二人の自分の住み分け

毎日の生活で、私たちが生きる為に行動する際にどうしてもしなければならないことの一つに「選択」というものがあります。

朝起きて、まず何からしようか。朝ごはんの支度か、着替えか、洗濯か、掃除等。頭の中で順序を組み立て、行動を始めます。行動している間も次は何かも考えますよね。半分自動的に行動することも多いでしょう。ルーチンと言いますね。

大体やることが済んだら、休息の時間。お茶を淹れて、音楽を聴いたり、窓外の空を眺めたり、庭の樹木を眺めたりと、ゆっくりと過ごすかもしれません。この時今まで使っていた脳の部分も休息します。それまで働いていた脳の部分と休息時の脳の状態は多くの場合変化します。機械のように動いていた時の脳とリラックスしている時の脳の違いの測定法に、脳波の状態を調べるというものがあります。各脳波の説明は省きます。

さて、一つ目の脳の仕事は、人間社会で生活するのに必要な行動を管理するというものです。社会人として規律からはみ出さないように自分を律して行動します。子供の様に時と場合もそっちのけで遊びたいときに遊ぶ、というわけには行きません。

次に大切なこと、知って欲しいことがあります。それは、機械のように割り当てられた仕事をする脳、リラックスして休んでいる時の脳には違いがあるということです。この時の私は、「本当の自分でいる時」と呼んでいます。本当の自分でいる時に感じるのは「喜び」です。この時の自分がとても好きです。脳科学的には喜びとは並立しない、不安、心配、恐怖という感情もありません。

まるで、二人の人がいるように違うといっても良いでしょう。長い人生を歩んで来た大人は子供の頃と違い、二人の自分の住み分けをしてきたわけです。

そこで今朝文章を書いている時にある字を書いた途端に、書きながら気づいたことがあり、さっそく字分けをして見ました。選択の「選」です。手で書きながらブルブルと体に反応が出るときはその日時も控えておく習慣があり、今それをワープロに入力しているわけです。先に手書きにすることが必須です。脳の違う部分が働くからです。絵を描く時や字を手で書く時は主に右脳、ワープロ入力する時は左脳が少し働き始めますので。

二人の自分を統合するにはバランス感覚が必要と思います。どちらかに偏り過ぎるとそれなりに問題が発生しがちになります。自分自身でいる為には如何にして「仮面をつけた自分」を卑下したり、責めたりしないで、その事実を受け入れ、そのままで、行動の微調整をするように気をつけています。仲間と一緒の行動をする際に、思い遣りを示す、無理なく出来る範囲で協力する、しかし妥協はしない等、賢く行動し、最後に気の合う人を見つけたら、仮面を脱いで、共に友になるという喜びを大いに味わいましょう。私には仮面なしでつき合える友達が何人もいます。それにはいつも感謝しています。本当の友達は少なくても良いと思っているので、人気者になるために、迎合したり、嘘をついたり(告白。頼まれ事を断る時には少しつきます。白い嘘と呼んでいます)貢物をしたりと無理はしません。

今までの人生で、自分自身でいるかっこよい友達を見て、学んで来ました。

小さな字

日常における字分け

自分の頭の上の蠅はよく見えない

「頭の蠅も追えない」とは、自分の身の回り(自分の頭の上)の些細なことすら満足に処理できない、世話できない状態を指すことわざで、転じて自分自身のことさえきちんとできないのに、他人のことに口出ししたり、大きなことを言ったりするなという戒めとして使われます。
あなたの周囲にもそういう人いますよね。
「余計なお節介」、「うるさい人だねえ」、なんて思ったこともあるでしょう。うるさいを漢字で五月蠅いと書くのも面白いですね。

さて、何故そういう人が多いのでしょうかと考えてみました。それは多くの場合自分の至らなさ、無能さを見たくないという心理が働いているからではないでしょうか。「自分を知らない人」ということになります。これから先を読みたくないという人はこれでお終い。知りたい人は先へお進みください。

自分を客観的に観るという作業を「内観」といいます。内観方法も色々とあるでしょうが、私は「字分け」という方法を採用しています。字(ジ)ならぬ自(ジ)を分けることが出来る便利な手法です。この工程は慣れるまでは少し複雑ですので、他にも簡単に出来る方法もあります。

失敗した時、憤慨した時、傷ついた時、悲しかった時、落ち込んでしまった時など、否定的な感情が起こって、なかなか抜け出られないことがあったら、その時の状況と湧き上がった感情を日誌のように書いておきます。書いているうちに、何と少しずつ冷静さが戻ってくるのです。問題を紙に書いていると、紙に移ってしまうのです。この時、客観視という現象が起こります。
誰が関与して、どういう状況で、それが起きたかを淡々と書いて行きます。その時に、言い訳をしないただ起きたことだけを書くのです。

