五次元思考でないとダメ?

五次元思考というのはどういう意味か調べると、以下の説明があります。

高次元の視点から物事を見たり、自分の意識をコントロールしたりして、未来や現実を手に入れる思考法です。

これは、今までにはなかった新しい語です。一体どういう意味なのでしょう?

人の考え方、物の捉え方あるいは生き方の姿勢を次元という概念を使用して説明するスピリチュアルな用語で、思考には波動があり、波動の法則に基づいた「引き寄せの法則」という手法もその例であるそうです。何故なら、宇宙の万物は波動を放っており、似た波動を放つもの同士が引き合うそうで、ポジティブな波動を持っている人はポジティブな出来事や人々を引き寄せ、ネガティブな波動を持っている人はネガティブな出来事や人々を引き寄せるそうです。

では、ひとつ前の四次元の場合はどうかというと、次のような説明があります。

四次元思考とは 物事を俯瞰的(ふかんてき)にとらえ、さらに時間軸も加えた思考習慣のことです。四次元チェスというゲームもあります。

更に、六次元について調べるとこういう説明があります。

六次元では「多数」の世界線の中から自分の意識を柔軟に動かして「主体的」に「選択」しているということである。多数の世界線、つまりパラレルワールドですね。そして、もっともっと上の次元もあるのだそうです。

三次元は非スピリチュアルな考え方、生き方を指すようで、時間、空間に対する認識が、限定的で、一つの世界線しかない為に柔軟性を欠き、二元的思考になり、分断、分離が生じる。その結果が、今の人間社会の様相で、絶え間ない戦争、貧富の格差が生じていて、欲求不満の人々の怒りや絶望が渦巻いている地獄のような世界である。これに対し、五次元は、幸福と豊かさが保証されている世界である。

高次元という概念には魅力的な響きがありますね。次元が高いほど賢い、非差別的なので博愛的。低次元はその反対となります。当然、低次元の自分は嫌、高次元的になりたいと、願う人が出てきます。五次元思考という語が無かったら考えもしなかった欲求や憧れが生まれて来ます。そして、そうなれなかったらどうしようという心配も生まれます。

今のままの自分で良い、十分幸せ。毎日の生活を丁寧に、責任を持ってこなし、周囲の人たちを愛し、必要なら手助けをし、気の合わない人からは少し遠ざかっている。楽しい遊びが出来る時間的余裕を工夫して作り、朝は太陽に感謝。夜は一日無事に過ごせたことに感謝。

自然が好きで、山が好き、海も好き、空を見ているだけで幸せ、星を見ているだけで幸せ、お金もそんなに要らない。友達もほんの少数いればいい。いなくても動物たちや鳥達と一緒にいれば楽しい。

そうして生きている人たちを知っています。その場合は何次元だろうと構いません。そう言わなくても気にもしないでしょう。もしかしたら、それも五次元思考なのかもしれません。

幽体離脱あるいは離脱しないでも好きな場所へ瞬間移動をして、他の惑星にも行きたい。空を飛びたい、人の心が読めるようになりたい、未来が見えるようになりたい、教えを乞いに大勢の人が門前に並ぶ導師になりたい等を望むのなら、それなりの手法を取得する何らかの修行あるいは、鍛錬は厭わない、そう覚悟出来るならその生き方も良いでしょう。叶うかどうかの保証はありませんが。

悟りを開きたくて、世界各地で修行やワークをして、望みが叶わないまま、年を取って、親類縁者に愛想をつかされ、雇ってくれるところもなく、ホームレスになって、物乞いに来た人もいました。居候になって、なかなか出て行ってくれなかった人も何人もいました。とても幸せとはいえない様子でした。そういう生き方もあります。

最後に絶対界あるいはワンネスの世界というのは「時空を超越した何も無いところ」だと前の記事で書きました。従って、波動を放っている「万物」はありません。だから、次元というものもありません。格差がないのですから。

高次元ほど偉い、賢い、低次元にはなりたくない。これは学校では、成績は良いほどいい、競争では一番になりたいという、周囲の大人からの刷り込みの結果の思考です。それが分かれば洗脳から解放され、自由になれるという選択肢があります。

ちなみに、母はビリが好きで、他の人が勝つと喜ぶ人でした。カードゲームをしていて、自分が勝ちそうな札が来ると、そっとテーブルの下から私にそのカードを渡そうとするのです。「ダメよ、ズルしちゃ」というと、叱られた犬みたいな表情になっていました。ズルというのは勝ちたくてするものなのに、すまなそうな顔をするのが面白かったです。

