豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

前回の記事の末尾に、豚に羽が生える可能性に触れました。これは少し捕捉説明が必要と思い、この記事を書いております。

スティーブさんは単にpossibility(可能性、実現性、今はなくとも将来は可能かもしれないという意味を含んでいる)とpotential(開発したものではなく、潜在的な能力)の違いについて、豚の羽という比喩をお使いになったのですが、せっかくですので羽というものについて他の観点からの考察をしてみたいと思います。

鳥は飛べるというpotentialを備えられて生まれてきています。羽があるということの他に体の構造が筋肉と骨とで出来ていて脂肪はあまりありません。余分な体重がつかいないように飛びながらでも排便ができます。こういう構造を持っているから飛べるのだろうと、飛べない我々人間は解釈しています。これはこれでそうとしておきましょう。

これに対して芋虫は飛べません。でも成長の過程において羽化という現象を通過して構造的変容をして飛べるようになります。

では、ダンボという比喩は何を意味しているのでしょうか。象は豚に劣らず体重が大きい生き物です。いくら耳が大きくても飛べるような身体的構造は持っていないと、見た人たちがその可能性をすぐに否定するような条件を備えています。おそらくクリエイターのディズニー氏はそれを意図して象を選んだのでしょう。しかし、その一般的通念をくつがえして、ご存知のように、ダンボはおまじないの羽をもらって飛びました。象のpotentialでは飛べない、しかし羽というおまじないの奇跡的効果で飛べたという経験をしました。Possibilityを信じるに足る基礎的条件は整ったのです。おまじないの羽は無くとも、可能性を信じる固い信念があれば既成概念を打ち壊して、奇跡は起こせるというのがこの物語のテーマでした。

 

では人間が飛べるpossibilityはどうでしょうか。物理的には無理な形態をもっているので、他に何かしなければ飛べるようにはなりません。重力場をコントロールできるような能力を開発すれば可能性はあるかもしれません。

ここで、人間と言う生物のpotentialとpossibilityという二つの能力について考えて見ましょう。人間には抽象的観念を把握する能力があります。可能性という言葉も生来の能力という言葉も重力場という言葉も理解できます。

私たちが存在しているこの宇宙という場は電気と磁気が交差するグリッドのような構造が見えないところで基盤になって機能しています。このグリッドの交点がゼロポイントと呼ばれる「場」だという人たちが大勢出てきています。21世紀の科学です。ゼロポイントは重力の作用を受けない場です。では重力場の制御と言うことはどのようにしたら可能なのでしょうか。ダンボの例ですと、自分は飛べるのだという信念です。誰がなんと反対しようと自分はそれにつられることなくやってのけました。友達の声援も力に加わっていたようです。増幅された信念のパワーです。

では信念とは何でしょうか。見たところどうやら既成概念を上書きし、それをくつがえす力を持ったエネルギーのようです。信念の力の源泉は不退転の心です。迷っていては出てきません。

もう一つは「そんなことは無理だ、不可能だ」と思ったことがない人(例えば無心な幼児)が持っているものです。否定のエネルギーの影響力は絶大なものですので、ほんの少しでも自分を疑う気持ちがあるとエネルギーダウンしてしまいます。

人間が飛べるはずがないという既成概念を打ち壊すような例がときおり現れても打消しの力のほうがはるかに大きいので、いつの間にかうやむやのうちに立ち消えになってしまうようです。

今から十年くらい前にYou Tubeで放映されていたロシアの森で犬を散歩させていた男性が空に浮かんでいる少女をビデオに撮って話題になりました。今でも見られます。最新のアップロードではコマごとに見ては隠れたワイヤーがないか画像が合成されていないかを検証し、そういう痕跡は見られないと書かれていました。

人間の意識は抽象を把握できることから、いったん人としてのpotentialに気づいたら、possibilityは大幅に拡がるのではないでしょうか。21世紀に生きる人間が自らの絶大なる潜在能力に目覚めたら、それが羽化です。人類史の紆余曲折の失敗と挫折から学び、意識を練りあげ、真理を理解する力を培い、最後に熟して羽化すると、芋虫が飛べるようになるように人間も飛べるようになるのではないでしょうか。スティーブ・アールさんの本の末尾に、人類全体の進化とは特定の一個人が超越することでは起きないとありました。全人類の集合意識が熟れて羽化することが、人間をこの宇宙に出現させた天の意図なのかもしれません。集合意識が熟れるということは不可能という思い込みの呪縛が外れるということですから。

絶対の孤独の体験記

絶対の孤独の体験記

新年のご挨拶文にありました、小田野先生が言われるところの「絶対の孤独」とはどういうものなのかを考えるに当たり、おそらくその意味での絶対性、あるいは唯一無二、というものを体験した人と言えるのではないかと思われるのが久司典夫さんです。スティーブ・アールさんの書かれた本に描写されていた久司典夫さんの体験を一例としてご紹介します。

以下は逐次的翻訳文ではなく、私の読後感も交えた抜粋文です。

典夫はある時例によって運転中に何かを考えている時、様々な考えが起きては去って行くのを見ていた。考えが湧いてきて去った後、次の考えが湧いてくるまでにほんのわずかだが、何もない静寂があるということに気づいた。考えが湧いてくる前にも後にも間隙があったのだ。あたかも静寂と言う生地があってその上に思考が乗っているような感じだった。思考の間隙はほんのわずかの時間だったが、非常に興味を引かれた典夫は間隙の方に注意を向けた。その体験があった後のこと。

やはり運転中、陽光と空の美しい自然の驚異に満ちた風景の中を走っていたのだが、景色よりももっと気をとられていたことは思考というものと、あの静寂の瞬間の発見と言うことだった。そして静寂というものの不可思議さについて夢中になって思索していた時のこと。静寂の間隙がほんの一瞬の長さから何分の一秒、そして一秒、二秒、数秒となり、しまいに十秒、十五秒の長さになっていったのだった。その静寂の時にあらゆる思考は消え去り、彼のマインドは完全に静かになった。それにも関わらず周囲の状況は把握できていたし、運転は完璧に制御できていて道路の状況や他の自動車も見えていた。何も考えていない時のほうがかえって周囲の状況がクリアに把握できていることから、思考はむしろ邪魔なのだと思えた。典夫という人物が運転の主導権を握っているのではなく、典夫は単なる代行者なのだと思い、自然に動いて行く流れに楽について行くだけにして、思索作業に戻った。思考と静寂の二つは正反対の現象であり、静寂という間が無かったら思考は出てくることはできないという意味で補完関係にあるのではないか。しかし、思考は時間的に有限であり、消えてゆくのに対し、静寂は永遠で時間を超越しているものなのだと考えていた。

