオ:世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ
ノリオ:だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う~ん。分かったような分からないような...
ノリオ:変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。
答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ:本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった
ノリオ:ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。
もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)
僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かにぶつかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:そうじゃない。~のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ:「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。
人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。(中略)最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の
“SpiritualEnlightenment, The Damndest Thing”という本。

アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大規模な目覚めの時期を迎えているように思うよ。(後略)
2005/12/30 翻訳:静流

後記。この翻訳をした当時にジェドさんの本も読んでみましたが、抱腹絶倒の面白さでした。当然まるで傲慢なところはなく、自分は悟っているなんて幻想を持っている人たちがいかに勘違いしているかもよく分かりました。この本を読んだ後私はずいぶん物の見方が変わったと思います。久司典夫さんの本は本人ではなく、光透波を学ぶ仲間のスティーブ・アールさんが最近書かれました。

2018.9.18 記

shizuru’s friends アーカイブ – シーちゃん的心と頭のステップアップ

光透波とは何か

光透波(コトハ)、透明な光の波とは何を意味するのか

この三文字の組み合わせを最初に使った方は小田野早秧(おだの さなえ)という明治後期生まれの女性です。1953年この人が45歳の時のことでした。本人の言によれば、台所の天井の隅から突然光の文字がピカピカッと「光」、「透」、「波」と一つずつ現れては消えた。あまりに速いので「ヒカリ」などと言っている隙がなく、思わず「コ」と叫んだそうです。当然次は「ト」その次は「ハ」と読み、後で何度も「コトハ、コトハ」と繰り返されたそうです。それからこの啓示現象(それ以外に説明ができない神秘的な出来事なのでそう称します)を解明する為の一意専心、一心不乱の人生が始まりました。詳細については本に出ています。現在は「光透波理論」あるいは「命波理論」としてまとめられた4冊の本があり。読めばこの語が何を意味しているかが分かります。他にも本がありますが、この理論を学んでいる弟子たちが少し書いています。

ここでは少しだけご紹介します。「光」は太陽光のような可視光線ではなく目に見えない光を指します。なぜ目に見えないかというと波長が人間の目で見える範囲外にあるからです。見えないから「透」、透き通っているとなります。「波」は振動のことです。宇宙が振動するエネルギーの極小の何か(名称については色々な説があります)で成り立っていることはもう分かっています。でも一口に透明と言っても、透明度には無限の階層があり、光には無数の種類があるのです。その中でも最高至高の光の波を「光透波」と名付けたのが小田野先生です。

この絶対至高の光はまた、その性質から「止速」と名けられています。行ったと思ったらすでに帰ってきている速さなので、あたかも止まっているかのごとき態だからです。この光を仏教では「如来・如去」と呼びます。人智で把握しがたい光な為に「不可思議光」とも呼ばれています。幾何学的数学的にも他の表現でその一面や他の視点からも説明されだしてきています。神聖幾何学的には「フラワーオブライフ理論」を使って様々な講義を発表されている方々もありますし、「ヌース理論」を展開されている半田広宣さんという方がいらっしゃいます。人間は言語を使って思考し、疑問を解く才能を与えられていますので、これらの方々が学び、理解して得た情報を言語(最近では図解や動画入りで)で発表されていますので、そこからも学ぶことができます。その意味では中世暗闇時代を考えると有難い時代になっています。私も少しずつ学ばせていただきながら、少し理解したことを皆様にもお伝えして行きたいと思っておりますのでよろしくお願いします。
2018.9.18

ちょっと科学的な説明が欲しい方に
労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

超光速粒子タキオンと光透波

愛が不在の場

今の世界情勢を見ながら感じた印象を表すのに出てきた言葉です。「愛が不在の場」とはどういう世界でしょうか。

虚無という言葉がありますが、完全にはその意味を推し量ることはできません。「愛が不在の場」に付けられた名称はまだありません。何故なら愛は普遍的でかつ遍在すると考えられているからです。そうだとすると不在にはなれないのです。
愛の別名は「神」、「至高の叡智」、「創造の源」、などです。まだまだたくさんあります。何故なら「それ」は誰にとっても心の中心にあって自分を見守ってくれている「何か偉大なもの(Something Great)」だからです。そして誰もが「それ」を何らかの名称で思い起こしたい欲求をもっているからそれぞれの人にとって特別な名称があるのだと思います。小田野先生は「真空様」または「空母様」と呼んでいらっしゃいました。それを口にするときのお顔と目はうっとりと幸せそうに輝いていました。名称が感情の引き金になっていることがよく分かります。子供のころ私は「のの様」と呼んでいましたが、それを口にすると何故か安心してそれまでざわついていた気持ちが収まったものです。
説明しがたい種類のある「状態」あるいは「それにつけられた名称」を理解するために効果的な手法があります。それは「そうではないもの」を列挙することです。

