サシスセソの面白い話

最近面白い講演を聴きました。広島の歯医者さんで舌の訓練が健康回復に非常に効果的なうえ、女性には嬉しいことに若見えも可能というお話でした。その方は字分けも少し交えてお話しをされていましたので、私も思わず身を乗り出してみっちり2時間の講演を休憩なしで居眠りもせずにお聴きしました。
「舌は下におかずに上においてください」とのことで、舌がベロンと下がっている形を乚と見て、舌と乚とで「乱」です、と白板に書かれました。乱れちゃったら困りますね、整っていなければ、とのことでした。

なあるほど。こういう字分けもありか、と納得。

光透波理論では宇宙の創生から万象の生成には音が関わっているということを折に触れてお話ししてまいりましたが、その音と言うのは一音一音が独立して発音できる明瞭な音であるともお話ししたかと思います。その音が乱れていると光透波理論的に見るとエネルギーが正しい動きをしないということになります。この講師の説では、舌が滑らかに動かないと正しくしかも美しい音が発音できないというのです。日本語は言霊の音なので大事なことだと言われました。

以下は舌と口腔内の図です。

図1

硬口蓋を天井とすると、舌がピタリと天井を押し上げる形で収まっていることが分かると思います。この形は、食べる、話す等何かをしていない時の理想的な舌の位置なのだそうです。舌がダランと下がっていると筋肉の動きが緩慢になり、姿勢も首が前に出て頭を脊柱が効率よく支えられない為に腰痛になりがちな上、動作も鈍くなり、動物なら捕捉されるか、捕捉できないかで生きて行けなくなります。実験として、舌を口蓋につけて足踏みしてから片足立ちをして、次に舌を下げて同じことをすると姿勢が崩れやすくなることが体験できます。

次は発音の話です。舌が短い人の話し方を俗に「舌足らず」と言いますね。これは舌小帯という腱が生まれつき短い、あるいは太い人、そうでなくとも舌をあまり大きく動かさないで話す癖のある人で積年の習慣が舌根を固くしてしまった人に起きる現象です。舌が滑らかに動くかどうかが一番良く分かるのは「サシスセソ」が明確に発音できるかどうかです。英語などの子音語では語尾のSが明確に発音できないと単数か複数かが分からないし、多くの子音が不明瞭になります。これは専門的に言いますと、硬口蓋破裂音が発音できないという問題になるため、常に子音の発音をしている欧米の人たちは赤ちゃんが生まれた時に口の中を調べて舌小帯に異常があった場合はすぐに手術をすることが多いようです。

図2

話が不明瞭だと社会生活に支障をきたす恐れがあることから、親は子供の将来を思って手術してもらうわけです。最近では日本でも小児科医が数千円で簡単に処置をしてくれるようです。また舌が口蓋全体に拡がってピタリとついていないと口の中が狭くなって固まってしまい、歯が生える場所が足りなくて歯並びが悪くなるうえ、行き場のない骨が隆起する現象が起きます。骨隆起があると乱杭歯にもなります。歯列矯正も完全にはうまく行きません。ですから日本人にとって子供の頃から日本語の全ての音を明確に発音する訓練をすることがとても大事なことなのだそうです。英語の場合もその点では同じで、話すのに使っている音は異なりますが、口腔内の発達には明確な発音が必要なようです。

話があちこちに行きすぎました。日本語の話に戻ります。サシスセソは勿論のこと、イキシチニヒミ、、、の段の発音は特に口を横に開いたままで中で舌が敏捷に動かないときれいに発音できません。舌先を前歯の裏側に付け、舌全体を口蓋に押し当てて見てください。舌が拡がらないのは固まっているからなのです。うまくつかないのではないでしょうか。年齢が高いほど固まっている傾向があります。舌根の少し手前の両脇を親指と人差し指で挟んでつまむと痛い、舌の中央を指で押し下げると痛いという場合は固まっています。
舌小帯異状がなくとも舌根が固まってしまっている人に朗報があります。簡単な道具で舌が動かせるようになるのです。その結果は良いことづくめです。websiteを見てください。https://www.keepup.jp/

私はこの会社の回し者ではないので、器具は買わなくとも自分で他の方法を探して試すことも考えて見てください。

ストレス要因が多い社会で、ともすれば崩しがちな胃腸や、心肺の活動に関与している迷走神経が正常に働くようになるというのが良いことの一つ、体がたちどころに温まるのも良いこと、女性にとっては(男性もそうかも)嬉しいことに口元のたるみが引き締まって、ほうれい線が消えるかも。これは下図にある咬筋と側頭筋が鍛えられた結果の効用です。

美しいうえに賢そうな人は必ず口元が引き締まっていますよね。閉口に関わる筋肉が強いから自然にそうなるわけです。また、鼻呼吸をすることで細菌や有害なダストなど外部からの異物を排除するセンサーのある機能は鼻にはあっても口にはないので、それは良いことです。またいびきも相当程度回避できるかもしれません。高いびきには家族も閉口します。

次に、私も最近経験するようになった誤嚥の問題です。これは正しい舌の位置を保っていない人の場合、舌骨の動きが不活発になることで悪化します。
食べ物を飲み込む時、口が開いていると、動かせるのは舌だけで、嚥下は難しいです。また上下の顎の歯が軽くかみ合わさります。これは顎がふらついていたのでは、嚥下はできないからです。顎を固定するために奥歯が一瞬かみ合うのです。歯は咀嚼だけではなく、嚥下にも重要な役割を果たしています。