今や静寂は分単位になり、思考にとって代わった。静寂の支配する中は空白でありながら、同時に何かが充満していて、形はなく、内容物はないのにも関わらず、そこに満ちている存在はそれが何であるか説明不能のものだった。神の恩寵と呼ぶか、絶対平等性と呼ぶか、無償の愛と呼ぶか、他にもいろいろの表現はあると思うがどれもそれを表現するには十分ではなかった。そして、今までにそこに行ったという記憶はないのに、まるで故郷か自分の家に帰ったような感じがした。

サービスエリアに車を停め、食堂のカウンターに座り、お茶を飲みながら周囲の人々を見渡すと、キッチンで働く人、カウンターの中の人、何か食べている客がいて、彼も別にその人たちとどこも変わらない普通の人だ。彼にとっての家庭は彼らにとっても家庭だし、彼にとってそうであるものはどの人にとってもそうなのだと思った。誰かが誰かより教養があるとか高学歴だとか能力的に優れているとかは全く関係なく、皆が平等だということに気づいた。全人類共有の場であるパラダイスの真っただ中にあるサービスエリアに、存在の一表象である典夫が座っているのだ。

このことからさらに典夫は運転席から見える風景の中のあらゆる物が、エネルギーの所産であって、それらが生きていることに気づく。生物だけではなく、石や岩までが生きていて、全ては一つなのだと気づいて、最後に角棒で脳天を殴られたかのような衝撃で全身を震わせながら響き渡った声が言ったことは、

ああ、何てこった!僕ってものは本当はいないんだ
僕ってものは存在していないんだ

まだそれは大雑把な気づきだったが、衝撃的な認識であり、粉みじんに打ち砕かれながらも躍り上がるような刺激で、その上非常に滑稽でもあった。

注。このことを The Cosmic Two-by-Four(天からの角棒というような意味)と著者は表現しています。

注。典夫さんは今、自分という個人は幻影であって、実はすべては一つであって、一つしかないのが実在であるという気づきから、個人という幻想を、Phantom Selfと表現しています。

著者は、典夫さんの体験はひとつの体験であって、誰もが同じことをしなさい、それが「気づきへの道」ですとは言っていません。トラックを運転しながら同じような手法を使えという意味ではありません。命とそして宇宙という場を成立、維持、機能させている叡智はただで答を提供してはくれないのです。答は問いに応じて現れてくるものなのです。深遠なる叡智による答を得るには正しい問を持つことなのです。従来のいわゆる人類の智慧の集積が十分ではないばかりかむしろ有害であることは現在の人類社会がどういう状態になっているかを見れば分かることです。人類は今まで種全体としての進化を推進するどころか、何くれとなく策を弄して阻んできたのです。典夫さんの体験はとても面白いものですが、それは典夫さんの物語なのです。それは人というものが本来持っている能力を我々に見せてくれてはいます。喩えとして、豚に羽が生えて飛べるようになるかどうかは可能性としては(絶対ないとは言えない)あっても、豚が本来持っている能力ではないのと同じです。目指すべきものは特殊な例外的個人の気づきではなく、全人類の集合意識の進化なのです。

久司典夫さんの気づき

困った時の文字頼み

 

 

2019年のご挨拶

2019年明けましておめでとうございます
本年もよろしくおつき合いのほどをお願いいたします。

今年は干支では己亥(ツチノト イノシシ)の年となります。亥は猪ではないので、それは脇において、己という字と亥について考えて見ましょう。

己という字はオノレとも読み、自分自身を指します。これをツチノトとも読ませているので両方を参考に解釈を展開してまいりましょう。

ツ通チ智ノ能ト透と当てますと、文字通りには絶対透明の、従って誤謬のない智慧の能力に通じる、となります。オノレはまずそういう知恵に通じている段階には至っていませんので、その大分手前の半端な知恵でなんとか懸命に生きております。しょっちゅうヘマをしては、それを叱ってくれる人も今はいないので、自分に向かって、「しっかりしなさいよ。もっと慎重にね。あわてないのよ。よく考えてからやりなさいよ」などとたしなめております。そう言ってくれていた人がいた時も大方は聞き流しでヘマをしておりましたが。

次に亥の方はイノシシあるいはガイと読みます。意能詞思と当てますと、意識を構成している詞(人が使っている語ではなく、司っている方のコトバ)とコトバの能らきによって成り立つ思考、どの文字をとってもコトバを指しています。高い次元においては詞が土台となっている思いですが、我意が入るとそれこそ害となります。なるべく我を通そうとやっきにならずに、意能詞思の方で清々しく生きたいものです。

さて、今年も相変わらずの物心共々の断捨離を続けながら「孤独」の醍醐味とおっしゃっておられた小田野先生の真意を探ってまいろうと思っております。

天はね、お一人なのよ。父母は一体なのですからね。絶対大(一と大)の天は二人(二と人)が合わさって一文字なのですから。絶対の孤独なのよ。半端な孤独じゃあないのよ。その絶対というものの正体をつかんで行くのが私の趣味で仕事なの。寂しいなんて言っている悠長な人生じゃないのよ。小田野早秧でいられるのは限られている時間なのだから。間に合うかどうかは分からないけど、一生懸命に絶対を掴もうとしているわけ。そうしたらもう人間商売やりに帰ってこなくてもすむのよ。
母が亡くなった時も、父が亡くなった時もそりゃあ身を切られるように辛くて悲しかったし、他にもいろいろ辛いことがあって、舌を噛んで死んでしまいたいと思ったことも何度もあったけれど、決して死んではいけない、そんなことをしたら天には迎えていただけない。だって暗いところに行ってしまうんですから。だから必死で空母様に手を伸ばして、いつか抱き取っていただけるまでこうして生きているのよ。あなたもどんなに辛いことがあっても決して死んでしまおうなんてしたらいけませんよ。それこそ新規まき直しの大損なのよ。

大損の意味を長いこと取り違えていた私ですが、損得はちょうどシーソーのような関係にあるのだと気づきました。人間界においての得は天界においては損、逆もまた然りです。物質的なものの全てを捨て去ることはないと思っていますが、昨年は手放して行く過程でずいぶんと清涼感を味わいました。人生もホームストレッチに入って来た今ですが、可処分エネルギーのほぼ全部を傾注して人類の進化を推進しようと努めておられた先生とは違ってかなり享楽的な私ですので、そこまでのエネルギー消費はしないで、多少は字分けもしながら、他のことも楽しんで生きて行こうと思っております。昨年は無理をして文字通り骨を折りましたのでそれも教訓だったと思います。知らない内に肩に力が入って体がこわ張っていることがあるものです。時々肩の力の入り具合を確かめるのも必要と思います。