そうではないもの

  • 悪あるいは邪:ちょっと意外かもしれませんが、愛が不在の場とは思いません。大局的に見ると悪や邪が愛のある側面を意味する場合もある。これは少し複雑ですがいわゆる「善」なるものが必ずしも全体の和合と調和を保証するわけではないということに気がついたら分かるかもしれない。何故なら「愛は差別しない、裁かない」から、正邪、善悪は一体となってまる飲み込みされているはずなのです。
    良い例は、もう誰の目にも明らかな地球環境の劣悪化と絶え間ない戦争の原因を作っている人間も、汚染反対、戦争反対派の人間も同じように母なる地球に生かされていることに変わりはありません。地球あっての私たちです、なければどんな人でも平等に死んでしまいます。ただ、今は地球様もだいぶ荒れ狂っていますから、あちこちで大勢の人が死んでいます。日本などは今現在災害列島の態を呈しています。
  • 闇:闇の反対は光ではないのです。宇宙空間は真っ暗闇だが愛は遍在しています。ただしこれは物理的に見た闇の話。物理的に見た闇とは人間の視覚が認識している「光」の不在という意味での闇のことです。この闇というものに対する感情的反応は多くの場合、不安、恐怖、忌み嫌うものとして避けたいもの等々あまり快い感情とは結びついていないと思います。これに対し「光」は肯定的感情を呼び起こします。愛は闇ではなく光としてのイメージと結びついています。しかしどちらも不安そのものでもなければ愛そのものでもありません。あくまでも感情とセットになってしまっているイメージだと思います。違う言い方をすると、闇とか光という名称に対してそれぞれの人が持っている意味合い、含蓄です。ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、一つの例があります。
    「そう言われてもあなたの頭の中にある絵は私には見えませんので、もっと具体的に説明してください」とある人に言われたことがあります。賢い人で、そのおかげで私もコミュニケーションの難しさと言うものを再認識させてもらえました。
    元に戻ります。含蓄とは概念なのです。真理でもなければ事実でもありません。人間はこれに踊らされて互いに誤解し合って、自分の方が正しい、相手が悪いのだと思い込んで戦っています。
  • 憎悪、妬み、羨望、怒り等の否定的感情:感情が発動する原因には「愛されたい」という欲求があり、その欲求の源泉には「愛を認めている」という前提条件があるのだと言えます。全くの虚無であるなら感情は発動しません。感情の動きがあるということが、そこにエネルギーが発生して周囲に影響の波動を発信しているということなのです。
    これを端的に示している言葉があります。
    EMOTIONです。字分けをしますと、EとMOTION、エネルギーの動き、とも読み解けます。イモオションと発音しますので、意網王思陽云が当てられます。思いという動きが展開している4次元の形の無い場に飛び交っている感情のエネルギーが互いに影響し合って織りなしている網(ネットワーク)が地上のインターネットという網も含めて今と言う時(陽/日/時)の人類社会の状態を現出、維持、発展させ続けているのです。活動の原動力が感情だと字が教えてくださっているのです。良い意味でも悪い意味でも交流という活動がネットワークを形成していると受け止めています。ここまで見てくると出てくるものは、最も「愛が不在の場」に近いものは、
  • 無関心だと思います。何故なら感情がほぼ不在だから。感情的死と言えます。体は動いていて話もしているのでまるで生き物のように見えるのが厄介です。市民権を持っていて、生活しているので汚染もしているのに何ら積極的に場を形成するプロセスに関与していないわけです。こういう人たちばかりの世界になるとロボットの社会のようになります。作業はしていますが、感情が無いのですから。そこには笑いがなく、涙もなく、感激も感動も、怒りや憎しみさえありません。まさしく虚無ですね。生きている意味がないのではないでしょうか。味わい、感動し、発見し、学ぶという人生の味がないのです。