書いた日時も記入しておきます。それだけですその日、その翌日、そのずっと後、何年後にも日誌の内容は読み返すことが出来ます。何故あの時あんなに傷ついたのだろう、思い返すとバカバカしい、可笑しい、恥ずかしい等と感じたら、もうあなたは学習済になっていると気づけます。これは嬉しい発見です。きっとモチベーションもアップもすると思います。

他人の頭の蠅はよく見えます。見るのが辛くないからです。でも自分のは見たくないので見えにくいです。見る為にとても役立つ方法は、他者の欠点は自分にもあるかもしれないと考えることです。それに気づく人は、賢い人で、これは他者は自分の鏡と心得えている人です。
そういう人は他者を裁かないのです。また、他者をさばくことは実は自分を裁くことなのです。ちょっと変だと思うかもしれませんが、「許せない、罰せられるべきだ」という思いは怒り、憤慨、復讐心等の感情につながっているので、幸福感や充実感とは別物になっているからです。脳内ホルモンの分泌の種類の違いです。自分自身の細胞が傷つくのです

また、頼まれてもいないのに、勝手に助けようとして、後で「余計なことをするな」と怒られるかもしれません。問題解決は当人にとっての学びのチャンスだったかもしれないのに、それを妨げたのかもしれません。いつも周囲の人に助けられて生きている人は自立出来ない人になってしまいます。頭も回転しなくなり勝ちで、年齢が行く程に認知症のリスクは高まり、周囲の人達にとって厄介者になってしまいます。周囲の人達もストレスがたまり、冷淡になり、怒ったり、罵ったりするかもしれません。それで人間関係がギクシャクしてしまうかもしれません。

まず、自分の頭のハエを見てみましょう。以前書いた「煩悩」を観るという手法も役に立つと思います。内観作業に有効な方法と思います。ただ読んでいるだけで、自分の頭のハエが見えてきます。

こつは、ただ読むだけで言い訳しないそれだけです。

裁かない、お節介しない、ただ見守っているだけの親がいます。その子たちは自立心が育ち、自分の子供に対してもそうするでしょう。互いを尊重し、必要なことだけを見極めて、助けます。

そこに生まれるのが平和な社会です。でも煩悩リストを読めば、自分も含めて自我意識を超越している人などいないと気づくでしょう。夫婦喧嘩、兄弟喧嘩や親子喧嘩も起きるかもしれませんが、まあ、ほどほどで、恨みが残らない程度で済むのではないでしょうか。中学生の頃、大喧嘩した同級生がいたのですが、後で大親友になりました。一生の友で亡くなるまでその関係は続きました。あの時に意地悪なその人に私が意地悪をしたのです。それで大泣きになって、しばらくは口もきかなかったのですが、少したって、私にそれまでした意地悪を謝ったと共に、「意地悪って良くないのね」と気づいてくれたのが嬉しかったです。

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

不幸になろうと思って生れ来る人はいない

 

2026年のご挨拶

2026年
丙 午

 波乱の多い2025年でした。皆さまいかが乗り超えていらっしゃいましたか? ともかく生きていればこその人生です。つつがなくお迎えになられたのならおめでとうございます。

パンドラの箱の比喩を例にとりますと、今の世界の多くの災害、蔓延する病、増え続ける詐欺事件、経済的困窮等、禍いばかりで明るいニュースの少ない年でした。あらゆる禍いが飛び出した箱の底に最後に残ったのは「希望」だったと言われています。希望だけは捨てないで持ち続けることにします。これはちょうど体が病んだ時、胎毒と呼ばれる蓄積された不要な物を出して行く過程のようなものと捉えますと、出るだけ出た後に残る物は希望という光だとも解釈出来ます。そういう意味では「膿出し」の後に清々しい元気な細胞が再生される経緯とも捉えることが出来ます。私はそう願っています。

今年は午年です。昨年は巳年、一昨年は辰年で、水に関係した宇宙の要素を意味していましたが、今年は丙午なので、火と馬です。不要なもの、不浄なものを燃やしてさっぱりとして新たな年を迎えるつもりで、今年一年も引き続き多くの不用品を断捨離しました。物が減るごとに家も気持ちもさっぱりして、清々しい気分になりました。午/馬は動物でもありますが、ウとマという音を取りますと、「字の鍵(天鏡図)」の表から意味するものは「宇宙の間」とも取れます。間ですから何もない所です。何もない空間、つまり「無の世界」と捉えると、物質世界でない所です。無の世界からあらゆる有が生まれ出て来ては、時と共に滅び去って行く、これを「無常」と言います。物に執着して、そこに囚われていると、失うことに対する恐怖心や心配で心が晴れ晴れとするわけには行きません。それで断捨離をすると、清々とするのではないかと思います。掃除も楽になります。これも膿出しのようなものかもしれません。

どうか恐れに取り込まれて、心配しながら生きるのだけはやめましょう。「大丈夫、私たちは必ず死ねます(知り合いのカウンセラーの言葉です。心配性の人にピッタリですね)」。
生きている間中びくびくと心配しているか、しないか自分で決めて、それまで出来る限り幸せに周囲の人達を明るく照らしながら光の元に帰るまで楽しく生きてまいりましょう。