今年こそは、本来は至高の叡智に通じるコトバという能力を授けられている人間である私たちがその力に気づいて、荒れ狂う人間界と地球を和ませ、美化して行く役割をそれぞれの持ち場で発揮して行かれるような大転換の節目の年となりますよう、祈念しつつ。

豚の羽、蝶の羽、ダンボの羽、人の羽

菊池 静流
写真提供:梶山淳子

続・心の断捨離

以前「心の断捨離」というテーマでお話をしたことがあります。今日は更に心を対象に見つめて行くことをしようと思います。

最近になって家族のTがこの世での生を終えて淡々と去って行きました。悲しみで胸が張り裂けるのではないかと思っていたのが、案に相違して悲嘆に暮れるほどの辛さもなく、受けとめることが出来ました。この世で最も深く信頼し、敬愛していた人でしたので、意外なことでした。哀しくないわけでもないのですが、苦しくはないのです。まるでそこに居るかのような温もりが家の中に残っていて、いつものように何か相談事をすると、懐かしい声で答が聞こえてくるのです。49日間だけなのかしら、とも思いましたが、違うという気がします。

父が亡くなった後、今まで知らなかった情報が入って来たことを思い出しました。知恵の量が増えたという感じで驚いたことでした。詩が好きだった父の感性が乗り移ったかのように、急に詩心が備わったのか、大学の詩の授業で感想文を提出したら、講師が他の生徒にも分かち合いたいと、読み上げてくれたこともありました。哲学書を読むとチンプンカンプンだった箇所が何故か理解できるようになったこともありました。母が亡くなった後も同様で、新しい観点、新しい感性が加わったことを感じたものです。また、それまで好きではなかった、母の好物の食べ物が急に美味しく感じられて、今では大好物になっているのも不思議な現象のひとつです。それらを口にすると、母が一緒に味わっているという感じがするのです。「美味しいね」という懐かしい声と共に。
無形の遺産というものなのでしょうか。有難いことだと思います。この話を二人の友人にしたら、二人とも同じような経験をしたと言っていました。

悲しみという字を使った熟語は悲惨、悲嘆のように、字を見ただけでも辛く苦しい感じがしますが、哀憐という方の哀しみは切なくて、懐かしくて、胸が大きく反応します。

悲は「心に非ず」、と書きます。哀は「アイ」と読むのですねえ。愛があって胸がいっぱいの状態の哀しみです。不幸とは違うのです。

断捨離の際に感情的な動きを観察したように、今回も哀しみを見つめました。それで悲嘆ではなく、哀憐だということが体感できました。愛は不滅にして永遠なので、温もりという感触で残っているのだと思いました。心とは此処(ココ)という存在の場に露(ロ)われているもの、此処に永遠不滅に存在している、即ち愛のエネルギーであると解しますと、悲しみという字は何故そのように書くのかが納得できます。

愛する者の喪失という、本来は非常に辛い出来事と感情的反応が分離して、それを観察している自分を見つめ続けていたら、心がどんどん自由になっていって、苦しみから解放されたと言う経験を久司典夫さんがなさったプロセスがスティーブ・アールさんの本に書かれていました。哀しみあるいは悲しみ(原文でsorrow)はそれを観察することで自然に過去に起きた辛い出来事から離れて行くと典夫さんは言っているのですが、プロセスは非常に長期間で、後から後から湧いてきたそうです。人は40年も50年も生きていると実に大量の悲哀と対になった出来事の記憶をため込んでいるとのことです。私は70年分ため込んでいるのですから、プロセスは非常に長いと思います。でもその途上でどのように心が解放されて行くのかを見るのが楽しみです。

断捨離とは切って分離させることで、その呪縛から離れることだと、文字通り字が教え示して下さっていたのです。固執していた感情は捨てようと思って捨てられるものではなく、木から熟した果実が自然に落ちて離れて行くまで待つしかないのです。
2018.12.5

夢が誘う心の断捨離

 

縁は異なもの味なもの

云音表の一行目、アイウエオのイには三つの字が入っています。意と爲(旧字の為)と異です。意思あるいは意図があって、行為がそれに続くということは分かりますから同じ音のくくりの中にあることは納得できます。口を開いて出るアの発音は楽ですが、イになると口を横に開くという筋肉活動が加わり、エネルギー消費も増えます。つまり努力が要るわけです。そこに意思、意図、行為という能動的活動が必要な文字が入っているのかなと、当初は推察しました(今ではもっともっと広大な意味があることを発見していますが)。ですが何故ここに異が入っているのだろうと不思議に思ったことを憶えています。

世の中のご夫婦や仲の良い友達同士を見て、あの人とこの人が何故?と不思議に思ったことはありませんか。これをことわざでは、「縁は異なもの味なもの」と言います。男女の巡り合い、結びつきというものは不可思議なものだという意味だそうです。

不可思議に挑戦してみることにしました。それで異を分けて見ました。

なんだか電磁場が共鳴している感じがビンビンします。天空は言(コトバ)が共鳴している命のエネルギーが充満しているところで、目には見えないネットワーク、天網が張り巡らされている。それぞれの網の交差点がある周波数をもった個々の命と他の命との結び目なのでは、と受け止められます。それぞれはまた個々の意識を持っていて、結びついている他の命と交流して生命活動(爲)を行っています。縁でつながった相手との交流が共鳴なのでしょう。響きが美しいハーモニーを奏でているのか、はたまた不協和音を放っているのか、いずれにしても体験して味わっていることが生きているという意味なのだと思います。喧嘩ばかりしている夫婦が別れないのも、一見仲が良さそうな夫婦が離婚するのも何を味わって、それが口に快いのか、苦くて吐き出したいのかは当事者のみの知るところなのでしょう。

人間以外の生き物はもっと寛容なようです。

昔アフリカのサバンナに行ったことがあります。当時は今よりはるかに多くの動物が生息していました。絶滅危惧種という言葉も一般的ではなかった時代でした(いつのこっちゃ)。イギリス領だったため、密猟者も厳重に監視されていて、捕食者と捕食される者も見たところのんびりしている感じでした。野生のままの動物生息地ですから、捕食動物にも餌は与えませんが、動物の移動を妨げるような障害物(自動車道路やフェンスなど)が無い広大な地域が確保されていましたから餌を得るのは比較的楽だったようです。