母が亡くなった後、予想よりはるかに強い空白感に見舞われ、まだ心が痛む状態にさえなっていない時、一緒に看護してくれていた家族のTが夜私の寝室に来て、「しばらく一緒に寝ましょう」と言って脇に自分の布団を敷き、黙って連れ添ってくれました。別に何か言わなくとも、傍に誰かの気配があると空白感が消えるのを実感しました。一緒の部屋で寝ていた一か月ほどの間に号泣も肉体的胸の痛みも含めて様々な喪のプロセスが続きました。
「もう一人で寝られるわね、親を亡くした悲しみは13か月って言われているからあと一年よ」と言われましたが、確かに強烈な痛みはしだいに和らぎ、一年後にはほぼ常態にもどっていたと記憶しています。

黙って寄り添うという行動が愛から出てきている場合のエネルギーは大きな影響力を持っていて、痛み、苦しみを和らげます。この時に発散しているエネルギーはとても快い波動の網を形成していると私は感じます。ただ、逆に触れると傷つくような網も出来ていますので、賢く見極めて気をつけて生きていただきたいと思います。直感的に危ないと感じる感性を磨くことがとても重要だと思います。
私事ですが、今その家族がまた私を離れて行ってしまう時が目前に迫ってきていますが、今度の喪失感をどのように乗り越えるかが私の次の課題となっています。何年か前に「独りに強い人になって行ってね」と言われてからずっとその方針で対策を講じながらいろいろと準備かつ練習をしておりますが、その時になったらどうなりますか。ともかく私の一番楽しい時間は、課題を決め、思考を巡らせ、ある種の理解と納得に行き着く作業をしている時で、これの良い点は費用がかからないことです。娯楽があれば独りでも楽しいという字があります。「独楽」です。小田野先生はこの言葉がお好きでした。

独楽ってねえ、英語でTOPって言うんですって。最高ってことよね。英語もよく出来ているわね。コマって言うんだから、光間じゃない。間は全部光ってことなのよ。独りだからって淋しいわけないのよ。空母さまに抱かれているんだから。私も独りでくるくる回って楽しんでいるのよ。気持ちは三昧ってことよ。字分け三昧。

2018.9.17

サシスセソの面白い話

最近面白い講演を聴きました。広島の歯医者さんで舌の訓練が健康回復に非常に効果的なうえ、女性には嬉しいことに若見えも可能というお話でした。その方は字分けも少し交えてお話しをされていましたので、私も思わず身を乗り出してみっちり2時間の講演を休憩なしで居眠りもせずにお聴きしました。
「舌は下におかずに上においてください」とのことで、舌がベロンと下がっている形を乚と見て、舌と乚とで「乱」です、と白板に書かれました。乱れちゃったら困りますね、整っていなければ、とのことでした。

なあるほど。こういう字分けもありか、と納得。

光透波理論では宇宙の創生から万象の生成には音が関わっているということを折に触れてお話ししてまいりましたが、その音と言うのは一音一音が独立して発音できる明瞭な音であるともお話ししたかと思います。その音が乱れていると光透波理論的に見るとエネルギーが正しい動きをしないということになります。この講師の説では、舌が滑らかに動かないと正しくしかも美しい音が発音できないというのです。日本語は言霊の音なので大事なことだと言われました。

以下は舌と口腔内の図です。

図1

硬口蓋を天井とすると、舌がピタリと天井を押し上げる形で収まっていることが分かると思います。この形は、食べる、話す等何かをしていない時の理想的な舌の位置なのだそうです。舌がダランと下がっていると筋肉の動きが緩慢になり、姿勢も首が前に出て頭を脊柱が効率よく支えられない為に腰痛になりがちな上、動作も鈍くなり、動物なら捕捉されるか、捕捉できないかで生きて行けなくなります。実験として、舌を口蓋につけて足踏みしてから片足立ちをして、次に舌を下げて同じことをすると姿勢が崩れやすくなることが体験できます。

次は発音の話です。舌が短い人の話し方を俗に「舌足らず」と言いますね。これは舌小帯という腱が生まれつき短い、あるいは太い人、そうでなくとも舌をあまり大きく動かさないで話す癖のある人で積年の習慣が舌根を固くしてしまった人に起きる現象です。舌が滑らかに動くかどうかが一番良く分かるのは「サシスセソ」が明確に発音できるかどうかです。英語などの子音語では語尾のSが明確に発音できないと単数か複数かが分からないし、多くの子音が不明瞭になります。これは専門的に言いますと、硬口蓋破裂音が発音できないという問題になるため、常に子音の発音をしている欧米の人たちは赤ちゃんが生まれた時に口の中を調べて舌小帯に異常があった場合はすぐに手術をすることが多いようです。