不幸になろうと思って生れ来る人はいない

三年前は長年の知己二人と血族の訃報に接しましたが、昨年は何とかお葬式参列無しで過ごせました。一人去り、二人去り、見回せば周囲にいる人たちは皆年下です。どうか皆さまお元気で長生きされてください。昔の私を知る人達の目減りは寂しいです。

そこで寂しい、あるいは淋しいという気持ちについてお話をしようと思います。

ある健康問題をとりあつかう学会の発表に、病の根本原因は細胞の炎症であるとありました[i]。細胞が炎症し続けると、最終的には壊死しますが、死なない細胞の中には不老化細胞となるものがあります。癌の中でアポトーシスしないものも不老化細胞です。それはさておき、では何故細胞は炎症を起こすのでしょうか?

食べる物? 運動不足? 肥満? 喫煙習慣? アルコール?

いえいえそうではありませんでした。それは何と、

「孤独」なのだそうです。家族がいても、友人がいてもその中でも孤独は心を蝕んでいる例は多いです。そしてその人たちの多くが病を抱えています。健康で薬もまったく服用していない知人は私の周囲にはほとんどいません。皆何らかの疾患を持って、病院通いをしています。だからこそこの話は大切なのです。

誰もが幸せに輝いて生きて行きたいという願いを心の底に持たされて生れて来るのに、赤ちゃんの時は別として、いつの頃からか、寂しい、悲しい、怖い、不安と感じ始め、大きな声で泣きわめく時代を過ぎると、自分で処理をしなければならなくなります。周囲の大人はいつまでもしがみついて来る子供には段々厳しく対応し始めます。それをどう処理するかが個人個人の課題となります。上手に対応する方法はいろいろですが、個人差はあります。

実はこれは人間対人間関係における対応の個人差なのです。大多数の人間は人間社会でのみの生き方を学びます。人間を生み出したそもそもの根源である、大元のことは考慮の外です。そこが問題なのです。

私の母のことばを引用します。

不幸せになろうと思って生れて来た者はおらん。皆幸せに輝いて生きたいと望んで(注。そのように感情を持たされて)生れておるのに大方は途中で不幸せになってしまう。何故か?

私は星見ても、月見ても幸せ。空を見ても雲を見ても幸せ。樹を見ても草花を見ても幸せ。澄んだ川の水、水底の小石、楽しそうに泳いでいる魚たちを見ても幸せ。周り中の物が輝いて命を謳歌しておる。そのまっただ中でどうして不幸せだと思ってしまうのか不思議。生まれた寺では「わしらは阿弥陀さんの懐住まい」と言っておった。その阿弥陀さんちゅうもんが、実はよく分かっとらんで、悪いことすると天罰が下るなんぞ言うもんがおるので、びくびく生きとる。阿弥陀さんは誰もかれも一人残さず幸せにすると約束してこの世界を造ったとお経(注。浄土真宗なので正信念仏偈を指す)にちゃんと書いてある。だから親の懐にいるようなもんじゃて。その親が造った世界を汚しちゃいかん。要らんもん山ほど作って水を汚し、空気を汚し、大地を汚しとる。汚さんには、最小限度の消費で、最大限の幸せを得るのが功徳というもの。美しい地球から収奪しない、少しで満足して、感謝して生きる。自分では種から野菜は造れない。皆太陽と水と大地がやっておる。髪の毛一筋といえども造れない。全部大自然のお働き。息が出来なければすぐに死んでしまうのに、その空気を汚しておる。自分では何も造らんで、全部ただで頂いておるのに、足らん足らんと嘆いて不幸でおる。頭がおかしいとしか思えん。

こういう人に育った背景は著書『慧日』にあります。それによると生れたばかりの赤子の顔を見た祖父が、その顔の輝きに深く感銘を受け、家族が教育をしないようにと別棟で自分の庇護の下に育てることにしたのです。誰にも邪魔されることなく、自由に育ててくれた祖父、母親、兄弟姉妹のお陰かもしれません。でもこういう人はほとんどいません。皆子供に良かれと思って教育をします。それは人間社会に於ける対応という意味の教育です。そしてそれが愛であり、正しいことだと思っているのです。

親切という言葉は、「親を切る」と書きます。間違いだらけの教育を受けた親を責めても意味はありません。勿論全ての親とは言っていませんが、夫々の思い込みというものは多かれ少なかれあるでしょう。そして良かれと思って教育するのでしょう。これに対しては、愛を持って優しく切り離し、これを実行する行為を「出家」と言います。一旦家を出るとは家族とのしがらみを絶つということです。別に家を出る必要はありません。心構えとして、影響を受けないで生きる術を見つけて行けばそれで済みます。口論してもほとんど効果はありませんので、静かにするべきことはだいたいやり、手助けもし、役に立つ人でいればやり過ごせます。そして心で自由でいれば良いのです。外で遊んでいるのを見て怒る親はそんなにいないと思います。楽しそうにしているのを見ると多分嬉しいからでしょう。幸せそうに輝いている効果です。