宿泊していた樹上のホテルの窓からは水を湛えた大きな池を見ることができました。そこには多くの動物が水を飲みに来ていたのですが、捕食動物も他の動物もみな一緒に水を飲んでいました。ライオンや豹も空腹でない時はのんびりしているので、草食動物も平気ですぐそばで水を飲んでいました。敵同士というくくりはないので、その時々で命の危険がある時だけ、即時対応しながら生きているのが人間以外の生き物のようです。天敵と言う言葉は人間だけが使っているのです。不協和音は人間同士の関係においてのみ発生するものなのだと思います。

2018.10.5

嫌い!の効用

友達が恋人になる時

 

「久司典夫さんの気づき」を読んでパート2

「久司典夫さんの気づき」を大変興味深く読ませていただきました。福岡在住の八田と申します。

僕も一度20年ほど前に典夫さんとお会いしました。その時はまだ典夫さんもこのような体験をされていなかったのですが、とても純粋な方でお会いした時に「あっ!ここにも同志がいた!」と思いました。
典夫さんは概念思考停止体験を経験した際に、「今まであると思っていたもの」は自分が対立的意識、概念思考で作り出した産物だったと気づかれたのだと思います。宇宙の本質に偽りはありませんから、本質に出会った時に始めて、周りのすべての人為的なものは自然には本来存在しないものであって、「今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった」と気づかれたのだと思います。

「ジャッジメントを伴わない観察」とあります。以前友人が教えてくれた「クルシュナムルティー」という方が「観察するものと観察されるものとの統合こそ、あるがままに見る」ということ、「瞬時の理解」こそ「ジャッジメントを伴わない観察」ということについて読んだことがありました。一切の批判をせずに見るということだと思いましたが明確に理解したわけではありませんでした。

世界は私たちの意識、思考で作られているのですが、意識や思考がコトバでありそのコトバが人為的な意味で使われてきたので、対立的感情を生みます。対立的感情によって他の人と自分とは違っているとしか思えないような考えになるのだと思います。そのことを典夫さんはファントム(幻想)・セルフと名付け、いつも何かをジャッジしている自分、ファントム・セルフが自分自身の本質だと思っているのです。ファントム・セルフとは私たち人が作ってきたコトバの意味なのです。日本語の表意文字で書くと人が為す書いて偽りとなります。

人+為→偽(イツワリ)

光透波を学び始めてどのようなことかやっと理解できました。それは観察する者と観察される者、両者ともコトバなのです。しかも今まではコトバを人為的にしか使うことしかできなかったので、いつまでも典夫さんの言うPERCEPTIONによって相対的に判断することしかできませんでした。

例えば私とあなたの命のエネルギーは全く同じですし肉体も同じなのですが、何が違うのか、それぞれの自我が違うのです。「あるがままに見る」良い方法としては音として捉えることです。すると両者とも「ワ」「タ」「シ」、「ア」「ナ」「タ」となり、概念無しになるためにある意味で同次元と言えます。

しかし意味を持つ表意文字で表すと、「私」という文字は自分を表し、「貴方」という文字は自分とは違う他の人と、明確な違いがあります。「私」、「貴方」は今まで私たちが学んできた言葉の意味、言語の意味です。ところが小田野早秧先生は様々な啓示による誘導、徹底した分析癖によって宇宙の本質である絶対無限エネルギーが発している音には音本来の意實が有ることを突き止められました。

そしてその日本語の音の図を「天鏡図」として纏められました。その図から音の意味を索引すると、

「ワタシ」とは「和やかな田(絶対電磁場)の詞(コトバ)」と読むことができます。また「アナタ」とは「空(宇宙)の大を示す田(絶対電磁場)」と読むことができます。読み替えてみると、「私」と「貴方」に対しそれまで持っていた意味とは全く違った意味になります。「私」という「語ゴ5」)は自分、個人という意味ですが、読み替えた「和田詞」)は、絶対電磁場の和やかな「詞シ4…光透波」という、光が透明になったエネルギー、光透波を表す意實になります。このように読み替えることを小田野先生は「字分け」と言われていました。

天鏡図の索引による意味の読み替えによって、言語として使ってきた意味を、宇宙を表している詞(光透波)の意實に読み替えることが可能になります。典夫さんが言われているファントム・セルフは言語(コトバ)で作られていて、その意味は人が為してきた…偽りの意味で使ってきたので、対立的、差別的にしか働きません。しかし読み替え後は宇宙の本質の意實に転換できるのです。

今まで輪廻も含めて長い間蓄積してきた自意識の言語情報である語を、詞の意實に読み替え続けると、もちろん個人差はありますが、自意識の変化を自覚できるようになります。徐々にですが「私」と「貴方」の違いが薄れていくのです。

典夫さんの体験は、私の知る限りの他の多くの覚醒体験のように、自我意識…概念思考停止経験によって起こっているように思います。しかしこのような体験はあくまでも自我意識ファントム・セルフと宇宙の本来のエネルギーとの違いを体験的に味わうことだと思います。しかしこの体験で終わりではないと思います。

宇宙の音の意實においては「和田詞」と「空奈田」に違いはありません。全てのコトバは宇宙の本来の意實を表しているのだと思いますが、それまでは言語の意味しか知らなかったので、偽りとしてしか捉えることができなかったのです。読み替え…字分けによってさらなる文字の意實の普遍性を学ぶことができます。ファントム・セルフを客観できる新たな視点、軸が備わるように思います。この軸を宇宙軸(天軸)と私は呼んでいます。ファントム・セルフをいつも客観視しているもう一つの軸ができてくると、感情を客観する「観情」が生まれます。客観性が増した意識はファントム・セルフを客観でき、ファントム・セルフのみの意識の時よりも自意識のセルフコントロールが可能になります。また存在している自然生物の本来の意味や自然現象を通じて宇宙の理(言÷)を理解できるようになります。

小田野先生が天(宇宙實親)から学ばれた宇宙の本質、絶対、無限エネルギーの音は母音がすべての音に添う母音系言語…日本語の読み替え(字分け)によって、語意識であるファントム・セルフを少しずつ読み替えることができます。読み替えの先に現れてくるのは「宇宙との血縁」、宇宙の子としての自覚なのです。ですから宇宙の子と書いて

ウ(宇宙)+子→字

その「字」を「分ける」と書いて

字分=自分

「字分け」こそが、ファントム・セルフから自分の本質に読み替える→甦りの法、再生の法なのです。

小田野先生は「天に直通ケーブルかけちゃったのよ!」とよく言われていました。ですから字割り、字割り(ジワリ、ジワリ)と字道に読み替えを重ねることが実は最高の近道!なのです。