追記。
既にかなり混乱しがちな情報なのに、更に混乱しそうな用語があります。五次元は英語で Fifth Dimensionと言います。これに対し、Fifth Densityという用語もあります。直訳すると、「五番目の密度」となります。主に所謂「アセンション」という現象に関する説明に使われています。知りたければ、以下のサイトで説明している人がいます。https://lizwatt.com/articles/density-consciousness/
ところが五次元という語もアセンション関連用語として使っている人もいます。違いの説明は日本語の文献ではあまりされていません。後はご自身でお調べください。動画もありますが、日本語訳は見つかりませんでした。

 

本当は、孤独な人など一人もいません

3月23日の朝、3時半過ぎに目が覚め、窓のロールスクリーンを上げて、外が見えるようにして、床にクッションを敷いて座り、外を見ました。半月なのに煌々と光る月が美しく、見ていると母のことが思い出されました。

母は若い頃日本中を徒歩で旅する人でした。お金があまり無いので、人の来ないお墓や山中の森や林の中で寝たそうです。人里を離れた灯りの無いところなので、夜空は満天の星です。瞬く星を見上げながら、星と話をし、月と話をし、静寂を満喫して、幸せだったそうです。

後年、私が覚えているのは、母がよく唄っていた童謡で、「お月さん」でした。ちょっと調子外れで、歌詞も勝手に少し変えて唄っていましたが、聴くと私の胸はいつもキュンとなって、何故か少し物悲しい気持ちになったものです。孤児の歌なので、寂しがりやの私も同調したのかもしれません。私も声には出さずに唄いました(正調で)。

お月さん、一人なの?
私もやっぱり一人なの
お月さん空の上
私は並木の草の上
お月さん幾つなの?
私は七つのみなしごよ
お月さんもう帰る?
私もそろそろ、おねむなの
お月さん、さようなら
明日の晩まで、さようなら

何故か涙があふれ続け、母懐かしさで胸いっぱいになりました。

その時、目の端の方で何かがチカチカしているのに気がつきました。視線を移すと、星でした。月明かりがあまりに煌々としていたので、小さな星たちの瞬きに気づかなかったのです。「あらま、気がつかなかったわ、ごめんね」という気持ちで、今度は星々を眺めました。

チカチカチカチカ、まるで何か言いたげです。もっとよく見ようと、別の部屋に移動して外を眺めました。月がないので星の数がずっと多くなっていました。

その時に聞こえたのは、ルナさんと呼ばれる存在の言葉でした。その前日に観た動画の中で彼女に、朝4時に起きて、空を見てくださいと言われたのです。その時は多分4時になっていたと思います。そして、彼女が言った言葉が、

空に瞬く星たちはただ光っているのではないのです

この時、腹の底からこみあげてきたのは「笑い」でした。おかしくて、おかしくて、クスクスとしばらく笑いながら、声に出して言いました。

ほんと、ほんと、その通り、ただ光っているんじゃないよね。お話ししているのよね。
私と一緒に瞬いて、繋がって、嬉しくて振動して、仲間になってくれて嬉しいって言っているのよね。私も嬉しいわ。

星たちはもっと瞬いて、「ようこそ、一緒になれて嬉しいです」と言っているように聞えました。

またまた涙で、胸キュンで、そして、またルナさんの言葉が響いてきました。

孤独な人なんて一人もいません

ほんと、ほんと、みんな繋がっているんだから。でもそれを知らない人たちが大勢いて、孤独の中で、悲しんだり、絶望したり、愛してもらえないって怒ったり、恨んだりしているの。この人たちを腹の底から笑わせるために私が出来ることは、この喜びを伝えて行くこと。だから、今書いています。

母の言葉も今聞こえてきました。

由来、天地の理法は、自身の喜びを知らずして、
他を喜ばせ益すること、到底適わぬ道理にあるなり
各自(おのがじし)その喜びを知(さと)るべし
して、他をして真の喜びにあらしめよ
それ、真の喜びとは、万人はおろか、万物と心通うことの外なきなり
心通うとき、自ずから万物をいたわり、
尊重するなり
喜びとは、孤立の一滴にはなく、通い合うところに始めて生ずるなり
されば 万物と通う心を極楽と知るべし