その次に軟口蓋(図1参照)が反り上がって、鼻咽腔(口から鼻に繋がる通路)を封鎖します。このとき口腔内は完全に封鎖されます。そこで、舌が勢いよく口蓋に向かって押し上がり、口腔の内圧を一瞬にして高めます。この時咽ぼとけに触れると喉が一旦上がってからまた下がるのが分かります。舌が口蓋を押し上げるのに連動して、喉頭が上がるのです。その時の舌根部は、食塊を咽頭に送り込みやすいように下方に押し下がっています(図4)。舌根とともに気管の入り口にある蓋(喉頭蓋:こうとうがい)も下がって、気管の入り口を塞ぎます。さらに次の瞬間、反射運動として食道の入り口が開き、喉頭蓋の上、あるいは左右の両脇を通過してきた食塊が食道に運ばれていきます。
嚥下の際の食塊は、口が塞がり、鼻が塞がり、そして気管が塞がり、圧に押されるようにして食道に移送されます。「飲み込む・嚥下運動」は、口から咽にかけて、それぞれの器官が100分の1秒単位で行う反射的協調によって成り立っています。これがしばしば加齢によって反射が鈍くなり誤嚥が起こります。誤嚥性肺炎という言葉も最近はよく聞くようになりました。わが身にも起きている誤嚥はあなどれない問題です。

ともかく舌の働きは実に重要だということがお分かりいただけたでしょうか。
歯はなくとも話は(ハナシと言うくらいですから)できますが、舌がなければ決して話せません。千の口とは千(多くの)もの働きをしている多機能な器官だという意味でもあると思います。舌の体操をすれば万病の予防になる可能性があるとはその先生のお説でした。

皆さまお大事に、いつまでも若々しく元気でいてください。
2018.8.28

濁りはOKだった

少し前に「人間は嘘つきである」というお話をしました。今回はまた人間性と言うものについて更に考えて行くことにしました。

自然界の生き物たちは大きな循環の中でそれぞれの持ち分の役割を、それとは自覚せずに果たしながら生きています。自覚がないのは勿論人間のように考える機能を持たされていないからです。これに対して考えることのできる人間はやっかいな重荷を背負わされて生きることを余儀なくされています。中でも大きな重荷は後悔と罪悪感だと思います。やってしまったことは過去に戻って取り返しができないのに、「あの時ああしなければ良かったのに」、と後悔してもどうにもなりません。自分のしたことで他の生命が被害にあったり、辛い思いをしたりしても謝って済まない場合が多々あります。済まないという気持ちと自分を責める気持ちはなかなか吹っ切り難いものです。人間と言うものは罪悪感を超越できないと言い切る哲学者たち(サルトルと実存主義哲学者等)もいました。顕在意識で吹っ切ったと思っていても、潜在意識は制御し難いものだからだそうです。

では人間性と言うものの話に戻って考えて見ましょう。まず「性分」というものの意味を考えて見ましょう。
有名な亀とサソリの喩えでは、泳げないサソリが川を渡るのに亀に助けを求めます。亀はサソリに毒針で刺されることを恐れて断ります。サソリは、「俺がお前を刺したら一緒に溺れてしまうのだから刺すわけがない」と言う。それで承知した亀でしたが、川を渡っている途中でやはり刺されてしまいます。水に沈みながら「どうしてそんなことをするのか」と亀に聞かれ、サソリは答えます。「それが俺の性分だから」と。
いけないことだと理屈では分かっていてもどうにもならない、抑制できないものが性分というものだという教えです。ここには善悪正邪の別はありません。何しろ性分なのですから責めても変わるわけではないのだということなのです。
人間は嘘をつく、自分にも他者にも。その結果様々な不幸な事態を招きます。その自分の中にあるどうしようもない愚かさや理不尽さを抱えながら生きて行く人生を、「濁り」と表現しているのが云音表の六行目です。

最近この行の濁音に当てられた文字を一つずつ分けて見たところ今まで気づかずに来たある発見をしました。どの音に当てられたどの文字を見ても濁りという否定的な含蓄を持った文字が無いのです。ちなみに二行目のガギグゲゴにはあります。この濁音は五行目の「奴/人」がでて来る前の行の音です。このことには後に触れます。
ともかく人の務めの行の濁音には罪科につながるような意味を持った字が無いということだけ覚えておいてください。
自己保存の為に嘘をつかざるを得ないような人間社会の構造にあえて挑戦して真実を追求し、それを貫き、さらに無知な人々を啓蒙しようと試みた過去の偉人たちの大多数は処刑あるいは暗殺されました。殺したのは人間たちであってその人間たちも嘘つきなのです。

これに対し、「罪を犯しても誰も咎めていませんよ」と天の声は言っているのではないでしょうか。批判するのは仲間の人間たちなのです。いやもっと怖いのは自己批判の声です。罪悪感を超越した後にどのような自由な思考が展開されるかを実体験したいと思いませんか。

初めに父なる閉音があってそれが開いて展開すると出来たのが母なるアイウエオでしたね。このままでは開きっぱなし。そこに二行目のカキクケコという子音が展開されました。その時すぐに濁音のガギグゲゴが出てきたのです。清濁が相まって天地創造の作業が始まったという訳です。ちょっと飛躍していますが、ここでは筋道を説明はしません。
ともかく言いたかったことは濁がなければ今の天地創造は完結しなかったと云音表が教え示しているのだと私は受け止めています。
濁音は高い次元においては必要不可欠であっても低い次元においては毒であり、危険な武器でもあります。六行目の人間の務めの中に反濁音があってこそ人類の次元上昇の可能性が既に初めから備えられていたと言えると思います。

天地と言う「場」に元々「備」えられていた人としての天分、思考力(至高の力→刀=SWORD→S+WORD)という能力を発揮して、清濁や正邪の正しい意味とその役割を理解把握して人間同士の戦いを上から見ることのできる位置に上昇することが進化ではないでしょうか。それが人類の究極望むことで、権力や莫大な財産という、肉体を持って生きている間だけしか持てないものとは違うのだと思います。永遠の生命というものの中で個人は成立しないので、個人財産は意味がないものだと気づいた人たちが我欲の呪縛から解放されることが出来たのです。

