超光速という可能性と概念

前回はタキオンという仮説について少しお話ししました。誤解のないように付け加えますと。「タキオンはこれである」と写真に撮って見られるようなものではありません。形のないものなので、当然です。概念(コンセプト)というものは人間が抽象的思考を使って「それは存在する」という仮説を立てたのちに様々な手法で、「だから存在しているに違いない」と他者に証明しようとする行為の結果生まれたものです。「それは」が仮説として提示される条件はそれという対象に名詞がつけられた時です。この場合は「タキオン」という名称です。名称は生まれたと同時に歩き始めます。あたかもそれが存在しているかのように人々は認識し始めます。存在の有無は別として。 最も端的な例は「神」です。誰が神の写真を撮って私たち人類に見せたでしょうか?神のイメージは画家や彫刻家が創作したものですが、実物の神はまだ誰も写真に撮ってはいません。しかし古今東西いつどこにおいても神を祀る寺院や教会が形として存在しています。それだけ多くの人々が「見たこともない存在」を崇め、お祈りをささげ、お金やお供物をささげています。 何が言いたいのかと言いますと、「神」というコンセプトが力を持っているからこそ、その影響力が信仰という結果を生み、寺院や教会という形体を生み、それぞれの解釈の違いが派閥を生み、派閥が競争と互いの間違いを指摘しつつ、自分の解釈こそが正しいとする自己正当化という意識を生み、争いを生んで行きました。名称が一人歩きするというのはそういう意味です。 名称、つまり「名」がエネルギーなのです。実体がなくとも「名」があればその影響力は生まれてくるのです。この「名」は言葉です。人間以外の生物は名称を認識する能力を授かっていません。人間だけが言葉を操ることが出来、その能力を使って自由かつ勝手に、名というコンセプトを創造し、それを使って様々な文化、芸術、争点、誤解等々を生み出してきました。いわば「両刃の剣」です。

タキオンのお話に戻ります。前回引用した文を考えて見ましょう。

 電子などの質量をもった粒子を光速以上に加速する事はできそうにない。しかし実は、相対性理論に直接矛盾しない形で、超高速粒子を考えることはできるという。そのような理論上の粒子は「タキオン」と呼ばれている。タキオンの質量は、何と虚数だという。虚数(純虚数)とは2乗して負になる数のことだ。
通常の粒子(質量が実数)の速度は、光速が上限だが、タキオンの速度は、光速が下限になるつまり、タキオンは、生成した瞬間から超高速で進み、決して光速を下回ることが無いのである。つまり通常の粒子と光速に関して正反対の性質を持つことになる。
また、タキオンはエネルギーを失うと加速するという。通常の粒子であれば、エネルギーを失えば減速するはずなので、とても奇妙な性質だ。
たとえば、もし電荷をおびたタキオンが実在した場合、真空中を進むタキオンは、チェレンコフ光(注参照)を放ってエネルギーを失っていくと考えられていく。するとタキオンはどんどん加速していき、最終的にエネルギーを完全に失うと、なんと速度は無限大に達するという。つまりどんなに遠い宇宙のかなたにも(100億光年先でも!)、瞬時に到達できることになるのだ。

注。チェレンコフ放射(チェレンコフほうしゃ、Čerenkov radiation、Cherenkov radiation)とは、荷電粒子が物質中を運動する時、荷電粒子の速度がその物質中の光速度よりも速い場合に光が出る現象。チェレンコフ効果ともいう。このとき出る光をチェレンコフ光、または、チェレンコフ放射光と言う。
%e3%83%81%e3%82%a7%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%b3%e3%83%95%e5%85%89この現象は、1934年パーヴェル・チェレンコフにより発見され、チェレンコフ放射と名付けられた。その後、イリヤ・フランクイゴール・タムにより、その発生原理が解明された。これらの功績により、この3名は1958年ノーベル物理学賞を受けた。
Wikipediaからの引用

黄色のマーカ部分を見ていただいたと思いますが、この文の論点である「コンセプトが持つ影響力」を実感できたでしょうか。原子炉では実際にチェレンコフ光を見ることができるのですが、この光が「タキオンの存在」を実証しているわけではありません。実証してはいませんが、これは否定しているということでもありません。神の存在も同様に実証もできないし、否定もできないのです。これを冷静に客観的に受け止めて、どちらの考えを持つ人たちも批判したり、自分の考えを押し付けたりもしないでいる人々が増えれば社会は穏やかになりますね。

コンセプトは日本語の「概念」に相当する語です。概とは「おおむね」という意味で、「正確ではない」という意味です。これをしっかりと認識して生きていることが大切だと思います。
光透波理論では「名は命」と解しています。どちらも「メイ」という音を運んでいます。「名」は実際に影響力というエネルギーを持っていてその存在は人間の認識の対象としての位置を確保しています。写真に撮れても撮れなくても脳の記憶庫には「名称とそのイメージ」は収納されているのです。そしてその影響力は実際に行動の動機にもなり、その結果として悲喜劇が生まれ、他に影響を及ぼして行きます。「嘘から出た眞」という言葉がありますが、まさにこのことだと思います。また、命という現象は「形を持たない存在」のこととも言えます。通常は肉体という形を生かしているエネルギーで、無くなれば「ご臨終」となります。これを非常に明確に方程式で表したのが小田野早秧です。

生体-死体=命(命の内訳は、動きと音と温度)

生きている体がしていることで死んでしまうともうしないということを纏めると「動、音、温」であるということになるのです。そう明示されると、「なあるほど」と思いますが、これを見ないうちに、自分なりに考えると実に曖昧な解釈しかしていなかったことが分かります。

https://37kotoha.net/10/光透波とは何か-2/

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