絶対の孤独の体験記

 

時を解する者と五次元思考

最近読んだ文で、人類の歴史に関して、100万年前、1万2千年前、5年後の未来展望等々。あることが起きた、起きる可能性がある等々。これは時間というものを尺度で区切っている思考形態に基づいています。日本語には時間と時刻と二つの単語があります。これは驚きです。間という「何も無い時」と「刻まれている時」、つまり時間を区切って時刻にして、日常生活を営んでいるのが人間です。他の生物には時刻という観念はありません。時計という道具を動物に見せても意味不明でしょう。他の生物は、「今というその瞬間」に「無心」で生きています。人間だけが、刻まれた時を時間と混同して生きているのです。これに気づくことが理解の第一歩です。

時は過去、現在、未来と直線状にあると思っているか、そうでないかが、神秘家が言うところの「三次元思考」と「五次元思考」の違いだとしておきましょう。神秘家の中には、五次元思考が「アセンション」の必須条件だと言っている人たちがいます。これが現在の風潮のようです。五次元という観念に関する命波の理論はここでは論じません。

さて、「時」は何かという理解力によって何がどう違うかということを、光透波理論/命波理論(以後命波と表記)、に基づいて考察してみましょう。あくまでも私の理解の範囲です。

時をトキと読むと、命波の字の鍵を参照して「透基」と当てられます。透明とは何も無いという意味です。それが基本となっているとすると、「何も無い時」とは何でしょうとなります。時間の経過など無いとも解せます。ジと読むと、磁が当てられます。中心に向かって引き寄せられる力の方向性(求心性)です。これに対して反対の方向性は電性(遠心性)で、合わせると「電磁場」ですが、実は順番で言うと、「磁電場」だと命名されたのが、小田野早秧先生です。順番は非常に大切なので、これからは磁電場と表記します。

さて、時は英語でTIMEと言うので驚きます。数学記号では「×」です。加減乗除の「加・乗」です。加えられている情報とは、言い換えれば磁性なので、求心的に機能しています。求心性なので定着します。例えば、磁気テープ、CD/DVD等は情報を磁気的に定着させて保存し、それを再び音楽、画像、動画等に戻して再生することが出来ます。電性だと、それこそ放電してしまい、記録は出来ません。

これを私たちの認知機能に当てはめて考えてみましょう。考える機能の基本的条件は「言葉」です。言葉を使わずに考えることは出来ません。そして、言葉はそれを使う人の思考能力によって曖昧・意味不明から明晰・明快まで様々な段階があります。この思考力を培い、より明晰に明確にして行く作業があります。考える対象を決めたら、それに関する情報を収集し、様々な観点から考察して行く過程で役立つのは先駆者の発見を定着させている情報の再生道具である、文字を使った書籍、と各種の磁気情報です。霊感/インスピレーションとか高次元意識からのメッセージ等はここでは論じません。

考える対象は現在「時」ですので、今はこれを考察して行きます。

先に人間以外の生き物は、「今という瞬間」に生きていると書きました。では「今」とは何でしょう。「時間の経過の無い時間」と言えば分かりやすいかもしれません。一億分の一秒でも時間の経過はあります。この瞬間という言葉の意味を理解すると、時間というものの本質・実体の理解につながります。

命波では時性とは磁性であり、順番で見ると「一」、すなわち絶対(相対なら二)であり、かつ二つのエネルギーの流れで先に出来たと見ています。この先に出来たエネルギーが「父性」であり、加えて行くことで、その集積が反対方向に反転する因になっていると解しています。因に何も無かったら反転出来ないからだということです。反転すると出来るのが電性でこれが「元→二+ル」で二が出てきます。二がル(立つ)と出来るのが磁電場で、私たちが存在していると認識している相対界、すなわち物質宇宙です。

先ほどから「何も無い」という言葉を使ってきましたが、これを理解するのに、とても便利な単語が英語にあって、アメリカ人のスチーブ・アールさんが小田野先生に伝えたところ、「ビックリ仰天、今座っていた処から地球の反対側まですっ飛んで、出たところがイギリスだったわよ」と仰っていました。何故イギリスだったのかは聞き漏らしました。

その単語とは、Nowhereで、何も無いという意味です。これを字分けすると、NowとHereで、今と茲(此処)になるので、それを教えて下さった先生は世界の宝ですとスチーブさんが先生に言ったのです。