バビブベボ 場備分辺望

2018.7.18

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

 

六行目は三様の働き

光透波理論的に言いますと、五十音の第六行目は「ム」という音に「務」という字を当て、務めの行と呼んでいます。この行には「三様の態」という脇書きがついています。三種類の機能を持っているという意味です。清音のみの五十音の他に濁音と半濁音を加えますと、全部で75音ありますので、これも小田野早秧によって文字を当てた表にされています。

75音の表の六行目を見ますと、濁音と半濁音も含めて三行が並んで同じ囲みのボックスに入っています。日本語に使われている全ての音の総計は「ン」も加えると76音だけです。この数値に着目した小田野は以下の文字を構成することを発見して大きな納得をされたとのことです。

弁と言う字の意味は「話」、「コトバで言い表すこと」等です。これが天の弁ですと、「弁天」という多芸多才の智慧にあふれた神様の名前にもなっています。
余談ですが、琵琶(ビワ/備話)を持っていらっしゃるのも意味深ですね。琵琶は音楽のメロディーを聞かせる楽器ではなく、弾き語りのための楽器で、語るとは弁を使うということです。面白いですね。

さて、「ヌ/奴」が出てきた後に「務」の行となっているので、奴/人間の務めと教え示されていると解釈して更なる探求をして行きましょう。

清音の他に二種の展開をしている行はここだけです。半濁音は一行しかないのです。この音を、濁りに反発して音を清める力を持った音という意味で小田野は「反濁音」と名付けました。神社で「パンパン」と柏手をうったり、太鼓を打ったりする音は「清め」の為の行為と言われています。小田野は濁音を清い音に還す性能を持った音として捉えていました。
五行目のナニヌネノの真ん中、「基本の音の段」であるウクスツヌで奴/人間が地球に生まれ出て来ました。誕生から約46億年と言われている地球の歴史の0.1%にも満たないような一コマの最後の方でやっと出て来たということですから、人間を生み出すまでの準備期間ともいえる長い期間がアからトまでの作業内容であったわけです。紅白歌合戦ならトリが出てきたわけです。最後に登場することをトリと言うのも面白いですね。透(至高の速度を持つエネルギーの属性)の理とはね。

閑話休題。小田野早秧作成の地球と人類の進化の歴史年表によれば36億年くらい前にアメーバのような単純な構造の最初の生命体が誕生してから何十億年が経ち、360万年前くらい前に「地上最終生物」として人類の祖先が誕生したとあります。単細胞生物から人類のような複雑な細胞構造を持った知的生命体が生まれるまでにはそれだけ進化の過程があったとも言えると思います。

では六行目のお話に入りましょう。
清音のハヒフヘホの行にはエネルギーの有り方や人間が存在する宇宙と言う「場」の状態、その構造を教え示している文字が表示されています。その状態の中で如何に生きて行けば良いのかが直接的に説明されている行とも言えます。勿論字分けによって掘り下げなければ分からないのですが。

如何に生きるべきかという哲学的命題に答を見出す為には考えるということの他に、生きて体験するという行為も必要とされています。体験するというのは多くの場合、「こうすると失敗して痛い目を見る」ということです。苦しみ、悩みながら少しずつ学んで賢くなるという過程が個人としても、人類全体としても何万年、何千年、何十年とあったわけです。奪い奪われ、殺し殺され、騙し騙され、搾取し搾取されてきた歴史的体験の集積があります。辛酸の体験は詩や戯曲、小説や、現代では映画のような画像もあるドラマとしても表現され、個人が体験していないことでも人類共有の情報として体験されています。これが濁音のバビブベボの行に表示されている文字を分解すると出てくるのですが、直接的には必ずしも好ましくない意味には見えないのが示唆的です。表面的には中立的なのに、掘り下げると残酷な意味から希望が持てる意味までを含んでいます。

例えば、牛を電気棒で殺しても、それをした人以外は血抜きをして小分けにしてある状態で入手して、誰か他の人が調理して器に盛って出されたものを食べる際には残酷さは体験されていません。もっとわかり難い例もあります。
両親が愛する子供に衣服を与え、汚れたら洗濯して清潔なものを着せ、労働して報酬を得て、食べ物を入手して与える。月謝を払って教育が受けられるようにする。そして成人したら独立して生きられるように準備をしてあげる。しかし世の中で生きる為には切磋琢磨し、闘い、勝ち残って行かなければならないので、ギャップは非常に大きいでしょう。子供を甘やかして、生存に必要な知恵をほとんど授けない両親の行為は結果的には残酷と言えます。「親切が仇」となり、子供が自立できなくなってしまうのです。ですから時には文字通り「親を切る」ことが自立には必要なのです。

ですからそのように濁音の行は複雑なのです。
濁りを取るにはそれに反発するようなエネルギーが必要なのです。これがパピプペポの行に表示されている文字を分解、分析すると分かって来ます。以前パピプペポの行の話も少ししましたが、反濁音の行の文字が含んでいる意義は非常に複雑にして難解です。直接的に解決するような行為だけでなく、長期的かつ紆余曲折もある複雑な過程を要することが多いからです。今回は書ききれませんので、いつかまた折を見て書きます。