私も最近、生きとし生けるものの全部と繋がっているのだ、孤独というものは後から習い覚えた感情だったのだと、そう気づいたのです。勿論親しい友人がこの世を去れば寂しいという感情は起きますが、それが細胞に炎症を起こすような身体的ダメージは起きないのです。サイトカインが出ないで、セロトニン等の幸せホルモンが出ているからです。寂しいという字は、しずか、おもむきがある、涅槃の世界、寂静の世界も意味します。淋しいという、涙の林というような感傷が湧き上がる程ではありません。涙もまた、甘く切なく、根底に懐かしさや感謝がある場合は清々しいものではありますが。

どうぞ元気いっぱい光輝いて長生きして下さい。

[i] https://news.uchicago.edu/story/loneliness-triggers-cellular-changes-can-cause-illness-study-shows

https://www.huffingtonpost.jp/2015/12/08/loneliness-is-bad-for-you-and-this-study-may-help_n_8745970.html

AIに訊いてもそう答えてくれます。

Q:孤独が細胞に炎症を?
A:はい、その通りです。近年の科学的研究により、慢性的な孤独感は体内の細胞レベルでの炎症反応を引き起こすことが示されています。
主なメカニズムは以下の通りです。

● ストレス反応: 孤独は慢性的なストレス要因となり、ストレスホルモンであるコルチゾールやノルアドレナリンの分泌を増加させます。
● 免疫系の変化: これらのホルモンや関連する神経活動は、免疫系に影響を与え、炎症誘発性のサイトカイン(免疫細胞から分泌されるタンパク質)の生成を促進し、抗炎症性のサイトカインを抑制します。
遺伝子発現の変化: 特に、「保存的転写反応」(CTRA)と呼ばれる特定の遺伝子セットの発現パターンが変化します。この変化により、炎症に関連する遺伝子の活動が活発化します。
この細胞レベルの炎症は、以下のような様々な健康問題のリスクを高めることが知られています。
● 心血管疾患(心臓病や脳卒中)
● 糖尿病
● 関節リウマチ
● アルツハイマー病などの神経変性疾患
● 特定の癌
● 全体的な死亡率の増加
つまり、孤独は単なる精神的な苦痛ではなく、身体的な健康に直接影響を与える深刻な要因なのです。 

 

 

新年の計 ー 要らないものを捨てます

もうじき新年を迎えます。新年の計は何ですか?

以前、老人の入居者の多い団地の管理人をしていた女性に聞いた話で、一人暮らしの高齢者が亡くなった後のゴミの山の始末に遺族が悩んで、管理人に始末を依頼する例が多いと聞きました。このことを予測して団地側では入居者に引き払い時にかかる費用を預かっているそうです。たった2LDKの部屋でどれほどの量のゴミ(家族が貴重品を持ち去った後の不用品)の多さには毎回驚くばかりだったそうです。これは「ためこみ症」と呼ばれる精神疾患の人達ではないかと思われます。

以下は医学的説明です。

ためこみ症とは、実際のものの価値とは無関係に所有物を捨てることや手放すことが持続的に困難になってしまう精神障害の一つです。ためこみ症状は、典型的には10代という若年期に発現し、20代には個々の日常生活機能を制約し始めて、30代には臨床的に顕著な障害を認めると言われています。
実際のところ、患者自身や家族、そして時には医療従事者も、ためこみ症が精神科や心療内科の領域の疾患に関連するものとは、ほとんど認識されていないことが多いです。一般的に、ためこみ症の臨床経過は慢性的に継続して、自然に症状が軽快することは少なく、単身生活やパートナーが不在の状況下では、より病状が悪化する傾向が見受けられます。
比較的人生の早期段階で発症し、社会機能や生活面での障害を呈するために適切に診断を確定して個々に応じた治療を実施することが重要なポイントとなります。

これとは別のため込み行為もあります。収集行為と呼ばれます。
収集行為は、根深い感情的、認知的、そして社会的欲求によって駆動される複雑な人間行動です。心理学者は収集行為を、有益な趣味から極端な場合には精神障害に至るまで、連続体として捉えています。 

収集癖のコアモチベーション

コントロールと秩序:予測不可能な世界において、物を整理し分類することは、支配感と心理的な安らぎをもたらします。研究によると、人々は自分の生活にコントロールが欠けていると感じているとき、よりコレクションへの意欲が高まることが示されています。
アイデンティティと自己表現:コレクションは多くの場合、自己の延長として機能し、個人が個人的な物語をまとめ、自分の価値観やステータスを他の人に伝えることを可能にします。
「狩りのスリル」:神経科学の研究によると、アイテムを獲得することへの期待は、アイテムを実際に所有することよりも、脳の快楽中枢(具体的には側坐核)をより強く活性化させるそうです。
セットの完成:多くのコレクターは、「セット」の完成によって得られる内的達成感に突き動かされ、具体的な目標と進捗状況のフィードバックが得られます。
ノスタルジア:物理的な物体は過去への触覚的なアンカーとして機能し、個人が子供時代の思い出や個人の歴史とのつながりを維持するのに役立ちます。 

