正覚の大音十方に嚮流す

正覚の大音十方に嚮流す
しょうがくのだいおんじゅっぽうにこうるす

長らくブログに投稿しないで来ました。何を書けば今という時代、その時代の世界の状況、そして否応もなくその状況下で好むと好まざるとに関わらず生きていなくてはならない人類。自身も含め家族や周囲の人たちの病、苦痛、生活苦と自由に移動もできないような閉塞感の中で生きてきた数年間でした。何か言うと波風が立つので言うこともままならない、常に周囲を横目で見ながら忖度して生きる他はないような状態だったと思います。いやそういう中で生きていることにさえ、気づいていない無知の暗闇の中にいる人たちも多いと思います。

想像してみてください。暗闇の中を手探りで生きていた時に突然一筋の光が差し込んだらどうなるかを。あっと驚くような情景が目の前に展開するのを。

見えるということがどれほどすばらしいかを。

何がどこにあるかが見えない。どんな危険が潜んでいるのかも分からないという恐怖が消え去り、対処すべき事柄が明確に見えるという喜びに勇躍、すべきことに向かって行動するでしょう。何しろ生存をかけているのですから。

その時が来ました。もうすぐ隠されていた状況が目前に展開しだすのです。

見たくないもの、知りたくはなかったことも多いでしょう。でも見えないよりもずっと良いと思う人も多いでしょう。

見えるからこそ対応出来るわけです。そして対応できる自分がいかに賢く、能力に恵まれているかを再認識して、同じように夫々の能力に応じた行動をとる人たちと新たな発見と理解と、それから生まれる気づきを共有する喜びに胸がときめき、心が喜びに満ちるのを。

表題の言葉の意味を説明しますね。

人は考えることが出来、考えて気づいたことを発表する手段をいただいてこの世に生み出されて来た生き物です。そして何かを発見し、気づいた結果を分かち合いたいという欲求をもっています。自分一人で納得して満足して誰にも言わずにいられる人はあまりいないと思います。で、声に出し、文章に書き、人によっては歌にして伝えます。

「そうか、そうだったんだ、そうなんだ。今やっと分かった。嬉しいなあ、これを誰に伝えようか」

と思った時にその人から大きな音(うるさいという意味でなく、伝播力が高いという意味です)が出て、それが大宇宙に発信されます。そして、その響きに呼応して、同じように思っている存在達が共鳴、調和して、その波動がさらに拡がって行きます。そういう意味です。

交流と書かずに、嚮流とあるのはそういう深い意味があるからです。

何が展開していくのかについては、追々に書いて行くつもりです。まずはお知らせまで。

この三年間本気では書けなかった年明けのご挨拶でしたが、やっと謹賀新年と書けます。これからどうぞよろしくお願いいたします。

2023年9月30日13:46

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