2018年10月1日 20時19分 八田光典

付記。
八田光典さんは小田野早秧先生に17年間も師事された方で、私にとっては先輩です。基礎講座も長らく続けてこられ、多くの貴重な資料も作成されています。ブログサイトは以下です。
http://www.kotoha-a-f.org/

菊池静流

「久司典夫さんの気づき」を読んで

光透波を学ぶ仲間の藤田知江さんから長いコメントが届きましたが、これはコメントより投稿記事にしたほうが良いように思い、掲載します。今までは私一人で記事を書いていましたが、これからは他の方たちにも書いていただき、他の視点、別の考え方も読者の方々にご紹介して行きたいと思い、新しいカテゴリーを作ることにしました。
藤田さんは私が光透波の講座を始めたばかりの頃からの受講生で、20年間月一回の研究会にほとんど欠席したことがないという熱心な人です。今では私が思いもしなかった斬新な切り口の字分けを見せてくださいますので毎月の会を楽しみにしております。

以下は藤田さんの文です。

久司さんのお話をお聞かせいただき有難うございました。光透波理論を習い始めたばかりの時にクラスが始まってしばらくすると頭痛がし、それからウトウトと眠くなり、しまいには意識がどこかへ行ってしまう、というような思考遮断による自己防衛がよく働きました。久司さんのお話を読むときに久しぶりに同じような抵抗がありました。その抵抗感を懐かしく幸せに感じながら読ませていただきました。私は小田野早秧先生の光透波理論を菊池静流先生から学ばせていただくようになり、今では光透波理論が自分にとって考えの土台となりました。
久司典夫さん、半田公宣さん、飯島秀行さんも唯一の真理を皆さまそれぞれの位置から伝えてくださっています。久司さんのお話を読みながら、半田公宣さんの「自己と他者」、飯島秀行さんの「原因と結果」、小田野早秧先生の「詞と語」のお話を重ねて考えていました。

?            「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」
?            変化を起こす原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるもの
?            変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということ
?            人間は一人残らず目覚めているんだけど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ
(久司典夫さんの気づきより)

判断という漢字は、刀で半分に断つと書きます。切ってしまって半分ですから半分の理です。つまり自分の側からだけ物事を見ている状態です。判断する、とは目の前に結果として現れている現象について語っている私です。
PERCEPTION(認識)の中にはRECEPTION(受け入れる)とPがあります。Pはアルファベット16番でありピィと発音します。ピィに天鏡圖から文字をあてると日意となります。日は時のことであり、意はおもいです。認識は過ごしてきた日々の思いの積み重ねでつくられ、それを受け入れているということです。
私にとって衝撃だったことがあります。それは「人間は言語を周囲から学習しないと言語能力を使うことが出来ない」という事実でした。私の内面空間という思いの場は言葉で出来ていて(映像も言葉がないと結びつかない)、それは誰かから教えられたものですからつまり他者の集まりです。私はたくさんの他者であり、様々な結果であり、それは言語であるということになります。そしてそれが私のパーセプションなのです。

「変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけ」ですから私の個人的意識である内面空間が変わるべきところです。どう変わるというのでしょう?
人間は生きている間中考えています。考える力は命の力から発しているので目覚めていない人はいないのです。他者、結果、語といった遠心性の現象に対して、自己、原因、詞へ向かう圧をかけます。圧は負荷であり、一時的な求心性を起こします。宇宙呼吸(光透波理論p.259)により必ず爆発反転しエネルギーが生まれるためです。これが「在るものをそのまま観る」ことによって出てくる変化を起こす原動力です。
「それを知っている」というのはその場に今、居るということだと思います。

このように考えましたがよろしいでしょうか。
私は目覚めていないので実際はわかりませんが、光透波理論と字に向かうことにより理解を進められる方法を学ばせていただきましたおかげで、伝えてくださっている方々の座っている位置を頭の中で整理し感覚的に察するようになりました。それは暗闇の目標ではなくなって夜空の星のような指標と感じています。

久司典夫さんの気づき

前回の記事でも他の記事でもたびたび触れたことですが、大多数の人間が持っている誤った認識、について以前「静流の部屋」の記事として翻訳した文がとても役に立つのではないかと思い、掲載します。

作者はアメリカ生まれの日本人でノリオ・クシさん。本人に直接聞いたところでは、「目覚め」の兆候は2004年9月ハイウェイを運転中に始まったそう。突然コントロール不能なほど頭がグルグルし始め、運転できなくなった。どうなっているのか分からない、死ぬのかもしれないと思った。自分でどうにかするのは諦め、救急車で病院に行った。その数ヵ月後、やはり運転中に自分の思考が目の前を映画のシーンのように流れているのが見え、思考と思考の間に何もない間隙があるのにも気づいた。間隙を見つめていると、世界がひっくり返った。今まで有ると思っていたものが全部幻想だと分かった。自分という幻想にファントム・セルフと名づけた。