図2

話が不明瞭だと社会生活に支障をきたす恐れがあることから、親は子供の将来を思って手術してもらうわけです。最近では日本でも小児科医が数千円で簡単に処置をしてくれるようです。また舌が口蓋全体に拡がってピタリとついていないと口の中が狭くなって固まってしまい、歯が生える場所が足りなくて歯並びが悪くなるうえ、行き場のない骨が隆起する現象が起きます。骨隆起があると乱杭歯にもなります。歯列矯正も完全にはうまく行きません。ですから日本人にとって子供の頃から日本語の全ての音を明確に発音する訓練をすることがとても大事なことなのだそうです。英語の場合もその点では同じで、話すのに使っている音は異なりますが、口腔内の発達には明確な発音が必要なようです。

話があちこちに行きすぎました。日本語の話に戻ります。サシスセソは勿論のこと、イキシチニヒミ、、、の段の発音は特に口を横に開いたままで中で舌が敏捷に動かないときれいに発音できません。舌先を前歯の裏側に付け、舌全体を口蓋に押し当てて見てください。舌が拡がらないのは固まっているからなのです。うまくつかないのではないでしょうか。年齢が高いほど固まっている傾向があります。舌根の少し手前の両脇を親指と人差し指で挟んでつまむと痛い、舌の中央を指で押し下げると痛いという場合は固まっています。
舌小帯異状がなくとも舌根が固まってしまっている人に朗報があります。簡単な道具で舌が動かせるようになるのです。その結果は良いことづくめです。websiteを見てください。https://www.keepup.jp/

私はこの会社の回し者ではないので、器具は買わなくとも自分で他の方法を探して試すことも考えて見てください。

ストレス要因が多い社会で、ともすれば崩しがちな胃腸や、心肺の活動に関与している迷走神経が正常に働くようになるというのが良いことの一つ、体がたちどころに温まるのも良いこと、女性にとっては(男性もそうかも)嬉しいことに口元のたるみが引き締まって、ほうれい線が消えるかも。これは下図にある咬筋と側頭筋が鍛えられた結果の効用です。

美しいうえに賢そうな人は必ず口元が引き締まっていますよね。閉口に関わる筋肉が強いから自然にそうなるわけです。また、鼻呼吸をすることで細菌や有害なダストなど外部からの異物を排除するセンサーのある機能は鼻にはあっても口にはないので、それは良いことです。またいびきも相当程度回避できるかもしれません。高いびきには家族も閉口します。

次に、私も最近経験するようになった誤嚥の問題です。これは正しい舌の位置を保っていない人の場合、舌骨の動きが不活発になることで悪化します。
食べ物を飲み込む時、口が開いていると、動かせるのは舌だけで、嚥下は難しいです。また上下の顎の歯が軽くかみ合わさります。これは顎がふらついていたのでは、嚥下はできないからです。顎を固定するために奥歯が一瞬かみ合うのです。歯は咀嚼だけではなく、嚥下にも重要な役割を果たしています。

その次に軟口蓋(図1参照)が反り上がって、鼻咽腔(口から鼻に繋がる通路)を封鎖します。このとき口腔内は完全に封鎖されます。そこで、舌が勢いよく口蓋に向かって押し上がり、口腔の内圧を一瞬にして高めます。この時咽ぼとけに触れると喉が一旦上がってからまた下がるのが分かります。舌が口蓋を押し上げるのに連動して、喉頭が上がるのです。その時の舌根部は、食塊を咽頭に送り込みやすいように下方に押し下がっています(図4)。舌根とともに気管の入り口にある蓋(喉頭蓋:こうとうがい)も下がって、気管の入り口を塞ぎます。さらに次の瞬間、反射運動として食道の入り口が開き、喉頭蓋の上、あるいは左右の両脇を通過してきた食塊が食道に運ばれていきます。
嚥下の際の食塊は、口が塞がり、鼻が塞がり、そして気管が塞がり、圧に押されるようにして食道に移送されます。「飲み込む・嚥下運動」は、口から咽にかけて、それぞれの器官が100分の1秒単位で行う反射的協調によって成り立っています。これがしばしば加齢によって反射が鈍くなり誤嚥が起こります。誤嚥性肺炎という言葉も最近はよく聞くようになりました。わが身にも起きている誤嚥はあなどれない問題です。

