猫の神様

一昨年くらい前からどこかの猫が家にしょっちゅう来るようになりました。大きな茶トラで、体の大きさに比例してかなりの量の糞をわが家の庭の土の上にする習慣がついてしまいました。どこの猫かも分からないし、仕方なく糞の始末をしていました。玄関わきのベンチがお気に入りの場所で、悠然とそこで日向ぼっこしているのをよく見かけました。それも仕方ないと思って我慢。脅かしてもその時だけ逃げて、また戻ってくるからです。

しかしある時にベンチの上に嘔吐したものが飛び散っているのを見かけ、近寄ると周囲の壁や、タイルの床にも飛び散っていて、乾いてしまっていたので、洗い流しに手間がかかり、さすがにもう嫌だと思いました。

それから数日後に散歩で近くの江ノ島に行ったおり、神社の掲示板に、「私達を連れ帰らないでください。野良ですが、島の人たちが世話をしてくれているのです」と猫の絵入りのポスターが目に入りました。それで、江ノ島には「猫神社」があるのを思い出し、フト(フト、というのはインスピレーションが入って来たしるしです)、猫の神様にお願いしたら良いかもしれないと気づきました。

犬猫撃退剤など使いたくないので、「家に猫が来ないようにお願いできますでしょうか?」とわが家の情景と猫の姿をイメージしながら訊いてみました。「はい」という返事が来たように感じたので、お礼を言って、帰宅。

それから数か月になりますが、一度もその猫を見かけなくなり、糞もまったくされていません。「猫の神様」の霊験あらたかでした。

あらゆる生き物にはその種族の元締めのような、いうなれば知恵ある意識があるというふうに、私は受け止めています。動物園で寝ている夜行動物を見たいので、「コアラの神様」、「ワラビーの神様」、その他もろもろの種族の神様にお願いしたところ、どの動物も寝床から這い出て来て、写真を撮らせてくれました。終わるとまたサッサとねぐらに戻って寝てしまうので、案内係の女性がびっくりしていました。

 

では人間はどうでしょうか。人間の場合は「人類の集合意識」という表現が分かりやすいかもしれません。知恵というものは形がなく、見えも触りもできません。どこかに在るとか場所もありません。ですが、その集合が有るというふうに思ってください。そう思えばその人の意識の中で「人類の意識の集合」という位置が座を占めます。一旦座を占めることでアクセスする焦点が出来ます。そして「つながる」わけです。いきなりつながるかどうかは私にも保証はできませんが、少なくとも基盤はできたので、あとは信念と練習が功を奏するでしょう。

存在とはそれに付けられた名称で、名称(コトバです)が存在を確立するのです。名前が無いものを想像することはできません。想像できれば、ある時ある状態に達したら創造ができ、現象を起こし、願った成果も出てくるという仕組みがあるのに気づいてくださると、きっと楽しい体験ができることでしょう。 

以前投稿したものですが、内容を捕捉していると思います。

「バカの壁」を越えて見つけたこと

2021.03.09

 

 

 

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