以下は2005年9月4日付けのノリオさんと17歳の甥のアレックスとの会話です。
アレックス:(この前会った時に始めて、途中で切れてしまった話の続きを聞きたいんだけれど...)世界が必要としている変化は何だと思う? 
ノリオ:世界は何の変化も必要としてなんかいないよ。だって今のままで完全だから。
アレックス:それどういう意味?
ノリオ:唯一必要な変化というのがあることはあるけれど、それは我々の認識(パーセプション)というものなんだ。その他には何も変わらなくていい。
アレックス:パーセプション?それってどういう意味?
ノリオ:そうだねえ。パーセプションというのはこの場合、「我々が世界をどのようなものだと捉えているか」という意味かな。別の見方をすれば、世界は我々のパーセプションが創造したと言えるようなものかな。
アレックス:パーセプションがどう変わればいいの?
ノリオ:答える前にまず君自身のパーセプションがどんなものか聞きたいな。世界の何が変われば良いと思っているの?
アレックス:飢餓、エネルギー問題、貧困などかな。
ノリオ:そう、確かにそれらは我々の世界に対するパーセプションが創り出したものだな。これはちょっと難しい話なんだけれど。
アレックス:今の世界は僕達がそのように世界を見ているそのままに出来てしまったと言うの?
ノリオ:実はそうなんだけれど、君が考えているような意味でのパーセプションではなくて、違う意味のものなんだ。ちょっと難しいけど。僕も50歳になるまでそれが分からなかったんだよ。
アレックス:分かるのに50年もかかったっていうその発見は何なの?
ノリオ:気づきというか、パーセプションというか、具体的には「ジャッジメント(判断/裁き)をともなわない観察」と言えるかな。対象が何であれ、その本質を在るがままに観るということは普通なかなか出来ないものなんだ。本質を明らかに観るというやりかたは一つしかなくて、それが、ジャッジメントが全く無い観察というものなんだ。
アレックス:それは分かるよ
ノリオ:だから、君が貧困や飢餓が悪いものだと思うなら、それは貧困や飢餓を在るがままに観ていないということになるんだ。そうすると変化を起す「力」は出てこないということになるんだ。
アレックス:う~ん。分かったような分からないような...
ノリオ:変化を起す原動力は「在るものをそのまま観る」ということによって出てくるものなんだ。我々がジャッジメントという牢獄に閉じ込められている限り、在るものの本質を観ることは決して出来ない。そしてその結果自らのジャッジメントの奴隷となり、また自分の周囲に起きている全ての出来事の被害者になってしまうんだ。
そういう意味で、外側の世界での出来事は何も変える必要はなくて、変えるべきなのは自分の内側のパーセプションだけだということになるんだ。
アレックス:一旦パーセプションが変われば必要な変化は起きてくるという意味なの?
ノリオ:その質問はジャッジメントから出てきたものなので、君に満足のいく返事は出来ないな。
答は「イエス」だけれど、君が聞いた意味とは違う意味での「イエス」なんだ。
アレックス:よく分からないな。いろいろな問題は、誰かが何かしなくても時が経てば自然に解消されていくっていう意味?
ノリオ:その質問は解消されるべき問題があるという考えの上に成り立っている。つまり現状は不完全だという判断があるという意味になるね。
アレックス:そうか。それがジャッジメントか。じゃあ、ジャッジメントしてはいけないわけだね?
ノリオ:まあそうだけど、それじゃあ前後があべこべということになるな。
アレックス:じゃあ世界に何も問題はないということになるの?
ノリオ:本質的にというか、もともと善いとか悪いとか、正しいとか間違っているというものはないんだ。善悪正邪という区別は我々のジャッジメントの所産だと言えるかな。だからと言って全てはそのままでOKだという意味ではないんだ。ただし僕はOKだということを「知っている」けれどね。ただ、それは世界中で苦しんでいる人たちに対して何もする気がないという意味ではないけれど。
アレックス:今言った「知っている」ってどういう意味?
ノリオ:君は本質的に善悪正邪というものはないという意味は分かったと思う。観察者の判断の所産だということも分かったと思う。どう?
アレックス:分かったと思う。それじゃあ貧困についてだけれど、誰も何もしなくていいの?
ノリオ:僕は貧困というものが本質的にという意味において悪いものではないと思っている。だからといって何もする気がないという意味じゃない。ただその二つは別のもので、関連性はないんだ。
アレックス:また分からなくなった
ノリオ:ジャッジメント抜きの観察が出来ない限り我々は被害者であり続ける。そして被害者とは変化を起す力を持っていない者のことなんだ。
アレックス:ずいぶん難しい考え方なんだな。どう説明されても僕には分からないと思うな。
ノリオ:そうだろうね。僕のようなものの考え方をする人間は本当に少なくて、世界中の人間の99.9パーセントは違う考え方をしていると思うよ。(中略)
今言ったようなことはとても分かり難いことだろうね。僕も分かるのに、というか「そう体験する」までに50年間かかったよ。これは頭で分かるというようなものではないんだ。
もう一つ君がビックリするような考えを披露したいな。僕のことを頭が変だと思うか、ものすごく興味をそそられるかどっちかになるようなこと。
アレックス:聞いているよ。
ノリオ:君が思っている君という人、それから君を知っている周囲の人たちがこうだと思っている君という人というのは、実際には存在していないんだ。それを僕は「ファントム・セルフ」と呼んでいる。
アレックス:言っている言葉の意味は分かるし、その可能性もあるとも思うけど、僕がそうだと「信じる」という意味ではないよ。
ノリオ:「信念」というものはファントム・セルフの一部なんだ。ファントム・セルフだけが信念というものを「必要としている」んだ。僕にはもう「信念」というものは要らないんだ。信念というものは迷信と同じようなもので、この二つには本質的な違いはない。迷信というものが、我々がものごとを在るがままに観るということを妨げているんだ。信念もまた同じ。言い換えれば信念はジャッジメントの別の顔なんだ。
アレックス:そうなの。少し分かった気がするけど、全部とは言えないな。
ノリオ:僕が君にこんな話をしたのは、話した内容を頭で理解してもらう為じゃなくて、少なくとも今までに考えてきたことの他に、それとは全く違う考え方もあり得るという可能性だけにでも気づいて欲しかったからなんだ。いずれにしても、これらの考えは「理解できる」という種類のものではなく、「体験する」しかないものなんだ。そして、体験するためにはジャッジメント抜きの観察によって得られる気づきが必要なんだ。
アレックス:今分かっていることよりもっと大きな意味があるという感じはしているけれど、今は一部しか分からない。
ノリオ:そうだろうね。気づいたことを他の人たちにも伝えたくてこういう話を今までに何回か講演したし、どうしてこういうことに気づいたのかという経緯も含めて本に書こうとしている最中なんだ。(中略)
僕の気づきがどういう状態かというと、永い永い眠りから目が覚めて、周囲を見回したら、今まで「有る」と思っていたものが全部「無かった」ということが見えたんだ。
アレックス:じゃあ、夢から覚めて起きなさいっていうこと?
ノリオ:そう。夢から覚めると、あらゆる苦悩が消滅してしまうんだ。ジャッジメントも消えてしまう。苦悩はジャッジメントの結果なんだ。
アレックス:苦悩から解放され、「悟りを得た」ということ?
ノリオ:僕は「悟り」とは呼ばないけれど、そういう状態を悟りの境地と呼ぶ人もいる。苦悩からは解放された。こう言うととても傲慢に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうなんだ。
アレックス:苦悩から解放されるってどういうこと?
ノリオ:それはね...ところで、僕は別に前よりも立派な人になったってわけじゃないよ。立派な人とかそうでないとかっていうのはジャッジメントだから。苦悩は幻想から来るんだ。そして幻想はジャッジメントが創り出しているもの。
アレックス:分かった。それで、苦悩が消えると幸せになるの?
ノリオ:永い眠りから目覚めてまず達成できることは、ちょっと気取っているけど、幸不幸を超越するという意味での人生の達人になるということなんだ。僕は今幸福でも不幸でもどっちでもない。
アレックス:バランスが取れているということ?
ノリオ:  こう言えばいいかな。「いつも完全な状態にいて何も欠けているものがない」という感じかな。
アレックス:それって退屈なの、それともリラックスした感じ?
ノリオ:全然退屈ではなく、実はこれまでとは比べものにならないほど活き活きとしていて、情熱に溢れている感じ。(中略)
アレックス:目覚めている感じってどんなもの?痛みも恐れもないの?
ノリオ:その通り。全ての恐れはファントム・セルフの創っている幻想なんだ。
アレックス:死ぬのも恐くないわけ?
ノリオ:死っていうのは明白なもので、我々は「誕生した際に同時に死を保証されている」わけだ。生まれるのと死ぬのとはおなじ線の延長上にあって、当たり前のことだから恐いものなど何もないわけ。
アレックス:じゃ痛みはどう?
ノリオ:目覚めてから痛みは経験していないけれど、でも今でも感じることはできると思う。痛みがジャッジメントの産んだ幻想なのかどうかはまだはっきりしていない。何かにぶつかったら今でも多分痛みは感じるのではないかな。
アレックス:痛みって恐れじゃないかな。確かじゃないけど。
ノリオ:そうかもしれないね。それで痛みがなくなったのかもしれない。デスクの角につま先を勢いよく何回か打つけてみたけれど痛みを感じなかったから。
アレックス:つまり、目覚めたほうが眠っているより良いということだね?
ノリオ:そうじゃない。~のほうが良いというのはジャッジメントだから。
アレックス:そうだった。
ノリオ:今気がついたけれど、人間はみんな僕と同じ「目覚めた状態」にいるんだ。
アレックス:?
ノリオ:「状態」という表現はあまり的確ではないけれど。
アレックス:どういう意味?
ノリオ:意味は、人間は一人残らず目覚めているんだけれど、他の人たちと僕との違いは「それを知っている」かどうかなんだ。その意味では誰かが誰かよりより覚醒しているということは言えない。
人間は一人残らず「人生ゲーム」という芝居の出演者の一員で、例外はないんだ。つまり平等の立場なんだ。(中略)誰かが誰かより賢いとか気づきが進んでいるとかいう感じ方はみんなファントム・セルフの創っている幻想の一部なんだ。(中略)最近読んだ本で、僕の感じているようなことをそっくりそのまま書いたものがあった。ジェド・マッケナ(Jed McKenna)という人の
“SpiritualEnlightenment, The Damndest Thing”という本。