ともかく舌の働きは実に重要だということがお分かりいただけたでしょうか。
歯はなくとも話は(ハナシと言うくらいですから)できますが、舌がなければ決して話せません。千の口とは千(多くの)もの働きをしている多機能な器官だという意味でもあると思います。舌の体操をすれば万病の予防になる可能性があるとはその先生のお説でした。

皆さまお大事に、いつまでも若々しく元気でいてください。
2018.8.28

濁りはOKだった

少し前に「人間は嘘つきである」というお話をしました。今回はまた人間性と言うものについて更に考えて行くことにしました。

自然界の生き物たちは大きな循環の中でそれぞれの持ち分の役割を、それとは自覚せずに果たしながら生きています。自覚がないのは勿論人間のように考える機能を持たされていないからです。これに対して考えることのできる人間はやっかいな重荷を背負わされて生きることを余儀なくされています。中でも大きな重荷は後悔と罪悪感だと思います。やってしまったことは過去に戻って取り返しができないのに、「あの時ああしなければ良かったのに」、と後悔してもどうにもなりません。自分のしたことで他の生命が被害にあったり、辛い思いをしたりしても謝って済まない場合が多々あります。済まないという気持ちと自分を責める気持ちはなかなか吹っ切り難いものです。人間と言うものは罪悪感を超越できないと言い切る哲学者たち(サルトルと実存主義哲学者等)もいました。顕在意識で吹っ切ったと思っていても、潜在意識は制御し難いものだからだそうです。

では人間性と言うものの話に戻って考えて見ましょう。まず「性分」というものの意味を考えて見ましょう。
有名な亀とサソリの喩えでは、泳げないサソリが川を渡るのに亀に助けを求めます。亀はサソリに毒針で刺されることを恐れて断ります。サソリは、「俺がお前を刺したら一緒に溺れてしまうのだから刺すわけがない」と言う。それで承知した亀でしたが、川を渡っている途中でやはり刺されてしまいます。水に沈みながら「どうしてそんなことをするのか」と亀に聞かれ、サソリは答えます。「それが俺の性分だから」と。
いけないことだと理屈では分かっていてもどうにもならない、抑制できないものが性分というものだという教えです。ここには善悪正邪の別はありません。何しろ性分なのですから責めても変わるわけではないのだということなのです。
人間は嘘をつく、自分にも他者にも。その結果様々な不幸な事態を招きます。その自分の中にあるどうしようもない愚かさや理不尽さを抱えながら生きて行く人生を、「濁り」と表現しているのが云音表の六行目です。

最近この行の濁音に当てられた文字を一つずつ分けて見たところ今まで気づかずに来たある発見をしました。どの音に当てられたどの文字を見ても濁りという否定的な含蓄を持った文字が無いのです。ちなみに二行目のガギグゲゴにはあります。この濁音は五行目の「奴/人」がでて来る前の行の音です。このことには後に触れます。
ともかく人の務めの行の濁音には罪科につながるような意味を持った字が無いということだけ覚えておいてください。
自己保存の為に嘘をつかざるを得ないような人間社会の構造にあえて挑戦して真実を追求し、それを貫き、さらに無知な人々を啓蒙しようと試みた過去の偉人たちの大多数は処刑あるいは暗殺されました。殺したのは人間たちであってその人間たちも嘘つきなのです。

これに対し、「罪を犯しても誰も咎めていませんよ」と天の声は言っているのではないでしょうか。批判するのは仲間の人間たちなのです。いやもっと怖いのは自己批判の声です。罪悪感を超越した後にどのような自由な思考が展開されるかを実体験したいと思いませんか。

初めに父なる閉音があってそれが開いて展開すると出来たのが母なるアイウエオでしたね。このままでは開きっぱなし。そこに二行目のカキクケコという子音が展開されました。その時すぐに濁音のガギグゲゴが出てきたのです。清濁が相まって天地創造の作業が始まったという訳です。ちょっと飛躍していますが、ここでは筋道を説明はしません。
ともかく言いたかったことは濁がなければ今の天地創造は完結しなかったと云音表が教え示しているのだと私は受け止めています。
濁音は高い次元においては必要不可欠であっても低い次元においては毒であり、危険な武器でもあります。六行目の人間の務めの中に反濁音があってこそ人類の次元上昇の可能性が既に初めから備えられていたと言えると思います。