今茲とは何も無いとう意味で、この「無」というものの理解が、時というものを理解するには不可欠なのです。

ねえあなた、「何も無いというものは、有るの無いの?」

これは私が先生に師事した初めの個人授業での最初の質問でした。

勿論何のことか全く分からずきょとんしていました。それから30年。ヤットコスットコここまでたどり着いた次第です。

時間と空間というものは今と茲で、無なので、当然真空透明。そして時間を解する者が空間を超越して距離という概念に縛られることなく「瞬間移動」出来る能力を発揮できるのではないかと、そのように推察しております。まだ出来ませんけれど。

過去現在未来が直線的に流れていて、空間が距離だと認識している人間は、言うなれば檻の中に閉じ込められている囚人のようなものです。重力場に縛り付けられているわけです。重いは思いで、重くないのですが、これは又、異なる話題として今はこれまで。

2025.03.20

父の音閉音と前提宇宙とビッグバン

縦の軸は父

フアイー父の愛

 

2025年のご挨拶

2025年のご挨拶
乙巳 元旦

今年は巳年。昨年は辰年。龍と蛇として見ると、どちらも水に縁があります。竜神は雨と水を司る神とし祀られています。

蛇神は日本においては水神として祀られています。また豊穣や金運を司る神様としても祀られてきたほか、脱皮することから、「復活」と「再生」を意味するそうです。

2024年は世界各地で洪水が多かったです。日本も大雨が続きました。嫌でも水の力を知らされた年ではないかと思いました。逆に水不足の災害地ではどれほど水が生命維持に必要かも身に染みて実感させられたとも言えます。

さて、水は流れているだけでなく、大気中にも充満しています。宇宙間にも充満しています。

星は水が集まって、生まれ、長い時間を経ると徐々に水が燃え尽きて、死んでしまいます。これを生き物になぞらえて「星が年を取る」とか、「星が死ぬ」と呼んでいます。星座を形作っている星を恒星といい、これらの星を光らせているエネルギーの源は、星の中心部で起きている核融合反応で、主に水素を燃料としています。この燃料を使い果たしてしまうと、もはや星は光り続けることが出来なくなり、「死ぬ」ことになってしまうのです。

人間も動物も、樹木も皆水が無ければ生きていられません。この水が命を育んでいることを知っているからこそ、古来人は水を神として祀ってきたのでしょう。

この水を汚している張本人は他でもない人間です。水道水はもとより、多くの飲料水には健康に良くない成分が含まれています。土を汚染する農薬や除草剤や化学肥料も土に染み込み、水が健康を害するものになってしまいます。

これを神として大切にして、決して汚さないで生きることが自分の為にもなります。

今年はアメリカ合衆国の政権が替わります。今までとは全く異なる新しい時代の夜明けとも期待出来る政権と思います。この政権で、アメリカ合衆国保健福祉長官(日本の厚生大臣に相当)になるロバート・ケネディJr.という人は、水道水に毒を入れない、飲料はもとよりあらゆる食品を安全なものにする、と宣言しています。

素晴らしい年の幕開けとなりますね。

心の断捨離 煩悩の種類と自己分析

煩悩が108種類もあるということは皆さまご存じでも、その種類を調べたことのない方が多いと思います。ここでは1~20までを列記します。全文を添付しておきます。
煩悩の種類と意味

心の断捨離の一環として、私の体験から有意義でしたので、ご紹介します。

まず邪魔が入らない心静かに出来る場所でリラックスしてからひとつずつ読み上げます。発音が仏教用語なのでふり仮名がついていますので、声に出して読みます。読んで自分に該当するかどうか心に訊きます。該当している場合は、私はマーカーをつけました。

黄色いマーカーをつけた個所を見直していると、とても気恥ずかしい思いで、赤面しました。

でも。それだけで気づきが起きたのです。ただリストを読むだけで自分を知ることが出来て、しかも煩悩の消去に役立つのですから、やってみる価値はあります。添付の108項目を全部試して見てください。