2018.6.12 記
20 T 至高の答 18トク解く 6ム務 12開く

五十音表の六行目にあるパピプペポの音

もし人類が滅亡したらその後はどうなるか

自然界に存在している全てのものが、人間が何もしなければ本来あるべき形であるのは自然にそうなっているからです。つまり何かがそういう状態であることが必然的であるのだということに改めて気がつきました。誰がそうしたのかは分かりません。創造主と言う人もあれば、神様と言う人もありますが、それは表現法の違いで、実体が何かは明確に証明されてはいません。私は文字通り、「自(おの)ずからに然(しか)らしめられている」という表現が、一番偏りがないと思っています。天然、自然は必然で偶然ではないという考えの下に今回のお話を進めて行きます。
さて、自ずからに然らしめられている通りに完全に機能している場合の自然の循環では、ゴミと言うものは出ません。あらゆる物が生物分解性です。まあ石や岩は風化するのに長い時間がかかりますが、やはりゴミにはなりません。人間や動物も含め、有機体は微生物のおかげで皆循環しています。
季節による気候の変化、その変化に応じて誕生、成長から死までのライフサイクルを自然的にそして必然的に営んでいる生き物たち。その生き物たちが互いに影響し合い、関係しあって大きなサイクルを成立させています。天体の運行、潮流の動き、食物連鎖等々、無駄なく滞りなく機能して、誕生、生命活動、死、再生と循環の環を成立させているわけです。

何が言いたいのかと言いますと、完全循環型の自然のサイクルという本来あるべき姿を阻害すると必ずその副作用として不都合が生じるという道理があるということなのです。これは今までにも多くの知恵ある人たちが指摘し、憂慮し、警鐘を発してこられたことです。それだけなら別にここで改めてくりかえすことはありません。

また、自然というものが何かを様々な視点から説明している学術分野がすでにあるので、それは各自がお調べになるとよろしいかと思います。ここではもう一つの視点に焦点を当てて行きたいと思います。

自然界の全生命の相関関係からはみ出している生命体についてです。その生命体が無ければ完全循環型の地球と言う大生命体の生の営みは「自ずからに然らしめられるままに」滞りなく安泰です。その生命体とはお察しのように人間です。
『人類滅亡後の地球』というテーマでコンピューターグラフィックスを使ったシミュレーションの動画を見たことがありますか。人類滅亡後何年でどうなるか、何十年でどうなるか。そして一万年後には?

人工の建造物や製造物が無くなるとすぐに自然は本来のあるべき様相に回復する活動を猛然と開始して行きます。人間は何かのプロジェクトに取り組む際、経済効率や所要時間、技術的に可能かどうかなどを勘案して実行するかどうかを決定しますが、人間以外の生物にとってお金や時間は意味がないものです。それらの概念が無いのでプロジェクトは出来るところから始まってどんどん推進されて行きます。微生物たちは何十年かかろうと何百年かかろうと全く気にせずにせっせと鉄を腐食させ、セメントを砂のように砕き、あらゆる建造物を倒壊させます。植物はどんなわずかな隙間にも入り込み繁殖し、領土を拡大して行きます。動物たちも冷蔵庫もオーブンもスーパーマーケットも無しで、食べられるものを食べ、それぞれ生き伸びて行きます。チームワークや住み分けなどという概念もないので適者生存が自然的に起き、あらゆる生物の生息圏が収まるところに収まって行きます。自然的に必然的に。

では人類は何の為に存在しているのでしょうか。おそらく自然の循環を阻害する為などではないでしょう。阻害による環境破壊は無知による行為の結果であって意図的にされたわけではないでしょう。誰が好んで自分の住処を居心地の悪いものにするでしょうか。でももし失敗から学ぶことも人類にあって他の生物にはあまり無い能力ならば、進化という過程がたとえ遅々たる歩みであっても進行して行き、いつの未来の日か、地球上の全生命と共存して行けるようになるでしょう。もし滅亡しなければの話ですが。

「人は問う」というお話(ナニヌネノのナ)を前回しましたが、「問」という行為の仕組みは「答」と一対に、あるいは表裏になっていて、問が答を得る必要不可欠の条件なのだということなのです。疑問を持ち、答を探求する行為は他の生物がしないことです。ではこの行為にどういう意義があるのでしょうか。考えて見ましょう。

疑問は具体的には「コトバ」を使って組み立てられています。例えば「リンゴは何故木から離れると地面に落ちるのだろう」という問いは全部コトバの組み合わせです。何の為にそれを知らなければならないのか、すきっ腹がくちくなるわけでもなければ、雨露をふせぐ場所が確保できるわけでもないのに。でもそれをしないではいられない衝動というか促しがあるからしているのです。本能といってもいいでしょう。本能なら自然なものです。生存に必要な能力を本能として自然は生物に備え付けて生み出してきています。人類の生存には「問」が必要なので、その能力を備え付けて生み出してきたのではないかと考えて見てください。「タチツテト」で天という場が完成してヌ(奴/人間)が生まれてきてから何が起きたかはその次の行を見ると多くのことが分かります。

ナニヌネノの行の次にあるハヒフヘホの行は三つの展開をしています。このお話は次回に

ナニヌネノのナ

ナニヌネノのヌ

  1. 今回は云音表五行目のナニヌネノのお話です。

「ツ」を頂いた日は14日でした。アルファベットの14番目の文字はNです。Nに母音を付けるとNA、NI、NU…となり、ナニヌネノが出来上がります。N一文字ですと、「ン」の発音になることから云音表では五十音の前に位置しています。命波音種の図でも同じです。

発生基本音の段にあるツの音の次の音はヌです。始まりの閉音であるNと深いつながりがある行が五行目でこの行の五には玉という字が使われています。太古の文字で数字の五に玉と言う字が使われていたことに着目した小田野早秧が深い理由があってこの字を使いました。
天の完成が四(王と言う字も玉と同じ理由で使われています)行目で終わり、次に出てきたのがナニヌネノとなります。一、二、三と同じ方向で来た文字に縦の線が加わって王という字になっているのには深い意味があります。次元の図の箇所で、一つの次元から次の次元へと立ち上がるという形 L は(アルファベットのLの形)でこれは開くと解釈されていることは前にお話ししました(小さな字参照)。三次元までは同じベクトルで、四次元が成立する条件として縦軸が加わって回転という動きが成立したと小田野によって解釈されました。四次元を表す王に・(点が加わった形が玉です。天という場が完成して出てきた点が奴点(ヌ点)という存在で、これが私たち人間の存在意義であると光透波理論は主張しています。

