幽霊を見たことはありますか。見たという人を知っていますか。
私がこの質問をした相手の半分くらいの人はどちらかの経験があると言っていました。要するに思ったより多かったということです。ただしこれは私の知人や友人が「類は類を呼ぶ」の喩えにあるように少し変わった人たちであるからかもしれません。でも誓って言いますが精神病の人はいません。
直接見たと答えた人の多くはその幽霊は亡くなった家族や友人だったとのことです。他には泊まった家やホテルなどで見た知らない人。変わった例は大勢の人が集まる公共の施設、葬儀場、競技場、会社のビル等でした。「見たと言う人を知っている」と答えた人より直接見たと答えた人の方が多かったのです。全員が嘘をついているか勘違いしていない限りはすでに死んでいるのにその姿が目に見えるという何かが在るわけです。
では目に見える何かということを考えてみましょう。肉体の目は道具としての役目を果たしています。いわばカメラのようなものです。肉眼というカメラのレンズの奥に網膜があり、それが視神経に接続されていて、その神経が脳の視角野につながっていて、「何を見たか」の認識をしているわけです。過去に見たものが何という名前かを記憶していると何を見たかという認識がすぐに出来るそうです。それはさておいて、視覚野や名前を記憶する脳の分野が損傷を受けると「目というカメラが捉えたもの」が何かは分からなくなってしまいます。脳溢血で多くの分野を損傷した脳神経科学者のジル・ボルト・テーラーさんや脳の損傷を受けた人たちの多くを実際に診察した脳神経学者のオリバー・サックスさんによれば、その人たちにとって形というものは何もなくて、
「ぐちゃぐちゃの色の氾濫」が目に飛び込んでくるので苦痛であるそうです。
また見る機能にも個人差があります。私の知っている染色家によれば繊維や染料の色を二万色以上認識できるそうです。例えばグリーンという色に三千種類あるとして、それぞれの色を識別できるということです。また「オーラが見える」と言っている人を私は何人も知っています。見えるか見えないかの個人差があるとしたら幽霊が見えるかどうかも個人差があるのではないかと思います。
染色家の場合を例にとると、彼女は二万種類の色の名前を知っているのです。名前が識別を可能にさせているわけです。これは誰にでもうなずけることだと思います。
さて、オーラはどうでしょう?これは先に「在ると思っている」という信念があって、鍛錬すれば見えるようになると思っていると「見えるようになる」という場合と、子供の頃から見えたという場合があります。私は両方のケースを知っています。幽霊の場合も同じです。その人たちの場合は、
目というカメラが捉えた「形あるいは様々な色という振動」を何であるかと認識するプロセスにおいてすでに名称が記憶庫にあって、しかも「それは存在する」と思っていることが存在しているという認識を可能にしているということだと思います。
ややこしい言い方ですみません。でも見たからといって気体や光の色も含めて実体として在るかどうかはそれぞれの人にとって「何であるか」を認識するプロセスの違いによって異なるのではないでしょうか。プロセスには信念、期待、他者(親兄弟も含め)の体験談が大きく関わっているようです。
幽霊は在るのかどうかという題でこの話は始まりましたが、ユニコーンは在るのか、天使は在るのかという問いも提起したいですし、続きが必要な話題です。
次回は「精霊あるいはエレメンタル」についても触れて行きたいと思います。
2016.3.4 記