アレックス:じゃ、他にも伯父さんと同じように目覚めている人がいるんだね。
ノリオ:彼によれば、それを言っている時点で、世界にそういう人が50人はいるって。
アレックス:たったの50人!
ノリオ:その時点でということだから今はどうかな。僕は今人類は大規模な目覚めの時期を迎えているように思うよ。(後略)
2005/12/30 翻訳:静流

後記。この翻訳をした当時にジェドさんの本も読んでみましたが、抱腹絶倒の面白さでした。当然まるで傲慢なところはなく、自分は悟っているなんて幻想を持っている人たちがいかに勘違いしているかもよく分かりました。この本を読んだ後私はずいぶん物の見方が変わったと思います。久司典夫さんの本は本人ではなく、光透波を学ぶ仲間のスティーブ・アールさんが最近書かれました。

2018.9.18 記

shizuru’s friends アーカイブ – シーちゃん的心と頭のステップアップ

光透波とは何か

光透波(コトハ)、透明な光の波とは何を意味するのか

この三文字の組み合わせを最初に使った方は小田野早秧(おだの さなえ)という明治後期生まれの女性です。1953年この人が45歳の時のことでした。本人の言によれば、台所の天井の隅から突然光の文字がピカピカッと「光」、「透」、「波」と一つずつ現れては消えた。あまりに速いので「ヒカリ」などと言っている隙がなく、思わず「コ」と叫んだそうです。当然次は「ト」その次は「ハ」と読み、後で何度も「コトハ、コトハ」と繰り返されたそうです。それからこの啓示現象(それ以外に説明ができない神秘的な出来事なのでそう称します)を解明する為の一意専心、一心不乱の人生が始まりました。詳細については本に出ています。現在は「光透波理論」あるいは「命波理論」としてまとめられた4冊の本があり。読めばこの語が何を意味しているかが分かります。他にも本がありますが、この理論を学んでいる弟子たちが少し書いています。

ここでは少しだけご紹介します。「光」は太陽光のような可視光線ではなく目に見えない光を指します。なぜ目に見えないかというと波長が人間の目で見える範囲外にあるからです。見えないから「透」、透き通っているとなります。「波」は振動のことです。宇宙が振動するエネルギーの極小の何か(名称については色々な説があります)で成り立っていることはもう分かっています。でも一口に透明と言っても、透明度には無限の階層があり、光には無数の種類があるのです。その中でも最高至高の光の波を「光透波」と名付けたのが小田野先生です。

この絶対至高の光はまた、その性質から「止速」と名けられています。行ったと思ったらすでに帰ってきている速さなので、あたかも止まっているかのごとき態だからです。この光を仏教では「如来・如去」と呼びます。人智で把握しがたい光な為に「不可思議光」とも呼ばれています。幾何学的数学的にも他の表現でその一面や他の視点からも説明されだしてきています。神聖幾何学的には「フラワーオブライフ理論」を使って様々な講義を発表されている方々もありますし、「ヌース理論」を展開されている半田広宣さんという方がいらっしゃいます。人間は言語を使って思考し、疑問を解く才能を与えられていますので、これらの方々が学び、理解して得た情報を言語(最近では図解や動画入りで)で発表されていますので、そこからも学ぶことができます。その意味では中世暗闇時代を考えると有難い時代になっています。私も少しずつ学ばせていただきながら、少し理解したことを皆様にもお伝えして行きたいと思っておりますのでよろしくお願いします。
2018.9.18

ちょっと科学的な説明が欲しい方に
労多くして~でもチャレンジ、光の速度の話

超光速粒子タキオンと光透波

愛が不在の場

今の世界情勢を見ながら感じた印象を表すのに出てきた言葉です。「愛が不在の場」とはどういう世界でしょうか。

虚無という言葉がありますが、完全にはその意味を推し量ることはできません。「愛が不在の場」に付けられた名称はまだありません。何故なら愛は普遍的でかつ遍在すると考えられているからです。そうだとすると不在にはなれないのです。
愛の別名は「神」、「至高の叡智」、「創造の源」、などです。まだまだたくさんあります。何故なら「それ」は誰にとっても心の中心にあって自分を見守ってくれている「何か偉大なもの(Something Great)」だからです。そして誰もが「それ」を何らかの名称で思い起こしたい欲求をもっているからそれぞれの人にとって特別な名称があるのだと思います。小田野先生は「真空様」または「空母様」と呼んでいらっしゃいました。それを口にするときのお顔と目はうっとりと幸せそうに輝いていました。名称が感情の引き金になっていることがよく分かります。子供のころ私は「のの様」と呼んでいましたが、それを口にすると何故か安心してそれまでざわついていた気持ちが収まったものです。
説明しがたい種類のある「状態」あるいは「それにつけられた名称」を理解するために効果的な手法があります。それは「そうではないもの」を列挙することです。

