令和、命の木

2019年4月1日、新元号が発表されました。その夜、テレビのニュース番組で画面に映る「令和」と書かれた文字をぼんやり眺めていると、私の頭の中で自動的に字分けが起き、「命の木」と読み変えていました。

令和を右から書くと和令です。和を禾と口に分けて、口と令を重ねると命という字になり、禾はノと木に分けられます。和令、禾命、命ノ木、イノチノキ、となる訳です。このような字の分け方は変則的ですが、私の中で整理出来るということは字の導きによる為ですので、字分けの一例としてお伝えいたします。

なぜ、令和を命の木と読み変えたのか?その理由を考えていきました。まず、命の木についての一般的な意味を調べてみると

生命の樹は旧約聖書の創世記にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される。生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。
(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/生命の樹)とありました。

平成はタイラナリと読むことが出来、平らな状態を図に表現すると直線になります。現実の空間で「平ら」を視覚的に捉えると、地球は丸いので視覚の範囲によっては「平ら」から「円」になってしまいます。これを私と視覚対象物との関係に置き換えてみると、私が眼前に見る対象物は私と対面するものとして私の外に在り、私にとって直線上の正面である「平ら」な位置に視覚化される、私ではないものです。また、肉体的な視覚は直線上の「平ら」な位置に、面的(2次元)に「平ら」な像を映す構造です。視覚の範囲によって「平ら」な直線上にある対象物は直線を延長した「円」上にある対象物になりますが、私たちの視覚能力では対象物を「円」上に在る面的な像として見ることが出来ません。では、視覚ではなく、意識を使ったらどうなるでしょうか。意識を使うのですから対象物は私の内側に在り、そのまま一回りして対象物の背面から対象物の鼻先へ出て見ます。

このように意識の中で「平ら」から「円」へと範囲を移す時、対象物は私の内に在る面的な像となり、つまり私は私と対面します。エデン(回田)を回る電(デン)と取り、回転する電場だとすれば、電気現象が生まれる場であるエデンの中心に植えられた命の木は、磁性と電性の回転軸のことだと考えられます。

E(エネルギー)は波です。そして生命であり性能であり、性能とははたらきです(小田野早秧の光透波理論 “言語エネルギー 現実編” 参照)。

神は無限エネルギーなので、「神に等しき永遠の命を得る」とは、フリーエネルギーを得ることではないでしょうか。意識を使って円上に対象物を捉え、正面から私を見る私の眼。性能度の差があるとしても、その眼が少しも開いていなければフリーエネルギーを使うことは不可能でしょう。静流先生のお母様でいらっしゃる太母様が示された「仏眼」とはこのことだと思いました。

令和、レイワは零為環(零にするめぐり)、麗和(一対に並べあわせる。注。麗には対という意味もある)と文字をあて嵌められます。私と視覚対象物のそれぞれが互いに意識の中で「円」を描く時、イザナギとイザナミの国生み神話のように左回り、右回りの輪が出来ます。

渦の発生原因(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/渦)と同様に、質的に異なる二つのものがぶつかり合い回転しはじめ、回転は加速し、加速は度を増し、中心に命の木が立ちます。

令和→←和令と、左右に読み返すこと自体がすでに答でした。令和を命の木と読み変えたことからこのように学ばせていただきました。

令和元年 5月24日1:40  藤田知江

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静流

「令和、命の木」への2件のフィードバック

  1. 藤田さん、ご投稿ありがとうございます。

    藤田知江さんは光透波の研究会を25年も受講されています。その間様々な困難を乗り越えて、今ここに独自の字分けを展開されています。私が思いもつかないような分け方を見せていただく度にびっくり仰天、嬉しい感動をしています。最近は半田広宣さんのヌース理論もよく読んでいられるので、その影響が新たな解釈の展開につながっていると思います。面白い本を見つけては私に教えてくれます。更なる投稿をお待ちしております。
    静流

  2. 静流先生、コメントをいただきありがとうございます。
    半田広宣さんのnousを知ったことで、私は命波理論を立体的に捉えられるようになり、心から感謝しております。

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