1 苦締貪 (くたいとん) 執着する心 
2 苦締瞋 (くたいしん) 許せない怒り
3 苦締癡 (くたいち) 道理が分からず愚痴を言う
4 苦締慢 (くたいまん) おごり、高ぶり
5 苦締疑 (くたいぎ) 正しい事を疑う
6 苦締有身見 (くたいうけんしん) 身体への執着
7 苦締辺執見 (くたいへんじっけん) 極端な思考
8 苦締邪見 (くたいじゃけん) 因果応報を知らない
9 苦締見取見 (くたいけんしゅけん) 間違いを正しいと思い込む
10  苦締戒禁取見 (くたいかいごんしゅけん) 誤った考えを信じる
11 集締貪 (じったいとん) 欲望
12 集締瞋 (じったいしん) 憎しみ
13 集締癡 (じったいち) 悪行を行う
14 集締慢 (じったいまん) 他人に誇りたがる
15 集締疑 (じったいぎ) 真実を疑う
16 集締邪見 (じったいじゃけん) 果報は無いと思う
17 集締見取見 (じったいけんしゅけん) 自分が最も優れていると思う
18 滅締貪 (めったいとん) 激しい欲求
19 滅締瞋 (めったいしん) いら立ち
20 滅締癡 (めったいち) 無知による愚行

夢が誘う心の断捨離

続・心の断捨離

最後の断捨離

2024.11.06

言葉の力は良い方にも悪い方にも使われる

フロリダに住んでいた時の話です。

フロリダに来る前にブラジルにしばらく住んでいた日本女性と知り合いになり、よく一緒に食事したり、ショッピングや観劇に出かけたりしました。A子さんとしておきます。気が合うのか、おそらく食事とアルコールを楽しむことが出来るのが楽しいのかで友達になりました。飲まない人と違い、長時間食事をしながらおしゃべりが出来るので普段は言えないことも「ついポロリ」と出てしまうものです。ある時、ブラジル時代の体験をその人が打ち明けてくれました。

その人の夫は裕福な商社マンで、派遣先のブラジルで女性と浮気をしてしまったのです。相手は若い美人で、向こうから近づいて誘惑してきたと言い訳したそうです。その女性が「すぐに妊娠して」結婚を迫って来たそうです。もちろん論外なので断った夫は慰謝料を出すと申し出たのですが、聞き分けてもらえないので、困って妻に打ち明けたわけです。

ある夜A子さんは胸の上に何かが乗ってきて、苦しいのに体は麻痺したように身動きもできないような状態になり、声さえ上げられなかったそうです。死ぬのではないかと思ったのですが、何とか夜が明け、そのことを現地の知り合いの友人に相談したところ、浮気等の事情も聞いた後でその人が、おそらく呪いをかけられているのだと教えてくれました。

呪いをかける呪術師は「黒魔術」を使うのですが、これに対して「白魔術師」もいて、呪いを跳ね返してくれるそうです。黒の方より強い人でないと出来ないそうで、値段が高いと言われましたが、もちろん出しますと言って頼んだそうです。その時に、黒魔術師がもし負けたら、跳ね返された悪いものはその人が受けるので、死んでしまうこともよくあると教えられたそうです。

それを聞いた時に私は、黒い呪いのエネルギーは跳ね返された後に消えるのはなく、出たところに戻るということだと思いました。白いエネルギーが分解消去してくれるのではないということを学びました。それがもしかしたら呪術師の使う言葉の力の限界なのかもしれないと後で思うようになりました。光透波理論を学ぶようになってから、「言葉の力には段階がある」ということが理解できるようになったからです。力対力で打ち負かすのであって「吸収して分解し無害化」するわけではないということです。あくまでも「二項対立の世界」における戦いなのでしょう。

さて、日本語には端的なことわざがあります。

人を呪わば、穴二つ

※「穴」は墓の穴を意味し、呪い殺す相手と自分用に墓穴をふたつ用意することを指すそうです。

2024.09.28

良い食べ物は体が教えてくれる

食の安全性など気にしていない知人三人と食事していた際、一人が、「最近すごく高いお寿司屋さんに行って、いくらでも食べられる気がしてすごく沢山食べたけど、値段考えて止めた。普通なら後でなかなかお腹空かないのにすぐまた減ったのよ」と言いました。

さて、昨日友人とオーガニックな食材のみを使ったイタリアンレストランに行ってコース料理を頂きました。二時間以上かけて、ワインをゆっくりと飲みながら(すぐにガンガン出さないで、美味しい水が出してあって、間で水を足してくれる)食事とオーナーのお話を聞きながらおしゃべりも楽しみました。そして腹一杯食べたのですが、家に帰ってしばらくしたらまた空腹になり、見事に消化されているのが分かりました。