収集と貯蔵

基本的な行動は共通しているものの、収集障害と溜め込み障害とは異なります。 
整理:コレクターは通常、アイテムを分類し、展示し、慎重に管理しますが、溜め込みは、整理されていない、無計画な蓄積が特徴です。
機能性:コレクションは日常生活の邪魔になることはほとんどありません。一方、溜め込みは極端な乱雑さを招き、住まいが住みにくくなることもあります。
感情状態:収集は一般的に喜びと社会的なつながりをもたらします。一方、溜め込みはしばしば大きな苦痛、羞恥心、そして社会的孤立と結びつきます。 

神経学的要因

収集癖は、意思決定と整理整頓を司る脳の領域である前頭前皮質と関連しています。この領域が損傷すると、強迫的または異常な収集行動につながる可能性があります。(注。高齢になって前頭前野の機能が低下すると、溜め込み症の症状を呈するようになる)さらに、ADHD(注意欠如・多動症)などの疾患は、不注意や整理整頓の困難さから、溜め込み症の症状の頻度が高いことが知られています。

いずれにしても、若い時に自分で、整理出来ない程の物品を溜め込む癖を矯正していないと、歳をとってからゴミの山に埋もれて暮らすことになりがちです。「片付けなければ」と頭の中では思っていても、実際には出来ないという悩みを抱えて生きることになります。溜ったゴミが発する波動というものがあります。これは自分ではそれと気がついてはいないけれど、常に頭の片隅にあって、神経を疲弊させる影響を及ぼしているのです。カビ等の臭いも出てきます。それは無意識裡に「何とかしなければ、出来ないのが恥ずかしい。自分はダメな人間だ。これでは後で家族に迷惑をかけてしまう」等の悩みを抱えてしまうことになります。これを避けるには認知症になると楽です。この心理が怖いです。私の周囲でも同年輩の人たちの多くがかなりの認知症の症状を呈してきています。自分に関係した行動をする人達の物忘れによる問題を前もって予測し、回避する為の処置をとっていますが、それでも事件は起きます。こうならないようにと自分を律して常に不用品を手放すことを心掛けている次第です。

トップ画像は英語でPackrat、物を溜め込む人のことです。
リスは食べきれないほどのナッツを溜め込んでは地面に穴を掘って、隠すのですが、そのうちどこに埋めたか忘れてしまい、お陰で(?)ドングリや椎の木が芽を出して、森の木が増えます。リスなら良いですが、人間の場合は他の人が困りますね。本人だって決して幸せではないと思います。

仏眼序説

久しぶりに『仏眼』を読み、今更ながらにその内容に納得しました。入力し、編集しながら何回も読み返し、朗読もしていても尚、全てを把握出来るわけではないのだと気付きました。

この数カ月、「全ては繋がっている」、そして私はその一部なのだという実体験(?)をしたことから次々に理解し、納得出来るようになった多くの事柄がありました。そこで、今より多くの方々にも読んで頂きたいと思い、この投稿をしました。序説のみですが、文も添付します。

トップ画像は太母が「慧日輪」と名づけた図形で、22歳の時に神秘体験をした際に観たイメージの一つです。コンパスを使って何回も何回も描き直して完成させたものです。

仏眼序説PDF

朗読:菊池静流

五次元思考でないとダメ?

五次元思考というのはどういう意味か調べると、以下の説明があります。

高次元の視点から物事を見たり、自分の意識をコントロールしたりして、未来や現実を手に入れる思考法です。

これは、今までにはなかった新しい語です。一体どういう意味なのでしょう?

人の考え方、物の捉え方あるいは生き方の姿勢を次元という概念を使用して説明するスピリチュアルな用語で、思考には波動があり、波動の法則に基づいた「引き寄せの法則」という手法もその例であるそうです。何故なら、宇宙の万物は波動を放っており、似た波動を放つもの同士が引き合うそうで、ポジティブな波動を持っている人はポジティブな出来事や人々を引き寄せ、ネガティブな波動を持っている人はネガティブな出来事や人々を引き寄せるそうです。

では、ひとつ前の四次元の場合はどうかというと、次のような説明があります。

四次元思考とは 物事を俯瞰的(ふかんてき)にとらえ、さらに時間軸も加えた思考習慣のことです。四次元チェスというゲームもあります。

更に、六次元について調べるとこういう説明があります。

六次元では「多数」の世界線の中から自分の意識を柔軟に動かして「主体的」に「選択」しているということである。多数の世界線、つまりパラレルワールドですね。そして、もっともっと上の次元もあるのだそうです。