そうではないもの

  • 悪あるいは邪:ちょっと意外かもしれませんが、愛が不在の場とは思いません。大局的に見ると悪や邪が愛のある側面を意味する場合もある。これは少し複雑ですがいわゆる「善」なるものが必ずしも全体の和合と調和を保証するわけではないということに気がついたら分かるかもしれない。何故なら「愛は差別しない、裁かない」から、正邪、善悪は一体となってまる飲み込みされているはずなのです。
    良い例は、もう誰の目にも明らかな地球環境の劣悪化と絶え間ない戦争の原因を作っている人間も、汚染反対、戦争反対派の人間も同じように母なる地球に生かされていることに変わりはありません。地球あっての私たちです、なければどんな人でも平等に死んでしまいます。ただ、今は地球様もだいぶ荒れ狂っていますから、あちこちで大勢の人が死んでいます。日本などは今現在災害列島の態を呈しています。
  • 闇:闇の反対は光ではないのです。宇宙空間は真っ暗闇だが愛は遍在しています。ただしこれは物理的に見た闇の話。物理的に見た闇とは人間の視覚が認識している「光」の不在という意味での闇のことです。この闇というものに対する感情的反応は多くの場合、不安、恐怖、忌み嫌うものとして避けたいもの等々あまり快い感情とは結びついていないと思います。これに対し「光」は肯定的感情を呼び起こします。愛は闇ではなく光としてのイメージと結びついています。しかしどちらも不安そのものでもなければ愛そのものでもありません。あくまでも感情とセットになってしまっているイメージだと思います。違う言い方をすると、闇とか光という名称に対してそれぞれの人が持っている意味合い、含蓄です。ちょっと話が横道にそれるかもしれませんが、一つの例があります。
    「そう言われてもあなたの頭の中にある絵は私には見えませんので、もっと具体的に説明してください」とある人に言われたことがあります。賢い人で、そのおかげで私もコミュニケーションの難しさと言うものを再認識させてもらえました。
    元に戻ります。含蓄とは概念なのです。真理でもなければ事実でもありません。人間はこれに踊らされて互いに誤解し合って、自分の方が正しい、相手が悪いのだと思い込んで戦っています。
  • 憎悪、妬み、羨望、怒り等の否定的感情:感情が発動する原因には「愛されたい」という欲求があり、その欲求の源泉には「愛を認めている」という前提条件があるのだと言えます。全くの虚無であるなら感情は発動しません。感情の動きがあるということが、そこにエネルギーが発生して周囲に影響の波動を発信しているということなのです。
    これを端的に示している言葉があります。
    EMOTIONです。字分けをしますと、EとMOTION、エネルギーの動き、とも読み解けます。イモオションと発音しますので、意網王思陽云が当てられます。思いという動きが展開している4次元の形の無い場に飛び交っている感情のエネルギーが互いに影響し合って織りなしている網(ネットワーク)が地上のインターネットという網も含めて今と言う時(陽/日/時)の人類社会の状態を現出、維持、発展させ続けているのです。活動の原動力が感情だと字が教えてくださっているのです。良い意味でも悪い意味でも交流という活動がネットワークを形成していると受け止めています。ここまで見てくると出てくるものは、最も「愛が不在の場」に近いものは、
  • 無関心だと思います。何故なら感情がほぼ不在だから。感情的死と言えます。体は動いていて話もしているのでまるで生き物のように見えるのが厄介です。市民権を持っていて、生活しているので汚染もしているのに何ら積極的に場を形成するプロセスに関与していないわけです。こういう人たちばかりの世界になるとロボットの社会のようになります。作業はしていますが、感情が無いのですから。そこには笑いがなく、涙もなく、感激も感動も、怒りや憎しみさえありません。まさしく虚無ですね。生きている意味がないのではないでしょうか。味わい、感動し、発見し、学ぶという人生の味がないのです。

母が亡くなった後、予想よりはるかに強い空白感に見舞われ、まだ心が痛む状態にさえなっていない時、一緒に看護してくれていた家族のTが夜私の寝室に来て、「しばらく一緒に寝ましょう」と言って脇に自分の布団を敷き、黙って連れ添ってくれました。別に何か言わなくとも、傍に誰かの気配があると空白感が消えるのを実感しました。一緒の部屋で寝ていた一か月ほどの間に号泣も肉体的胸の痛みも含めて様々な喪のプロセスが続きました。
「もう一人で寝られるわね、親を亡くした悲しみは13か月って言われているからあと一年よ」と言われましたが、確かに強烈な痛みはしだいに和らぎ、一年後にはほぼ常態にもどっていたと記憶しています。

黙って寄り添うという行動が愛から出てきている場合のエネルギーは大きな影響力を持っていて、痛み、苦しみを和らげます。この時に発散しているエネルギーはとても快い波動の網を形成していると私は感じます。ただ、逆に触れると傷つくような網も出来ていますので、賢く見極めて気をつけて生きていただきたいと思います。直感的に危ないと感じる感性を磨くことがとても重要だと思います。
私事ですが、今その家族がまた私を離れて行ってしまう時が目前に迫ってきていますが、今度の喪失感をどのように乗り越えるかが私の次の課題となっています。何年か前に「独りに強い人になって行ってね」と言われてからずっとその方針で対策を講じながらいろいろと準備かつ練習をしておりますが、その時になったらどうなりますか。ともかく私の一番楽しい時間は、課題を決め、思考を巡らせ、ある種の理解と納得に行き着く作業をしている時で、これの良い点は費用がかからないことです。娯楽があれば独りでも楽しいという字があります。「独楽」です。小田野先生はこの言葉がお好きでした。

独楽ってねえ、英語でTOPって言うんですって。最高ってことよね。英語もよく出来ているわね。コマって言うんだから、光間じゃない。間は全部光ってことなのよ。独りだからって淋しいわけないのよ。空母さまに抱かれているんだから。私も独りでくるくる回って楽しんでいるのよ。気持ちは三昧ってことよ。字分け三昧。

2018.9.17