覚者と凡人はどこが違う

私たちは自己というものを通常どのように認識しているのでしょうか。大方の人は自分が中心にいて周囲に自分を取り巻く環境がある。環境に家族、友人、その他の人々がいて人間社会が成り立っている。その他に動植物を含む自然環境がある、というふうに認識していると思います。つまり自分と自分以外のすべてという関係性においての自己認識だと思います。生まれてからずっとそのように教育されてきたのですから当然だと思います。

しかしこの認識の基盤に成り立ったあらゆる物の見方とその見方によって生活している間に体験を通じて確認され、定着した「固定観念という記憶」が病と不幸せという感覚の根本の原因になっているのです。つまり私という人は「固定観念が服を着ている」ごとき存在だと言えます。

固定観念は一部あるいは大きな部分覆されるか書き換えられることは時々あります。そのような体験をした人々を私は何人か知っています。ただ完全に固定観念が無くなった、あるいは元々ほとんど無かった人という人たちはあまりいません。この人たちは「覚者」と呼ばれています。

どうしたら固定観念から解放され。真に自由な思考ができ、不安と恐れと心配と欲求不満と病から解き放たれるのだろうか。その手法は古今東西の賢者や導師やトレーナーなど自薦他薦で提供されてきました。どれがどのくらい効果があったのかをここでは問いません。言えることは、「覚者はそう多くは出来なかった」ということです。命波の創始者である小田野早秧先生は「字分け」という手法を考案されて、私はそれを実践しています。字分けの目的は「自分とは何か、命とは何か、死とは何か」を明確に把握し、結果的にあらゆる偽物の情報から解放されることです。偽物の情報というのは現代社会という怪物を構成している要素のことです。覚者とは真理を知る者で、偽情報に騙されない人のことです。

字というものは実はそれを分解すれば真理が分かるように作られてあった教科書のようなものなのだということを発見された初めての人類が小田野早秧という人だったのです。発見に至るまでの様々な啓示現象はまさに奇跡そのものです。これからもこのブログでは小田野早秧という人とその生きざま、何故字分けが効果的な手法なのかということと、心身の健康との関係などについてもお話しして行こうと思います。
2016.4.7 記

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