三次元は非スピリチュアルな考え方、生き方を指すようで、時間、空間に対する認識が、限定的で、一つの世界線しかない為に柔軟性を欠き、二元的思考になり、分断、分離が生じる。その結果が、今の人間社会の様相で、絶え間ない戦争、貧富の格差が生じていて、欲求不満の人々の怒りや絶望が渦巻いている地獄のような世界である。これに対し、五次元は、幸福と豊かさが保証されている世界である。

高次元という概念には魅力的な響きがありますね。次元が高いほど賢い、非差別的なので博愛的。低次元はその反対となります。当然、低次元の自分は嫌、高次元的になりたいと、願う人が出てきます。五次元思考という語が無かったら考えもしなかった欲求や憧れが生まれて来ます。そして、そうなれなかったらどうしようという心配も生まれます。

今のままの自分で良い、十分幸せ。毎日の生活を丁寧に、責任を持ってこなし、周囲の人たちを愛し、必要なら手助けをし、気の合わない人からは少し遠ざかっている。楽しい遊びが出来る時間的余裕を工夫して作り、朝は太陽に感謝。夜は一日無事に過ごせたことに感謝。

自然が好きで、山が好き、海も好き、空を見ているだけで幸せ、星を見ているだけで幸せ、お金もそんなに要らない。友達もほんの少数いればいい。いなくても動物たちや鳥達と一緒にいれば楽しい。

そうして生きている人たちを知っています。その場合は何次元だろうと構いません。そう言わなくても気にもしないでしょう。もしかしたら、それも五次元思考なのかもしれません。

幽体離脱あるいは離脱しないでも好きな場所へ瞬間移動をして、他の惑星にも行きたい。空を飛びたい、人の心が読めるようになりたい、未来が見えるようになりたい、教えを乞いに大勢の人が門前に並ぶ導師になりたい等を望むのなら、それなりの手法を取得する何らかの修行あるいは、鍛錬は厭わない、そう覚悟出来るならその生き方も良いでしょう。叶うかどうかの保証はありませんが。

悟りを開きたくて、世界各地で修行やワークをして、望みが叶わないまま、年を取って、親類縁者に愛想をつかされ、雇ってくれるところもなく、ホームレスになって、物乞いに来た人もいました。居候になって、なかなか出て行ってくれなかった人も何人もいました。とても幸せとはいえない様子でした。そういう生き方もあります。

最後に絶対界あるいはワンネスの世界というのは「時空を超越した何も無いところ」だと前の記事で書きました。従って、波動を放っている「万物」はありません。だから、次元というものもありません。格差がないのですから。

高次元ほど偉い、賢い、低次元にはなりたくない。これは学校では、成績は良いほどいい、競争では一番になりたいという、周囲の大人からの刷り込みの結果の思考です。それが分かれば洗脳から解放され、自由になれるという選択肢があります。

ちなみに、母はビリが好きで、他の人が勝つと喜ぶ人でした。カードゲームをしていて、自分が勝ちそうな札が来ると、そっとテーブルの下から私にそのカードを渡そうとするのです。「ダメよ、ズルしちゃ」というと、叱られた犬みたいな表情になっていました。ズルというのは勝ちたくてするものなのに、すまなそうな顔をするのが面白かったです。

追記。
既にかなり混乱しがちな情報なのに、更に混乱しそうな用語があります。五次元は英語で Fifth Dimensionと言います。これに対し、Fifth Densityという用語もあります。直訳すると、「五番目の密度」となります。主に所謂「アセンション」という現象に関する説明に使われています。知りたければ、以下のサイトで説明している人がいます。https://lizwatt.com/articles/density-consciousness/
ところが五次元という語もアセンション関連用語として使っている人もいます。違いの説明は日本語の文献ではあまりされていません。後はご自身でお調べください。動画もありますが、日本語訳は見つかりませんでした。

 

本当は、孤独な人など一人もいません

3月23日の朝、3時半過ぎに目が覚め、窓のロールスクリーンを上げて、外が見えるようにして、床にクッションを敷いて座り、外を見ました。半月なのに煌々と光る月が美しく、見ていると母のことが思い出されました。

母は若い頃日本中を徒歩で旅する人でした。お金があまり無いので、人の来ないお墓や山中の森や林の中で寝たそうです。人里を離れた灯りの無いところなので、夜空は満天の星です。瞬く星を見上げながら、星と話をし、月と話をし、静寂を満喫して、幸せだったそうです。

後年、私が覚えているのは、母がよく唄っていた童謡で、「お月さん」でした。ちょっと調子外れで、歌詞も勝手に少し変えて唄っていましたが、聴くと私の胸はいつもキュンとなって、何故か少し物悲しい気持ちになったものです。孤児の歌なので、寂しがりやの私も同調したのかもしれません。私も声には出さずに唄いました(正調で)。

お月さん、一人なの?
私もやっぱり一人なの
お月さん空の上
私は並木の草の上
お月さん幾つなの?
私は七つのみなしごよ
お月さんもう帰る?
私もそろそろ、おねむなの
お月さん、さようなら
明日の晩まで、さようなら