体は美味しいものはしっかり消化してくれて、その証拠に胃に滞留しないのです。胃に未消化の食べ物が滞留すると体は嫌がって胃酸を出して分解しようとするのですが、その間も食べ物はガスを発生します。そしてゲップが出て逆流して排除しようとします。胃酸は胃の中の粘膜は丈夫なのですが、食道の粘膜は酸に弱いので爛れます。これを「逆流性食道炎」と言います。

同じ日にレストランに向かう電車の中での体験です。端の席に座っていた私のとなりに高校生らしき男子が四人座りました。四人は食べ物を袋から出して食べ始めたのですが、何だか分かりませんがひき肉のようなものを挟んだパンでした。その匂いの強烈さとあまりの悪臭に耐えられなくて席を立って他の座席に移りました。あんなに臭いものが分からないのはよほど嗅覚が麻痺しているに違いないと思いました。嗅覚が麻痺すると腐ったものも誤って食べてしまう危険性があります。よく集団旅行で若い人たちが食中毒で病院に急送されたというニュースが出ますが、「匂いで気がつかない」人が増えているからではないかと思います。体が教えてくれなくなってきているのです。件の四人も若さで乗り切れてもそのままの感覚で少し年齢が高くなったらどういう病気になって行くのでしょうか?

さて、移った席の真向かいに次の駅で乗り込んできた非常に肥満した女性が座って、袋からカップに入った何かをスプーンで食べ始めました。強烈な香辛料の匂いと甘ったるい嫌な匂いが車内の空調の風にのって私にも届いてきます。「匂いの暴力」とは正にこのことですね。次にその女性は多分空いたカップをしまうのに、手提げ袋の中をひっかきまわし始めましたが、見つからないようで、中身を膝の上に広げ始めました。ふくろ菓子とふわふわの菓子パンとキャンディーの袋も出てきました。いつも何かを食べていたいのはきっと「何か体に必要なものが足りないからではないかと思って見ていました。場所も構わずに食べるのは我慢できないからなのでしょう。おそらくその結果が「超肥満」だと思いました。座っているお腹の前に膝がほとんどないほどの肥満でお腹の上に載せた袋が落ちそうでした。

2024.09.28
4番目の問題

病が治る人、治らない人

 

完結、あたりまえだけど、そうでないこと

朝掃除する為に階下の普段使わない洗面所に入り、内部の照明が二つ点灯したままなのに気づきました。最後に使われたのは24日なので、3日間点きっぱなしだったのです。
これは照明器も劣化しますし、電力も消費されます。
その時に頂いた文字が「完結」でした。

部屋に入る → 暗い →点灯する →部屋を出る前に消灯。

何かを始めたら、一連の作業工程を完了、完結するということを普段しない傾向があるとこういう事も起きる可能性が高まるのではないかと思いました。

光透波の研究生の中に字分けを完結しないで、途中で諦める人が大多数で、そのまま研究と探求が終わってしまうようです。作業の一つを完結しないという「心の働き」が傾向としてあるということに気がつく良い機会だと思い、文にしました。何かを始めたら、たとえ時間がかかっても一応完結するということを続けていると日常生活においても反映されてくるのではないかと思います。

何かを始める行為が「加」わり、それが運(云)ばれるには「頭を使う、四肢を使う、時間を使い」ます。作業(務め)をするには数(狂い無き順序性、段取り、結論付け)の働きが必要です。それは人間に備えられた生来の機能です。それを使うことで、真の意、人間として機能する、つまり「汰」、よなぐ(物事を整理し、仕分けし、作業順序を計画する)ことが必要とされます。これを通じてこそ、「完結」するという結果が出ます。訪問先でその家の方に嫌われたり、迷惑がられたりする人は、相手に対する「慮り(おもんばかり)」が少し足りないのではないかと思います。今はオモンバカリなんて言葉もあまり使われていないかもしれませんね。

以上、年寄りの独り言を記事にしました。

以前書いた時には気づかなかったのですが、「心のわだかまり」が減ると、他者に、口うるさい、独りよがり、嫌味等の評価を恐れずに発言が出来るようになるのだと思いました。「思ったことを真っ直ぐに言いなさい。残念なんて念を残さないように」と母に言われたことを思い出します。20代で十二指腸潰瘍になり、くよくよ気を使うと命に関わると気付いて自由奔放に生きることにしました。それほど自由でも奔放でもないですが、まあ「ほどほどに」。

