時は今、命は絶対時間エネルギー

今読んでいる本にあった一節に、老境に差し掛かった現在の自分の状態にぴったりの表現があり、さらに年上のもう一人の家族と、「ホントにそうだ」と大笑いしてしまいました。

年をとるほど、何かを行う時間がどんどんなくなって行く。生体プロセスは減速するため、時間は加速する。

実際に一日がすぐ終わってしまい、やりかけの仕事がつまれて溜って行く。夕食のおかずも五品目作るつもりが四品で時間切れ。洗濯物もまだ畳んでいないし、明日出かける支度もまだだ。窓ガラスも大風の後そのままの汚さ。やることリストは一度見ただけでは抜け落ちてしまうので何回も見るからそれにまた時間がかかる。と、まあこういう次第。

個々人にとって時間経過は絶対的なものではなく相対的なものだとよく分かる。そこで時間というものについて考えた。

私たちは時間というものを絶対的かつ普遍的なものと考えがちだ。つまり、一時間は誰にとってもそして地球上のどこで暮らしていても同じ長さという意味で。ところが先ほどの生活体験を通じて感じていることはそうではないと示している。
時計という機械がチクタクと時を刻む、家の中でもテレビ画面の表示でも、炊飯器やパソコンの液晶画面でも。世界中でチクタクチクタク。心臓もそれに合わせてチクタクと命の終わる時に向かって時を刻んでいる。

では、50歳で死ぬ人と100歳で死ぬ人とでは相対的時間差はどうなっているのだろうか。心臓のチクタクのスピードは倍違うのか?いや、別にそうとは限らないだろう。違うのは内的な時間体験だけだと思う。それは生活の質の問題で、各々が過ごす時間の充実度と関係していると思う。何歳で死のうと、充実した時間をより多く持って生きてきたら幸せな人生だったと言えよう。充実した時というものは「せねばならないこと、苦役」に縛られていない時、楽しい作業に従事している時だ。どんなに作業量が多くても楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。その時はチクタクに追い回されてはいないのだ。その「ゆとりの時間」の中で心臓もゆったりと動いているし、体もこわばっていない。こういう時間が多ければ多分、与えられた寿命は全うできると思う。年をとって閑が多くなっても充実した時間を過ごせるとは限らないのは楽しみがないということなのだ。

時間は相対的であり、宇宙に共通の時間は存在しない。時計が刻んでいるものは実は本当の時間ではない。惑星の回転に要する長さを分割して、便宜上「時間、分、秒、月、年」と名前を付けただけで実在ではない。人が認識している概念であり、動植物にとっては存在していない。朝、陽が昇り、周囲が見やすいことから活動期として過ごし、日没後には休息するだけで(夜行性動物は別の活動周期を持っているが)、時計には関係なく生活している。

ここで言う「本当の時間」とは時間の経過のない時間、つまり一瞬という間で、それを私たちは「今」と呼んでいる。本当の時間とは絶対普遍であり、したがって「空間を超越した時間」である。言い換えればあらゆる所に同時に存在しているので、或る箇所から何処へと移動(経緯という時間が発生する)はできない。ところが何処にも移動できないので空間的広がりは発生しない。時間も発生しないという意味での絶対なので「今」と言う。そしてこれが絶対エネルギーであり、命のエネルギーの本質なのだ。宇宙にある「あらゆる物」はエネルギーの化身であることは現代科学では既成の事実として認識されている。そのエネルギーそのものに質的な差異があり、その差異が異なる物を形成しているわけだ。

じゃあ、その形成された異なるもの、惑星とか銀河は何処にあるのか。「今」とどういう関係があるのか。もっともな疑問が湧くと思う。エネルギーの質的差異によって存在しているものは、「間」という、「無いという場所」に可視の現象を成立している。現象を認識している者にとっては有るのである(認識していない者にとってはエネルギーの波しか見えないかあるいは何も見えない)。「今」にはエネルギーの質的差異はない。絶対と相対の二つの世界があると言えば簡単だが、並立している二つではないので、但し書きなしでは言い難いと付け加えます。

「今」という絶対時間に対する理解と認識が空間を新たな目で見ることを可能にし、その結果としてチクタクの呪縛から自らを解放してくれ、充実の時に満ちた人生を約束してくれる。

時はトキ、透基という字を当てると概念の時は消え去る。絶対性という透明の基盤であってチクタク刻まれているものではないと理解し始める。TIMEタイムとは「田意務」という意味で、田(電磁場)の意(音によって展開されている此処という場)、一瞬の休みもなく場を形成、維持、運行せしめている働き(務)、であり、対するものが無い、タイ(対)ム(無)なので絶対性を意味する。

余談だが、時間、空間、人間というものは「間」という共通項を持つ。間とは何もないという所(無)を意味するが、先の二つはアイダと読み、人の後にある字はゲンと読むことが示唆的である。ゲン(言)を操る能力を持った人のみが時間空間を認識することが出来るのである。アイダは愛田であり、愛兌(愛がどこまでも貫き通っているという意味)だと受け止めるとまた新たな目で見ることが可能になる。この能力を進化させ続けると時間を直線的なものと考えてしまう狭い思考範囲から抜け出すことが出来るようになると思い、それを願いつつ充実した思考時間を過ごし、洗濯物を畳まずにいます。

2017.3.15
概念についての話はここにも掲載されています。
超光速という可能性と概念

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です