何故か涙があふれ続け、母懐かしさで胸いっぱいになりました。

その時、目の端の方で何かがチカチカしているのに気がつきました。視線を移すと、星でした。月明かりがあまりに煌々としていたので、小さな星たちの瞬きに気づかなかったのです。「あらま、気がつかなかったわ、ごめんね」という気持ちで、今度は星々を眺めました。

チカチカチカチカ、まるで何か言いたげです。もっとよく見ようと、別の部屋に移動して外を眺めました。月がないので星の数がずっと多くなっていました。

その時に聞こえたのは、ルナさんと呼ばれる存在の言葉でした。その前日に観た動画の中で彼女に、朝4時に起きて、空を見てくださいと言われたのです。その時は多分4時になっていたと思います。そして、彼女が言った言葉が、

空に瞬く星たちはただ光っているのではないのです

この時、腹の底からこみあげてきたのは「笑い」でした。おかしくて、おかしくて、クスクスとしばらく笑いながら、声に出して言いました。

ほんと、ほんと、その通り、ただ光っているんじゃないよね。お話ししているのよね。
私と一緒に瞬いて、繋がって、嬉しくて振動して、仲間になってくれて嬉しいって言っているのよね。私も嬉しいわ。

星たちはもっと瞬いて、「ようこそ、一緒になれて嬉しいです」と言っているように聞えました。

またまた涙で、胸キュンで、そして、またルナさんの言葉が響いてきました。

孤独な人なんて一人もいません

ほんと、ほんと、みんな繋がっているんだから。でもそれを知らない人たちが大勢いて、孤独の中で、悲しんだり、絶望したり、愛してもらえないって怒ったり、恨んだりしているの。この人たちを腹の底から笑わせるために私が出来ることは、この喜びを伝えて行くこと。だから、今書いています。

母の言葉も今聞こえてきました。

由来、天地の理法は、自身の喜びを知らずして、
他を喜ばせ益すること、到底適わぬ道理にあるなり
各自(おのがじし)その喜びを知(さと)るべし
して、他をして真の喜びにあらしめよ
それ、真の喜びとは、万人はおろか、万物と心通うことの外なきなり
心通うとき、自ずから万物をいたわり、
尊重するなり
喜びとは、孤立の一滴にはなく、通い合うところに始めて生ずるなり
されば 万物と通う心を極楽と知るべし

絶対の孤独の体験記

 

時を解する者と五次元思考

最近読んだ文で、人類の歴史に関して、100万年前、1万2千年前、5年後の未来展望等々。あることが起きた、起きる可能性がある等々。これは時間というものを尺度で区切っている思考形態に基づいています。日本語には時間と時刻と二つの単語があります。これは驚きです。間という「何も無い時」と「刻まれている時」、つまり時間を区切って時刻にして、日常生活を営んでいるのが人間です。他の生物には時刻という観念はありません。時計という道具を動物に見せても意味不明でしょう。他の生物は、「今というその瞬間」に「無心」で生きています。人間だけが、刻まれた時を時間と混同して生きているのです。これに気づくことが理解の第一歩です。

時は過去、現在、未来と直線状にあると思っているか、そうでないかが、神秘家が言うところの「三次元思考」と「五次元思考」の違いだとしておきましょう。神秘家の中には、五次元思考が「アセンション」の必須条件だと言っている人たちがいます。これが現在の風潮のようです。五次元という観念に関する命波の理論はここでは論じません。

さて、「時」は何かという理解力によって何がどう違うかということを、光透波理論/命波理論(以後命波と表記)、に基づいて考察してみましょう。あくまでも私の理解の範囲です。

時をトキと読むと、命波の字の鍵を参照して「透基」と当てられます。透明とは何も無いという意味です。それが基本となっているとすると、「何も無い時」とは何でしょうとなります。時間の経過など無いとも解せます。ジと読むと、磁が当てられます。中心に向かって引き寄せられる力の方向性(求心性)です。これに対して反対の方向性は電性(遠心性)で、合わせると「電磁場」ですが、実は順番で言うと、「磁電場」だと命名されたのが、小田野早秧先生です。順番は非常に大切なので、これからは磁電場と表記します。

さて、時は英語でTIMEと言うので驚きます。数学記号では「×」です。加減乗除の「加・乗」です。加えられている情報とは、言い換えれば磁性なので、求心的に機能しています。求心性なので定着します。例えば、磁気テープ、CD/DVD等は情報を磁気的に定着させて保存し、それを再び音楽、画像、動画等に戻して再生することが出来ます。電性だと、それこそ放電してしまい、記録は出来ません。