最後の断捨離

頭から飛び込め

私は8歳の時に川で溺れたことがあります。よく覚えていませんが、水をしたたか飲んで、目の前が暗くなり、それから意識を失ったようです。次に気づいた時は陸の上でした。誰か知らない(今でも知りません)若い男性が助けあげて下さって、蘇生処置で水を吐かせてくださり、助かりました。家族がお礼を言っていたかと思いますが、私はお礼も言わず、名前も知らないままでした。

その時から水が怖くなりました。それで海に入る時も胸から下までしか水がない位置までしか行けなくて、足元からそろりそろりと水に入り、顔を水につけないで泳いでいました。波がある時は海には入らず、もっぱらプールでした。それも足から水に入り、顔を水につけないように泳ぎました。

後年、学校でプールに飛び込んで泳ぐように言われ、嫌だと言ったら、「頭からザブンと飛び込め」と言われたのです。とても好きな先生に褒めて欲しくて、一大決心をして「死ぬ思い」で思いっきり飛び込みました。そして向こう岸まで行ったら、その先生が腕を伸ばして引き上げてくれました。ニコニコしながら着ていたジャケットを肩にかけてくれました。私の水恐怖症を治して下さったのだと後で気づきました。ジャケットの温もりと、恐怖心を乗り越えた喜びとを一生忘れません。

その後、私は「度胸あるわね」といろいろな人に言われるようになりました。

思いっきり「頭から、全身で飛び込む」という決意で、乗り越えて来た人生になったわけです。

足元からそろそろと恐々では決してやり遂げられないのだと言いたいのです。友人のカウンセラーでとてもユーモアのある人の口癖でとても役に立つことばがあります。

「大丈夫、誰でも必ず死ねます」

実は「死」は怖いものではなく、「死が怖い」という恐怖心が人の心を委縮させ、引っ込み思案にさせ、誰かに嫌われたり、疎外されたりするのが怖くて、唯々諾々と周囲の圧力に負けて奴隷のように従ってしまうのです。それはとても惨めなことで、「自分を負け犬」だと思い、恥を忍びながら生きていくことになってしまうのです。自己嫌悪がばれないように表を取り繕って、ビクビクするか、反対に威丈高な態度で生きることになりがちです。どちらにしても友達はあまりできません。周囲にいるのは似たりよったりの人が多く、内心は好きにはなれない人ばかりとなります。偽物の友情で、かりそめの幸福感を束の間味わいながら、欲求不満を抱えながら生きることになることになるのではないでしょうか。それで、新年の計で、もう人のいうなりになるのを止めましょうと書いたのです。

2024年のご挨拶

甲辰 元旦

今年は素晴らしい年になるのではないかと大きな希望をもっております。

この数年はとても良い年だったとは言えませんでしたが、その中でも心を強くしなやかに、希望を持ち、明るい未来だけを思い描いて過ごしてまいりました。

親しくしていた方が何人も他界されたり、思いがけずにけがをしたり、少し体調を崩したりしたこともありましたが、不思議なほどめげることなく生きていられました。

それほど盤石のように確固たる希望を持って、明るい心でいることの効果があったと言えると思います。

さて、今年は辰年です。トップ画像は龍ですが、タツとも読めますので、立つに通じます。「自立」、自分で立つ、誰かに責任を押し付けることなく、やってしまったことの責任をとる、そして、何よりも「自分の頭で考える」と言うことを続けて来たことを今更ながらに有難いことだったと思っております。

誰かの圧力を受けて、不本意なことをしてしまった結果が、悲惨なことだったら、踏んだり蹴ったりですよね。持って行き場のないような遣る瀬無さになってしまいます。でも自分で考えて決めたことなら、結果が不本意でも後悔はあまりないと思います。そして、自分で後始末をして、前より大分賢くなったなあ、と思って乗り越えられます。ちゃんと乗り越えました。

今年からは自立を目指し、もう他人の言いなりはやめてみませんか。これを新年の計にしましょう。何か不都合があっても乗り越えて行ける人になれば、きっと良いことが起きます。簡単に動揺しない人になれるのです。不思議なほど平静でいられ、問題対処の糸口もすぐに見つかるのです。誰かに頼ろうとすると、頭の働きは途端にストップしてしまいますが、自分で対処しようとすると知恵が湧いて来るのです。これって凄くないですか。無料でお試しください。

頭から飛び込め