天地と言う「場」に元々「備」えられていた人としての天分、思考力(至高の力→刀=SWORD→S+WORD)という能力を発揮して、清濁や正邪の正しい意味とその役割を理解把握して人間同士の戦いを上から見ることのできる位置に上昇することが進化ではないでしょうか。それが人類の究極望むことで、権力や莫大な財産という、肉体を持って生きている間だけしか持てないものとは違うのだと思います。永遠の生命というものの中で個人は成立しないので、個人財産は意味がないものだと気づいた人たちが我欲の呪縛から解放されることが出来たのです。

バビブベボ 場備分辺望

2018.7.18

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

 

六行目は三様の働き

光透波理論的に言いますと、五十音の第六行目は「ム」という音に「務」という字を当て、務めの行と呼んでいます。この行には「三様の態」という脇書きがついています。三種類の機能を持っているという意味です。清音のみの五十音の他に濁音と半濁音を加えますと、全部で75音ありますので、これも小田野早秧によって文字を当てた表にされています。

75音の表の六行目を見ますと、濁音と半濁音も含めて三行が並んで同じ囲みのボックスに入っています。日本語に使われている全ての音の総計は「ン」も加えると76音だけです。この数値に着目した小田野は以下の文字を構成することを発見して大きな納得をされたとのことです。

弁と言う字の意味は「話」、「コトバで言い表すこと」等です。これが天の弁ですと、「弁天」という多芸多才の智慧にあふれた神様の名前にもなっています。
余談ですが、琵琶(ビワ/備話)を持っていらっしゃるのも意味深ですね。琵琶は音楽のメロディーを聞かせる楽器ではなく、弾き語りのための楽器で、語るとは弁を使うということです。面白いですね。

さて、「ヌ/奴」が出てきた後に「務」の行となっているので、奴/人間の務めと教え示されていると解釈して更なる探求をして行きましょう。

清音の他に二種の展開をしている行はここだけです。半濁音は一行しかないのです。この音を、濁りに反発して音を清める力を持った音という意味で小田野は「反濁音」と名付けました。神社で「パンパン」と柏手をうったり、太鼓を打ったりする音は「清め」の為の行為と言われています。小田野は濁音を清い音に還す性能を持った音として捉えていました。
五行目のナニヌネノの真ん中、「基本の音の段」であるウクスツヌで奴/人間が地球に生まれ出て来ました。誕生から約46億年と言われている地球の歴史の0.1%にも満たないような一コマの最後の方でやっと出て来たということですから、人間を生み出すまでの準備期間ともいえる長い期間がアからトまでの作業内容であったわけです。紅白歌合戦ならトリが出てきたわけです。最後に登場することをトリと言うのも面白いですね。透(至高の速度を持つエネルギーの属性)の理とはね。

閑話休題。小田野早秧作成の地球と人類の進化の歴史年表によれば36億年くらい前にアメーバのような単純な構造の最初の生命体が誕生してから何十億年が経ち、360万年前くらい前に「地上最終生物」として人類の祖先が誕生したとあります。単細胞生物から人類のような複雑な細胞構造を持った知的生命体が生まれるまでにはそれだけ進化の過程があったとも言えると思います。

では六行目のお話に入りましょう。
清音のハヒフヘホの行にはエネルギーの有り方や人間が存在する宇宙と言う「場」の状態、その構造を教え示している文字が表示されています。その状態の中で如何に生きて行けば良いのかが直接的に説明されている行とも言えます。勿論字分けによって掘り下げなければ分からないのですが。

如何に生きるべきかという哲学的命題に答を見出す為には考えるということの他に、生きて体験するという行為も必要とされています。体験するというのは多くの場合、「こうすると失敗して痛い目を見る」ということです。苦しみ、悩みながら少しずつ学んで賢くなるという過程が個人としても、人類全体としても何万年、何千年、何十年とあったわけです。奪い奪われ、殺し殺され、騙し騙され、搾取し搾取されてきた歴史的体験の集積があります。辛酸の体験は詩や戯曲、小説や、現代では映画のような画像もあるドラマとしても表現され、個人が体験していないことでも人類共有の情報として体験されています。これが濁音のバビブベボの行に表示されている文字を分解すると出てくるのですが、直接的には必ずしも好ましくない意味には見えないのが示唆的です。表面的には中立的なのに、掘り下げると残酷な意味から希望が持てる意味までを含んでいます。