これを私たちの認知機能に当てはめて考えてみましょう。考える機能の基本的条件は「言葉」です。言葉を使わずに考えることは出来ません。そして、言葉はそれを使う人の思考能力によって曖昧・意味不明から明晰・明快まで様々な段階があります。この思考力を培い、より明晰に明確にして行く作業があります。考える対象を決めたら、それに関する情報を収集し、様々な観点から考察して行く過程で役立つのは先駆者の発見を定着させている情報の再生道具である、文字を使った書籍、と各種の磁気情報です。霊感/インスピレーションとか高次元意識からのメッセージ等はここでは論じません。

考える対象は現在「時」ですので、今はこれを考察して行きます。

先に人間以外の生き物は、「今という瞬間」に生きていると書きました。では「今」とは何でしょう。「時間の経過の無い時間」と言えば分かりやすいかもしれません。一億分の一秒でも時間の経過はあります。この瞬間という言葉の意味を理解すると、時間というものの本質・実体の理解につながります。

命波では時性とは磁性であり、順番で見ると「一」、すなわち絶対(相対なら二)であり、かつ二つのエネルギーの流れで先に出来たと見ています。この先に出来たエネルギーが「父性」であり、加えて行くことで、その集積が反対方向に反転する因になっていると解しています。因に何も無かったら反転出来ないからだということです。反転すると出来るのが電性でこれが「元→二+ル」で二が出てきます。二がル(立つ)と出来るのが磁電場で、私たちが存在していると認識している相対界、すなわち物質宇宙です。

先ほどから「何も無い」という言葉を使ってきましたが、これを理解するのに、とても便利な単語が英語にあって、アメリカ人のスチーブ・アールさんが小田野先生に伝えたところ、「ビックリ仰天、今座っていた処から地球の反対側まですっ飛んで、出たところがイギリスだったわよ」と仰っていました。何故イギリスだったのかは聞き漏らしました。

その単語とは、Nowhereで、何も無いという意味です。これを字分けすると、NowとHereで、今と茲(此処)になるので、それを教えて下さった先生は世界の宝ですとスチーブさんが先生に言ったのです。

今茲とは何も無いとう意味で、この「無」というものの理解が、時というものを理解するには不可欠なのです。

ねえあなた、「何も無いというものは、有るの無いの?」

これは私が先生に師事した初めの個人授業での最初の質問でした。

勿論何のことか全く分からずきょとんしていました。それから30年。ヤットコスットコここまでたどり着いた次第です。

時間と空間というものは今と茲で、無なので、当然真空透明。そして時間を解する者が空間を超越して距離という概念に縛られることなく「瞬間移動」出来る能力を発揮できるのではないかと、そのように推察しております。まだ出来ませんけれど。

過去現在未来が直線的に流れていて、空間が距離だと認識している人間は、言うなれば檻の中に閉じ込められている囚人のようなものです。重力場に縛り付けられているわけです。重いは思いで、重くないのですが、これは又、異なる話題として今はこれまで。

2025.03.20

父の音閉音と前提宇宙とビッグバン

縦の軸は父

フアイー父の愛

 

2025年のご挨拶

2025年のご挨拶
乙巳 元旦

今年は巳年。昨年は辰年。龍と蛇として見ると、どちらも水に縁があります。竜神は雨と水を司る神とし祀られています。

蛇神は日本においては水神として祀られています。また豊穣や金運を司る神様としても祀られてきたほか、脱皮することから、「復活」と「再生」を意味するそうです。

2024年は世界各地で洪水が多かったです。日本も大雨が続きました。嫌でも水の力を知らされた年ではないかと思いました。逆に水不足の災害地ではどれほど水が生命維持に必要かも身に染みて実感させられたとも言えます。

さて、水は流れているだけでなく、大気中にも充満しています。宇宙間にも充満しています。

星は水が集まって、生まれ、長い時間を経ると徐々に水が燃え尽きて、死んでしまいます。これを生き物になぞらえて「星が年を取る」とか、「星が死ぬ」と呼んでいます。星座を形作っている星を恒星といい、これらの星を光らせているエネルギーの源は、星の中心部で起きている核融合反応で、主に水素を燃料としています。この燃料を使い果たしてしまうと、もはや星は光り続けることが出来なくなり、「死ぬ」ことになってしまうのです。

人間も動物も、樹木も皆水が無ければ生きていられません。この水が命を育んでいることを知っているからこそ、古来人は水を神として祀ってきたのでしょう。

この水を汚している張本人は他でもない人間です。水道水はもとより、多くの飲料水には健康に良くない成分が含まれています。土を汚染する農薬や除草剤や化学肥料も土に染み込み、水が健康を害するものになってしまいます。

これを神として大切にして、決して汚さないで生きることが自分の為にもなります。

今年はアメリカ合衆国の政権が替わります。今までとは全く異なる新しい時代の夜明けとも期待出来る政権と思います。この政権で、アメリカ合衆国保健福祉長官(日本の厚生大臣に相当)になるロバート・ケネディJr.という人は、水道水に毒を入れない、飲料はもとよりあらゆる食品を安全なものにする、と宣言しています。

素晴らしい年の幕開けとなりますね。