奴は何をするかと言うと、「ナニ」という疑問を持ち、求知本能という衝動に突き動かされ、言(コトバ)という道具を使って答を探索する人生という旅に出たのです。言とは「ネノ」、音の能きです。音が意味を云んでいるのですから。その意味というものを解する能力が私たち奴に与えられているのです。ナニ、ヌ、ネノがきちんと整理図にまとめられていうことを図で確認できると思います。
人間として生まれてきたからには、その存在意義である「問」という仕事をすることが本来の生き方で、十行の五十音図では一行目のヒと十行目のトがヒト(人)と読み解け、逆順ではトヒ(問)と読み解けます。

実に持って用意周到に計らわれていると思います。
読み解くという作業はじっくりと観察し、味わい、掘り下げることで可能になります。ただぼんやり眺めているだけでは問いの答は出てきません。
2018.4.18
タチツテトのツ

小さな字

サシスセソの面白い話

タチツテトのツ

今日は4月14日です。朝方「ツ」という音が頭に入って来ました。まだ意識がもうろうとしていたのですが、「通」という字が続いて頭に入って来ました。起きて紙に書きつける元気がなくて、頭の中で、カタカナの「マ」と「用」と漢字の部首の「シンニュウ」だと思ってまた寝てしまいました。数時間後、幸いに忘れてしまわなかったので、検証してみることにしました。

タチツテトは五十音の4行目にあります。その真ん中の字が「ツ」で、云音表の文字を当てると、通、付、連の三文字になります。今回はこの表を用いて、音と文字が奏でるハーモニーが天上の妙なる交響曲のどの部分を担当しているのかを探検して行こうと思います。

まず、五十音はどういう特徴を持っているのでしょうか。アルファベットに比べますと、ある順番に従い整然と並んでいます。
一行目はアイウエオという母音です。日本語でも使われているアルファベットのローマ字表記ではA、I、U、E、Oになります。
二行目は子音のカキクケコ。KにAIUEOがそれぞれ付いています。
以下サタナハマヤラワ行と十行で各行五音ですから五十音となります。
横段で見ますと一段目が全部A、二段目は全てIで終わります。以下UEOも同様なっていて、きちんと整理されています。

小田野先生が作成された整理図を見て見ましょう。


中段のウという行を見てください。クという字の脇に舌根とあります。これは体内から息が吐かれて音を形成するにあたり、舌根に力がかかっているという意味です。「ク」と発音して見てください。分かりますね。
「ス」と発音すると舌先に息がかかっているのが分かると思います。順番に力点が移動しているのが確認できますね。

では次に何もない「無」から「有」が生じてくる天地創造という観点から力点の移動という意義を考えて見ましょう。体内の音というものはまだ音になる前の音と言えます。口を閉じた状態で息を吐くと「ン~」という、うなり声のような音になります。人間でなくとも動物なら皆同じようなうなり声のような音が出ます。これをまだ何も出来ていない状態の音という意味で、小田野早秧は「閉音」と名付けました。また、五十音の全ての音は口を閉じて発音すると、「ン」という音になることから、「発声基本音」と名付けました。内部から外に向かって開かれ、展開されて行く過程を創造の過程と見て、これを順に表にした五十音というものの存在意義を発見したのが小田野早秧です。

さて、タチツテトの話に戻ります。四行目の終りに「天の完成」と赤字で入っていますね。命波音整理図には入っていなかったのですが、「云音表」の方には入っていますので、説明の必要上私が付け加えました。
創造の過程において、森羅万象の展開が可能となる謂わば、「場」としての宇宙は始めの四行に入っている音の能きによって成立したという意味です。五行目はナニヌネノの音が入っている行で、ここに「ヌ」が入っています。云音表では「奴」という字が当てられています。人間と言う意味の字です。光透波理論では、宇宙と言う場が成立した後に人間が生まれてきたという進化の過程を表していると見ています。
人間が出てくる前のタチツテトの行の同じ段に入っているのが「ツ」です。アから始まってなっている音の展開されている場にっているものは創造のエネルギーそのものなのです。これがきっぱなしに付いていて決して離れることがない。つまり永遠の生命というエネルギーなのです。人間の親とは異なり、見捨てたり、死んでしまったり、気が向いた時だけ命のエネルギーを供給してくださっているのではなく、いつも、いつも、絶えることなく永遠不変にい育てて下さっているのが天(云音表では弖という字が当てられています)という實親なのです。

ツという音の次のテという音には「弖」と「丁」が入っています。次のトには「透」と「答」が入っていますから。天と言う場の完成の最後の締めくくりがツテトの働きだと教示されているという意味に取れます。


マ、真実の真と用とシンニュウ(走っている、つまり活動しているという意味の字)、真実を用いて活動していると分けました。偽でも嘘でもなく真実を用いないと天は完成しないとも読み解けます。

云音表は一見単純な五十音の表に文字がいくつが入っているだけのものに思われるでしょうが、実は用意周到に準備された天の實親から、言と文字を頂き、それを使えるような肉体構造を与えられた人間へのプレゼントなのです。

PRESENT、 PRE  +  SENT
贈り物   予め  送られていた

PRESENTには「今」という意味も、「存在しています」という意味もあります。今ここに私が存在しているのは贈り物だと教え示されていると思うと驚きです。

2018.4.16

小さな字

言を分解すると天地創造の仕組みが分かる

小さな字

3月12日の朝のこと。「石」という文字が頭に入って来ました。続けて、「小さな字、だけど、、、」という思いが来たので、自分で、「でも、大きくて深い」と続けてそれを書きとめておきました。
今日は17日。やっとゆっくり字分けする気持ちのゆとりができたので、何日間か頭の中で渦巻いていた石に関した思いを書き記すことにしました。