例えば、牛を電気棒で殺しても、それをした人以外は血抜きをして小分けにしてある状態で入手して、誰か他の人が調理して器に盛って出されたものを食べる際には残酷さは体験されていません。もっとわかり難い例もあります。
両親が愛する子供に衣服を与え、汚れたら洗濯して清潔なものを着せ、労働して報酬を得て、食べ物を入手して与える。月謝を払って教育が受けられるようにする。そして成人したら独立して生きられるように準備をしてあげる。しかし世の中で生きる為には切磋琢磨し、闘い、勝ち残って行かなければならないので、ギャップは非常に大きいでしょう。子供を甘やかして、生存に必要な知恵をほとんど授けない両親の行為は結果的には残酷と言えます。「親切が仇」となり、子供が自立できなくなってしまうのです。ですから時には文字通り「親を切る」ことが自立には必要なのです。

ですからそのように濁音の行は複雑なのです。
濁りを取るにはそれに反発するようなエネルギーが必要なのです。これがパピプペポの行に表示されている文字を分解、分析すると分かって来ます。以前パピプペポの行の話も少ししましたが、反濁音の行の文字が含んでいる意義は非常に複雑にして難解です。直接的に解決するような行為だけでなく、長期的かつ紆余曲折もある複雑な過程を要することが多いからです。今回は書ききれませんので、いつかまた折を見て書きます。

2018.6.12 記
20 T 至高の答 18トク解く 6ム務 12開く

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

自然界に存在している全てのものが、人間が何もしなければ本来あるべき形であるのは自然にそうなっているからです。つまり何かがそういう状態であることが必然的であるのだということに改めて気がつきました。誰がそうしたのかは分かりません。創造主と言う人もあれば、神様と言う人もありますが、それは表現法の違いで、実体が何かは明確に証明されてはいません。私は文字通り、「自(おの)ずからに然(しか)らしめられている」という表現が、一番偏りがないと思っています。天然、自然は必然で偶然ではないという考えの下に今回のお話を進めて行きます。
さて、自ずからに然らしめられている通りに完全に機能している場合の自然の循環では、ゴミと言うものは出ません。あらゆる物が生物分解性です。まあ石や岩は風化するのに長い時間がかかりますが、やはりゴミにはなりません。人間や動物も含め、有機体は微生物のおかげで皆循環しています。
季節による気候の変化、その変化に応じて誕生、成長から死までのライフサイクルを自然的にそして必然的に営んでいる生き物たち。その生き物たちが互いに影響し合い、関係しあって大きなサイクルを成立させています。天体の運行、潮流の動き、食物連鎖等々、無駄なく滞りなく機能して、誕生、生命活動、死、再生と循環の環を成立させているわけです。

何が言いたいのかと言いますと、完全循環型の自然のサイクルという本来あるべき姿を阻害すると必ずその副作用として不都合が生じるという道理があるということなのです。これは今までにも多くの知恵ある人たちが指摘し、憂慮し、警鐘を発してこられたことです。それだけなら別にここで改めてくりかえすことはありません。

また、自然というものが何かを様々な視点から説明している学術分野がすでにあるので、それは各自がお調べになるとよろしいかと思います。ここではもう一つの視点に焦点を当てて行きたいと思います。

自然界の全生命の相関関係からはみ出している生命体についてです。その生命体が無ければ完全循環型の地球と言う大生命体の生の営みは「自ずからに然らしめられるままに」滞りなく安泰です。その生命体とはお察しのように人間です。
『人類滅亡後の地球』というテーマでコンピューターグラフィックスを使ったシミュレーションの動画を見たことがありますか。人類滅亡後何年でどうなるか、何十年でどうなるか。そして一万年後には?

人工の建造物や製造物が無くなるとすぐに自然は本来のあるべき様相に回復する活動を猛然と開始して行きます。人間は何かのプロジェクトに取り組む際、経済効率や所要時間、技術的に可能かどうかなどを勘案して実行するかどうかを決定しますが、人間以外の生物にとってお金や時間は意味がないものです。それらの概念が無いのでプロジェクトは出来るところから始まってどんどん推進されて行きます。微生物たちは何十年かかろうと何百年かかろうと全く気にせずにせっせと鉄を腐食させ、セメントを砂のように砕き、あらゆる建造物を倒壊させます。植物はどんなわずかな隙間にも入り込み繁殖し、領土を拡大して行きます。動物たちも冷蔵庫もオーブンもスーパーマーケットも無しで、食べられるものを食べ、それぞれ生き伸びて行きます。チームワークや住み分けなどという概念もないので適者生存が自然的に起き、あらゆる生物の生息圏が収まるところに収まって行きます。自然的に必然的に。