石はとてもシンプルな形の字です。

和数字の「一」とカタカナの「ノ」と「口」の三つに分けられます。一は始とも読みますので、文字は始にしました。一はまた対するのもが無い存在でもあるので、絶対性も意味します。では各部分を一つずつ見て行きましょう。

女と台に分けられます。女といっても概念の女でなく、オンナ、音の名、メと読むと命と当てられるので、音の命と取り、それが土台になって始まったと教え示されています。女性が子を産み出す働きをしているので、始まりという字の通りだと言えます。

 七命

絶対の能らきは展開すると七つになるという字があります。一プラスL(開くという意味にとれる形)。これをナナメと読むのですからビックリです。この時点で、すでに今まで一度も考えたことがなかったことを考えさせられたことになります。理解の深まりの体験です。絶対性は絶対のままでいたら展開は無いので、私たちも、住んでいる惑星も、他の諸々の事象は無い訳です。白光はプリズムに当たると七色に分かれます。カラフルな個性が展開されてくるということです。これを文字「七」(一プラスL)と読み音「ナナメ」が教え示してくださっているのです。宇宙實親の意図は私たちが理解するに必要な情報を懇切丁寧に教え示すことで、意識が練られて、より深くより高い次元に到達できるようにするところにあるのだと思います。

斜めは英語でdiagonalと言います。分解して並べ替えてみると、対話あるいは話と言う意味のdialogとna(ナ名、命を意味する)になります。命とは話、つまりコトバですと教え示して下さっています。時空軸においては、縦の線は磁性、横の線は電性を表していて、斜線が回転するという動き、つまり機能性を意味します(末尾の次元の図参照)。斜線の形をしたカナのノ(能)空を貫いて(兌)遍く存在している「意」がピタリと厳正に合わさって成立している時空が宇宙というところなのです。

ヒ祕

の至高の慧は一を「ヒ」とも読めるように設定し、読んだら必ず答を示しますと文字に意図を込めてあるのです。秘という字は以前「祕」と書きました。必ず示すと書いているのに、隠すという意味に取っているのが私たち人間の概念なのです。空の智慧は人間の智慧と違い、偏りや誤りがありません。闇が暗く覆っていて真理が見えにくい人間の意識の働きにを当てるのが口という字の二つの読み方、クチとコウです。

STONE

英語で石をSTONEと言いますが、これもまた意味深長なコトバです。
S、エス、愛の数、愛のエネルギーの基盤は、数が台となっているとも言えます。お金の計算に使うような概念付きの普通の数でなく、宇宙を支配している(べている)狂いの無い数、絶対透明の至高のスピードを持つ数がアルファベットの19番目に位置するSという字です。

19なのでトクと読み、解いてみますと、愛数のTONE(調子、音色、音)ですよと示されています。更にS+T(テイ、云音表を参照しますと弖意)、天の意、また形から見ると十(ト、透、答)の上が無い、至高の十というふうに小田野先生が解釈されました。私たちもTをその意味でよく使っています。石はまたコクとも読みますので、光空(虚空)でもあると示されています。セキと読みますと、命のであるとも示されています。イシと読めばズバリ、意思です。

小さな字ですが、意味は広大であると分かって来ます。字分けをするには体力が必要です。掘り下げていくと途中で投げ出したくなるのですが、食い下がって行きますと、そのプロセスの間に様々な思いが入ってきて、驚いたり、目が覚めるような体験ができたりできます。ともかく逃げようとする奔馬のような自我の動きを制御しつつ続けて行くことが肝要です。以下は小田野先生の字分けです。食い下がり方が半端でないことが分かると思いますので、お見せします。

1982年6月13日 小田野記

2018.3.19
菊池静流

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小さな字

夢が誘う心の断捨離

この数年間あまり愉快でない夢を見るようになり、特に最近の二年間に頻度が増してきた。夢の中で悔しかった、悲しかったり、腹が立ったりという感情的体験をしてから目覚めると後まで尾を引く。楽しい夢はすぐに忘れてしまうのに対し、不愉快な夢は忘れないという特徴がある。

引き金となっているかもしれない日常生活上の変化としては、そろそろこの世を去る時期に入って来た高齢の家族が毎日一緒の食事の際に思い出話をすることだった。楽しかった思い出も多いが、悲しかったこと、悔しかったことも話す。特に悲しかったことと悔しかった思い出に関しては何回も同じ話が出てくる。それだけ強い思いが残っているのだろう。残念という訳である。
これが自分の人生の思い出につながって来るとやはり不愉快な思い出が忘れられない強い影響力を持っていることが実感される。夢で何回も追体験する辛さや悲しさや悔しさがその日の何十分かを波立たせる。早く気持ちを切り替えるように何かをせっせとする。主にするのが掃除である。ついでに家の中が清潔になり、整頓されるので良い面もあるが、ここでひとつ心の中も掃除をして見ようと思い立った。

まず血圧を測っておく。それから整理するためには書き出すことが必要なので、思いついた順に書き出して行く。
出来事、それを引き起こした人物の名前、感情の種類を書く。順番で自分に与えている影響力の強さが分かる。真っ先に出た人物の名前にともなう感情的反応が一番強い。
何人か、あるいは人物の名前は分からなくとも出来事が三番目以降になるとどんどん感情的反応が弱まってくる。ここでまた血圧を測っておく。
リストを見て以外に少ないのに驚いた。自分の一生を左右してきた感情的反応の傾向を形成した事件が五本の指よりは多いが十本より少ないとは思わなかった。眺めながらじっくりと追体験する。