では人類は何の為に存在しているのでしょうか。おそらく自然の循環を阻害する為などではないでしょう。阻害による環境破壊は無知による行為の結果であって意図的にされたわけではないでしょう。誰が好んで自分の住処を居心地の悪いものにするでしょうか。でももし失敗から学ぶことも人類にあって他の生物にはあまり無い能力ならば、進化という過程がたとえ遅々たる歩みであっても進行して行き、いつの未来の日か、地球上の全生命と共存して行けるようになるでしょう。もし滅亡しなければの話ですが。

「人は問う」というお話(ナニヌネノのナ)を前回しましたが、「問」という行為の仕組みは「答」と一対に、あるいは表裏になっていて、問が答を得る必要不可欠の条件なのだということなのです。疑問を持ち、答を探求する行為は他の生物がしないことです。ではこの行為にどういう意義があるのでしょうか。考えて見ましょう。

疑問は具体的には「コトバ」を使って組み立てられています。例えば「リンゴは何故木から離れると地面に落ちるのだろう」という問いは全部コトバの組み合わせです。何の為にそれを知らなければならないのか、すきっ腹がくちくなるわけでもなければ、雨露をふせぐ場所が確保できるわけでもないのに。でもそれをしないではいられない衝動というか促しがあるからしているのです。本能といってもいいでしょう。本能なら自然なものです。生存に必要な能力を本能として自然は生物に備え付けて生み出してきています。人類の生存には「問」が必要なので、その能力を備え付けて生み出してきたのではないかと考えて見てください。「タチツテト」で天という場が完成してヌ(奴/人間)が生まれてきてから何が起きたかはその次の行を見ると多くのことが分かります。

ナニヌネノの行の次にあるハヒフヘホの行は三つの展開をしています。このお話は次回に

ナニヌネノのナ

ナニヌネノのヌ

  1. 今回は云音表五行目のナニヌネノのお話です。

「ツ」を頂いた日は14日でした。アルファベットの14番目の文字はNです。Nに母音を付けるとNA、NI、NU…となり、ナニヌネノが出来上がります。N一文字ですと、「ン」の発音になることから云音表では五十音の前に位置しています。命波音種の図でも同じです。

発生基本音の段にあるツの音の次の音はヌです。始まりの閉音であるNと深いつながりがある行が五行目でこの行の五には玉という字が使われています。太古の文字で数字の五に玉と言う字が使われていたことに着目した小田野早秧が深い理由があってこの字を使いました。
天の完成が四(王と言う字も玉と同じ理由で使われています)行目で終わり、次に出てきたのがナニヌネノとなります。一、二、三と同じ方向で来た文字に縦の線が加わって王という字になっているのには深い意味があります。次元の図の箇所で、一つの次元から次の次元へと立ち上がるという形 L は(アルファベットのLの形)でこれは開くと解釈されていることは前にお話ししました(小さな字参照)。三次元までは同じベクトルで、四次元が成立する条件として縦軸が加わって回転という動きが成立したと小田野によって解釈されました。四次元を表す王に・(点が加わった形が玉です。天という場が完成して出てきた点が奴点(ヌ点)という存在で、これが私たち人間の存在意義であると光透波理論は主張しています。

奴は何をするかと言うと、「ナニ」という疑問を持ち、求知本能という衝動に突き動かされ、言(コトバ)という道具を使って答を探索する人生という旅に出たのです。言とは「ネノ」、音の能きです。音が意味を云んでいるのですから。その意味というものを解する能力が私たち奴に与えられているのです。ナニ、ヌ、ネノがきちんと整理図にまとめられていうことを図で確認できると思います。
人間として生まれてきたからには、その存在意義である「問」という仕事をすることが本来の生き方で、十行の五十音図では一行目のヒと十行目のトがヒト(人)と読み解け、逆順ではトヒ(問)と読み解けます。

実に持って用意周到に計らわれていると思います。
読み解くという作業はじっくりと観察し、味わい、掘り下げることで可能になります。ただぼんやり眺めているだけでは問いの答は出てきません。
2018.4.18
タチツテトのツ

小さな字

サシスセソの面白い話