人物の影響力が強かったのは二人。二人に関係した事件がいくつもあった。これが他者に対し批判的になる原因となっていると思うので、しっかりと追体験しながら記録をする。
その二人が迷惑をかけた人たちがするべき対応をしなかったために処理済みにならない宙ぶらりんの憤りが残っていた。自分が受けた損害は二の次だと分かった。こちらのほうは処理できるからだ。
次に、人物の名前は忘れたが損害を受けた事件の掘り起こしはとても有意義だった。じぶんが不注意あるいは浅慮だったのが原因の大半で、これは今後気をつける他はない。まったく呆れるばかりのバカぶりだった。今もその傾向はあるが、はるかに賢くなってきていることにも気がついて嬉しい。
追体験中に思い出されて加わった事件は系統が似通っているところに書き加えた。忘れていたくらいなので、大した感情的反応は起きないのが分かった。

終わって血圧を測った。書き出す前と書いている最中との差は約15%の上昇率。終わった時との差は18%の下降率だった。始める前よりさらに下がったということになる。
翌日同じくらいの時刻に計ったところ三回目の計測値とほぼ同じ(2%高い)。この文を書き終えた後の計測値は6%高かった。多少興奮しているかも。

既に終わった事件に関してはたいして悔しくも、辛くもなかったのに、感情的しこりは独立してしっかりと私の人間関係に影響を与え続けていたのである。掘り起こして見れば、たいしたことではなかったという訳である。一番あほらしいことは、被害を受けた人たちが気にもしていなかった(と本人たちは言っていた)ことを私が気にしていて、憤りが独り歩きしていたことだった。
一日置いて少し整理をして書き出した事柄。これでファイルを完成し、処理済みの印をつけられれば断捨離完了。

作業の手順

● 事件の書き出し

1 事件の種類と概要。例:中傷、誹謗、裏切り、盗難、詐欺等
2 首謀者
3 受けた被害の内容と直接被害を受けた人物(自分でない場合も多々あった)

● 実際的処理

1 感情的反応の種類。怒り、憤怒、失望、羞恥等
2 それから何か学んだか、または否定的感情を持ち続けているか
3 似た人物や似た事件に嫌悪感や怒りを喚起され続けているか
4 何回も繰り返し後悔(あの時ああしておけば良かった等)、あるいは追体験しているかどうか
5 自分でも同じようなことをしたことは無かったか。あったらそれをした理由(あったし、理由も分かった。反省の材料を頂けた)。分かったことは何らかの理由で嫌いと感じた人には冷たい仕打ちをしたことだった。

以上のことをできるだけ冷静に主観を交えず映画を見るように観察して、感情的反応が静まるまで見届けた。所要時間一時間弱。

これでお終い

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

続・心の断捨離

2018.2.14

2018年のご挨拶

2018 年明けましておめでとうございます
戊戌 元旦

このブログも三年目に入りました。相変わらずの筆不精ですが、本年も諦めず時々はお訪ねくださいませ。よろしくお願いいたします。
2018年は干支では戌(いぬ)の年だそうで、音にちなんで動物の犬が関係してきますので、日本のように犬好きの多い社会ではかわいい動画や画像が氾濫しそうですね。見るだけで癒されるような姿をしていますよね。
ほとんどの人にとって人生で一番大事なものは家族と友達だと思いますが、犬はその両方ではないでしょうか。心さびしい時に寄り添ってくれる温もりの存在がどれだけ大勢の人たちを救ってくれているか、有難い存在だと思います。でも人間同士はもう少し寄り添い合って欲しいとも思います。ペットとの仲とは異なり、人間同士はいがみ合っている場合が多いようです。親子や夫婦や職場での人間関係がうまく行かない悩みを抱えて、病み、苦しんでいる人々をどこでも見かけていらっしゃることでしょう。人間とペットとの関係の大きな違いは信頼感の有無ではないかと思います。犬にかぎらず動物は嘘をつきません、裏切ったり、意図的に傷つけたりもしません。
私が心理学を学んでいた時に、ある教授が初めての授業の冒頭に驚くようなことを言いました。ずいぶん昔のことなので細かいことは覚えていませんが、概ね次のようなことを言われました。
あなた方の多くはこれから心理学というものを学んで、その知識を使って他の人々の悩みや苦しみを軽くする職業に就こうとしていると思います。どれだけ優秀な心理学者になるかで結果的に助かる人たちの数が違ってきます。そこで優秀なカウンセラーになる為に最初に心得ておいてもらいたいことがあります。
人間は嘘つきです。他のあらゆる生物とは違って嘘をつく動物なのです。私は嘘をつかない人を見たことがありません。親も友達も、もちろん自分も嘘つきです。嘘にもいろいろありますが、良い悪いは別として嘘は嘘です。しかし良し悪しで裁くことは他の職業の人たちがします。裁判官や検事です。あなた方はカウンセラーになる道を歩んで行くので裁く仕事はしません。何をするかと言うと、嘘をつく理由を探ることなのです。叱られたくないから、嫌われたくないから、儲かるから、得だから、騙されて悔しがるのを見るのが面白いから等々です。そしてこれを理解することが対処する方法を見つける糸口になるのです。人間性というものに対する洞察力を身に着けるのが心理学を学ぶ目的なのです。理解して、寄り添い、味方としての信頼を勝ち得てからがセラピーの始まりです。時には信頼関係を築けない相手に会うことがあります。気質的に合わない人というものがあります。その場合は他のカウンセラーないし、助けになる機関を紹介してください。無駄な努力をしても双方の為になりません。3つのR、rapport(信頼と絆の構築)、 referral(適切な助けの紹介)、 result(結果を出す)が良いカウンセラーになる必要条件です。結果が出ないのにクライアントを抱えこんで離さない人がいますが、それはしないでください。この業界全体の評判を落とすことになります。今ライセンス規制が緩んで、あまり質の良くないカウンセラーが増えています。お金もうけをしたいのなら他の道があります。ずっと効率よくもうけられます。でも人を助けたいなら結果を出してください。
以上の話は一人ではなく他の教師の話も加えてまとめたものですがこの後の一生を通じて人間性を理解するにあたって非常に役に立ちました。
良い人間関係を築くことを諦めてペットに頼る気持ちは分かります。でも人間はどうせ嘘つきなのですから、裁くかわりに理解して、絆を築くことを先決にして、いろいろと工夫を凝らして(腕の見せどころですね)。ゲームなら夢中になれるのに肝心の人間関係を良くする挑戦にはなかなか取り組めないのはどうしてでしょうかね。でももし取り組めたら、そしてその結果を見てみたらどうでしょう。収穫は大きいと思います。

次のお話
春の小川のように

絶体絶命の崖っぷち

現世を何故ウツシヨと読むのか

 

絶対絶命の崖っぷち

嘘の話の続きです。

学生時代に心理学の教授が、嘘をつかない人を見たことがないと言っていましたが、その時から十数年後に嘘をつかない人に会いました。小田野早秧先生です。あまりにも正直で息苦しいほどの厳しい姿勢を保って生きた方でした。正直な故に、しなくとも良い苦労をたくさんしたお話を聞かせていただきました。その一部は『天鏡』という題名の本に書きました。何故そこまで真っ正直でなければならないのか。罪のない嘘なら別についても良いのではないか。その方が人間関係は円滑になるのに。例えばこういう時には、ああいう状況では嘘をついても良いのではないかと質問をしたことがありました。

じっと私が挙げた例を聞き終えた後に、しばらく考えをまとめていらしたのか、間をおいて、先生は答えられました。

その方が楽に生きられるかどうかが重要ならそう生きれば良いでしょう。どんなに厳しい人生でも真っ正直で生きたいのならそうすれば良いのです。私は楽な人生など望んではいません。人間社会でどのような地位にあるかなど何の意味もないことだと思っています。たかだか80年ほどのケチな人生でどんな位置にあるかなどあまりにも些細なことです。そのおかげでその一生を棒に振って、次の一生でまた一からやり直しなんて、無駄なことをわざわざするのは愚かなことです。永遠の生命の完璧な美と嘘の入り込む余地のない整然たる秩序と真の愛の片鱗でも味わいたいのなら真実の世界に生きるほかはないのです。私はこの一生で人間生活はもう終わりにしたいのです。また人間をやり直さなければならないようなことは決してしないように、それこそ片時も道を踏み外さないようにしています。あくまでも天の實親と私との間において正しいか嘘偽りかを吟味しているので、人間社会の規範は関係ありません。
そうやって一生懸命に生きて、そして最後にもしお許しいただけるならば、天網の結び目の一つという輝く星になって、もう自分などというものは消滅して、二度とこの世に戻らなくて済むようになりたいのです。私はあなたと違って大欲張りなのです。

このお話の後ずいぶん長い間悩みました。嘘をつかずに生きる知恵を発揮しきれなかったからです。それで、もう今生で天網回帰などどうせ無理なのだからと楽に生きることに決めました。でも嘘で誰かを騙したり、傷つけたり、お金儲けをしたりは控えております。そして、そのままの自分を受け入れることにしました。自己嫌悪は毒のように肉体をも傷つけますから願い下げです。それでも時々は落ち込むこともあります。また、比較的健康ではあっても老いの衰えも日々実感しています。肉体は使用期限のある製品で、昨年は部品を一部交換(眼内レンズに)しました。

話が横道にそれました。今生が最後のお努めと心得ている小田野先生のお話の後何年かしてもう一人正直な方に会いました。その方もやはり今生が最後の生で、もう二度と人間として戻って来ないと思うと言っておられました。飯島秀行さんという方です。

子供の頃、小学校の一年生だったかな、通学路を歩いて行く子供を上から見ていたんだ。僕なんだけれど、見ているのも僕なんだね。もの心ついた始めからそれが出来たんだ。
こういうことが出来る為には何百回も何千回も生まれて、少しずつ経験を積んでいったんだと思うね。だっていきなりそれはないでしょ。僕には死んだ人も見えるし、お釈迦様やイエス様やその他の賢い人たちといつでも話ができるんだよ。だってその人たち死んではいないんだから。ここに皆いるんだよ。実は他人なんていないんだ。一緒なんだよ。だから話できるに決まっているじゃない。それさえ分かればもう人間商売終り。
何年か前に死にそうになった時、やれやれこれでおしまいって大喜びしたんだけれど、何故かまだ寿命が残っていて、途中で戻って来させられちゃった。でも後もうちょっとの辛抱だと思う。何年かだな。それで僕はもういなくなる。完全にね。待ち遠しいね。

淡々と語る姿勢には何の気負いもこけおどしもなく、奇想天外なお話しだったにも関わらず、私はそのままそれが彼にとっての真実だと素直に受け止められました。それから数年後に亡くなられました。小田野先生と飯島さんは最後の生で嘘偽りのない人生を送ることができる用意があったのだと思います。
どう生きるのかはあくまでもそれぞれの人がまだ個人として存在している時に決めることで、それをもって自由意志というのだと思います。自由意志は怖いです。誰もこうしろとは決めてくれないので、自己責任において選択して行かなければならないのです。高山を目指して登る者にとって、もっとも厳しい時は最後の峠越えだと言いますが、心の登山にも当てはまると思います。

今の私は絶体絶命なのよ、とは小田野先生の言葉です。

2018年のご挨拶